空蝉の【源氏香】

https://www.meihaku.jp/hikarukimihe/genjiko/ 【源氏香とお香の歴史 - ホームメイト】より

お香が日本にもたらされたのは6世紀のことで、中国大陸から仏教と共に伝来したと考えられています。やがて、身分ある人々がお香を生活に取り入れるようになり、香りを鑑賞する優雅な遊び、香道(こうどう)が発展しました。「源氏香」(げんじこう)は、香道の楽しみ方のひとつで、52通りの香りの組み合わせを「源氏物語」にちなむ名称と図柄で表します。「源氏香とお香の歴史」では、日本にお香が伝わり、香道が洗練されていった経緯や、源氏香の遊び方をご紹介しましょう。

鑑真

仏事で線香を焚いたり、焼香(しょうこう)を行ったりするように、仏教と香りはかかわりがあります。仏教には、故人は浄土で香りを食べるという考えがあるからで、葬儀で金品を供える香典(こうでん)は、もともとはお香を供えていました。また、良い香りには浄めの働きがあるとも考えられていたので、仏前でお香を焚いて空間を清浄に整え、拝礼する者は心を鎮めたのです。

このような仏教と香りの文化は、中国大陸から6世紀の日本に伝わりました。当時の皇族政治家で、仏教の興隆に努めた「聖徳太子」(しょうとくたいし)は、兵庫県淡路島に漂着した香木で観音像を作ったと言われています。のちの8世紀に来日した唐(とう:7世紀初頭~10世紀初頭の中国王朝)の高僧「鑑真」(がんじん)は、様々な香木の調合法を伝えました。

権力者が熱望した名香「蘭奢待」

蘭奢待

「蘭奢待」(らんじゃたい)は、「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)の宝物を納める倉庫「正倉院」(しょうそういん)に収蔵されている、全長156cmもある大型の香木です。この蘭奢待は、沈香(じんこう)と呼ばれる、ジンチョウゲ科の樹木の樹脂が固まった物で、原産地はラオスからベトナムにかけての山岳地帯と考えられています。

これまでに何度か切り取られた跡があり、このうち記録が残っているのは、室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)と戦国武将「織田信長」(おだのぶなが)、122代「明治天皇」(めいじてんのう)です。いずれも各時代の権力者であり、蘭奢待を入手することは為政者の証になるほど貴重な宝物でした。

香りで遊んだ平安貴族

平安時代の貴族らは、香りを仏前に供えるだけでなく、お香を部屋に焚き込めたり、衣装に焚きしめたりして、生活のなかで楽しみ始めます。さらに、四季の自然現象や、文学作品をテーマに香料を調合し、その優劣を競う「薫物合わせ」(たきものあわせ)をして遊ぶようになりました。

また、平安時代末期には、薫物の調合を説いた書物「薫集類抄」(くんじゅうるいしょう)が編纂されています。その原料は、東南アジアや中国大陸、インドなどで産出された香り高い草木の粉末で、それらを蜂蜜で練り合わせました。

「源氏物語」に描かれた香りの場面

平安貴族にとってお香が身近だったことは、平安時代中期の女流作家「紫式部」(むらさきしきぶ)が書いた「源氏物語」に香りの描写があることからも分かります。この物語の主人公「光源氏」らが薫物合わせを楽しむ場面や、香りにまつわる印象的な場面をご紹介しましょう。

3帖「空蝉」 衣と移り香を残して去った女性

「源氏物語絵巻 全三巻空蝉」より「空蝉」

(刀剣ワールド財団所蔵)

「空蝉」(うつせみ)は、若き日の光源氏に求愛されても、身分の違いや人妻であることを自覚して応じなかった女性です。このつれない態度に、光源氏はいっそう思いが募り、空蝉の部屋に忍び入りますが、空蝉は衣だけを残して逃げ出します。その衣には、空蝉の愛用するお香が焚きしめてあり、光源氏はいつまでも手元に置いて懐かしみました。

9帖「葵」 芥子の香りにおののく六条御息所

「六条御息所」(ろくじょうのみやすんどころ)は、光源氏が愛した女性のひとりです。身分が高く、教養のある女性でしたが、光源氏に正妻や何人もの恋人がいることに苦しんでいました。

そんな折、光源氏の正妻「葵上」(あおいのうえ)が出産後に悪霊に取り憑かれ、祈祷の甲斐なく命を落とします。同じ頃、六条御息所は身体に芥子(けし)の香りが染み付き、消えないことに怯えていました。この芥子は、魔除けの祈祷で焚かれるお香で、六条御息所は、自身が嫉妬のあまり生霊になって葵上に取り憑いていたことを悟り、愕然とするのです。こののち、恋に疲れ果てた六条御息所は、光源氏への思いを断ち切るため都を去ります。

32帖「梅枝」 嫁ぐ愛娘のための薫物合わせ

「源氏物語絵巻 全三巻空蝉」より「梅枝」

「源氏物語絵巻 全三巻空蝉」より「梅枝」

(刀剣ワールド財団所蔵)

光源氏と「明石上」(あかしのうえ)の間に生まれた娘、明石の姫君が東宮(とうぐう:皇太子のこと)に入内することが決まり、光源氏は祝いの薫物合わせを思い立ちました。光源氏は秘蔵の香木を、妻の「紫上」(むらさきのうえ)や恋人らに贈り、それぞれに調合を頼みます。

そして行われた薫物合わせは、どの香りも優劣付けがたく、判者を任された光源氏の弟・蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)も判断しかねるほどでした。

源氏香とは

香道

鎌倉時代から室町時代にかけて、洗練された作法や道具でお香を楽しむ芸道、香道が興りました。この香道では、香りを嗅ぐことを「聞く」と表現し、お香を鑑賞することを聞香(もんこう)、お香を聞き分ける遊びを組香(くみこう)と言います。

組香とは、何種類かのお香を鑑賞して異同を判じる、競技性に富んだ遊びで、源氏香もそのひとつです。

源氏香の遊び方

源氏香では、5種類の香木を5包ずつ、計25の香包を用意し、このなかから5包を選び出し、1包ずつ焚いて、香炉を参加者に回します。つまり、5包がすべて異なるお香とは限らず、重複している場合もあるのです。

参加者は5つのお香を鑑賞したのち、その異同を判じ、答えを「源氏香図」(げんじこうず)と呼ばれる図柄で表します。この答えの組み合わせが52通りあることから、「源氏物語」全54帖のうち、巻頭の「桐壺」(きりつぼ)と巻末の「夢浮橋」(ゆめのうきはし)を除いた52の帖名が、それぞれの図柄に付されました。

全52の源氏香図

(略)


https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0393/info-0000000641-3.html 【下野薬師寺とは】より

下野薬師寺と下毛野朝臣古麻呂

下野薬師寺は、7世紀末、中央官僚として都で活躍した下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)によって創建されたと考えられています。下毛野朝臣古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令選定の重要なメンバーでした。古麻呂のそのような中央政権とのつながりの深さは、下野薬師寺の重要性を高めることとなります。

古麻呂は、西暦709年(和銅2年)に、式部卿正四位下(しきぶきょう・しょうしいげ)という、現在でいえば国務大臣級という高い地位で亡くなりました。その翌年、西暦710年(和銅3年)に、都は藤原京から奈良の平城京へと移り、律令国家の制定とともに、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められました。それにともない、都はもちろんのこと、地方でも寺院が整備されていきました。下野薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、重要な寺院として位置づけられるようになりました。

下野薬師寺と三戒壇

仏教が隆盛するのに伴い、様々な問題も現れ始めます。まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきたこと、そして、生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたことです。これに困った中央政府は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日。以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。そして、“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野薬師寺の3カ所と定められました。これらは、総称して「三戒壇(さんかいだん)」と呼ばれました。下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より関東・東北の僧に戒を授けることのできる、東国仏教の中心的寺院となり、ますます隆盛を極めることとなります。

下野薬師寺の衰退・復興・そしてその後

しかしながら、下野薬師寺は、9世紀中頃に大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまいました。また、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置き、それぞれが独自に戒を授けられるようになりました。それに伴い、これまでの「三戒壇」の地位もゆらぎ、次第にその役目が失われていきました。その後、鎌倉時代に慈猛上人(じみょうしょうにん)が復興しました。

14世紀南北朝時代には、足利尊氏が、戦死者を弔うために全国に安国寺の建立を発願し、そのとき下野薬師寺が、「安国寺」と改称されたと伝えられています。しかしながら戦国動乱の時代、1570年11月下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと、『薬師寺縁起』が伝えています。その時、寺の貴重な記録も失われました。

大正10年(1921)3月3日に、下野薬師寺跡は国の史跡に指定されました。同時に指定されたのは、足利学校跡、下野国分寺跡の3か所で、栃木県で最初の国指定史跡の一つになります。

下野薬師寺の規模

昭和41年に栃木県教育委員会による発掘調査が開始され、その後、南河内町、下野市教育委員会により継続して調査が実施されてきました。

これまでの発掘調査により、外郭施設(板塀)の規模が東西約250m南北約350m、瓦葺回廊の規模が東西約110m、南北約102mにも及ぶことが判明しています。従来の調査では、回廊の中心部に金堂が存在すると考えられていましたが、最近の調査で創建当初の塔であることが判明しました。また、回廊の東にある塔は、創建の塔が焼失しために、この場所に9世紀代に再建されたものであることが明らかになっています。この他、回廊内には、規模の異なる基壇建物が存在することが明らかになりました。これにより、下野薬師寺の伽藍配置が一塔三堂形式である可能性も考えられます。


Facebook人の心に灯をともすさん投稿記事【薫習(くんじゅう)】

枡野俊明(しゅんみょう)氏の心に響く言葉より…

「薫習(くんじゅう)」という禅語があります。日本では昔から衣替えの習慣があります。

冬に着ていた服を、春になれば仕舞い、春物の服を出してくる。服を仕舞うときには、防虫剤としてお香を入れていました。そのお香の香りが、仕舞っておいた服に移っている。

本来、服には何の匂いもありません。それが季節をまたぐうちに、とても良い香りを身にまとっているのです。実は人間もまた、これと同じだと思います。

美しい心をもつ人の近くにいれば、自然と自分の心も美しくなっていく。

邪(よこしま)な心をもち、悪行を重ねている人の傍にいれば、自分もまた悪いほうへと流さ れていく。

人間とは互いに影響を受け合いながら生きているものです。

お香の香りが服につくように、人間の心もまた、まわりに移っていきます。

であるからこそ、尊敬できる人の近くに身を置くことが大事なのです。

みんなに慕われている人。その人の傍に身を置いて、その人の言動をよく見ることです。

きっとその人は努力をしている。自分のことよりも先に、まわり人のことを考えている。

細やかな気遣いを心がけ、相手の気持ちを慮(おもんぱか)っている。

何もせずに慕われる人などいません。

その人の一挙手一投足を見つめながら、自分の行動を顧(かえり)みることです。

そしてときには真似をしてみるのもいい。

その人のもつ香りを精一杯、自分の身に移らせることです。

もしかしたら、そこにこそ「人づき合い」のテクニックなるものがあるのかもしれません。

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道元禅師様の言葉を記した『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』の中にこんな言葉がある。『霧の中を行けば、覚えざるに衣湿(ころもしめ)る。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。』

霧の中を歩いていると、知らないうちに着ている物が濡(ぬ)れてしまう。

同じように、よき人に近づけば、知らないうちによき人になる。

まさに「薫習」のことだ。

親が仏壇や神棚に毎日手を合わせている家庭は、子供も強制されたわけではないのに、知らずに手を合わせるようになる。

茶道などの習いごとでも、師匠の香りが弟子に知らずに伝わる。

同様に、親が商売をしているなら、後を継げと強制されなくても、子供が自然に跡継ぎになるようなこと。

尊敬する人、慕われる人のそばにいることはもちろん大事だが、人生の後半生を過ぎたら、自分が慕われる立場になっているかを考える必要がある。

親として、子供によき影響を与えているか。リーダーとして、部下や後輩によき影響を与えているか。人として、まわりの人によき影響を与えているか。「薫習」という強制ではなくよき影響を与えること。よき香りを人に移すことができる人でありたい。


https://www.kohgen.com/jittoku?srsltid=AfmBOooxssw28QIrjh4L1fMqG35BwftqgYd-sFetUrpwAPEPdn12Fg_d 【香の十徳とは?】より

香の十徳とは?

テレビアニメ「一休さん」で人気の一休宗純

とんちでおなじみの『一休さん』。 説話やアニメでも有名な一休さんは、室町時代の3代将軍・義満の頃から応仁の乱の頃まで実際に生きていた、臨済宗の僧です。名前は、一休宗純(そうじゅん)といいます。

6歳で寺に入門し、早くから詩才に優れ、発表した漢詩は大変な評判になります。

27歳の時に悟りを開きながらも、もらった印可(悟りを開いた僧に与えられる免状のようなもの)を燃やして寺を出て、以後は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送りました。

僧侶でありながら妻を持ち、酒肉をくらう破戒僧ぶり。正月には、ドクロをつけた杖をもって「ご用心、ご用心」と町中をまわりました。これらの一見奇抜に見える行動は、実は戒律や権威に縛られた仏教に警鐘を鳴らす目的があったといわれています。

このような人間味溢れた生き様は庶民の共感を呼び、江戸時代には、一休宗純をモデルにした説話集も作られました。その一休宗純が紹介したとされる『香の十徳』は、現代の香を愛する人たちにもぜひ知っておいていただきたい名文です。

香の十徳(じっとく)とは?

香の十徳は、11世紀の北宋の詩人・黄庭堅(こうていけん)の作です。先述した、一休宗純が日本に紹介したとされています。

感格鬼神(かんかくきじん) ……… 感は鬼神に格(いた)る

感覚が鬼神のように研ぎ澄まされ集中できます。

清浄心身(しょうじょうしんじん) ……… 心身を清浄にす

心身を清浄にします。

能除汚穢(のうじょおえ) ……… よく汚穢(おわい)を除く

けがれやよごれを除きます。

能覚睡眠(のうかくすいみん) ……… よく睡眠を覚ます

眠気を覚ましてくれます。※『覚』をおぼえると読み、眠りを誘うという解釈も有ります。

静中成友(せいちゅうじょうゆう) ……… 静中(せいちゅう)は友と成る

孤独な時に心を癒やしてくれます。

塵裡偸閑(じんりゆかん) ……… 塵裏(じんり)には閑(ひま)をぬすむ

忙しい時にくつろぎを与えてくれます。

多而不厭(たじふえん) ……… 多くして厭わず

多くあっても邪魔になりません。

寡而為足(かにいそく) ……… 寡(すくな)くして足れりと為す

少なくても芳香を放ちます。

久蔵不朽(きゅうぞうふきゅう) ……… 久しく蔵(たくわ)えて朽ちず

長期保存してもいたみません。

常用無障(じょうようむしょう) ……… 常に用いて障(さわり)なし

常用しても害がありません。

現代まで受け継がれる香の感覚

「香の十徳」は、香の効用を端的に、格調高く表した詩文です。たった40文字ですが、ここに表された香の効能は、現代まで受け継がれている感覚だということに驚かされますね。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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