不立文字・言葉(違い)を超える

Facebook新田 修功さん投稿記事

不立文字……、言葉で伝えることができないことを伝えるには……⁉️✍️🗣💦

私は、空海さんとご縁があったようで、真言密教が好きなのですが、禅の教えも大好きです。

竜馬さんの師匠の勝海舟や、同時代の剣豪、山岡鉄舟さんも禅を極めておられました。

禅の言葉で「不立文字」(ふりゅうもんじ)というのがあります。

悟りの境地は文字では伝えられない、語れない、という事です。

りんごを食べた事がない人に、りんごの味は説明できてもその人が食べてみなければ、本当の事は伝わらないのです。

中国の老子は、「知る者は言わず」と言っています。

本当の事を知っている人は、それを言葉で伝える事が出来ない事を百も承知なのですね。

お釈迦様もそうでした。

何とか伝えようと努力をされていたのですが、肝心な所は本人が自分で食べてみるしかないという事をご存知だったはずです。

ですから、解りやすく喩え話で説法されていたのです。

でも、ブッダの時代には今の都会のように波動が悪い状態ではなかったので、ブッダの精妙な波動がお弟子さんたちに伝わって、準備のできた人はどんどん悟りを開いていたようです。

これを「感化」と言います。

不立文字、とても不親切な言葉のようですが、百万語を費やしても、解らない人には解らない。「星の王子さま」に出て来るキツネくんも言ってます。「ものは心で見る。大切な事は目に見えない」今日も読んでくれてありがとう


Facebook詩人 木村浩欣さん投稿記事

人間ってものは「真理」を考える。うっかりすると多くの人が「原理主義」に陥る。

日本の俳句・和歌に文化はやはり凄いと思うのだよ。何故かというと、情報や風景・人情というものに、いかに向き合うかという「態度価値」について、無意識に考えるからなんだな。

なにが正義かも大事だけれども「いかに向き合うか」「どのように扱うか」

と自問し続けることが大事だと思うのだな。

和歌・俳句は、この命題を全ての人々に取り組ませる力を持っている。やはり凄い文化だ。

この世の壮大な夢の中に日本文化の大廈高楼があり、眺めれば微細な美しい彫刻が散りばめられている。この美しい日本文化に参画する人々を応援したいし、自分も良い演技をしたい。

さらには後輩たちにその味わいを伝えたい。理屈なんてどうでもいいのだよ。

この夢の世界は本当の美に満ちているのだ。いかに見出すかいかに向き合うかなのだよ。

自分の鏡を見ているのだ。礼節をもって真正面から向き合えば叶わぬ望みもないし、不幸や事故も無い。喜びに満ち溢れた天地が、いつでも見いだせるのだ。奇跡はある。

私達の心に営々と受け継がれた「祈り」だ。これは誠の奇跡なのだよ。合掌・感謝・浩欣。


Facebook加藤隆行さん投稿記事【ウサギでもカメでもいい】

カメがウサギになろうとするから苦しい。ウサギがカメになろうとしても苦しい。

苦しい時は、そんな「自分でないもの」になろうとしている時。

カメには周囲の人は”みんな”ウサギに見えると言う。ウサギには周囲の人”みんな”がカメに思えるという。カメは速く走ろうとするけど努力しても努力しても走れない。

ウサギは目の前のことをコツコツやろうとするけどすぐに音を上げて、放りだしてしまう。

そうやって、カメもウサギも「”みんな”みたいになれない」と悩んでいる。

じゃあ、カメさんとウサギさんはどうしたらよいのでしょう。

「みんなと同じ」になろうとするのをやめること。まず「みんな」という言葉がカンチガイだということに気づく。アナタの周りにはウサギが多いかもしれないけどちょっと足を伸ばしてみればカメさんもいっぱいいる。その逆もしかり。そして、「みんなと同じ」になろうとして苦しいのだから「みんなと同じ」になろうとするのをやめる。

みんなと同じじゃないと「怖い」んだよね。でもそれカンチガイだから。みんなと同じになろうとして「怖くて今やっていること」をやめてみんなと同じになろうとして怖くて今やっていないこと」をやってみる。

ウサギさんならコツコツ努力をやめて、ビューんとノビノビ走ってみる。

カメさんなら速く走るのやめてゆっくりのんびり、そしてコツコツと歩いてみる。

ボクなら集団で働くのをやめてひとりで働くことにした。同じになろうとするから

苦しいんだ。同じじゃなきゃいけないってカンチガイしてるから悩むんだ。

ボクはウサギだったんだ。ワタシはカメだったんだ。ボクはかとちゃんだったんだ。

「教官!私はドジでノロマなカメです!」って堀ちえみバリに言えた時に人は風間杜夫教官と幸せになれるのかもね。なんのハナシだw

でも、みんなが悩んでやってることってだいたい、こーいうことだよ。

私のは違う!って思った人もいったんそうやって考えてみそ。抜け出すヒントが得られるかもよ(^ω^)


http://a-un.art.coocan.jp/za/essay/memo.html 【俳句のことばをめぐるメモ】より

具体の俳句作品のほか、自然科学やアートに関わる経験から、俳句および俳句のことばについて考察した小文です。

 技術ということばを使っていうと、私たちの社会は凄まじい勢いで技術を発展させてきた。それ自体はすばらしいことだし、私たちも生活のさまざまな場所でその恩恵を受けている。しかし、あらためていうまでもなく、同時に問題も抱えている。

 技術は、ものごとを取り扱ったり、処理したりするための手段。私たちの社会が凄まじい勢いで発展させてきた技術とは、そのなかでもとくに科学を応用して人びとの生活に役立つようにする手段。技術は、本来知恵というものと密接に結びついていた。しかし、いつの間にかそれを置き忘れてしまったのだと思う。

 社会は人と人との関係の場であり、その集積。知恵はその秩序を豊かに維持しようとする意志であり、技術がそれを具体化する。知恵を置き忘れてしまえば、つまり具体としての人が置き忘れられてしまう。

 たとえば、芭蕉の有名な一句「古池や蛙飛こむ水のおと」における「や」。作者の感動を打ち出すとともに韻律に格調を与え、また、切れ字というように切ることにより生み出される無の空間が普遍の存在としての古池を提示し、同時に、単に切るだけではなく、「に」という助詞を内包しながら以下へ接続し具体の古池をも提示する。さらには、音を詠みながらも一句全体に静寂を与える働きも持っている。この「や」にはこのように多様な意味があるのだが、それを受け取ることができるのが知恵なのだと思う。

 比喩的な意味だけでなく、私たちの身体は優れた共鳴体である。震えるような感動というのは、まさしく身体が共鳴しているのだ。芭蕉がこの「や」を置いたのは三百年以上も前。芭蕉がどのような思いでこの「や」を置いたのか、その真意はわからない。しかし、私たちの身体は確かにこの「や」に共鳴している。

 短歌は用言の詩、俳句は体言の詩。そんな言い方ができると思うが、俳句は短歌よりも音数が少なく、さらには切れを内包するために、切断されている。一句のなかに切断を抱えるとともに、一句が世界と切断されている。この切断が俳句の大きな、そして本質的な魅力だと思う。切断は空間や時間を切る。空間や時間を切ることによって、無を生み出していく。この無によって、もの/ことが再生(=架橋)されていく。俳句とはこうした過程もしくは行為なのだと思う。

 2年ほど前(2005年)、横浜美術館の「マルセル・デュシャンと二○世紀美術」展を見た。デュシャンには興味をもっていたが、作品を見たのはこのときがはじめてだった。

 とても面白かった。まず入口正面に「泉」(Fountain 1917/1964)が展示されていたことも、「さあ、どうぞ」といわれているようで、わくわくした。「さく(結界)、またはフロアに貼られたテープ等の手前でご鑑賞ください」。会場に貼られていた注意書きだが、こうした空間に置かれていても、デュシャンの作品は魅力的だった。おそらく彼の作品のもつ切断の力が、それとは別のところで毅然と立っているからだろう。

 この切断の力とは、制作当時のアートの置かれた文脈を切断するそれであるとともに、現在置かれている場所においても機能するそれであり、常に「いま・ここ」においてそれを実行する力なのだろう。だから、見るものを惹きつけ、そして不安にする。デュシャンとはそんな作家なのだと思う。

 私は大学では木材化学を専攻し、樹木の成分やその加工品の分析に明け暮れていた。分析とは物質の組成を決定していく作業。物質を切り分け、切り分けたものに名前を与えていく(必ずしも新たな名前を与えるという意味ではない)。ここで求められるのは明確さ。つまり、これとこれは同じもの、これとこれは違うもの、と断定していく明確さ。しかし、こうした手法でものごとに関わっていくことに違和を感じていた(蛇足だが、手法そのものに違和を感じていたわけではない)。

 俳句は幸せな詩型なのかもしれない。ことばはとてもやっかいなもので、日常的なやりとりも文芸も、同じことばによってなされる。あるいはすこし角度を変えれば、散文的な表現も韻文的な表現も、という言い方もできると思う。違うのは、その働かせ方。しかし往々にして、前者の作法によって、後者が取り扱われてしまう。

 俳句はとても短い詩型。短歌と比べても55パーセントほどの音数である。日常的なやりとりや散文的な表現における一般的なことばの運用が成り立たない。切れや季語を用いながら、別の方法によってことばを運用する。このことは多くの人が知っている。しかし短歌は、やはり日常的なやりとりや散文的な表現とは別の方法でことばを運用しなければならないにも関わらず、作者も読者も必ずしもそうではない。つまり、俳句はことばによる表現のなかできわめて特殊な姿かたちをしているために、その本質が十分に理解されているかどうかは別としても、一定の理解に基づいて取り扱われているのではないだろうか。

冬景色なり何人で見てゐても  田中裕明『櫻姫譚』(ふらんす堂、1992年)

初景色こなたの湖は汽水かな

鞄より出してつくづく青き梅雨

 田中裕明はとても魅力的な作品をつくる作家である。ふわふわというか、ふにゃふにゃというか、そんな感じの作品だが、俳句という詩型の本質をしっかりと捉えていると思う。現象としては再生(=架橋)、かたちとしては連結。それを生み出す切断。

 たとえば、一句目。「何人で見てゐても冬景色なり」と理解する人はいないだろう。「冬景色」という普遍と「何人で見てゐても」というある具体のモンタージュが、この作品の構造である。これら二つを「なり」というやわらかな助動詞で結び、二つのあいだの往復をしやすくするとともに、中七の句割れによってリズムをつくり、ある具体をいきいきと起動させている。切断とは沈黙と言い換えることも可能である。沈黙は深さを志向する。一句全体が世界から切断されることによって、深く世界へ架橋する。すこし大袈裟な言い方だが、この一句は俳句のそうした本質を備えていると思う。そしてこの一句は(むろんほかの二句も)、こうした解釈がなされた後でも、読者を惹きつける。解釈をする/しないに関わらず、その実体は変わらないのだから。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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