芸術としての俳句のあり方について ─ 社会性をベースにした詩性の確立

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─ 社会性をベースにした詩性の確立】より

 まえがき

 日本伝統俳句協会の坊城秀樹氏が、「俳句は日本が世界に誇る最も単純かつ深遠なお遊び」と謙遜と自虐をない交ぜた表現をし、またかつて「俳句は文学ではない」と石田波郷がいみじくも喝破したように、今日の俳人はじめ俳句関係者で俳句を文学である、芸術であると確信を持って言える人は恐らく少ない。こういう残念な状況にある。

 長い苦難の歴史を経て、今私達が享受している「表現の自由」は、権力や政治の上位に置かれるべき第一義のテーマであり、最も尊いものである。しかし、その自由の一方で、芸術全般に亘り、商業主義に蹂躙され、結果、理想を失くし、刹那主義・快楽主義がはびこっているのも紛れもない事実である。「どうあるべきか」という「べき論」が日本から消えて久しい。「愛による原罪からの解放」というキリスト教の、「無知の啓発や隷属からの解放」という啓蒙の、「労働力の搾取および疎外からの解放」というマルクス主義の、そして「産業の発展による貧困からの解放」という資本主義の、これらの「大きな物語」に対する不信が背景にある。今世界は、平和や個人の解放のための様々な運動を束ね、それを永遠に保証する新しい枠組を必要としている。俳句界も例外ではない。細分化・分散化してしまった俳句に関わる知に「大きな物語」を再構築することが求められている。             

 前の大戦中に、当時の俳人の多くが、軍国主義を支える翼賛組織「文学報国会」にこぞって身を委ねた反省から、戦後の再出発に当たっては、「社会性」の大切さが明確に認識されていたはずである。しかし、桑原武夫の「第二芸術論」発表後六十年を過ぎ、その再出発のスタートラインの「白線」が、かすれ、薄くなってきたように思われる。そして、これが、今の俳句界の混迷を招いている。この問題多き現代社会における自分の位置・座標軸をしっかり見据えた俳句が求められている。また同時に、「サロン」的な閉鎖的な集いから脱却し、個々人が、俳句を通じて社会に発言するというスタンスが求められている。「モノローグ」から「社会とのディアローグ」への脱皮である。そして、この二つが、「社会性」を持つということである。個人が社会の一員である以上、社会に関わってゆくのは当然である。俳句が、時代に翻弄される「芸能」ではなく、時代を変える「芸術」として存立しえるのは、俳人が、この社会で問われる時代的使命を担う気概を持っているかどうかにかかっている。「社会性」が欠如した、「難解さ」を「芸術性の高さ」と勘違いした、「詩性の独り歩き」が、「ひとりよがり」と言わないまでも「個性の花盛り」とでも言うべき、今の俳句界の脆弱さを招いている。夏目漱石が「我輩は猫である」で触れたように、近代詩のベースである作家の個性化の行き着くところ、すなわち作った人しかわからないものが果たして芸術といえるのかという悩ましい疑問もある。これはもちろん、個性を「俳句の固有性」に収斂すべしという意味で言っているのではない。確固とした歴史観もなく、修辞学的な、あるいはテクニックの目新しさという皮相な、枝葉末節に汲々とすることが、何の前衛であろうか。松尾芭蕉が、平明な大衆詩にして高い芸術性を具現し得たと同様に、困難な道のりであるが、「社会性」と「詩性」の両立に真摯に取り組むべきである。何故「社会性」が永遠のテーマであり、芸術全般に共有されるべきかと合わせ検証してゆきたい。なお、本文でも詳しく触れるが、この「社会性」が社会主義という意味では勿論なく、社会を見つめるという意味であることを付言しておきたい。

 そして、「音楽」にも紙数を割いたが、チェコの作曲家ヤナーチェックが「言語のメロディ」と呼んだほど言葉が音楽性に富み、また「理性の登場とともに音楽が姿を変えたもの」と表現されるほど詩歌は音楽に近い芸術であり、この音楽の生き様を辿る作業は、俳句を客観的にみるために必要不可欠と考えたからである。水原秋桜子も、俳句の外に優れたものを学ぶ大切さを強調している。

 知性の復権について

 人間は、母親のお腹で胎児から成長してゆく中で、人類の「種としての歴史」を経験する。一時期、鰓(えら)を発現し、魚類も経験するが、とりあえず人間として生まれる。折角人類が営々と築いてきた知性であるが、現代人といえども、生まれた時はゼロであり、その時点から知を学ばねば、頭が原始人と同じレベルに留まることは、深海魚の退化した目が示す通りである。社会の「あるべき姿」を考えるという、社会的動物である人間の基本的なものが段々失われ、薄っぺらな、ペラペラの社会になりつつある。いや、もうなってしまったというのが正確かもしれない。人間が自ら堕落したのか、あるいは何かによって堕落させられたのか、どちらにしても、今求められているのは「知性の復権」である。 

 芸術の値打とは

 人類が失敗も含め試行錯誤を経てやっと手に入れた自由・平等・平和や民主主義、これらの意義や、具体化する制度・システムに関する情報をいつでも学ぶことができる幸せな時代に私達は生きている。もし古代の奴隷制時代に奴隷として生まれていたら、と考えただけでもぞっとする。最近ブームになった「蟹工船」の小林多喜二が官憲の拷問で虐殺されたのが一九三〇年代であり、そう昔の話ではない。振り返ると、明治維新から昭和二〇年の終戦までの約八〇年の半分以上が戦争に明け暮れていたことになる。それは、言論・文学表現の自由が抑圧された時代でもあった。まず、私達はこの歴史の延長線上に生きていることを再確認する必要がある。そして今、地球環境、世界平和、日本の格差問題等、多くの問題を抱えて多くの人が苦しんでいるのを私達は知っている。私達は不幸にして、芸術を至上と考えられるほど恵まれた時代に生きているわけではない。「美しい無用のもの」に留まることはできないのである。この問題多き社会と、どれだけ深く関わってゆけるかで、芸術の値打ちが決まると考える。それぞれの世代の本質は、社会を含め人類の恒久的な関心事に、その世代が如何に関わったかに顕現することを肝に銘じるべきである。横山白虹は、より探求すべきものとして、「時代の感情」と表現した。しかも、その関わり方も、詩人の肺活量といった「量」の問題ではなく、金子兜太のいう詩人の態度・姿勢・生き方が問われる。アラン・ブルームは、詩人のあり方を、「固定した経験の様式から改心させることによって、新しくものを見る眼を人間に与えるべきである」と表現した。至言である。

 俳句は、ただ面白おかしく作って楽しめばよいという考え方があるが、五十音を使った五七五のパズルでは、「芸術」ではなく「芸能」、「遊び」の類である。もちろん「遊び」そのものも高度な物であるが、これを、人類の生みだしたもので最も崇高なものといわれる「芸術」にまで、私たちは高めてきたのである。また、人の心を打てば良いという考え方があるが、前の大戦中「文学報国会」の戦争礼賛の句が、多くの人の心を打っていた事実を思い返してほしい。

 俳句の三つの派

 俳句界の大きな流れと現状を概括する意味で、「俳句に対する姿勢」という観点から、以下の三つの派に分類したい。

 まず第一は「伝統派」(仮に名付けるが侮蔑の意図はない)。伝統とは、幸運な少数者が創造者とともに霊感の高みで暮らせる魅惑的な瞬間をいつまでも継続させたものである、と定義される。俳句を虚子のいう「一種の古典文芸」、極論すれば文化遺産のように考える。そもそも「道」のつくもの、剣道・茶道、みな型があり、型を忠実に守ることに存在理由がある。俳句では「有季」「定型」を固守する。この派の人達からすれば、無季・非定型の前衛俳句などは、別のジャンルで自由にやってほしい、というのが本音であろう。確かに、剣道を例にとれば、型を外れて、手裏剣あり、鎖鎌ありであれば、「剣道」とは言わず「チャンバラ」と呼ばれる。俳句の手練でもあった芥川龍之介は、当時興隆してきたプロレタリア文学に一定の理解を示したが、さすがに「プロレタリア俳句は蝶々にビフテキを食べさせるものだ」と言った。しかし、これは俳句のあり方というよりは、「器」の大きさを問題にしたものであろう。皮肉ではなく、文化遺産としてだけでも継承すべき尊いもので、この派の重視する美しい自然を詠む句とか家族愛の句は、俳句が最も得意とし永遠に続くべきすばらしいものである。自然と全く離れて創造の営みが永続しようとも思われない。但し、これだけでは大切なものが欠けている。これは後段に譲るとして、次の二点の指摘にとどめたい。まず、かつて俳句をはじめ文学は、写生・写実に一定の存在意義を示せたが、今や、写真・映画・ビデオ等の映像技術の飛躍的な進歩により、更に劣勢が明白であり、生来圧倒的な力量を発揮できる詩性や思想性に専念すべきであること。次に、いつまでも社会構造の変化と無関係ではいられない。第一次産業従事者が主体の時代から、季節との繋がりが比較的薄い第二・三次産業従事者主体にますますシフトする中で、存在理由そのものが問われてゆくことである。

 第二を「詩人派」と名付けたい。西洋近・現代詩としてこそ俳句の発展・将来があると考える人達である。いわゆる知情意の「情」、真善美の「美」を最重要視し、西洋の芸術手法を駆使する。二十世紀初めから欧州で生まれたアバンギャルド(立体派・表現派・ダダイズム・抽象派・超現実派等)の手法。社会から離れ、ひたすら各個人の意識の内側を掘り進む。中村草田男は、この個人主義的な俳句を「ぐるりと反対に向き返られた眼球」と、グロテスクに表現した。ニーチェのいう『自虐的な「精神の苦行僧」「精神の切尖を自分自身に向けるようになった詩人」』もこれに近いものであろう。筆者は、この派の俳句が、「ピカソのデフォルメが確かなデッサン力に裏打ちされている」ことの看過よりも何よりも、単に現代詩の一片になってしまうことを恐れる。平井照敏は、この「伝統派」を「俳(旧)」と呼び、また、反伝統の「詩人派」を「詩(新)」と呼んで、子規以降現在に至る俳句史を両者の盛衰の歴史として明快に辿っているが、これも「社会性」の視点が乏しい。 

 第三を「社会派」と名付けたい。吉本隆明は言語の表現を、作者が現実の世界の中で社会との一つの関係を選び取ることだと述べた。「伝統派」や「詩人派」の、閉鎖的・私小説的な個の詠嘆に終始する「閉ざされた個」ではなく、「社会の一員としての開かれた個」の表現を問う。これは、金子兜太の「内部における個我意識と社会意識の複合」や「個我状況から主体状況への転移」が前提とするものに他ならない。もともと求心的な形式である俳句が、後で詳述する「社会性」により、はじめて遠心力という力強さを手にしたのである。あのシェークスピアやゲーテをはじめ、芸術の中心は何世紀も個人主義がテーマであった。この個人主義が、個人を集団から切り離し、そのあと忽ち個人を利用し尽し、ペシミズムやニヒリズムの虚空に投げ出しているのが現況という見方もできる。現俳句界は、第一の「伝統派」がほとんどを占め、第二の「詩人派」はほんの一部、第三の「社会派」に至っては極少数という実態を見るにつけ、後述する社会性論議を、基本的理念という形で明文化し残せなかったことが悔やまれる。俳句結社が相変わらず悠々と隆盛を極め、また新聞雑誌に平凡な生活俳句が溢れていることが、これを象徴している。「安易な創作態度」と「作家の思想的無自覚」の警鐘であった「第二芸術論」の再提示が必要な状況、これが本論文の直接の動機に繋がっている。

 

 芸術は社会に対し無力か

 「文明」と異なり、「芸術」には進歩という表現は馴染まない。「変遷」という言葉が使用される。芸術を担う階層の変化や拡がりにより、形態を変えるという意味である。和歌から俳句に至る歴史そのものが、社会構造の変化を如実に反映している。今仮に、芸術の量的な発展を「大衆化」、質的な発展を「深化」と名付けたい。この二つは芸術の発展の両輪である。ニーチェが蔑視した「大衆」という表現に、芸術家の一般の人々に対する侮蔑のニュアンスを感じる向きもあるが、大衆という言葉は、本来決して卑下するものではない。人類史からみて、国民全層に芸術が享受される環境が整うことは、むしろ賞賛に値する。王や貴族等の一部の特権階級の専有から、一般市民にまで着実に拡がってきたわけである。今や俳句の大衆化は疑うべくもない。一方、「深化」であるが、現実主義の世紀からは想像もつかないような豊かな十九世紀をピークに、二十世紀は後退の世紀であった。現在でも、芭蕉を超えることは考えられないし、ベートーヴェンを凌ぐことは想像もつかない。俳聖、楽聖と呼ばれる所以である。後退ではなく衰退、死滅と形容される程の惨状が現在の姿かもしれない。原因は、自然破壊、工業化・情報化社会、商業主義の蔓延、社会の理想喪失等、根深いものがある。

 この問題はさておき、芸術の値打ちは社会との関わり方で決まると前述したが、そもそも「社会に対する力」があるのか。芸術は時の支配者・政権に都合よく利用されてきたのは紛れもない事実である。欧州の宮廷画家・音楽家しかり、あの音楽の父バッハでさえ、貴族の安眠のための組曲を作っていたのである。日本でもお抱え絵師がいたし、大戦時には戦意高揚の歌や絵を、半ば強要されたことも記憶に新しい。かかる意味で、芸術は社会の仕組みを反映する上部構造に過ぎないという見方もあるが、筆者は、むしろ逆に下部構造に対する反作用・有効性は更に高まっており、社会の仕組みを変革する力を持つことを疑わない。芸術家やマスコミの姿勢によっては、戦前の軍国主義・全体主義に少しは抗し得たのではないかとさえ考えている。

 他の芸術を眺めてみたい。まず音楽。芸術の中で最も純粋なるが故に、善人・悪人、賢者・愚者、努力家・怠け者、民主主義・全体主義、を問わずあらゆる人々を鼓舞し、また慰撫もする。しかし、当時の帝政ロシアは、支配下にあったフィンランドの独立心を煽るという理由で、一八九九年にシベリウスが作曲した「フィンランディア」の演奏を中止させざるを得なかった。その思想をも表現できる「音楽の力」を信じる。また、二十世紀前半に活躍した二人の作曲家、ストラヴィンスキーとバルトークは、その作曲姿勢という点で好対照であるが、また多くの示唆に富んでいる。後者が、戦争とファシズムの脅威に対し芸術の高みで対抗した一方、前者は、世界戦争の危機に満ちた時代に音に興じる楽天性・無神経さによって(野性味溢れた独創的な前衛音楽であったが)、後世の評価を下げる結果を招いた。次に絵画であるが、音楽よりはるかに明確な考えを表現できる芸術である。スペインの画家ピカソは、一九三〇年代の「ゲルニカ」という小さな町で、フランコ独裁政権側のドイツ軍の爆撃により多数の市民が命を奪われた事実を刻した。彼は、同じスペインの代表的な画家であるゴヤがフランス軍に抵抗して虐殺された市民を描いた作品から多くを学んだといわれている。二人とも、自分達が生きた時代に描くべき絵を描いたのである。そして、俳句を含め文学は、言葉を表現手段とし、考え方を最も明確に表現できる芸術である。「社会派」が生まれた所以である。中野重治は次の文章を引用している。「画家や彫刻家にはひたすら性格や美の実現にのみ専心することが許されているが、劇作家や詩人はそういうわけには行かない。何となれば後者は言葉を用いるから。言葉は思想を表現する。」

 社会性からみた俳句史

 「社会性」を最初に唱えたのは、赤城さかえによれば河東碧梧桐のようである。社会を形成して生きるのが人間であり空気と同じ様なものだと誰かが述べたが、単なる集団生活ではなく「社会における立ち位置」というべきものである。「民主主義」と同様、俳句の「社会性」も、その定着に多くの時間とエネルギーを必要とするのであろう。ニーチェは、『あなたがたに栄誉をあたえるのは「どこから来たか」ではなくて「どこへ行くか」なのだ』と述べたが、やはり「どこから来たか」も大切なことである。ここでは、社会性との関連で俳句史の概略を辿りたい。

 近世を代表する三人、まず芭蕉の社会性について、山本健吉は、「共同社会のうちに要因を持つ、公的な、没個性的な機会詩」であり「単に純粋詩の使徒ではなかった」と述べ、暗に現代の個人に埋没した俳句に問題を提起している。桑原武夫は「第二芸術論」で「四方を封建社会の鉄壁をもってかこまれた心の自由を求めるならば風雅の隠者となるほかない」と述べたが、これは芭蕉の芸術性を矮小化するものである。従来、孤高の芸術家としての求道者的な生き方が強調され過ぎたきらいがある。確かに現実社会と表立って闘ったわけではなく、悲惨な農民生活を素朴な田園風景として詠んだことは紛れもない事実であるが、階級史観の全くない時代に、社会体制の批判と言う意味の社会性を期待する方が愚かなことである。むしろその中にあっても、批判精神を持ち現実社会を見つめていたことは強調されるべきである。芸術家は自分の時代の体験を、如何に大いなる芸術的営みに引き上げるかが問われる。堕落した点取俳諧に飽き足らず、確かな歴史観で、戦に明け暮れた人間の愚かさを嘆き、また弱者に対する暖かい眼差しも忘れてはいなかった。そして、山本健吉は「――乞食・流人――に至るまで、その奏で出す喜怒哀楽の交響楽は高鳴っている」と述べたが、芭蕉の、士族、町人を超えた自由な連衆による俳諧の営みに、高い芸術性に加えて、近代の市民階級の息吹きを感じるのは筆者だけではあるまい。次に蕪村であるが、金子兜太は「漂泊の<特権>もない、いわばそうした精神の空間的な振舞いすら許されないような沈面した心情の世界」と述べ、社会に決して鈍感ではなく、鋭敏であったが故の「肉声とならざるを得ない社会性」を見るべきだとする。最後に一茶は、爛熟した文化文政の都市文化の影で、重租に喘ぐ農民が農村を捨て出稼ぎ人として都市へ流入、一部が浮浪化する深刻な社会状況の中で、野性的な逞しい肉声を発した。虐げられた農民の反抗的なあきらめからくる自嘲や嘆息であるが、人間生活への飽くなき関心、現実的創作態度は現代に繋がる大きな意義があった。

 次に子規以降であるが、栗林農夫は、子規の、「文学の形式は内容に規定され内容は時代とともに発展するから、固定した形式であれば俳句は早晩行き詰まる」という、進歩的な識見を評価する。「俳諧趣味を脱して社会的現実に目を向けるべき」という、碧梧桐の新傾向俳句に繋がる卓見であり、今日的問題でもある。ニーチェが「韻律の拘束」、小野十三郎が「奴隷の韻律」と表現し、また「浮世の荒波と闘う精神を眠り込ませる封建的韻文芸術」と揶揄される、虚子の「伝統俳句」、及びそれに続く、市民階層が主役の時代の到来を告げる4Sに代表される「伝統俳句の深化」を合わせて「テーゼ」とする一方、時代や社会との相関によって捉える現代詩として進化させた新興俳句を経て生まれた「プロレタリア俳句」(自由律俳句の流れを汲む)を「アンチテーゼ」とすることは、あながち誤りではない。前者が、社会的強者を主な担い手とする一方、後者は弱者であったという意味である。後者は期間が短く広範ではなかったが、主たる理由が、文学表現の自由が奪われたことにあり、なお更これを看過してはならない。昨今の格差社会の顕現を見れば一層その感が強い。広範でなかった他の理由として、プロレタリア俳句のような革命文学は、本来「社会的憎悪の精神」に貫かれざるを得ないが、やさしさが基調の俳句にはその精神は馴染まないということもあったかもしれない。

 戦後二十年代は、「社会性俳句」全盛の時代であった。子規以降の「俳」と「詩」の流れとは別に「社会性俳句」が生まれた。前二者との決定的な違いは、社会的弱者を作る社会システムに生きる個人としての自覚を持っているか否かであった。昭和三十年代以降「社会性」への関心が薄れるのと軌を一にして、混迷・漂流の時代と形容すべき状況で現在に至っている。人間探求派が個人主義的なものに留まる一方、西洋の近・現代詩としての展開も、個人の意識の内面を掘り下げる余り、個性の袋小路にはまり、意図しなくとも社会からの遊離・逃避を招いている。福田恆存は、個性を他者より優れた長所と考えるのは近代の錯覚であると述べた。      

 最後に加藤楸邨を、閉鎖的な私小説的個の詠嘆という色彩を持つが、社会的弱者の視点から、「詩性」と「社会性」の調和の必要性を意識した先駆者として特記したい。

 プロレタリア俳句

 これに社会性が最も先鋭に現れている。社会主義が民主主義の未発達な国で成立したがために奇形化したのは、理想が高邁であったが故に悲劇的であった。この議論はしばらく置き、散文の小説さえ私小説が本流という日本の文学風土で、その私小説的表現に格好のこぢんまりした十七音のフィールドに敢えて論理を持ち込んだプロレタリア俳句は、俳句史に鮮烈な印象を与えている。しかし、在来の俳句と闘うには許された時間が余りにも短かった。筆者は「プロレタリア俳句」の歴史的意義を評価するが、ここでは敢えて苦言を呈したい。トロッキー的な表現が許されるならば、貴族性社会で貴族的というのが「良質」を意味したように、伝統俳句は、たっぷりの持ち時間を得て「良質」をものしていたのである。人間が母親のお腹の中で人間の種としての歴史を体験すると述べたが、芸術も、その歴史の経験・同化が出発点となるのは同じである。我々も、伝統俳句の美しい調べの洗礼を受け、その感動を出発点とし、また成長の糧としてきた。先人が命を削ってものしたものであり、歴史観・社会性の欠如は非議されるが、一蹴するのは余りにも軽薄であり、そもそも失礼である。先人の成果を踏まえた上での新しい展開であろう。石田波郷は言う。『伝統を拒否したものはそれはもはや新しさではない「別のもの」である』。そして、かつてのプロレタリア文学のように、緊急事態への過渡的な意義は認めるとしても、芸術に社会体制や政治を持ち込むのは誤りである。旧ソ連では、政治への貢献度で芸術を計るという信じ難いことが行われた。「知情意」の「意」で「真善美」の「善」を行うのは、芸術ではなく行為の世界である。

 社会性俳句が急速に閉塞した理由

 まず第一は、赤城さかえが「戦後俳句論争史」で、「今後の論者はこれらの引用で十分事足り議論の断片で意地悪く喧嘩をしかけることも可能である」と、自負とともにアイロニカルに断言したほど、昭和三十年前後に論議が高いレベルで出尽くし、その達成感に甘んじ、関心が薄れたことである。第二は、高度成長により資本主義の成長神話が生まれる一方、社会主義国のいわば自滅により体制論議が弱まった上に、既成の価値観が崩れポストモダンの考え方が広まったことである。

 赤城の論争史は示唆に富むが以下の論点に留めたい。昭和二十九年の「風」誌の「俳句と社会性」アンケートへの金子兜太・鈴木六林男・沢木欣一の回答に対し、反発が相次いだことを憂えて述べた次の言葉は実に重い。「日常の生活の苦しさや悲しさを、どういう風に俳句という作品の中で高めるか」、『主婦も農民も職人も、「ああそうか」と膝を叩き、眼をかがやかせて雲の切れ間を見出すような発言は少なかった』。これは俳壇的な角度、つまり高踏的・教訓的・前衛的という「上から目線」ではなく、人間の生(なま)の声、詩(うた)の大切さを問うたものである。ただその指摘も、戦後の未熟な民主主義にあっての焦燥を考えれば酷な面もある。むしろ、その後の三氏の姿勢こそ問われるべきであろう。沢木欣一が曖昧に終始した一方、鈴木六林男は、複雑混沌とした社会機構と鬱然たる俳壇ジャングルの中に埋没せず、社会性俳句により現代俳句の真価を誇示すべきと、一貫して意気軒昂であり、戦争責任には決して妥協を許さない人であった。金子兜太は赤城の指摘に、「庶民的人間性」「肉体的人間性」「土がたわれ」の「知性」という言葉の引用で誠実に応え、良心的であり、何よりも社会正義をベースに、俳句の将来を社会構造の変化と共に考える柔軟性をもっている。氏の「イデオロギーがあるままの社会性についての意識を根にもたなければ・・・・・・・・、それこそ悪しきモダニズムに終わる」(筆者傍点)という言葉は、本旨の「俳句のあり方」に多くの糧となった。   

 昭和四十三年のこの議論を最後に、社会性俳句の議論は終わりを告げたといわれている。何を今更という意見もあろうが、筆者は敢えて再度議論の必要性を訴えるべき時期が訪れていると考える。一つ例を挙げよう。かつての美しい八代海も、水俣病の患者にとっては怒りの対象でしかない。そ知らぬ顔でこの海をただ美しいと詠む俳句は、被害者の悲しみを更に深くするだけでなく、時代に取り残され、衰退を余儀なくされるであろう。栗林農夫は、かつて同趣旨の警鐘をならした。近時ますます複雑化する社会問題から目を逸らさないのが社会性を持つということである。

 前衛俳句について

 俳句ジャーナリズムが意図して、社会性俳句が時代遅れだとし、前衛俳句という言葉を前面に押し出し、それが現在の社会的なテーマの忌避を招いているとすれば残念なことである。前衛芸術が総じて同じ問題に直面している。音楽を見てみよう。小倉朗は、近代音楽の歴史は三和音体制での調確立と破壊のドラマであり、バルトークの「固有の響きは音楽を崩壊から救い出すその戦いで浴びた返り血」と表現し、前衛としてのあるべき姿をみる。更に、前衛音楽は音楽を感覚的に捉えるだけで、本質を抉り出す音楽的生命に輝いた若々しさや瑞々しさを持っていないと述べる。単なる破壊者に、前衛を名乗る資格はない。前衛とは、伝統に替わる新しいものを生み出せるものにだけ与えられる称号である。ベートーヴェンが真の前衛であったように、俳句も、いくら前衛と呼ばれようが、単なる軟弱な新しさの集積では、決して豊かな伝統俳句を震撼させることはできないであろう。がっぷり四つに組まれるかもしれないという、畏怖を感じさせる重量感を持ったものでなくてはならない。そして、単なる破壊者にならないためにも、金子兜太の、俳句の両輪の一つである「季語」は外しても、もう一つの十七音に替わる「最短定型詩型」は死守すべきであるという主張は、定型が生まれ育まれてきた必然性・重みを踏まえた正論である。芥川也寸志は、古い京都の庭園を高所から鑑賞できないと同様、現代音楽に接する姿勢に創造的な感性が必要であると述べたが、これは現代俳句を鑑賞する側の姿勢にも繋がるものである。

 悲しい詩型

 絵画で、できるだけ小さいキャンバスで技を競うとか、絵具の色を制限するという話は聞いた事がない。音楽で小節の数や音程を制限することもありえない。鈴木六林男は戦争体験から短さを否定したが、俳句の形式自体「奇型」という見方も的外れではない程短い。奇型ゆえの味わいといわれれば、居た堪れない。加藤楸邨は、この悲劇を『「言いたい」と「言えぬ」との焦燥』と表現した。この奇型が、さらに抜き差しならない以下の状況を招いている。ニーチェは、抒情詩が如何に能弁に喋っても深遠な音楽に到底叶わないと述べたが、高さ・強さ・長さ・音色の四つの基本的属性を持つ音楽と比較して、俳句は、シラーの「言語の拘束・束縛」という詩的表現のハンディに加えて、ただの十七文字、使われる文字数も五十音に過ぎない。しかも花鳥風月に代表される自然界の事象や、これを形容する単語は千数百年に亘って使用された結果、読み尽くされたと言っても過言ではない。元の生地が見えないほど手垢にまみれている。詩的な造語もオノマトペが関の山であり、マンネリ・月並みにならないのが、むしろ不思議な位である。新しい社会事象を詠むか、二物を新しく組み合わせるか、新しい考えを織り込むか以外には活路が見出せない閉塞感に覆われている。しかも、元々十七音の短い詩型に高い芸術性を実現するのが至難の技である一方、形式の簡易であるが故に、第二義的芸術といわれる安易なものに堕落し易い体質から逃れられない宿命を背負っている。

 社会性の今日的意味

 社会主義国の破綻にもよるのであろう、今や「社会」と名のつくものは全て過去のものとして葬り去られた感があるが、自然破壊で季節感のない生活空間が果てしなく広がり、個人では到底処理できない情報が氾濫し、また無機質な通信媒体に時間が埋め尽くされる閉塞感の中で、俳句界は花鳥諷詠への回帰を強め、その耽美を深めつつある。他方、独りよがりの自称前衛や、言葉遊びに近い物がもてはやされ、再び方向感を見失ってしまった感が否めない。現実社会が「美」を保てなくなっている現在、単に美・詩性の追求のみを目指すのであれば、とるべき道が、過去への回帰か、超現実主義的なものか、どちらかしかないのは当然である。これは、「社会性」というバックボーンの欠落による帰結というほかない。従来「詩性を欠いた社会性」に比し「社会性を欠いた詩性」の陥穽が語られることは少なかったが、同様に極めて大きいことを強調したい。筆者は、社会性を欠いた詩性の跛行の悲劇的な結末の典型を、「根源俳句」にみる。進取の気概を持って近代社会という新素材に真っ先に対峙しながら、結果的にトリヴィアリズムに先祖返りしたことは痛ましかった。一方、「社会性俳句」はプロレタリア俳句しかり、詩性に乏しいものが多かったことは事実である。森澄雄が「人間としての含羞をもたぬ思想」と表現したが、これに傾きすぎると、加藤楸邨が指摘する「俳句における社会性」ではない「社会性を説く俳句」に堕してしまう。イデオロギーのプロパガンダとして使われるだけならば、俳句は無くなった方がマシである。あるイデオロギーを主張したいだけであれば、五・七・五ではなく論文はじめ散文で展開すべきである。しかし、思想は詩性の力を得て、散文にはない豊かなインパクトを与えることができるのも事実である。詩性豊かな散文と同様、思想性豊かな韻文もある。

 ここで、美しいリズムやしらべを失わず、かつ社会をしっかり見つめている俳句、これが未来のあるべき姿であると訴えたい。また「社会性」を社会主義的という狭い捉え方ではなく、広く柔軟に捉える。「社会性俳句」は社会主義的なイメージが余りにも強く、曲解・誤解を避け得ない。しかも最近は話題にもならず、死語に近い。筆者としては、「社会性俳句」という表現は一切やめて、「俳句の社会性」という呼称への統一を提案したい。ただ社会を見つめるといっても、右も左もある。そもそもイデオロギーという方向性を持たない社会性って何だろう。金子兜太は主体性の観点から「善良」と区別し「善意」と表現したが、筆者は、社会体制を超えた人類の永遠のテーマである自由・平等・民主主義などを含む社会正義・社会的良心を、社会性の中心に置くのが現代に相応しいと考える。 

 山本健吉が、「さらりと風景にさえ触れていれば済む俳人とは、何というのんきな現代の芸術家であろう」と揶揄したが、社会性を備えた俳人のあるべき姿として、稀有のチェリストであったパブロ・カザルスの弟エンリケに対し、スペイン陸軍から召集令状が来た時に言った次の母の言葉をあげれば十分であろう。「人は、殺したり、殺されたりするために生まれたのではありませんーー行きなさい。この国から離れなさい。」

俳句のあるべきかたち―社会性をベースにした詩性の確立

 「社会性」の大切さに紙数を割きすぎたようである。また今まで「詩性」との相対的位置を探ってきたが、結論を急ごう。先の「自然を見つめる伝統派」、「人間を見つめる詩人派」、両者の尊い作業の上に「社会をみつめる社会派」を加えてさらに豊かな俳句を築くべきと考える。ニーチェの言う「アポロ的」と「ディオニュソス的」の対立(これはストラヴィンスキーの音楽の振幅を示すものである)に似て、散文が「流行」という社会的存在をテーマとする一方、韻文(詩)は「不易」という自然・愛・死をすべて含んだ宇宙的全存在をテーマにするため、両者が両立し難いことを踏まえた上で、この「詩性」と「思想性・社会性」の融合を図るという困難な命題(マルクスがいう、経済における諸物の融合にオールマイティな「貨幣」というものも芸術には存在しない)、これに多くの議論がなされてきた。草田男の「私」と「公」の融合、兜太の「表現という精神」と「具象と韻律という肉体」の抱合、赤城さかえの「リアリズム」と「ロマンチシズム」の統一が代表的なものである。しかし、これはモーツアルトのコンチェルタントな精神、とはいかない困難なものである。俳句においては「詩性」と「社会性」は相容れない水と油の様なもので、両者の融合・抱合・統一という表現には無理があり、却って混乱を招く結果になることを筆者は危惧する。

 ここで、「社会性をベースにした詩性の確立」を提案したい。詩性の基調として社会性を位置づける。音楽の通奏低音というべき基調の上に詩性を縦横に詠わせるのである。俳句に荷をかけ過ぎという意見もあろうが、これは現代の俳人に課せられた使命である。アラン・ブルームが、理性が情念に流されやすく、理性に情念を従わせる強い意思が必要であり(これは芥川龍之介の危惧したもの)、また魂の熱狂的側面と後発の理性的側面との調和という到達不可能な目標なしには人間は全体的人間にはなれないと述べている。一体この調和という命題は何も珍しくはなく、芸術全般に課せられ、多くの芸術家によって克服されてきたものである。反動化した社会に抗い続けたべートーヴェンであるが、一つの動機から積み上げた思考を、詩性と融合させ、深遠かつ抒情も備えた音楽を生み出した。交響曲「田園」は外面的な描写音楽ではなく、思想を詩的に表現したものである。モーツアルトは古典音楽から市民音楽への過渡期を鋭敏に感じ取った音楽家であるが、メロディにならない様な短い音の断片を揺らぐように詠う詩人でもあり、特にモールではデモーニッシュな意思と動機を表現し、両者の融合を魅力あるものにしている。「ピアノの詩人」ショパンのエチュード「革命」は強い意思を持ちながら、リズミカルな詩性豊かな音楽である。シベリウスも先述のとおり最高の融合を示す。音楽史全体をみても、標題音楽(写生)から出発し、音とリズムの遊びを経て、最後に理念と詩の両立という形へと発展している。

 更に幸いなるかな。詩は音楽と同様、時間的連続の秩序という時間の法則に従うものであるが、俳句にはアランのいう散文の法則、つまり「迂回と回帰ののちにすべてが同時に現出すべき」絵画的な法則がビルトインされている。山本健吉は、加藤楸邨の「読み了へたところから再び全句に反響する」や、芭蕉の「発句の事は行きて帰る心の味なり」という言葉を同趣旨の表現としている。筆者などは、それ以前に、最短詩型では時間的連続を表現するのは物理的に無理であり絵画的表現にならざるを得ないと考えるが、その時間の法則を体現し得ない詩型の不完全さ・ハンディキャップが、実は、詩性との両立の困難さを和らげ、確固とした思想性のフィールドを俳句に用意していたのだ。水平的・時間的に閉ざされた詩型であるが故に、垂直的・空間的に構築する宿命を背負っているのである。

 ここで抽象的な議論に終始せず具体的な作例を拙句により示しておきたい。

 「諍いの星に折り重なる落葉」

 争いの絶えない人間の住む星である地球に平和を希求する「社会性」と、哀れな地球を悼む弔いのかたちとして落葉が折り重なる「詩性」を表現したもの。

 「車疾走し向日葵翻弄す」

 行き過ぎた車社会が自然破壊につながるという意味での「社会性」と、疾走と翻弄の重畳の乾いた現代の「詩性」を表現したもの。

 「片足のアフガンの児の涼しき眼」

 戦禍に子供が片足を失う事実を示す「社会性」と、涼しい眼の「詩性」を表現したもの。

 大衆のうた、わかりやすさについて

 不安と焦燥の現代にサンサーンスの音楽のような美しい秩序だけを望むことが許されないのは残念である。この混迷・漂流を救えるのは先に述べたテーゼとアンチテーゼの止揚、つまり「社会性をベースにした詩性の確立」、であると述べたが、言い換えれば「大衆のうた」ということでもある。これは芸術全般に共通の歩みであり、絵画でも、聖職者のための宗教画や宮廷絵画から市民のための絵画を経て、最後に一般大衆・国民のための絵画に至った。音楽も同様である。俳句を国民全層に共感を呼ぶ、何よりもわかりやすいものにするということである。山本健吉が『俗にいう「ひねり」の持つ寓意性、または滑稽性が宿る。芭蕉は笑いを微笑にまで純化した。』と述べたが、相手に微笑みかけるには、このわかりやすさが前提になるのは当然である。難解さに対話が生まれるはずがない。独創は時流を破った苦味を持つとしても、飯田龍太の指摘するとおり、専門の人でないとわからない俳句は問題がある。トロッキーは芸術・文化は、科学者や芸術家と国民との相互作用の中で作られ、読者は作家を、また作家は読者を生み出すといったが、広範な読者を持たない類の俳句は根本的な欠陥があるという自覚が必要である。平易なものは芸術性が低く、難解なものは高いというのが大きな誤りであることは、芭蕉の句をみれば自明である。アランのいう「寓意的デッサンに似た極東の短詩」は平易さをレーゾンデートルとしている。

 現代俳句の新しい潮流が何れも衰退した大きな原因は、難解・高圧的・高踏的・ひとりよがり等々により国民の文芸として支持されず、人々の間に根付けなかったことにあったという大岡信の指摘を待つまでもなく、前衛俳句が俳句史の皮相なエピソードに終わらないためには、この「大衆の視点」が忘れられてはならない。前衛が前衛たることをやめ、普遍化することである。元々俳句は普段普通に生活しているあらゆる階層の人々が、同じ自然環境・社会環境の中で感動を覚える共通の生活体験を十七文字によって表現し、生きる喜びを分かち合い、人生をともに楽しむ(とりわけ笑いを大切にして)ことに本来の意義を見出してきた筈である。健康なものである。俳句の原点である。古代ポリスが持っていた「芸術と生活の統一」といっても良い。モリスのいう、労働を通じて芸術的喜びを享受することが叶わない現代人にとってかけがえのないものである。これにより、読者が作者を兼ねるという点を、俳句の限界を示すものという消極的な捉え方ではなく、国民的規模になり得る数少ない芸術の一つであり、国民の文学的要求を最も満足させる文学形式であるという自信に繋げることも可能になると考える。また、日本人のアイデンティティを文化面で確認し合える俳句は、世代間の断絶解消の有力な処方箋になり得るものである。

 最後に山本健吉が「連想や余情を醸し出す力があるのは季語以外のあらゆる言葉にもある」といい、金子兜太が「季語を含む広範な語群の象徴機能」と述べたが、旧来の季語からの自由は大衆のうたに資すること、そして苦しい時こそ「をかしみ」を大切にするのが大衆・庶民の生きる知恵、これも大衆化の重要なファクターであることを付言したい。

 社会性のパターン化現象について

 俳句界で気掛かりなことがある。高い理想より、新しいイメージという流れである。多様性が俳句の発展に有効であり、また社会性と交差しない俳句も多々あるが、近頃の入門書、解説書の類に俳句のパターン化があり、俳句史として辿る場合はともかく、社会性俳句がパターンの一つとして、パラレルに並んでいるのは如何なものであろう。社会性のパターン化は他の文学や芸術にはまず見られない現象であり、俳句の文学的土壌の貧困、更に鈴木六林男が「社会性」と敢えていわねばならないと嘆いた民主主義の未熟さを表している。詩人のあり方・姿勢として、技術論・方法論あるいは多様性よりも、地球・世界・社会のあり方を第一義的に、高次に位置づけるべきである。パターン化の前提となるものである。先に「社会性をベースにした詩性の確立」を提唱したが、この「ベース」にしたという意味に他ならない。吉本隆明のいう壁画的分類ではなく、重畳的な意味合いである。         

 そして俳句の未来のために一つ付け加えたい。西鶴が俳諧から小説という形式に向かわざるを得なかったように(三島由紀夫は韻文的特質と散文的特質の奔放な混交と表現)、俳句の短小な形式では、草田男の第三世界や現代の複雑な諸相の表現には荷が重いことは明白であり、他の表現手段の力を借りることも有効であろう。例えば最近みられる、写真とのコラボレーションである。筆者の試みたアフォリズムとのコラボもこれに他ならない。ベートーヴェンの「合唱」という芸術の総合の理想型を、俳句にも夢見るものである。 

 

 生き残る種というのは、最も強いものでもなければ、最も知的なものでもない。

 最も変化に適応できる種が生き残るのだ。  チャールズ・ダーウィン


Facebook髙橋 眞人さん投稿記事

こんばんは。【今日の名言】江藤 淳(文学評論家)

(明治の作家について)その生活と思想のほとんどあらゆる位相を圧倒的な西欧文化の影響下に曝した最初の日本の知識人であったにもかかわらず、というよりむしろその故に、常に日本人としての文化的自覚を失わず、一種強烈な使命感によって生きていた人々であった。(これに対して大正・昭和の知識人は)ナショナリストであった明治作家に背を向けて、少なくとも主観的にはコスモポリタンとしての自己を誇りはじめた。

黒船がきたときも、マッカーサーがきたときも、日本人は米をつくっていた。将来、いくらパン食が普及しても、いくら農業人口が減っても、やはり米をつくり続けるであろう。もし「近代化」を推進するために稲作はやめて果樹を植えろというような愚論がまかり通って、日本中に一枚の田がなくなってしまったとしても、まだこの持続――つまり太陽と水を根底とする民族の持続を遮断することはできまい。それはモンスーン地帯の北端にあるという日本の国土の位置を、人間の手で動かすことはまずできないからである。

いわゆる「近代化」論と戦後流行した「科学的」な史学が日本人の中からこういう感覚を日に日に奪っていくことを、私は不愉快に思うものである。

(終戦直後の日本人の対米観について)注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、敵、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。憎しみを感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人はごく順当にこう考えていた。

GHQは米統合参謀本部の命令により、日本において検閲を準備し、実行した。民間通信(郵便、無電、ラジオ、電信電話、旅行者携帯文書、及びその他一切)の検閲管理、秘密情報の取得などを使命とし、国体の破壊、再軍備の阻止、政治組織の探索、海外との通信阻止などを主眼とし、後に新聞、あらゆる形態の出版物、放送、通信社経由のニュース、映画なども民間検閲の所管として加えられた。

実行には民間検閲支隊(CCD)があたり、検閲は隠蔽された。日本の戦時特別統制下では法律により検閲が定められていて、それは国民一般に広く知れ渡っていた。しかし、GHQが行った検閲はそのことに言及したり、また伏字で埋めたり塗り潰すなどの痕跡を残してはならず、秘匿を徹底させられたため、言論統制された情報であることを国民は認識できなかった。検閲は峻厳を極めた。違反したと判断された場合、発行停止の処分や回収裁断などがなされた。さらにGHQは、マスメディアひいては日本の言論を完全なる掌握下に置くために指令を発し、政府による検閲を停止させ、通信社を解体に追い込んだ。

昭和22年3月時点のCCDの構成員は将校88人、下士官80人、軍属370人、連合国籍民間人554人、日本人5,076人、総員6,168人であった。そのうち新聞雑誌等の検閲に日本人は1,500人以上従事していたと推定される。日本人で検閲官に応募してCCD入りした人々の動機は経済的なものであったに違いない、滞米経験者、英語教師、大学教授、外交官の古手、英語に自信のある男女の学生にも高給を支給した。

約5千人の要員に翻訳通訳局勤務の日本人を併せれば、その数は1万人以上に上ると思われ、後に革新自治体の首長、大会社の役員、国際弁護士、著名なジャーナリスト、学術雑誌の編集長、大学教授等々になった人々も含まれているが、そのうちだれも経歴にCCD勤務の事実を記載した人はいない。

(昭和23年になっても)依然として、日本人の心に占領者の望むような形で「ウォー・ギルト(戦争の罪悪感)」が定着してはいなかった。この(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける)プログラムが以後、正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できない。

この(CCDによる再教育の)構造が日本の言論機関と教育体制に定着され維持されるようになれば、占領が終了しても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼はいつまでも内部崩壊を続け、同時に国際的検閲の脅威に曝される。この脅威は、現に日本国内において、しかも報道機関それ自体の手によって、歴然たる検閲が行われている実情を体験し、入手することができる。それは皇室と日本文化の根源に関わっている。

(占領軍による徹底した検閲は)言葉のパラダイムの逆転であり、そのことをもってするアイデンティティの破壊である。以後4年間にわたるCCDの検閲が一貫して意図したのは、まさにこのことにほかならなかった。それは、換言すれば「邪悪」な日本と日本人の、思考と言語を通じての改造であり、さらにいえば日本を日本ではない国、ないしは一地域に変え、日本人を日本人以外の何者かにしようという企てであった。

今日の日本に、あるいは平和もあり、民主主義も国民主権もあるといってもいいのかも知れない。しかし、今日の日本に自由は依然としてない。言語をして、国語をして、ただ自然のままにあらしめよ、息づかしめよ、このことが実現できない言語空間に自由はあり得ないからである。

人はだれでも歴史を生きている。好むと好まざるとにかかわらず。そうであるなら、どうして自分の背に追わされている伝統という荷物をしっかり背負い直してみないのか。

僕は125代、皇統が続いているということの意味で、大嘗祭もあまり形式的に考える必要はないという意見です。過去に皇統が持続してきた間に、嘗祭が行われなかった例もあります。そうであっても、なおかつ皇統は持続してきている。皇室を廃するということを日本人は一度もしなかった。この歴史的事実を我々は心の支えにしていくほかないと思うのです。

平成日本はいつ滅びるかわからない。ますます滅びそうだと思っている。人が死ぬ如く、国も亡ぶのであり、いつでもそれは起こりうる。

僕は電球も取り替えられないんだ。(妻が自分に)尽くしてくれた時間を返したい。

夜はまだいい。周りが闇に閉ざされているから。昼は光が入って、家の隅々、庭まで見えてしまう。そこに、それまで居た人がいない。この空白感が耐え切れない。

家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を1人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が(末期がんで)逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行く。

(遺書で)心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。

※江藤淳は1999年7月21日、激しい雷雨の夜、自宅で自殺しました。66歳でした。


https://donkai575.wordpress.com/2012/03/23/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%B7%B3%E3%80%81%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%BF%B3%E5%8F%A5/ 【江藤淳、吉本隆明への俳句】より

  『追悼  江藤淳記』 吉本隆明より

「 江藤淳とわたしとは文芸批評のうえでも、時事的な評論のうえでも、よく似た問題意識をもってきたが、大抵はその論理の果ては対極的なところに行きついて、対立することが多かった。たぶん読者もまたそうゆう印象だったろう。なぜかわたしには対極にあるもの特有の信頼感と優れた才能に対する驚嘆と、時々思いもかけぬラジカルな批評をやってのける江藤淳にたいする親和感があった。江藤淳との最後の対談の日、今日もまた対立かなとおもって出掛けたが、対談がはじまるとすぐに、江藤淳がもう侃侃諤諤はいいでしょうと陰の声で言っているのがわかった。わたしの方もすぐに感応して、軌道を変えたと思う。彼はその折、雑談の中でふと、僕が死んだら、線香の一本もあげて下さいと口に出した。同時代の空気を吸っていたとはいえ、わたしの方が年齢をくっているのに、変なことを言うものだなとおもって生返事をしたように記憶している。眼と足腰がままならず、線香をあげにゆくこともできなかった。この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたら幸いこれに過ぎることはない。」


https://note.com/197979ahirakawa/n/n530bf46a9ae0 【吉本隆明:詩人という思想家】

より                               平川綾真智

思想の巨人

 日本の戦後思想界に屹立した巨人、吉本隆明。詩人として出発し、評論家として知られるようになった彼は、その独自の理論と徹底した批評精神によって、60年代から70年代にかけて圧倒的な影響力を持ちました。文学、政治、宗教、サブカルチャーまで、幅広い領域にわたる彼の思想的営みは、多くの人々を魅了すると同時に、論争の火種となりました。

東京の下町から:生い立ちと青年期

 吉本隆明は1924年(大正13年)11月25日、東京市月島(現在の中央区月島)に生まれました。父親は熊本県天草市から移住してきた船大工で、小さなボートから台湾航路を運航するような大きな船まで作る職人でした。6人兄弟の5番目として生まれた吉本は、東京の下町で幼少期を過ごしました。

 1937年、東京府立化学工業学校に入学します。1942年、米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)に入学し、翌1943年から宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎などの影響を受けて本格的な詩作を始めます。この時期の吉本は、自身が後に回顧するように「皇国少年」「コンプレックスなしの軍国主義者」であり、「戦争やれやれ」と思っていたと述べています。

 第二次世界大戦末期、向島での勤労奉仕を経て、1945年に東京工業大学に進学しました。敗戦直後、東工大の遠山啓教授が開いた自主講座「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受けたといいます。吉本が後年、自分の人生で出会った特筆すべき「優れた教育者」として挙げるのは、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人だけでした。1947年9月、東京工業大学電気化学科を卒業します。

詩人から評論家へ:思想的出発

 大学卒業後、吉本は町工場に就職しますが、労働組合運動で職場を追われ、1949年に東京工業大学大学院特別研究生となり、稲村耕雄助教授のもとで研究を続けました。1951年、特別研究生前期を終えると、当時インク会社として最大手だった東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職します。

 詩人としての活動は、1952年8月に詩集『固有時との対話』を自家版として発行したことから本格化します。翌1953年9月には詩集『転位のための十篇』を自家版で出版しました。この詩集に収められた「ちいさな群への挨拶」の一節「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」は、吉本の詩の中でも特によく知られるようになりました。

 1954年2月、「荒地新人賞」を受賞し、鮎川信夫らが主宰する「荒地詩集」の同人となります。同年、『現代評論』創刊号と第2号に「反逆の倫理——マチウ書試論」(後に「マチウ書試論」と改題)を発表し、後に吉本思想の重要概念となる「関係の絶対性」という言葉を初めて使いました。

 1956年、武井昭夫と共同執筆した『文学者の戦争責任』で、戦時中の壺井繁治・岡本潤らの行動を批判し、同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物たちの1950年代当時の行動の是非を厳しく問いました。同年、東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職しています。

 1958年、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を『現代批評』創刊号に発表します。この論考で吉本は、共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)の典型として、「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が矛盾したまま複雑に抱合した日本社会から一度離れるが、後に屈伏する「二段階転向論」と、マルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする「非転向」=「転向の一形態」の二つがあると指摘しました。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」していると批判しました。

 1959年、「マチウ書試論」「転向論」などを収録した『芸術的抵抗と挫折』(未來社)を刊行し、評論家としての地位を確立していきます。

60年安保と「自立の思想」

 1956年から1960年にかけて、吉本は花田清輝とのあいだで激しい論争を展開しました。文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような形で終結したとされています。

 1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表し、同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保闘争を先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴する姿勢を示しました。6月15日には国会構内抗議集会で演説し、鎮圧に出た警官との衝突で「建造物侵入現行犯」で逮捕されています。18日に釈放され、その直後に近代文学賞を受賞しました。

 60年安保闘争の終結後、全学連主流派が混乱状態に陥った時期以降、吉本は「自立の思想」を標榜して雑誌『試行』を創刊します(1961年9月)。この雑誌で吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークとも言える『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載していきます。『試行』創刊号の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される」という理念が述べられています。

 発行部数500部からスタートした『試行』は、最初、谷川雁、村上一郎、吉本隆明の三同人により編集され、11号以降は吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつも、36年間継続されました。70年代後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸ばしました。

 吉本が主張した「自立の思想」——何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される——は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしい、と変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになります。その代表的なものに、1963年『丸山真男論(増補改稿版)』(一橋新聞部刊)があります。そこにおいては、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが、丸山眞男に象徴される大学教員に他ならない、とされ、丸山からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開されました。

 この時期の吉本自身は、1956年に東洋インキ製造株式会社を退職後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けました。

理論的主著の発表

 1965年、『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行し、同年には大江健三郎と江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」という総題の文学全集全22巻が講談社から発行され、その最終巻は「江藤淳・吉本隆明」の巻でした。

 1968年、『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行し、同年10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行しました。この著作集は1978年まで継続して刊行されました。また同年12月、『共同幻想論』を河出書房新社より刊行しました。

 吉本のいわゆる「理論的」書物、『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968)『心的幻想論序説』(1971)『マス・イメージ論』(1984)といった主著への批判は刊行直後から現在に至るまでさまざまな側面からなされていますが、これらの著作が戦後思想界に与えた影響は計り知れません。

家族と私生活

 吉本は1956年に和子と結婚し、翌1957年に入籍します。和子は元々吉本の友人の妻でしたが、再婚して吉本と夫婦になりました。東京第一師範学校本科を卒業した和子は、結婚前は小説を書いていましたが、吉本から「家に2人表現者がいると家庭は成り立たない」と言われ断筆しました。晩年になって俳句を始め、句集も出版しています。病弱だった和子に代わって、家事の多くは吉本が担当していたといいます。

 二人の間には長女・多子(漫画家のハルノ宵子)と次女・真秀子(作家の吉本ばなな)が生まれました。吉本ばななは吉本の次女であることが広く知られるようになりましたが、父親について語ることはあまりありませんでした。

サブカルチャーへの接近

 1980年代に入ると、当時の豊かな消費社会の発生と連動し、テレビや漫画・アニメなどを論じた『マス・イメージ論』や、主に都市論の『ハイ・イメージ論I~III』を発表し、サブカルチャーを評価する姿勢を示します。忌野清志郎・坂本龍一・ビートたけしらを評価し、「80年代消費社会」のシンボルとなったコピーライター糸井重里とは対談等も行って親しくなりました。

 1984年、女性誌『an・an』誌上に川久保玲のコム・デ・ギャルソンを着て登場し、埴谷雄高から「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けるなど、吉本の「転向」が取り沙汰されます。吉本は「『進歩』や『左翼』だと思っていたものが、半世紀以上経ってみたら、表看板であるプロレタリアートの解放戦争で、資本主義国におくれをとってしまったことが明瞭になってしまった」と応答しています。

 また、1981年に始まった反核署名運動や1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故から盛り上がった反原発運動も批判し、「反核」が「反原発」に、そして「エコロジー」に収斂するのは、「ぞおっとするほど蒙昧だ」と述べています。

冷戦後の思想

 冷戦構造崩壊後の1994年には、「わが転向」を文藝春秋に発表します。「社会主義は善で資本主義は悪という言い方は成り立たない」「左翼から右翼になったわけではなく」「体制―反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もない」「全く違った条件を持った左翼性が必要」として自らを「新・新左翼」と位置づけました。

 また同時期には、現在の社会を、「超資本主義」の段階にはいり、「マルクス経済学が述べている資本主義は、消費過剰になったときに、もう終わってしまって、マルクス経済学が通じない段階になってしまった」としています。

 1995年に起った阪神・淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件にかんしては、「日本の切れ目を象徴」するとし、オウムの無差別テロは「ソ連の崩壊に次ぐほどの大事件」と評しています。

 1992年、オウム真理教の麻原彰晃をヨーガを中心とした原始仏教修行の内実の記述者として評価していたことから、1995年オウム真理教事件発生後は「宗教家としての麻原彰晃は評価する」と述べ、批判を浴びることになりました。

 1996年8月、静岡県の屋形海水浴場で遊泳中に溺れ意識不明の重体になり緊急入院しましたが、集中治療室での手当が功を奏し一命を取り留めました。

 1997年には大塚英志との対談で『新世紀エヴァンゲリオン』について感想を述べ、1998年には『アフリカ的段階について 史観の拡張』を出版します。1999年には小林よしのりの『戦争論』と「新しい歴史教科書を作る会」に関連して『私の戦争論』を刊行しました。

晩年の活動

 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに関して、2002年に『超・戦争論』を刊行し、アメリカ対イスラム原理主義は「近代主義的な迷妄」対「原始的な迷妄」の戦いであり、21世紀の課題は国民「国家を開いていく」ことだと述べました。また「地球規模での贈与経済をかんがえなくてはならない」と捉え、「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑念の余地がない」と述べています。

 2003年、『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を、『吉本隆明全詩集』で藤村記念歴程賞を受賞しました。2000年代前半に糖尿性網膜症を患います。

 2008年には『心的現象論・本論』が文化科学高等研究院出版局から出版され、同年、『蟹工船』がベストセラーになったことに関連して、情報技術の興隆、格差社会、ワーキングプアについて論じました。また、日本の現状を「第二の戦後期(敗戦期)に転化しつつある」「戦後も戦中も戦前も、『未来』と一緒に切断された」と述べています。

 2009年、第19回宮沢賢治賞を受賞し、2012年3月16日、肺炎のため東京都の日本医科大学付属病院で死去しました。87歳でした。吉本の死後、妻の和子も同年に老衰で亡くなっています。

「傍系」としての立ち位置

 社会学者の竹内洋は、吉本の立ち位置を「傍系的傍系」と評しています。東京の下町出身で、旧制中学や旧制高校という「正系」ではなく、実業学校、専門学校という「傍系」の学歴を歩み、大学卒業後も企業や特許事務所に勤務し、大学教師の経歴を持たなかった吉本は、丸山眞男という「正系」、清水幾太郎という「正系的傍系」、鶴見俊輔という「傍系」でもない、正系にもっとも遠い位置にいました。

 吉本自身、島尾敏雄との対談で「……ぼくなんかはどこにいてもたえずよそ者みたいな意識が伴ってやまないわけですが」と述べており、この「傍系」としての意識が、既成の権威や制度に対する批判的視点を形成する要因となったと考えられます。

思想の特徴:「大衆の原像」と「共同幻想」

 吉本思想の核心的概念の一つに「大衆の原像」があります。これに対しては批評家の呉智英が『バカにつける薬』で批判し、また岩井克人や柄谷行人らも1980年代後半、吉本が「自立思想」の根拠とする「大衆の原像」は高度成長期にほぼ消えたのではないかと指摘しています。 

 これに対して吉本は、確かに「非言語的・非映像的な存在としては」大衆はいなくなったと認めつつも、「大衆の原像」という言葉はフーコーの「権力関係の限界、権力関係の裏側、権力関係のはねかえり」としての「平民(ブレーブ)」の概念と類似したものとして使っており、「いまもって「大衆の原像」を根拠とすることは、相対的真理としての理念で、ずっと確固としてある」と応答しています。

 また『共同幻想論』で提示された「共同幻想」(社会的制度や国家)と「対幻想」(親密な関係性)という二項対立は、吉本思想を特徴づける重要な概念となりました。

吉本と宗教:親鸞への共鳴

 吉本思想のもう一つの重要な要素は、親鸞への共鳴です。『最後の親鸞』『未来の親鸞』など、親鸞に関する著作も多く、特に「悪人正機」の思想に深く傾倒していました。親鸞の「還相」について、吉本は「視線の問題」だとし、「物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向から——未来の側から、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つこと」と解釈しています。

吉本隆明の思想的遺産

 吉本隆明という思想家の最大の特徴は、どのような思想的立場にも安住しないその批判精神にあります。戦後の左翼運動に対しても、消費社会に対しても、現代思想に対しても、常に批判的な眼差しを向け続けた吉本は、「傍系的傍系」としての立ち位置からこそ見えてくる視点を大切にしました。

 その思想の射程は文学評論から政治論、宗教論、サブカルチャー論にまで及び、『ロッキング・オン』の渋谷陽一や社会学者の宮台真司など、多くの文化人や思想家に影響を与えました。

 吉本の思想的旅路は、戦中派としての戦争体験から始まり、60年安保闘争を経て、消費社会の進展や冷戦終結後の世界といった、時代の大きな変化に対して常に敏感に反応し、自らの思想を更新し続けるものでした。その過程で、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論序説』『マス・イメージ論』といった主著を残し、多くの若者たちに影響を与えました。

 彼の思想の核心にあるのは、国家や制度といった「共同幻想」に対して、「大衆の原像」や「対幻想」という概念を対置し、「自立」を志向する姿勢です。この姿勢は、時代が変わっても色あせることなく、今日において私たちに重要な示唆を与えてくれます。

 吉本隆明という思想家は、戦後日本思想史における最も重要な知性の一人として、今後も多くの議論と検討の対象であり続けるでしょう。

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