見えている景色を共有する

https://fin.miraiteiban.jp/yomu_03/ 【俳句にはビートとボケがある。気鋭の俳人・岩田奎さん。】より

古くから日常的に親しんできた、和歌や短歌、俳句といった詩歌。とくに近年は、日本文学における詩歌を「よむ(読む・詠む)」ことが再燃しています。どうして人は詩歌をよみたいと思うのでしょうか。そして今、詩歌が求められている理由とは? F.I.N.では、詩歌を「詠む」「読む」の両側面から紐解き、その魅力や新たな可能性を探求します。

今回は、日本の伝統的な詩の1つ「俳句」に着目。ひと昔前より格段に人気が広がっている一方で、五・七・五の17音に季語を入れてよむという原則があることに、ハードルの高さを感じてしまう人も少なくありません。時代とともに季節や言葉のあり方も変わる現代において、俳句はどんな役割を担い、どんな可能性を秘めているのでしょうか。そして、表現方法がいくつもある中で、俳句ならではの魅力とは? 高校時代より俳句に親しみ、「俳句の芥川賞」といわれる角川俳句賞を史上最年少で受賞した俳人の岩田奎さんに伺います。

(文:船橋麻貴/写真:大崎あゆみ)

Profile 岩田奎さん(いわた・けい)

俳人。1999年、京都市生まれ。俳句同人誌「群青」所属。2015年に開成高校俳句部にて作句を開始。2018年に第10回石田波郷新人賞、2019年に第6回俳人協会新鋭評論賞、2020年に第66回角川俳句賞を受賞する。2022年に刊行した句集『膚(はだえ)』(ふらんす堂)にて、第14回田中裕明賞、第47回俳人協会新人賞を受賞。

X:@ii_tawake

意味性や自己表現にそんなに価値はない。俳句が持つ「意外性」

F.I.N.編集部

岩田さんは俳句のコンクール「俳句甲子園」の常連校・開成高校俳句部で作句をスタートされますが、なぜ俳句に興味を持ったのですか?

岩田さん

元々言葉が好きだったというのもありますが、俳句で戦えることに意外性を感じたんです。開成高校に入る前は、公立の中学校のサッカー部に所属していたんですけど、言葉で戦えるなんて思いもしなかった。俳句のイメージは、おとなしいものだったので。それに「俳句甲子園」では句を出すだけじゃなくて、ディベートも行われる。当時MCバトルが流行りはじめていたこともあって、俳句で戦う世界があるなんて面白いし新鮮だなぁと思ったんです。

F.I.N.編集部

実際に俳句に触れてみてどうでしたか?

岩田さん

まず俳句には型があって、それを掴むまでにそれなりの時間や知識、カロリーがいるんだなと感じました。だけど、そこはヒップホップのビートやライム、フローと一緒で、ある程度型にはまった方が気持ちいいし、乗りこなせたら面白い。それもまた意外なところでした。

そして、意味のあることを詠もうとすると失敗する確率が高い。あれこれ欲張らずに、見たものをパッと仕留める方がいいというのも意外でしたね。とくに当時は思春期で、自分の内面を表現したいという気持ちも少なからずあったので。俳句において、意味性や自分の内面みたいなものにそんなに価値がないことを知ったのは、ちょっとカルチャーショックだったかもしれません。

F.I.N.編集部

俳句では自己表現はあまりしないものですか?

岩田さん

例えばほとんどの短歌は「私」があるものだと思いますが、俳句では「私」を捨てる場合が多いですね。

F.I.N.編集部

俳句部に入部してすぐ、そういう風に俳句への理解を深めたり、作句のコツを掴んだりできたのですか?

岩田さん

「俳句甲子園」に出場していた時は相手チームに勝たなければいけなかったので、そこまで自分を客観視できていなかったですね。俳句を広く捉えられるようになったのは、大学生や社会人になってから。いろいろな句会(*)や集まりに顔を出すうちに、人間はさまざまな世界に生きているし、一句だけを取り出して俳句を定義することは難しい。そんなことに気づきました。

*作った俳句を発表し、評価・批評し合う会のこと。

F.I.N.編集部

岩田さんは学生時代から、俳句がこの先の自分の核になると思っていたのでしょうか?

岩田さん

そんなに思ってなかったです。高校と大学では俳句と同時に、演劇もやっていましたから。それでも俳句を続けているのは自分に割と向いているから。あと、逆張りもありますね。今どき俳句をやるのは、自分のキャラクターになるかなと。打算じゃないですけど、そういう気持ちは多少あります。

現実は複雑で面白い。だから俳句で詠む

F.I.N.編集部

岩田さんが俳句を始めてから10年ほど経ちましたが、ずっと続けられるのはなぜですか?

岩田さん

五・七・五の17音と短いから飽きないんですよね。例えば小説を書くのとは違って、俳句は自分が何か作りたいと思った時にすぐに作れる。今、倍速視聴やショート動画などが流行っていますけど、僕にとって俳句を作るのはそれと一緒です。

F.I.N.編集部

短いコンテンツというと、日本文学には短歌や川柳などもありますよね。

岩田さん

なんていうか、人の感情にばかりそんなに関心を持っていられないと思うんですよ。短歌や川柳がそうだというわけではありませんが、今の世の中、人の感情を表現するコンテンツがあふれているじゃないですか。SNSとか小説とか。それを好きなのは素敵だと思いますが、自分はそんなにいっぱいはいらない。そういうハイカロリーなものよりも、川辺に転がっている石ころとか、なんでもないものが好き。感情のこもったものだけに価値が宿るわけじゃないと思うんです。

F.I.N.編集部

感情がこもってないものに関心がある、と。

岩田さん

正岡子規が随筆集『病牀六尺』の中で現実の魅力についてつづっていて、それがすごく好きなんです。芸術には理想と写生があって、理想つまり想像は意外とパターン化しやすいけど、写生つまり現実はよっぽど複雑にできているから全然飽きないと。

F.I.N.編集部

岩田さんが現実に惹かれるのはなぜでしょうか?

岩田さん

例えば、写真家や映像作家の方々に共感することは多いです。その人たちがカメラを構えたくなる風景やモノには感情が乗っているわけじゃない。だけど、巡り合わせで自分と偶然同居している。そこに良さがあるというか、そういう現実の中にある偶然性みたいなものに心惹かれてしまうんです。

だから僕が詠む俳句は、生活に即したものというより、そこにある現実ですね。句会に出すためにお題に沿って作ることも多いですし、誰かに何かを届けたいわけではない。あるのは、俳句を作りたいという思いだけですね。

F.I.N.編集部

作句で大切にしていることはありますか?

岩田さん

小さくまとまらないことと、きれいにしすぎないことですかね。予定調和にならず、めちゃくちゃな要素を孕んでいる一句になるよう意識しています。

岩田さんはパソコンとスマホで作句をしているそう

俳句にルールなんてない。ビートとセオリーがあるだけ

F.I.N.編集部

これまでのお話から俳句の魅力はよくわかりました。しかし、五・七・五の17音の定型に季語を入れなければいけないというルールがあるし、やはりハードルの高さを感じてしまいます……。

岩田さん

いや、そもそもルールなんてないんですよ。

F.I.N.編集部

えっ、 俳句にルールはないのですか?

岩田さん

はい。俳句の定型にはルールはなく、ビートがあるだけです。そのビートに乗ると気持ちいいんですよ。もっと言うと、音楽の基本にはコード進行があるじゃないですか。何音かを同時に鳴らした時にきれいに聞こえる組み合わせがあって、そうでないものを不協和音と言いますよね。聞き手に気持ちよく聞かせたいのなら、このコード進行を基本に構成した方がいい。俳句も同じ。基本的にはこの与えられたコード進行やビートに合わせて俳句を作った方が、詠み手も読み手も気持ちよく感じるんです。

あと季語にもルールなんかありません。あるのはセオリーです。俳句は短いので季語を設けることで、了解性を創出した方が便利であると。というのも季語には、読み手に伝わる感覚や風情が集約された「本意」が折りたたまれているんです。その折りたたまれた圧縮性の高い状態で俳句を届けたほうが、詠み手と読み手のどちらにとっても利便性がある。zipファイルで映像や画像をやり取りするのと一緒。季語や定型は拡張子の問題ともいえます。

F.I.N.編集部

気持ち良さや、了解性と利便性を高めるため、俳句には定型や季語があるのですね。

岩田さん

そうするとうまくいくから、なんとなくみんなやっているだけで、必ずそうしないといけないという法律はないんです。もしみなさんが俳句にハードルを感じているならば、「俳句にルールはない」と声高に言いたいですね。

F.I.N.編集部

なるほど。季語は8,000種あるといわれていますが、それでも利便性はいいものですか?

岩田さん

極めて便利です。むしろ俳句をやっていない方こそ、季語が載った「歳時記」を持っておいて損はないと思います。「歳時記」を見れば、季節について詳しくなれる。だから、ごはんがおいしくなるし、贈り物選びも上手になれるんじゃないでしょうか。初夏になったからたけのこが食べられるなぁとか、夏だからハンカチを渡そうとか。

それくらいのメリットがあるし、何よりも日々の起伏が大きくなりますね。今日牡丹の花が咲いたとか、夏草が生い茂り始めたとか、そういう小さな変化に気づける季語の体系は、ウェルビーイングなものだとも思います。

F.I.N.編集部

たしかに季語を知っておくと、外の世界を見る目が変わるような気がしますね。とくに最近はインターネットなどの影響もあって、外からの刺激に鈍感になっていると感じるので、なおさら大切になるかもと思いました。

岩田さん

そうですね。だからこそ季語のある俳句の必要性は、これからはもっと増していくんじゃないかと思っているんです。これまでのような情報や感情ではなくて、手応えのあるものや皮膚感覚がより大切になるのではないかと。

実はツッコミ待ち?俳句が楽しくなる新たな視座

F.I.N.編集部

岩田さんのおかげで、俳句のハードルがぐんと下がりました。

岩田さん

俳句ってお笑いでいう「ボケ」なんですよ。世の中ではどちらかといえばツッコミだと思われることが多いんですけど、実はそうじゃないので。

F.I.N.編集部

どういうことですか(笑)?

岩田さん

俳句を読むと、すごくいいことや正しいことを言っているように感じるかもしれませんが、「何を言っているんですか?」とツッコミを入れたくなるものも、たくさんあるんですよ。例えば、阿部青鞋の代表的なこの句。 永遠はコンクリートを混ぜる音か

岩田さん いやいや違いますよって。あとは高浜虚子のこの句なんかもそうですね。

地球一万余回転冬日にこにこ

岩田さん 何言ってんですか?とツッコミを入れたくなりますよね。そういう反応がまずは正しいと思うんです。

当然、作句意図はありますが、そのまま大真面目に読もうとしてしまうと、よくわからなかった俳句がさらにわからないものになってしまう。だったら、俳句=高尚なものという先入観をとっぱらった方が、俳句との距離を縮めることができる気がします。みなさんからよく「私の教養がなくて申し訳ない」と言われるんですが、そんなことは決してありません。

F.I.N.編集部

ちなみに岩田さんの俳句で、そうやってツッコミを入れて読んでいいものはありますか?

岩田さんありますよ。例えばこの2句。

落椿の気持で踏めよ踏むからは   靴篦の大きな力春の山

岩田さん

1つ目の句は、地面に落ちた椿をなんで椿自身の気持ちになって踏まないといけないんですか?って思っていいんです。そして2つ目の句は、大きな力と言っている靴べらは本来小さいものですし、そこになぜ春の山があるのかも説明されない。だから、原始的なツッコミ方としては、「なんでやねん!」でいいと思います。

岩田さんが教えてくれた2つの句は、句集『膚(はだえ)』(ふらんす堂)に掲載されている

F.I.N.編集部

とても新しい俳句の読み方を知れて楽しいです。では最後に聞かせてください。これから先、俳句はどうなると思いますか?

岩田さん

爆発的に普及すると思います(笑)。というのは、今のような消費社会にみんな飽きはじめていて、生産をしたくなってきているんじゃないかと。

あと、ちょっと変なこと言いたい欲ってあると思うんですよね。現代社会では正しさばかりを求められるので、それこそボケたくなるというか。自分の俳句が読まれることはSNSの「いいね」とは少し違いますが、やっぱり似ている良さもありますね。

長いコンテンツが見られなくなっている今、生産性があって短くて謎の多い俳句は、今の社会やそこに生きる人たちとの相性がいい。だから、これから俳句はどんどん広がっていくと思います。

【編集後記】

幼少のころ、学校の授業や宿題などで詩歌に触れる機会は多かったのですが、季語を入れながら限られた音数で表現する俳句には難しさを感じてしまい、以降、ずっと苦手意識を抱いたまま過ごしてきました。そのため、岩田さんの口から「ビート」や「ボケ」といったワードが飛び出してきたときには、自分が思い描く俳句へのイメージとのギャップから驚きを隠せませんでしたが、長年感じていた俳句との距離は一気に縮まったように思います。

また、先日縁あって人生で初めての句会に参加させていただきました。選句からの参加でしたが、写真を見せ合うように、俳句を通してお互いが見えている景色を共有する。そのコミュニケーションがとても新鮮で、「詠む」だけでなく、「読む」だけでも、季節を感じられたり、何気ないシーンにユーモアが加わったりと、日常の見え方が変化していくように感じました。俳句を「よむ」ことは、自分自身を新しい景色との出会いに導き、日々の暮らしをより鮮やかにしてくれるのかもしれません。

(未来定番研究所 岡田)

https://blog.goo.ne.jp/rokuai57/e/e45b477601976f122bfaaf82843bbccd 【俳句/読書 『句会で遊ぼう』】より

俳句/読書 『句会で遊ぼう』(小高賢 幻冬舎新書)

 ”俳句でもやろうか”と言ってしまった顛末(てんまつ)記。いやはやまったく愉快な本です。句会の実況中継というカテゴリーに属する本といえば、小林恭二さんの『俳句という遊び』それに『俳句という愉しみ』がまず頭に浮かんできます。かなり衝撃的な本でした。(詳しいことは、2007年7月に、このブログに書きましたので、ご覧ください。 俳句仲間からかなりの反響を集めました。)

ただこれはプロの俳人たちが集まった句会でした。俳句の素人が集まり、酒を酌み交わし、うまいものを食べながらやるとどうなるか、その様子を紹介したものが本書です。といっても並の句会ではありません。そのメンバーの名前を見るだけも楽しいのです。宗匠小高賢(こだかけん)は歌集『本所両国』で若山牧水賞を受賞、また講談社では本名鷲尾賢也で編集者として活躍。文章も楽しく、うまい。彼の文は次々に読んでみようという気にさせる。そして何よりもこの句会が始まった発端は、東京農大名誉教授にして食のエッセイスト、小泉武夫です。本当に彼の文章は秀逸ですね。ピュルピュル、チュルチュル、コクリンコなどなど擬声語がふんだんに溢れる<食あれば楽あり>などを読んでいると、ついその料理を作って食べたくなってしまうのであります。

その小泉先生を囲んで、3~4ヶ月に一度うまいものを食いつつ酒を呑む会がある。気のおけない編集者、新聞記者あるいは食品業界の小泉ファンなどなど。最近は、数人の女性陣も参加してワイワイガヤガヤ。それが、そのままのスタイルで句会をやることになった。”たしかに清遊というスタイルもあるだろう。しかし、飲みながら、食べながらの合評は得がたい時間である”

「俳句と短歌は似たようなものではないか」という乱暴な意見から、小高賢が宗匠役。といっても、もしドラの高校野球部の女子マネージャーの様なもの。中心となる指導者がいる訳でもない。まったくのアマチュアが、俳句でもと悪戦苦闘した句会の実況中継である。句会は、宗匠がその場で席題を出し、ひとり5句を即吟するスタイル。その中からいいと思う句を3句、ひどいと思う句(X印)を1句選ぶことになった。

すこし長くなった。早速句を見てみよう。

両国のうなぎや「両国」で開かれた第一回の句会。白焼きに山葵などをからめそれを肴に酒を呑みたい面々。そこでX印を披講された句、

 ”燗酒を干して気がつくひながかな”

 ”八重桜年増おんなのうとましさ”

”1句目は、昼間から酒を呑んでいる。まだ陽が落ちていない。長時間呑んでいることになる。これは小泉さん以外にないだろうと、作者がすぐに分かってしまう。にもかかわらず小泉さんに同情はなく、事実を平たく述べられているだけで、これが俳句とは思えないとの酷評が出る” 実況中継ができない程の激しさ。口から先に生まれ出たようなメンバーばかりなので、”大量の塩と辛子が塗りこまれる。にもかかわらず”またやりましょう”との小泉さんの声。これが泥沼の始まりだ。

 ”コミュニケーションの潤滑油としての俳句。そういう側面を私たちの世代はもっと重要視してもいいのではないか” ”終わったら酒が飲める。みんなと話ができる。そういう楽しみがあると、句会はつづく。そのうち「俳句でも」から「でも」がなくなり、俳句が手放せなくなる。

 ”出勤をやめろやめろと百日紅”

句会がつづくにつれ”「俳味」の有無が作品評価にも幅を利かせてくる。この句はたしかに現実的すぎる。粋もない、色気もない。俳句はそういう日常をどこか超越しているものではないだろうか。これは短歌的だ。おそらく宗匠の作に違いないと糾弾されてしまった”

2ヶ月の一回のペースで開かれている句会の3回目で、ひとりでx印を五個も食らった句が出た。

 ”不倫かな老いも若きも船の旅”

俳味もなく、しかも詠嘆の助詞「かな」の使い方がおかしい。不倫であろうと、恋愛であろうといいではないか。邪推や年寄りのジェラシーがいやらしい。まさに散々であった。x印は三。この作者はほかにx印二の句があり、計五個

のx印。

      ~~~~~~~~~~

 こんな句を見ていると、この句会は大した事はないように思われるかも知れない。しかし続けているうちに、そして女性陣など新メンバーも加わり、選句眼も向上、秀句佳句が出てくる。

 ”宮ずもう子供雷電ここにあり”(醸児) ”四国路や今年も埃のご開帳”(醸児)

◯印四票でトップになった句。、

 ”それ逃げろ月夜畑の裸の子”(醸児) ”秋の雲椅子も机も無口なり”(鬼笑)

 ”天地のふちに咲きたる曼珠沙華”(鬼笑)

いずれも◯印が二、三票入った作品である。

 ”妻病んで孤独身にしむ冬支度”(敦公) ”リタイアの友より届く新酒かな(敦公)

一句目は敦公が初めてトップ賞を獲得した句である。

二句目は、◯二票。

 ”水底の空をはいゆく田螺かな” (茶来)

トップ賞の句。なるほど洒落た句である。きれいな水、。空さえ映っている。そこに田螺が動いているのである。”その時、私の句は「たにし鳴く月夜の畦は別れ道」 いかにも嘘っぽい。実際を知らないことが見え見えである。

     ~~~~~~~~~~~

(女性の活躍)

 女性記者出身にして、今は法務省に勤める。そして世界中の山に登るアルピニスト、蒼犬。”初めて句会に出て、ああ、この程度なら大丈夫と思ったいうから、口惜しいではないか” デビュー以来、醸児提供の賞品の獲得率が高い。俳句歴はまだ浅く、2009年4月のデビュー。はじめは俳号もなく、x印への酷評を浴びていた。しかし、その秋の醸句会では、席題「稲雀」「蕎麦の花」「夜学」では今までにないことをやってのけた。出詠句5句すべてに◯印がつく完全試合! ◯印12はそれまでもないし、それ以後もない。

 ”蛍光灯一つ切れたる夜学かな”(蒼犬) ・・・◯印五

 ”チョーク粉の浮き上がり見ゆ夜学かな”(蒼犬)・・◯印三

 ”光琳の蒔絵より出で稲雀”(蒼犬)・・・◯印二

 ”稲すずめ思いのほかの穂のたわみ”(蒼犬》・・・◯印一

 ”蕎麦畑角を曲がれば恩師宅”(蒼犬)・・・◯印一

後に◯四票の句もでる。

 ”青年のくるぶし高き夏衣”(蒼犬)

以来、快進撃が続いた。彼女の句は、切り取りがいい、説明的でない。

わが醸句会が怪物にきりきり舞したことは事実である。だがスターの登場は句会を活性化する。

 途中から参加した水産会社の社長(ぎょ正)の句は、時間を経ると良さが匂い立つ。

 ”裏木戸の水まく先にあしびあり”(ぎょ正)・・・◯印四票

これは記念すべきトップ賞の作品である。「水まくさきに」と「あしびあり」の間にわずかな時間・空間が生まれている。ふと目をとめると、その先にあしびが・・という風に読み手は感じとれるのだ。

さて宗匠の句は、ほとんどトップ賞がない。たしかに票は入っている

が、多くの仲間から断トツに支持される俳句は、本人の想像以上に少ない。

 ”朝寒にしろき身の透く露天風呂”(醸児)・・・◯印二票

(血で血を洗う句会風景)の章では、これでもかという悪口が飛び出す。

冗談、反論、脅迫、哀願、開き直り・・・と披講風景が実況中継される。

これは、読んでいてもすごいや! しかし問答の合間は笑い声ばかりである。ほとんど冗談すれすれだが、各人はそれなりに真剣なのだ。あまりひどいので以下省略する。

 さて2005年の3月から7年間も句作に苦労したので、突然合同句集を

出そうということになった。ひとり三十句。題して「舌句燦燦」 瀟洒で芳醇な句集が完成したところで、終わり。

   ~~~~~~~~~~

この三十句から、あえて5句を選句してみました。選句眼の問われるところです。12人それぞれの終わりの2句が紹介されているので、それに◯印をつけました。みなさんなら、どの句を採られますか?

 ”紫雲英咲き放物線の空ひとつ” (鬼笑)

◯”たたずめば青田に水脈(みお)の刹那かな”(鬼笑)

 ”凍蝶やどちらも行けぬ片野池” (ぎょ正) ”羽下げてはぐれ一羽や迷い鶴” (ぎょ正)

 ”二荒の春野の木々の舞踏かな” (茶来) ◯”春の野や男体山の影の先” (茶来)

 ”キンコンカンコンばらりばらり氷柱かな” (枝光)

◯”遠山や青田の風の行き止まり” (枝光)  ”夕もやの買い物籠に葱二本”  (少賢)

 ”目で告げてマスクの顔と別れたり” (少賢) ”うぐいすの初音のひびき草光る”(醸児)

 ”それ逃げろ月夜畑の裸の子” (醸二) ”大きなるマスクささえてぼんのくぼ” (蒼犬)

 ”枝々を透かしてもなお寒昴” (蒼犬) ”行商のマスク行き交う小樽駅” (翼)

 ”アンヌプリ屋根の王冠寒昴” (翼) ”灯に黒くうるめいわしの腹光り” (出味)

◯”凍鶴や耐えて三日の野菜掘り” (出味) ”大濠に白鳥の孤影夜寒かな (敦公)

 ”ひとり寝の身にしみわたる夜寒かな”(敦公)”凍て鶴の芯のあたりのちろ火かな”(南酔)

◯”寒昴近くでぐれる星もある” (南酔》  ”湯豆腐も冷めて更けゆく夜寒かな” (北酔)

 ”氷柱のび寒冴えわたる飛騨の里” (北酔)

     ~~~~~~~~~~

 存分に愉しみました。「醸句会」に参加したような気分になってきました。こんな句会やってみたい!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000