古墳を探る

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-11541220150.html 【栃木県:下野型古墳を探る①(明大博物館友の会「前方後円墳研究会」)】より

趣味悠遊・古代を訪ねて淡墨桜を眺めながら下野古墳群を巡ったのは、古墳大好きの一同(21名)であります。今年4月初めに訪れた時は、淡墨桜は既に咲き終わっていた(写真は数日前の満開時)、今年は桜の開花は通年よりも10日ほど早まり、お蔭で周りのソメイヨシノは満開というふうであった。まさに桜と古墳のコラボレーションを雨の中で散策した。

明治大学博物館友の会「前方後円墳研究会」が発足したのは昨年末(2012年)、それ以来、1回/月の勉強会を重ね、年に2回は現地古墳の探索も織り込もむということになり、今回はその第1回目のツアーであり、「下野型古墳」を巡ることとした。そこで地元である私が段取りすることとなったのである。

趣味悠遊・古代を訪ねて一同、小山駅にて手配のマイクロバスで直接、「とちぎ埋蔵文化財センター」(栃木市下野市)へと向う。本日世話になる同センター普及資材課の塚本師也氏の出迎えで、センター内の施設や遺品整備の作業手順などの説明を受ける(写真)。我々一般客が古代の貴重な遺品を直に手で触り観察できる機会はめったにない、マニアは一日中見ていても飽きないであろう。特に銀杏葉が線刻された(粘土が柔らかいうちにヘラで線描かしたもの)、銀杏葉形線刻埴輪は5世紀後半を中心に栃木・群馬で分布する「文様を持つ円筒埴輪」として知られるもので、倉庫にも収められていた

(写真)。続いて現地に向かう。案内役は同センター調査部の内山敏行氏である。内山氏ば古墳時代の武器・武具・馬具では栃木県のみならず全国的にもよく知られた中堅研究者であります。まず最初は甲塚古墳(下野市)へ向かう。この古墳は明治時代の発掘で破壊され、ひどく形状が壊れたままの悪いイメージの古墳だが、最近の調査で墳丘は全長80mの2段築成、横穴式石室を持つ、帆立型の前方後円墳、6世紀後半と判明した。この古墳の墳丘第一段目は幅広い平坦部(基壇)を持つ。その基壇部で我々は内山氏から説明を受ける(写真)。そしてこの甲塚古墳のもう一つの特徴は栃木県でも有数の埴輪配置が分かる重要な古墳であり、基壇の中央には埴輪列がめぐり、その西側には

趣味悠遊・古代を訪ねて人物・馬などの形象埴輪が多数出土している。4基の馬型埴輪が確認され、写真の一番手前の愛称「こうちゃん」と呼ばれる大型馬型埴輪は「しもつけ風土記の丘資料館」に展示されている。また基壇から多量の祭祀用土器類(土師器高杯、須恵器杯等)が出土し、前方部の基壇において何らかの葬送にかかわる儀礼が行われたことが分かる。

ここでもう少し、甲塚古墳の悲劇を述べたい。悲劇的な出来事は、平成16年度に大掛かりな発掘調査が行われた時に、その現場から盗難事件が起きた。78点が確認された埴輪の内、完形に近い良品の埴輪3本だけに狙をつけ夜中に盗み出したというプロの仕業だ。まことに嘆かわしい。幸い残った埴輪の一部が復元公開され、その目玉がこの「こうちゃん」埴輪であるという。この復元作業は女性しかできない細かい作業で、同センターでも毎日続けられ、その裏方の存在なくしては文化財の保存・整備はできないのである。

趣味悠遊・古代を訪ねてこの甲塚古墳の位置する栃木県南部の思川、姿川、田川に沿った肥沃な台地は古墳が集中する地域で、後期になって台頭してきた地域首長の支配地域である。

この台地の下野型古墳は、摩利支天古墳(115m)⇒琵琶塚古墳(123m)⇒吾妻古墳(115m)⇒甲塚古墳(80m)⇒愛宕塚古墳(70m)・山王塚(72m)⇒丸塚古墳(58m)の順に築かれた。この後、律令期には、下野国分寺・尼寺が、思川対岸には下野国府が配置され、古代下野国の中枢センターとして栄えた、古代の県庁所在地に当たる地域である。ここで「下野型古墳」と呼ばれていた特徴を整理すれば、① 墳丘一段目が低平で幅広のテラスを持ち、2段目だけが墳丘のように見える「基壇式古墳」をなす。墳丘の盛り上げ範囲を少なくし、労働力を節減した古墳造りとの見方をする研究者もいる。② 石室に巨大な凝灰岩(大谷石)の切石を用いる下野型石棺式石室を構成する。大型の切石一枚で各壁を構成、刳り抜き玄門を構築、中枢の首長層だけが独占する。③前方後円墳においては、前方部にのみ横穴式石室を設ける、この古墳群だけの特徴である。畿内や他の地域の古墳は、くびれ部や後円部に石室をもつ。趣味悠遊・古代を訪ねて

このような「しもつけ古墳群」は6世紀初頭~7紀中頃まで前方後円墳⇒円墳⇒方墳と変遷し、計26基(内6基消滅)が知られている。

その分布は下野市・小山市・壬生町・上三川町・栃木市にまたがっている、この比較的狭い区域にこれほど国史跡がまとまって集中しているエリアは珍しい(分布図)。摩利支天古墳以下の下野型古墳の続きは次編で具体的に述べたい。

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-11501699663.html 【栃木県:我地域から北関東の出現期古墳を】より

ところで、この地一帯は弥生~古墳時代初頭には北関東でも有数の集落地であった。専門家が標識土器として取り上げる弥生末期の二軒屋遺跡(写真、二軒屋式土器)やその在地系土器に混じって東海系S状台付甕(写真、廻間Ⅲ式?)が出土する天狗原遺跡、それらの遺跡が所在する台地の一画が現場で、古代、早くから開けていた先進的な地域であった。身近に感じる今昔の栄枯盛衰だ。

二軒屋式土器は輪積み製法による深鉢形や壺の成形は埼玉県北部の吉ケ谷式土器の影響を受ける。茨城県に同時代に見られる十王台式土器と共に北関東の弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての代表的な在地系土器である。

古代この地域の人々の動は田川や姿川などを介して鬼怒川に合流し、「香取ノ海」を通して太平洋と繋がっていた。この田川に沿った宇都宮南部から上三川・南河内(下野市)にかけての台地には、弥生時代後期に営まれていた集落が数珠つなぎのように盛行した地域だ。特に東海系の人々が当時最先端の土木技術を携え独自の軽量なS字状台付甕を用いる集団が、この台地に移住してきた様相が窺える。彼らの先端の農工具によって、耕地はますます拡大し古墳時代へと突入していく。

栃木県の最古級の古墳のほとんどは前方後方墳から成り立っている。この前方後方墳の発祥地は濃尾平野であるとする説が濃厚だ。この東海系の勢力が以下に述べる、栃木県では最初に古墳を、しかも故郷で誕生した前方後方墳をこの地域に築いたリーダー的な存在であったのであろうか、畿内の影響力より勝っていたのであろうか。

趣味悠遊・古代を訪ねて写真は下野市南河内町の三王山南塚2号墳(全長50m、前方後方墳)であり、県内最古の前方後方墳で前方部の先端がバチに開く畿内型の特徴を有している。次いで南塚1号墳(全長46m、前方後方墳)→朝日観音1号墳(一辺15m、方墳)と継続する。更に別集団かと思われるが、その台地上の北部に、宇都宮市茂原には3基の同一首長系三代が前方後方墳を築く。大日塚(全長36m)→愛宕塚(全長

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50m)→権現山(全長63m)。これらの古墳群は3世紀後半~4世紀初頭にかけて築かれたものだが、いずれの古墳からも特徴付ける副葬品等は検出されなかった。だが、出土した様々な土器片の中でも東海系土器が際立っており、古墳の築造や古墳祭祀(マツリ事)にも東海勢力が深く関与していたことが窺わせる。

話は変わるが、最近専門家の立ち入りが許された桜井市の箸墓古墳が卑弥呼の墓とするとするならば、その築造年代は250年頃になる。最近の考古学の研究によると写真の沼津市高尾山古墳(全長62m、前方後方墳、訪れた時はテントで保護されていた、

趣味悠遊・古代を訪ねて道路工事の延長戦上あり保存の見通しが立っていない、是非残してほしい古墳だ)の調査結果から、静岡の弥生末期の大廓式土器に混じって東海系の土器(狭間Ⅱ式・パレス式土器)が多量に検出された。その時代は箸墓古墳より数十年前に遡ることが出土土器の分析から判断されている。神奈川県海老名市の秋葉山4号墳(全長37m、前方後方墳)や千葉県においても写真の神門5号墳(全長38m、前方後円墳)や高部32号墳(墳長34m、前方後方墳)などでも在地系の土器に混じり東海系の土器が検出されている。これらの土器の分

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析から、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の出現より前の230年頃には既に出現していると説く研究者は多い。このように東国においても邪馬台国時代をとらえなおす機運が高まり、各地で出現期の古墳を見直すシンポジウムが活発となってきている。前述の栃木県の最古クラスの古墳も再調査なり再検討すれば面白い結果が得られるかもしれない。


https://www.kokugakuin.ac.jp/article/126658 【日本人の精神世界にもつながる古墳

ゼロから学んでおきたい「古墳」②】より

史学科文学部全ての方向け文化

文学部准教授 青木 敬 2019年7月16日更新

 國學院大學で古墳研究を続ける文学部史学科の青木敬准教授にお聞きする「ゼロから学んでおきたい 古墳」の2回目は、「古墳」そのものについてお聞きします。百舌鳥(もず)・古市古墳群がユネスコの世界文化遺産(※1)へ登録されたことで注目が集まっていますが、古墳とはどのような意味合いを持つ施設か? いつごろ造られたのか? その特徴は? 知られざる実像を紹介します。

①東アジアと連動していた百舌鳥・古市古墳群

③古墳を巨大化させた技術革新・・・そして終焉へ

奈良県桜井市にある箸墓古墳

偉い人が権力を〝のれん分け〟

Q そもそも古墳とはどのようなものでしょう

A 有り体に言えば、「昔の偉い人のお墓」です。人間を葬るお墓としての機能は勿論ですが、それ以外の役割が大きい施設ともいわれていて、古墳構築や埋葬にかかわる儀式で何度も繰り返しています。

Q 古墳が造られたのはいつごろでしょう

A 3世紀の中頃を始まりとするのが通説です。7世紀まで続いたとする説もありますが、一般的には「古墳時代=前方後円墳の時代」です。前方後円墳は6世紀後半~末頃に終焉を迎えたとされます。前方後円という墳形自体は弥生時代からありますが、巨大な墳丘が出現して「古墳時代」が始まったのは倭(やまと)王権が勃興した地であり、大王の出現を意味する箸墓古墳からだろうといわれています。

 箸墓古墳だと墳丘の長さが約280mあります。興味深いのは、その「そっくりさん」が西日本各地に存在することです。サイズが2分の1とか4分の1の相似形とはいえ、そっくりさんを造るには設計図や技術者が必要になってきます。つまり、巨大な前方後円墳を造る王権と一定程度の関係があり、設計図や技術者を派遣してもらえる有力者が地方に存在したのです。倭王権とのつながりを明示したモニュメントが前方後円墳だったということになります。先に述べたとおり、それが6世紀の後半から末にかけて一斉に造られなくなります。おそらく、大型の前方後円墳を築造する行為自体に意義が失われていったのでしょう。

Q その変化はなぜ?

A 雄略天皇とのつながりが記された埼玉(さきたま)古墳群(※2)の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)の銘文を見れば、5世紀後半には王権と各地の有力者がかなり強い結びつきをもっていたことが分かります。さらに6世紀になると、王権に仕奉する見返りとして王権が各地の有力者を国造に任命し、地域支配を認める国造制が成立します。その後さらに、列島を広く支配するための手段として仏教や漢字、律令(※3)などを導入します。王権との関わりを明示するシンボルを前方後円墳に求める必要はなくなっていったのです。

※1 世界遺産 1972年に成立した「世界遺産条約」に基づき、「地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがえのない宝物」として、ユネスコが登録する文化財・景観・自然など。「文化」「自然」「複合」の3カテゴリーがあり、2018年7月時点で文化845件、自然209件、複合38件が登録されている。

※2 埼玉古墳群 埼玉県行田市に所在する古墳群で、前方後円墳8基、円墳1基が現存。稲荷山古墳からは倭王権とのつながりを示す金象嵌(きんぞうがん)の銘文が刻された鉄剣が出土している(国宝・金錯銘鉄剣)。現在は国史跡に指定され、周辺は「さきたま古墳公園」として整備されている。

※3 律令 法体系の一つとして中国から東アジア一帯に広がった法治国家の根本となる成文法。刑法である「律」とその他の「令」からなり、古代日本では7世紀後半の「飛鳥浄御原令」に始まり、その後8世紀に「大宝律令」「養老律令」などが制定された。

バリエーション豊かな「形」も特徴

Q 古墳にはさまざまな形がありますね

A 大山古墳(伝仁徳天皇陵)に代表される前方後円墳が最もポピュラーと思われますが、これは弥生時代の周溝墓(※4)から発展したと考えられています。埋葬する場所を溝によって区切った周溝墓は、出入口として陸橋状の部分をつけていますが、その陸橋部分が儀礼のステージとして大きく長くなり、前方部に変化したと思われます。

 日本列島で造られた古墳の総数は十数万基といわれますが、そのうち前方後円墳は数千基程度で、圧倒的多数を占めるのは円墳です。逆にいえば、数が少ないことこそ前方後円墳が古墳の序列で最上位に位置することの証しでもあります。前方後円墳に納められる副葬品も、上位の支配者にふさわしく質と量が充実しており、前方後円墳の優位性を裏付けています。

 前方後円墳を造ることが許されなかった階層の人は、必然的に円墳や方墳を造るしかないというわけです。百舌鳥・古市古墳群にもありますが、帆立貝形古墳と呼ばれる前方後円墳の前方部を小さくかつ低くした古墳が4世紀後半ぐらいから目立ってきます。このころになると、倭王権が各地の有力者層をさらに序列化するために新たに前方後円墳の下位に位置付けるために創出した墳形と考えられます。このほか、前方後方墳、八角墳、上円下方墳などバリエーション=解説図参照=が豊かな点も、他の東アジア地域では見られない古墳の特徴といえます。

※4 周溝墓 弥生時代にみられる墓制で、円形や四角に盛り土をした墓(墳丘墓)の周囲を溝を被って囲んだもの。國學院大學の大場磐雄博士が昭和39年に手がけた宇都木向原遺跡(東京都八王子市)の発掘調査で確認され、「方形周溝墓」と命名された。

「黄泉の国」の原点は古墳にあり?

Q 古墳には形以外にも特徴的な部分があるのでは

A 古墳の周辺には焼き物の埴輪(はにわ)が並べられます。元々は円筒形や朝顔形というシンプルな、弥生時代の壺や壺を載せるスタンド(器台)から変化したと思われる物が並んでいましたが、4世紀後半ぐらいから動物とか武器や武具、家といった身近な物をかたどった埴輪を並べるようになります。おそらく、被葬者の生前の活動などをジオラマのような形で残す機能もあるのでしょう。被葬者の生前を顕彰する意味合いも古墳には込められているのです。

 時代が下ると墳丘の裾に張り出すように設けられた「造り出し」が出現し、ここに埴輪が集中して置かれします。当初は墳丘の天辺を中心に置かれていた埴輪ですが、時代が下るとその多くが墳丘の下に降りてくるのです。時代によって古墳の構造は変化しますが、その時代ごとに埴輪が置かれる儀礼のステージ(舞台)が造られます。古墳にとって埋葬にともなう儀礼は、埋葬とならんでとても重要な要素だったといえるのです。

復元された今城塚古墳の埴輪群=大阪府高槻市

Q 死者をまつることで精神世界に繋がる部分もあるということでしょうか

A 古墳は死者を埋葬する施設ですからね。朝鮮半島から横穴式石室が伝わると、墳丘の横から通路を使って埋葬場所である石室内に何度もアクセスできるようになります。つまり死者の世界に簡単に立ち入れるようになり、死に対する意識も急速に強くなっていったでしょうね。石室に至る通路が長くなると、「奥の暗がりに死者の空間がある」という意識が一層強まり、それが古事記、日本書紀など日本神話で語り継がれてきた「黄泉(よみ)の国」という発想の原点にあるとする研究者は多いですね。

 古墳とは、各地の有力者とのつながりといった政治的な動きを見るだけでなく、当時の人々の他界感を考える上でも重要な資料であることは間違いありません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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