https://www.inishie.tochigi.jp/detail.html?course_id=0&id=3 【吾妻古墳】より
あづまこふん吾妻古墳 区分/種別 国指定-史跡 所在地栃木市大光寺
時代 古墳時代 ルートしもつけの夜明け 文化財概要
6世紀後半頃に造られたと考えられる前方後円墳。石室(せきしつ)は、自然石の巨大な一枚石で造られており、金銅製の馬具や銀装の小刀など覇者に相応しい副葬品が出土している。壬生城址公園に置かれている玄門(げんもん)石と天井石は、県指定文化財。
文化財エピソード
県内最大の前方後円墳
琵琶塚古墳に続く王の墓で、堀を含めた総全長は約170m。石室に使われた天井石と玄門石(入口部分の石)は、明治のはじめ頃、この地を治めていた壬生藩主の鳥居忠宝(とりい・ただとみ)が庭石とするため発掘したといわれる。現在は壬生城址公園に保存されている。
天井石
文化財ポイント
最初に造られた下野型古墳
墳丘の長さは128mあり県内最大規模を誇る。深い周溝が巡っていて、幅広の平坦面で前方部に石室があり、石室に凝灰岩の切石使われているといったこの地域特有の「下野型古墳」の最初の古墳と考えらえる。
明治期の記録『下野国古墳図誌』に描かれた吾妻古墳石室(栃木県立図書館蔵)
https://ameblo.jp/ranpante2002/entry-12789137299.html【下野型古墳(2):吾妻古墳】より
栃木県の大型古墳巡り。小山市を皮切りに姿川と思川に囲まれた台地を北上し栃木市と下都賀郡の境界までやって来ました。訪れたのは吾妻古墳です。
栃木県下で最大規模の前方後円墳で
「下野型古墳」の特徴を備え築造は6世紀後半の古墳時代終末期です。
墳丘の長さは127mを測ります。これ(↑)が下野型古墳のサンプル。
6世紀後半と言えば仏教も伝来し飛鳥寺や四天王寺といった仏教寺院の建立が始まる頃。
大型古墳の造営を制限した‟薄葬令”が既に中央では発せられています。
やはり東国まで届くには時間が掛かるのか?
群馬や栃木ではこの時期でも大型古墳が造られていたらしい。それにしても下野型は面白い形ですね。😲石室を墳丘の中央ではなく前方部先端に備えた事が興味深い。
古墳の宗教的意味合いよりも形式的なものが優先されたのか?
被葬者の治める地と中央との関係が外見で判断できる事を重視したのかなぁ?
特に物流面で効果を発揮した可能性がある。(だと思う)😁
後円部の周濠の様子。下野型は墳丘の形態も去る事ながら周濠が素晴らしい!!😍
吾妻古墳は周濠を含めると全長は160mを超えます。堀の形が本当に良く残ってますね。
前方部斜め後方から後円部を撮影しました。墳丘の形も原型を留めています。
でも、古墳に興味の無い方には何が何だか分からないだろうなぁ~😁
そこで・・・・・・墳丘をトレースしてみました。↑(尚更分からなくなったりして??😁)
黄色い盛上りが後円部で赤が前方部でにす。墳丘を登るヘンなオバサン(カミサン)。↑
破壊された石室跡が窪みになっており墳丘に登るには良い案配です。
墳丘(後円部)の様子。この場所から周濠を見渡すと1,400年以上も原型を留めている事に驚きを隠せない。😲実は石室の一部は保存されています。場所は壬生城跡公園。↑
上の画像は玄門部分の石材でサイズは縦270cm、幅190cm、厚さ50cm。凝灰岩の中央部をくり抜いており更に閉塞石を受ける加工も施されている。ちょうど、潜水艦のハッチみたいな感じかな?かなり高度な加工技術ですねぇ~🤔
同じ時期の畿内の古墳でここまでの加工処理が施されたものは果たしてあるのでしょうか?
公園内には天井石も置いてました。奥行260cm 幅350cm 厚さ80cm。
説明版には「自然石」と書かれているのみでどんな石材なのか分かりませんがかなり硬質な感じはします。🤔
古墳の石室といえば代表的なものは凝灰岩。吾妻古墳の玄門も凝灰岩ですが側面と奥壁は閃緑岩という説も。閃緑岩、つまり深成岩は更に加工は大変です。下野の終末期古墳の石室は大変凝ってます。前方部に遠慮がちに作られた石室ですが作りはなかなかのものです。下野の大豪族は石室フェチかいな?この後、更に北上します。
http://www.ks0001.com/mibukaidou1/mibu28.html 【吾妻古墳石室玄門石などがある。】より
壬生城大手門の礎石
この石は、壬生城大手門を支えた柱の礎石で、全部で5基(移設したものは3基)が存在しています。令和2年に初めて大手門の礎石と確認されました。 石を保管していた町内、小林家・植竹家に伝わる話と、寸法や形状などから、この石を壬生城大手門の礎石と考えました。ここに移設した礎石は3基とも縦・横・高さ80㎝の大きさで、石の三面には上部から面取りが施されています。 他の2基は精忠神社唐門前にあり、寸法や形状が同じところから大手門の礎石であると考えられています。なお、柱を差し込むための納穴の大きさから、門の中央にある主柱と考えられます。
これほど大きな礎石が必要な建物を考えると、足利銀行壬生支店周辺にあった大手門のほかには考えられません。元禄5年(1692)壬生城主となった松平輝貞は、壬生城大手口の大改修で、平屋の大手門を二階建ての櫓門に建て替えました。 この大手口の姿は 「壬生領史略」 (嘉永3年)に挿絵とともに、「雪の止んだ朝、日光を反射する大手門の姿は格別の眺めだ」 と大手門の雄姿が描かれています。 この挿絵から、大手門を支える柱は、前面6本、側面2本であり、この前面の6本の柱の礎石がここで紹介している石であり、あと1基の礎石があったはずですが、その行方はわかっておりません。
(壬生町教育委員会)
吾妻古墳石室玄門石
縦270㎝、横190㎝、厚さ50㎝
吾妻古墳は、壬生町大字藤井に所在する国指定の前方後円墳です。平成19年から発掘調査が行われ、石室は全長8.4mの横穴式石室であることが確認されました。
石室は死者を葬る 「玄室」 と副葬品を置く 「前室」 とに分かれ 「玄門石」 のみが凝灰岩で、他の部材は硬質の自然石が使われていました。また、石室の内部は赤彩が施されていあたことも確認されました。 「玄門石」 は、壬生藩主鳥居忠宝公により上稲葉の赤御堂の地に運ばれましたが、昭和63年3月、地元関係者、大場武氏及び川俣純一氏の協力を得て城址公園内の地に移設されました。
(」壬生町教育委員会)
http://kofunnomori.web.fc2.com/tochigi/mibu/azuma.htm 【 国指定史跡 吾妻古墳 / 藤井古墳群 】より
国指定史跡 吾妻古墳 / 藤井古墳群】【栃木県内では最大の古墳】
藤井古墳群は栃木県南部、黒川東岸の台地上に形成された大古墳群 である。
工業団地等の開発により多くの古墳が消滅したが南北約2km、東西500mほどの範囲に
84基の古墳が確認されている。
吾妻古墳は藤井古墳群の最大の古墳で、中心的存在だったと考えられている。
また、この地方の特有の下野型古墳の特徴を持つ最初の古墳であり、しもつけ古墳群の始まりの一基と言われており、県内では最大の規模である 。
~しもつけ古墳群とは~
栃木南部(下野市、栃木市、小山市、上三川町、壬生町)で6~7世紀の間に作られたこの地域に共通する特徴(下記の下野型古墳の3要素)を持つ大型古墳・有力首長墓(6~7系譜の古墳群)の総称
~下野型古墳の3要素とは~
(1)墳丘の第1段目に幅広の「基壇」を持つこと
(2)前方部に石室を持ち、後円部には内部主体を設けない
(2)凝灰岩切石を用いた横穴式石室
【下野型石棺式石室】
横穴式石室(下野型石棺式石室)で前方部中央に設けられている。
奥壁・側壁は閃緑岩の一枚石、玄門は凝灰岩の切石、玄室前面側壁は川原石小口積み、羨門は凝灰岩から成る。
石室内部は赤彩されていた。
軟質な凝灰岩だけではなく、硬質な緑色岩が加工されており、これは同時期の畿内の石室石材加工を上回るものである。
【抜き取られた玄門石と天井石】
1850年(嘉永3年)の「壬生領史略」に石室内の詳細が記されており、江戸時代には石室が開口していた。
1912年(明治初年)、壬生藩主の鳥居忠宝が発掘し、石室の「蓋石」を壬生町上稲葉の赤見堂に移設して庭石としたという記録があり、この時に玄門と天井石が石室から持ち出されたようである 。
(先人の墓所を破壊し、庭石にするという愚行。それより200年以上も前に、日本初の学術調査を行い、記録と遺物の保存を行った徳川光圀公を見習って欲しい)
1988年(昭和63年)、上稲葉の畑の中に残されていた、吾妻古墳から移設されたと伝わる天井石と玄門石が壬生町に寄贈され、城址公園に移動・展示された 。
【否定されていた天井石】
玄門と天井石と抜き取られた後、石室は埋没していたが1912年に描かれた「下野古墳図誌」に石材が抜き取られた石室の様子が描かれてあり、石室の部材は全て凝灰岩であると考えられていた 。
(天井石解説板参照)
しかし、玄門石は凝灰岩であるものの、天井石は硬質な別の石材であることから、天井石については石室の石材かどうか疑問視されていたようだ。
そのため、2005年訪問時の解説板には玄門石については城址公園にあると書かれている
ものの、天井石のことは触れられていなかった。
(以前の書物も玄門石のみ)
2007年度~2010年度にかけて吾妻古墳の発掘調査が行われ、現地に残された石室の状況が明らかになった。
玄室の奥壁及び側壁が残されており、玄室の寸法が城址公園の石材と一致し、また奥壁と側壁は天井石同様の硬質石材製だった。
この調査結果から、城址公園の石材は伝承通り、吾妻古墳から持ち出された事が確実となった。
【振り仮名について】
解説板や資料により、「あづま」「あずま」の両方使われているが、文化庁の国指定文化財等データベースには「あずま」となっているので、ここでは「あずま」とする
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