Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事
自然の生きた数学、特にフィボナッチ数列と黄金平均比率を理解していなければ、インターネットもコンピューターもwi-fiも衛星もGPSもありません。
画期的なことはフラクタル圧縮と呼ばれていました。
ヒマワリ小花の逆回転フィールドは、DNAのらせんが働くのと同じように働き、数学者と科学者が最小抵抗の道または現在人類を次のレベルの認識に導いている基本経済法を発見するのを助けたグローバルなものです。
唯一の注意点は、テクノロジーが確実に進歩するにつれて、精神的に再計算する方法だけでなく、ヴェーダ数学も学習する必要があるということです。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/6673831/ 【カタカムナ/フィボナッチ】
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/6702716/【フィボナッチ数列 ヒフミ九九算表】
https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/sinnseikikagaku.html 【神聖幾何学体験ワークショップ】
https://news.livedoor.com/article/detail/13020016/ 【「5・7・5」の俳句に隠されていた「白銀比」】より
私が白銀比に関心を持ったそもそものきっかけは、中学2年のときに読んだ松尾芭蕉の俳句だ。芭蕉の「奥の細道」には、私の故郷である山形で詠んだ句がたくさんある。その中のひとつ、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、立石寺に参詣した際に詠んだものだ。また、「雲の峯幾つ崩て月の山」は、私の家の近くにある月山を詠んだ句である。
中学2年生の私はこの2つの句を読んで、えも言われぬ感動を覚えた。立石寺も月山も私にとっては見慣れた風景なのに、芭蕉の句を通して見ると、違う印象がわきあがってきたからだ。見たことのない風景を、句を読んで想像させるのであれば理解できるが、見慣れた風景にもかかわらず、どうしてこんなに感動するのか。
それ以来ずっとその疑問を抱き続けてきたのだが、あるとき、その謎が自分なりに解明できたのである。きっかけは、華道の未生流との出合いだ。未生流の華道技法は、花を直角二等辺三角形に形取って生けるのが特徴だ。未生流の開祖である未生斎一甫は、華道に宗教的観念を取り入れ、直角二等辺三角形は「天地人」を表しているとされる。天地人とは、つまり「全宇宙」のことだ。
前回(http://president.jp/articles/-/21775)も触れたように、直角二等辺三角形というのは、半分に折ると、同じ形(相似)の直角二等辺三角形ができる。同様に繰り返して半分に折っていくと、次々に直角二等辺三角形ができる。無限に相似がつくり出されるのだ。
実は、宇宙も相似であるといえる。大きな世界も小さな世界も同じ形でできている。銀河系もDNAもみな渦巻き状になっている。これらを宇宙の相似形という。
この直角二等辺三角形と宇宙の関係を知ったことで、中学時代の俳句の謎が解けたのだ。直角二等辺三角形には、白銀比が現れる。二等辺をそれぞれ「1」とすると、斜辺は√2(1.414……)だ。つまり、「1対√2対1」である。これを整数比に表すと、およそ「5対7対5」になる。
そう、俳句と同じなのだ。俳句は直角二等辺三角形に収まるのである。芭蕉はおそらく、自分の見た風景や、感じたことなど膨大な情報を、5・7・5の17文字の中に圧縮して表現したのだろう。
ここに宇宙の永遠が関係してくる。俳句はムダを徹底して省き、削ぎ落としたエッセンスが17文字に込められている。それは同時に全体を表しているのだ。驚くべき圧縮技術ではないか。なるほど、俳句が「世界最小の文学」といわれるゆえんである。
この圧縮された情報を、我々はどうやって解凍するのか。それは「心」である。我々の心に入った瞬間に解凍され、芭蕉の見た風景、情景が再現されるのだ。そのことに中学時代の私は驚いたのだと思う。
未生斎一甫は花を直角二等辺三角形に生け、松尾芭蕉は言葉を直角二等辺三角形に配置した。まったく違う芸術である華道と俳句だが、彼らはきっと直角二等辺三角形に何かを感じ取っていたのではないかと、私は考えている。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
母親から聞いた話しですが彼女がまだ小さかったころとても強い台風を経験したことがあったと言いました その時彼女がトイレに入っていると突然屋根が吹き飛ばされて見上げるとそこにはいつもの抜けるような青空が見えたことが本当にびっくりしたと言っていました
ついさっきまで台風のもたらしていた風と豪雨が嘘のようにその瞬間はとても静かで穏やかだったと言っていました 彼女が経験したのはいわゆる「台風の目」だったのだと思います
母親にとってはただの昔の話しだったかもしれませんが小さな僕はなぜかその話しをとても鮮烈に覚えていました そしてある時僕自身もその台風の目に遭遇することがありました
ただそれは外界で実際に起こっている台風の目ではなく
自分の内側にある台風の目のような静けさでした
その場所は音もなく考えや感情や記憶もなく ただどこまでも静かで穏やかでした
外側で起こっているあらゆる出来事はもちろん自分自身の思考や感情さえも一切その場所に干渉することはありませんでした
その場所はこの世界に肉体として存在している僕自身とは全く別の空間でその場所を
一番的確に現す言葉があるとしたら「空」という言葉が一番的確だと思います
何も無いがゆえに完璧に満ちている 完璧に満ちているがゆえにそこには何も無い
あるのはただ果てしない安心感と限りない至福です
それは同時にあらゆる命の故郷であり 全ての命の内側にあってつまり今この瞬間も全ての
人の中に存在しています
それは理解ではなくその静けさに触れると自ずとそう感じるように出来ているそんな感じです^ ^
だからただあなたがその静けさを思い出した時その内なる台風の目に
触れた時本当の自分自身とは何であるかを同時に思い出します
そこに一切の説明は必要ありません
それが宇宙的な愛との遭遇であり融合の瞬間です^ ^あれも愛 これも愛 きっと愛
そんな変な人に生まれ変わる瞬間です^ ^そして今まさにたくさんの人が 愛を思い出し始めていますええ感じですな😊では皆さまも素敵な一日を✨ワハハ🌈らぶ💓
真夏の日差しにいつも死を感じる命が一番躍動する季節の中に静けさを感じる
混沌の中に 調和の種子が育っている ゆっくりと息を吸ってゆっくりと吐き出す
全ての繋がりに 美しさを感じる
Facebookまつだ ふみこさん投稿記事
孤独からの解放♥
https://www.youtube.com/watch?v=v6elEvEgScs
「孤独」とは宇宙があなたを導くサインである|ただ一人でいる時間を愛しなさい|谷川俊太郎|
なぜか人との繋がりを求めるほど、心は満たされない…
人込みの中にいる時ほど、強い「孤独」を感じてしまう…
もし、その寂しさこそが、あなたの人生が好転する前触れであり、宇宙があなたを特別な道へと導いているサインだとしたら?
詩人・谷川俊太郎が語る「孤独」の力は、単なる寂しさや孤立ではありません。
孤独が、なぜ人を引き寄せる「引力」となるのか。
FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事 🌵砂漠の小屋と希望のポンプ
ある男が、広大な砂漠で道に迷ってしまいました。
持っていたわずかな食料と水は尽き、2日間も一滴の水も飲めないまま、死を目前にしていました。
彼は、自分が数時間以内に命を落とすことを悟っていました。
それでも、心の奥には小さな希望が灯っており、彼は諦めずに水を探し続けていたのです。
「きっと、どこかに水があるはずだ」
そう信じて進んでいたとき、彼の目に一軒の小屋が映りました。
最初は信じられませんでした。これまでも蜃気楼に何度も騙されてきたからです。
けれども今回は、信じるしかありませんでした。
これが、最後の望みだったのです。
残された力を振り絞って、彼は小屋へと歩いていきました。
近づくにつれ、希望が少しずつ膨らんでいきました。
そして、ついに彼は確信しました――
「本物だ」
小屋にたどり着いた彼は、そこで驚くべき光景を目にしました。
そこには、手押し式のポンプがあったのです。
けれども、それ以外に人の気配はなく、
長いあいだ誰にも使われず、時間の中に取り残されたような、そんな空間が広がっていました。
それでも彼は、水が出るかもしれないと信じて、ポンプに駆け寄り、ハンドルを何度も押しました。
しかし、ポンプはまったく反応せず、音ひとつ立てません。
水は出てこなかったのです。
男は絶望し、その場に崩れ落ちました。
「もう…これで終わりかもしれない…」
そのとき、彼はふと天井に吊るされた1本の瓶に気づきました。
なんとか手を伸ばして取り下ろすと、中には少量の水が入っていました。
喉が焼けるように乾いていた彼は、すぐにでもそれを飲み干したい衝動に駆られました。
けれども、瓶に貼られた紙切れが目に留まりました。
そこには、こう書かれていたのです:
「この水は、ポンプを始動させるためのものです。
決して飲まずに、すべてポンプに注いでください。
そして、次の人のために瓶に水を補充して戻してください。」
彼は悩みました。
「このまま水を飲んで自分を助けるべきか?
それとも、書かれている通りに信じてすべてをポンプに注ぐべきか?」
もしポンプが動かなかったら、水も失い、自分も死んでしまうかもしれない。
けれども、もしかしたら…ポンプが本当に動くかもしれない。
男は、心の中で葛藤を繰り返しました。
最終的に彼は、信じることを選びました。
震える手で瓶の水をポンプに注ぎ、ゆっくりとハンドルを押し始めました。
「どうか…出てくれ…」
数回目の操作のあと――
水が、ポンプから流れ出したのです。
それは冷たく、澄んだ、生きた水でした。
男は夢中で水を飲み、命を取り戻しました。
心も頭も、ようやくクリアになってきました。
彼は、瓶に新しく水を満たし、書かれていた通りに元の場所へ戻しました。
するともう1本のガラス瓶が目に入りました。
その中には、鉛筆と、砂漠を抜け出す道を示す地図が入っていたのです。
彼はその地図をよく見て道順を覚え、再び瓶の中に戻し、
自分の水筒を満たし、旅立つ準備をしました。
小屋を離れてしばらく歩いたあと、彼はふと立ち止まり、振り返りました。
そして、何かを思い直したように、小屋へと引き返しました。
瓶に貼られた紙に、彼は一言、書き加えました:
「信じてください。この手押しポンプは、本当に動きます。」
***
🌱この物語が教えてくれること
これは、人生そのものを映し出す物語です。
どんなに絶望的な状況でも、希望を手放さないこと。
そして、何か大きな恵みを受け取る前には、
そっと自分の中にあるものを差し出してみる――
そんな心のあり方が、人生には必要なのかもしれません。
この物語の「水」は、思いやり、信頼、優しさ、そして愛の象徴でもあります。
目に見えないそれらのものを、勇気を出して誰かのために差し出すことで、人生は静かに、美しく、流れを変えていくのです。
それは「見返り」ではなく、
誰かのためを思って行った行動が、めぐりめぐって世界に温かさを広げていくという、静かな奇跡のようなもの。
男が水を補い、言葉を残したように、
小さな善意は、次の誰かを救い、
世界を少しずつ優しく、良くしていくのです😇
✅ もしこの物語が心に響いたら、ぜひ誰かと共有してください。
あなたのその優しさが、いつか誰かの「水」になるかもしれません。
#希望を捨てないで #信じる力 #心の水を注ぐ #やさしさの連鎖 #見返りを求めない善意
#あなたの行動が誰かを救う #人生の学び #優しさを巡らせよう
Facebook髙橋 眞人さん投稿記事
こんばんは。【今日の名言】中野 孝次(作家、ドイツ文学者)
日本には、ひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある。
日本には、自らの思想と意志によって積極的に作りだした簡素な生の形態としての「清貧」の思想がある。
私は、猫も杓子(しゃくし)も株をやって財テクをしないのは人ではないような風潮を、終始苦々しく思っていた。
気がついてみると、我々は物質文明こそ栄えてはいるが、心の豊かさや安らぎのない、奇妙に空虚な事態に直面していた。その誤りとは、私は、第一には、人間への配慮なしにそれを作ることが技術的に可能だから物を生産し、売れればよしとしてきた原理だけに大きく傾斜していったこと、第二に、何よりも経済的効率至上主義をもって生産するのをだれもが疑わなかったことにある、と思っている。
物の過剰の中で、我々の生が決して充実しないことを知った現在こそ、生産とか所有とかを根本から見直す好機だろうと、私は思っている。
これほど多くの人が、物の過剰な時代に生きたというのは、日本の歴史始まって以来のことだ。所有を放棄すること、少なくとも世を捨てることに悦びを見出した西行や兼好や良寛の動機を解しうる立場にある。我々は、一度は物の過剰の中の生を体験したのだから。所有に囚われるくだらなさを知ったのだから。それを知ったということの意味は大きい。あるいは、それを知るために戦後の四十年はあったのかもしれないという気さえする。
(名利や所有を捨てて簡素に生きた)先人たちの思想とは、そういう意味で最も純粋に、ただ魂のために生きる生の模範と見えた。彼らは、人間の所有の欲望にはきりがなく、仮にいくら所有を増大させたところで、それはこと、魂の充実に関しては何の足しにもならぬと知ったから、それを放棄した。魂の充足のためには、それにふさわしい生き方がある。生の感覚は身を貧しくするほどに、とぎすまされてくる。何物にも換えがたいその喜びを彼らは知っていたから、それを歌に残し詩に残した。
自分はこうしたプリンシプル(原則)で生きていると言える人が必要だ。
(『清貧の思想』がヒットした理由を聞かれて)私自身も含めて大半の日本人が空気の底にある何かがおかしいと感じていたときに、時代の流れとは逆のメッセージを打ち出したのが刺さったのでしょう。
心を自由にするには物や金、そして機械に囚われない心を持つことが大事だ。
人間をダメにするのは、窮乏よりも過剰である。
思想とは何よりもまず、自分の頭でものを考え、判断する力を持つということだ。
自分を全面的に出して文章を書くことは、敵を作ることでもある。
自分の好きに生きるのが老年の特権と信じる私は、その無知を恥じる気にはなれない。流行など知る必要がないと開き直っている。ただ、開き直りついでに言わせてもらえば、生活も読書もそんなふうに完全に現代とずれてしまった結果、そのずれを通じて現代がよく見えるということは、あるのだ。
人間、何かを捨てないと、新しいものを拾うことはできない。好きな人間とわずかな本があればいい。私の場合は捨てることで、大きな自由、さっばりした気分を手に入れた。
二人が一体となって自分たちだけの歴史をつくっていくとき、その歴史が今度は逆に老年になって夫婦を支える確かな基盤になってくる。
(食道ガンを告知されて)すべてこともなく、よく晴れ、風もなき冬の午後に(庭の草木や小鳥を)見ていると、これが人生だ、これでいいのだ、と静かな幸福感が湧いてくる。
自分らしく生きるとは、心の声に従って自信を持って生きること。
真の自信は、自分を正しく知り、個性を大事にしなければ得られない。ひと筋に自分の道に打ち込むことによってのみ、人は何者かになる。
※7月16日は中野孝次の命日(2014年)です。
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