https://logmi.jp/knowledge_culture/culture/167733 【平安時代=仏教の転換期! 密教によって変わった芸術文化とは】より
約400年続いた平安時代は、仏教芸術にとって大きな転換期があった時代とも言われています。そのきっかけとなったのは、密教の輸入でした。密教は人々にどのような影響を与え、どのような芸術を生んだのでしょうか。今回の「Little Art Talks」では、平安時代前半の芸術文化についてご紹介します。
密教の影響で生まれた、平安時代の芸術
カリン・ユエン氏:平安時代は、平和で平穏な時代であると言われています。仏教の秘儀的な流派である密教が中国の唐から支配層によって導入され、宮廷生活から生まれた芸術が大いに享受されました。
平安時代の歴史と生活をもう少しくわしくたどっていきましょう。
平安時代は、794年に平安京に都が移されたことで始まり、宮廷は1868年に東京に移動するまでそこに残りました。今日、京都と呼ばれるこの都市には、長くそして豊かな歴史があります。遷都は桓武天皇の意向によるもので、6つの仏教の宗門(注:南都六宗)の中心地と、世俗権力の座との間に距離をとりたかったためです。
奈良時代には、女帝であった称徳天皇(孝謙天皇)治世下に、道教と呼ばれる野心的な僧侶が強い権力と影響力を持ちました。道教が天皇の深刻な病を治癒してから、2人は恋愛関係にあったのではないかとも指摘されています。
しかし、彼が天皇の座に就くには、たった一つの試練がありました。
宇佐八幡宮の神託は、道教が天皇になれば平和が訪れるであろうと告げました。この預言を確認するため朝廷の高官が派遣されますが、「第二の神託は、道教は天皇の血統ではないため天皇に任命されるべきではなく、皇位を求める邪悪な人々は払い除かれるべきだ」というものでした。
もちろん、道教はその高官(和気清麻呂)を流罪にしました。しかし、女帝が亡くなると、道教は奈良から追放されました。都が平安京に移ったとき、結果として奈良の寺院は一緒に移動しませんでした。
新たな仏教の宗派である密教は、奈良の寺院の影響力を減らすために、国の支援を受けて中国から輸入されました。天台宗と真言宗が2つの主要な宗派です。天台宗は学僧や行者を中心とし国家的な勢力となり、一方真言宗は、神秘的な儀式によって貴族階級に普及しました。
以前の藤原京と平城京のように、平安京の場所は中国の風水の要請に応じて選ばれました。三方を山々に囲まれ、2つ大きな川によって区切られ、同様に碁盤目のように区画されました。宗教的な権力から宮廷との間に距離を置くことを意識した努力により、2つの主要な仏教の寺院が、都の図面の内部に配置されることが許されました。それが東寺と西寺です。都市を霊的に守護するため南の境界近くに置かれ、天皇や政府からも遠く離されました。
貴族の男女が、宮廷の高雅な美意識に貢献
1つ思い出してほしいのは、都に住む貴族階級は1,000人にも満たず、全体の人口の中でほんのわずかな比率であったことです。しかし、彼らの趣味は、この時代の芸術的創造に大きな影響を与えていました。
貴族の男と貴族の女たちは、高度に洗練され、宮廷の高雅な美意識に貢献することが望まれた時代でした。彼らがまとった衣服は、複数の絹を重ねた精巧なもので、男女に応じた特長的な恰好の裁断をしていました。
理想的な女性の美は、丸みを帯びた顔と、小さな目鼻立ち、長く真っ直ぐで黒い髪でした。白粉をはたいた顔、引き抜いて描かれた眉毛、歯は黒く染められました。理想的な男性の美は、同様に丸い顔と小さな目鼻立ちでした。
宮殿には階級制度があり、男性が位を得る最良の方法として、両親は有利な結婚を計画しました。娘を嫁がせる父親にとっても、より高い位の娘と結婚する息子にとっても、有利であるように計画されたのです。
また、男性が複数の妻を持つことも一般的でした。というのは、当時の女性はしばしば出産により、若くして亡くなっていたからです。そして、男性は自分の複数の子供たちを戦略的に結婚させて利益を得ることができ、多くの人たちにとって都合が良かったのです。
貴族の女性の生活は、今日の視点からすれば素晴らしいものではありません。慣習によって夫と父親を除くすべての男性の目から隠されるよう求められたと、日記からわかります。居住施設であった寝殿造の世界に閉ざされ、幾重もの帳の陰で召使と共に生活し、家事をすることも子供を育てることも、夫の世話をする必要もありませんでした。
彼女たちは、祝い事や儀式に加わって時間を過ごし、書をたしなんだり、楽器を演奏したりしました。女性は読み書きができるように教育され、財産を相続することも許されていました。しかしながら、家計の管理や監督をすることもなく、夫や男性の親族、恋人や家臣の手助けが必要でした。古典、儒教、漢文などの分野の学問教養は男性のみに限られていました。
9世紀初めには、「ひらがな」と呼ばれる筆記方法が導入されました。これは日本独自の音字であり、女性たちに奨励されたため、高名な『源氏物語』などの女流文学の傑作は、ひらがなの書体によってこの時代に成立したのです。
詩歌や書道においても、ひらがなは導入されました。 貴族階級は、詩歌を他人の教養や性格を判じるのに用いただけではなく、友達や家族、恋人あるいは政府の役人の間での毎日のコミュニケーションに用いた時代でした。日本の詩歌の多くの形式がその後発達しましたが、その中でもっとも有名なものは俳句です。
新たな仏教の導入とともに、芸術も日本風の装飾に移行
平安時代は、4世紀にまたがって続き、平安前期、平安中期あるいは藤原時代、平安後期あるいは院政時代という、3つの主要な時代区分に分けられます。4世紀の長きにわたり多くの扱うべき側面があるため、この動画は平安前期を扱い、もう1つは平安中期と後期を取り上げています。(注:平安時代前期は弘仁貞観時代とも呼ばれる)
平安時代は引き続き中国式を忠実に模範にすることで始まりましたが、最初の一世紀の終わりには、もはや中国と交流を持っても得るものがないという風潮が圧倒的になり、894年に、天皇が派遣した唐への使節(遣唐使)は公式に廃止されました。907年に唐王朝が倒れた後も交易は続いていましたが、国内の宮廷と貴族階級は、次第に自分たち自身に目を向け始めます。
建築や絵画や彫刻は、国風の趣味に合うように制作されました。飛鳥時代から奈良時代にかけて、中国の文物は支配階級が称賛して所有していました。平安時代には、唐絵と呼ばれる中国風の掛け軸の需要は衰えませんでしたが、貴族階級の好みは、漆工芸品や金属細工のような工芸品など、日本風の様式の装飾へ移行していったのです。
平安時代前期の主要な出来事のひとつに、天台宗と真言宗という仏教の宗派の導入がありました。奈良時代の六つの宗派の教義や儀式は、国や裕福な貴族階級の庇護者のために、物質的な利益の確保を優先し、精神的な啓蒙を達成するものではなかったのです。2つの新しい密教の宗派は、日本の仏教における修行や思想といった精神的な部分に再び焦点を当てました。
平安時代の最初の世紀に作られた彫刻や絵画は、8世紀の平城京の時代に見られた軽さ、怜悧な華麗さはなく、新しい仏教のこの重厚な側面を反映する傾向がありました。
タントラと呼ばれる経典の中心的な教えは、仏陀は2つの面を持つという考え方です。
つまり、仏陀の知覚可能な身体は、地上に現れた釈迦として宣言され、仏陀の絶対的で神聖な身体は、毘盧遮那仏のような至高で超越的な姿で表現されます。現象として認知でき、かつ超越的でもある仏陀の身体は、異なる2つの実在ではなく、同じ絶対的な原理の2つの現れなのです。この非二元論の考え方は、「両界曼荼羅」などの新しい礼拝物に見られます。
「両界曼荼羅」は、胎蔵界という子宮の世界と、金剛界という金剛石(ダイヤモンド)の世界を合わせた2つの領域の一覧図です。曼荼羅は、精神的な宇宙の図解を指し、心の中で抽象的に描き表されたり、三次元の彫刻や建築、二次元のイメージで表されたりします。
「胎蔵界曼荼羅」は、12の院といわれる区画で構成されています。それが同心円状に配置され、仏陀の性質である多くの相が表現されているのです。中心の大日如来は、8つの花弁の蓮に座り、その手は瞑想の動作をしています。その北、南、西、東には、4体の如来が、それぞれ4体の菩薩を間に挟んで囲んでいます。その外側は、普遍知院、金剛手院、持明院、蓮華部院という4つの区画が枠になっています。さらに外側は様々な菩薩の院が置かれ、最も外側の区画には、様々な守護神の姿が含まれています。
「金剛界曼荼羅」は、会と呼ばれる9つの方形が組み合わされ、その各々が仏陀の世界を表現しています。すべての神々は、完全に悟りを開いた存在として描写されます。中央には大日如来が4体の如来に囲まれ、円状の集合体が描かれています。上部の方形の中心部には、大日如来が知恵を授ける動作をしています。
真言宗の教義では、この2つの曼荼羅を用いた瞑想と儀式によって、真理に到達することができます。
曼荼羅では、霊的な世界の象徴が視覚で示され、身体(身密)と言葉(口密)と観想(心密)による3つの秘密(三密)について学ぶことができるのです。この2つの曼荼羅の前で、瞑想したり儀式を行ったり、あるいは秘密のマントラを唱えることで、誰でも大日如来のように悟りに達することができるとされました。(注:即身成仏)
東寺には彫刻の曼荼羅の例があります。ほぼ等身大の像が低い祭壇上に並び、壇の中央には大日如来が置かれ、4体の如来像に囲まれています。その東には、5体の菩薩像が置かれ、そのうちの4体に囲まれた中心に、最も重要な≪金剛波羅蜜菩薩(こんごうはらみつぼさつ)≫があります。西には、不動明王を中心とした5体の明王像があり、四隅に四天王立像が、その間に≪梵天座像≫と≪帝釈天半跏像≫が置かれています。
この配列は、スートラとして知られる経典通りではありませんが、新しい要素と古い要素を統合した試みに近いものです。元々の21あった仏像のうち、5つの如来と≪金剛波羅蜜菩薩≫は、後に置き換えられました。今日ではすべての仏像は南を向いていますが、初期には、一番東側と西側の仏像は外向きに、つまり曼荼羅の中を歩き回っているかのように、観者に向かって置かれていました。
奈良時代の彫像と比較して、東寺の菩薩像は容積が大きく、堅固なボリュームがあり、それ以前の作品には欠けていた官能性のようなものさえあります。彫像の大部分は、木の1つの塊から彫られ、不均一に乾燥して表面が割れるのを防ぐために、胴体と頭部の背後に空洞がつくられています。
前腕部と膝の前面は、異なる木の部分から彫られていて、彫像の中心部に取り付けられています。頭髪の細部や顔、胴体の上部は漆で塑造されて、平坦な木材の表面に接着されています。明王像は、奈良時代の東大寺の彫像のように、胡粉呼とばれる下地の上に、鮮やかな彩色と織物模様の装飾がなされているのに対し、一方、菩薩像は漆が塗布され、表面は金箔で覆われています。
宗教が新たな寺院を生み、土着要素の強い設計が誕生
真言宗と天台宗の教えを反映した初期の寺院は、高雄山の近くにある神護寺です。神護寺の≪薬師如来立像≫は、かつて神願寺であった寺院の本尊と考えられ、793年に完成された後に現在の場所に移動しました。等身大で厚みのある4肢を持つ、治癒する仏陀の像です。左手に薬壺を持ち、右手は、恐れなくてもよいという意味の施無畏印(せむいいん)の動作をしています。
衣襞は、深く折り重なるように刻まれ、太ももの大部分にぴったりと張り付いています。左肩からの襞が、右側のそれよりもわずかに高く流れているため、左側にわずかに体を向けているように見えます。このような微妙な細部は、この大作に動きの表情を与えています。顔は沈み込んだ様子で、親しみというよりも超越的でよそよそしい印象を与えます。
檜材の1つの塊から彫られ、内部はくり抜かれていません。彫刻には深いひびが入っていますが、今は修復されています。赤い唇、黒い眉毛、そして目の白、螺髪の青、といった着色の跡が表面に残っていますが、残りの部分は未着色のままです。
これは、1本の木を彫って制作する一木造(いちぼくづくり)の最も初期の例と言われます。この技術は、もともとは木が比較的入手しやすかった郊外や農村の寺院で用いられていました。
室生寺は、奈良の南東に位置する山寺です。仏教の寺が建設される以前は、この場所は、火山活動の結果できた、珍しい岩石の地形と小川があり、地元民にとって神聖な場所でした。寺院の建造物は、三段状に分かれ設置され、山の中腹には本堂である金堂があり、仏陀になる前の弥勒菩薩を奉じた弥勒堂、灌頂(かんじょう)と呼ばれる密教の儀式が行われる灌頂堂、そして五重塔があります。
伽藍配置のうち、金堂と五重塔のみが平安時代前期のまま残っています。五層のパゴダ(塔)でもある五重塔が、このうち最も古い建築で、奈良時代後期から9世紀初頭に年代設定されています。縦長であり、通常の五重塔の半分の高さしかありません。
パゴダは、伝統的なストゥーパ(仏舎利塔)が翻案されたもので、元々は仏陀の灰を入れた山でした。しかし、時代が進むにつれ、規模は大きく手の込んだものになってきます。中国では、ストゥーパは見張り塔の建築の影響と組み合わさり、パゴダへ進化しました。朝鮮半島に伝播した後、6世紀に仏教と共に日本に到着しました。
この平坦でない山間の地勢は、日本人の建築家に寺院建築を考え直すことを促し、より土着の要素の強い設計が選ばれたのかもしれません。檜の樹皮で葺かれた屋根は、陶版のタイルの代用物で、木板が土間の代わり用いられ、信徒たちのための礼拝場所が主な聖域の前に付け加えられました。
地域特有の素材の使用によって、環境に適応した、格式ばらない外観になったのです。
室生寺には、いくつかの重要な仏像が伝わっていて、平安初期の最も印象的な仏像は、弥勒堂の≪釈迦如来像≫です。前腕部と膝以外は一木造で彫られ、彫刻の胸部と頭部は空洞になっていますが、ぴったりと彫られた木でふさがれています。やや前に傾きつつも、彫刻はかろうじてバランスを保ち、観者との間に緊張感を作り出しています。顔の表情は陰気で厳かで、うちに密教の儀式の秘密を秘めているかのようです。
衣襞は、翻波式という新しい手法で彫られています。頂点で鋭く彫り込まれた厚い襞は、単独の浅い襞と交互に置かれ、滑らかな身体とコントラストを生み出すような模様を作りあげています。彫刻は、胡粉の下地の上に彩色され、織物のような模様が描かれていましたが、今日では、白い下地と朱の斑点のみが確認されています。
https://kangempai.jp/essay/2013/02sakaidani.html 【密教系の思い出 堺谷 真人】より
二十代の頃、縁あって真言密教に傾倒していた時期がある。ある年の初夏、三重県の山中で滝行をした。杉林の急斜面を流れ落ちるせせらぎが懸崖に至って高さ2メートル半、幅1メートル半ばかりの小さな滝となり、深さ70~80センチほどの澄んだ滝壺を従えていた。白装束の老師がまず滝壺に入る。水しぶきを浴びて般若心経や慈救の呪(じくのしゅ)を朗々と唱える老師を眺めていた私は、その光景にひそかに落胆した。滝行といえば、『平家物語』で荒法師・文覚上人が行じたごとく、真冬の那智の滝壺に幾日も浸かるような壮絶なシーンを想像していたのに、眼前のそれはただ巨大な打たせ湯にしか見えなかったからである。
しかし、直後、交代で滝壺に踏み込んだ私は、自己の認識の甘さを痛感した。初夏とはいえ、深山の湧き水を集めた滝の水は冷たい。下肢から急速に熱を奪ってゆく。いざ滝を頭上まともに浴びると、存外強い水圧に負けそうになる。身体がぐらついた。すかさず老師がいう。「心経でも何でも結構です。声に出して唱えて」
無茶な命令である。私は経文や真言のたぐいをまだ何ひとつ暗誦できない初心者なのだ。だが、足腰は冷えるし、水はとめどなく落ちてくる。とにかく何か大声で唱えてでもいない限り、この滝に抗う術はないのだと遅蒔きながら得心した。このとき、咄嗟の窮地を救ってくれたのは歴代天皇の漢風諡号であった。「神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊・・・」第82代・後鳥羽天皇あたりまで唱えたように記憶するが、口からも鼻からも遠慮なく水が流れ込むのには閉口した。
別の年の一月、滝の近くで護摩法を修したこともある。不動明王を奉祀する小堂に籠もり、宵の口、深夜、早朝と三座の護摩を焚く。私も白装束で老師に侍坐し、念珠を爪繰りながら般若心経や不動明王ほか諸仏諸尊の真言を誦するのである。厳冬期、夜間の気温は氷点下数度まで下がる。護摩壇の火中に投ずる目的で用意した樒を桶の水に漬けておくのだが、夜が更けると、枝ごと凍りついてしまう。氷を砕き水を替えても、1時間ほどでまた凍りつく。凜冽たる底冷えは骨身にこたえた。
それでも、私は護摩が好きであった。木製の柄の先端に真鍮の匙がついた特大の耳掻きのような法具がある。これで胡麻油を掬って火の中に灌ぎかけると香ばしい匂いが四隣にぱっとひろがり、一瞬、中華料理屋に入った気がする。なんだか美味そうなのである。杉林の深い闇の中、護摩木の燃える匂いや爆ぜる音、オレンジ色にゆらめく焔も捨てがたかった。
深夜、堂内にまでしんしんと迫る寒気の中で、不動明王の真言を一心不乱に唱えていると、ふと妙な感覚に襲われた。自分が真言を唱えているのではなく、あたかも真言が自分を唱えているかのように感じたのだ。自分は虚空に浮かぶ一本の笛であり、劫初以来、広大無辺の虚空に遍満している真理を受けとめて音声化する装置である、というイメージがこのとき鮮明に脳裏に結ばれた。
ここまでが真言密教にまつわる私の思い出話の一端である。神秘体験や悟りとは無縁ながら、水や火、山川草木などの自然との印象的な出会いの数々は、私が俳句を詠むときの構えや感じ方になにがしかの影響を与えているかもしれない。以下、この当時の作品を含めて旧作を掲げ、エッセーの結びとしたい。
行者瀧散りそびれたる花にあふ 顕密の宗論ほろび花むくげ
若楓沙門こはぜをかけ直し 慈恩忌や論議の僧の喉佛
鶯やとざして広き写経場 被甲護身とけ楤の芽は雨このむ
五鈷鈴や蟷螂余命すきとほる 山つゝじ韓の僧衣は灰染めと
踏めさうな冬凪僧はふだらくへ 有漏の身の諸根そばだつ白露かな
(以上)
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498739666.html 【真言を唱える西行】より
和歌即真言(わか そく しんごん)という言葉がある。西行法師は、自分の和歌は「真言」である、と言っている。『明恵上人伝記』にはこう書いてある。我歌を詠むは、遥かに尋常に異なり花・ほととぎす・月・雪、すべて万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、
眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの言句は、皆是真言にあらずや。
花を詠めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。
只此の如くして縁に随ひ興に随ひ詠み置くところなり。
(中略)
此の歌即ち是如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。
要約するとこうだ。私の歌は、普通の和歌とは違っているのです。
風情あるもの、すべての現象も、すべてが「見せかけ」であることを見るのです。
花を詠んでも花ではなく、月を詠んでも月だと思っているわけではないのです。
ただただ、感じるままに詠んでいるのです。
私の言葉はすべて「真言」なのです。わが和歌は、大日如来を表すためにあるのです。
和歌で仏像を作り、和歌で秘密の真言を唱えるのです。
宗教のことは詳しくない僕にはむずかしい。
この文章も、明恵上人の話によって伝わったものであるから、いささか仏教臭くはある。
ただ、一つ、興味深いことがある。「真言」という言葉だ。「念仏」でも「題目」でもない、ということだ。念仏や題目は、仏に救われることを願うために唱える。だが、「真言」は違う。真言は「密教」の言葉である。
密教の教えとは、秘密の真言を唱えることによって、「宇宙と一体になる」ことである。
空海の開いた密教は、仏の慈悲をいただこう、などという消極的なものではない。
真言を唱えることによって、自ら仏となり、宇宙と一体化し、宇宙をも動かそうとする、積極的で大胆な思想である。
私は以前、西行の目指したところは、歌と生の一体、であるということを書いた。
西行のこと 詩歌と生き様(2013・1・13)
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/34901453.html
願はくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃 西行
西行のこの歌は、単なる「感懐」や「願望」があって詠っているのではない。
これは「秘密の真言」なのである。
この和歌、つまり秘密の真言を唱えることによって、西行の死にざまはすでに宇宙と一体になったのである。芭蕉は「先人の跡を求めず 先人の求めたるところを求めよ」と言った。
先人のあとを求めるのでなく、先人が求めたこと、見つめていたもの、そこを考えろ、と芭蕉は言う。
芭蕉も、西行の求めたところを求めようとした。
それは、西行のように、詩歌と生き様(死に様)の一致であった、と私は思う。
多くの人は、生き様があり、それに沿うように詩歌がある。
しかし、西行は違う。
最初に詩歌があり、その中に自分の生き様、死にざまがあった。
簡単に言えば、自分が詠った和歌の通りに生きようとしたのである。
この歌を「真言」と考えてみるといい。
この歌は、「仏様、どうかわたしを満開の桜の夜に死なせてください」と詠っているのではない。
この和歌は、真言となり、自ら仏となり、宇宙と一体化し、おのれの運命や自然の動きを調節した、と考えてみればいい。
西行の和歌は、そういうものであった。そこが他の人と違う。
芭蕉の最後の句は、旅に病で夢は枯野をかけめぐるである。
僕は、この句には、西行への思いがよぎっていると思う。
花の満開の夜に死にたいと願い、その通りに実現した西行に対して、自分は・・・という思いがある。芭蕉のこの句は、西行への「返句」ではなかったか。
私はあなたのように生きようとし、今も私の魂は枯野を駆け巡っているのです、と言っているのではないだろうか。
僕が思うに、真言とは「言霊」(ことだま)であると思う。
言葉の力によって、天地やおのれの運命をも動かそうとした。
西行はそういう稀有な詩人であった、と思う。
https://mokuenn.jugem.jp/?eid=117 【俳句の「価値」】より
毎月、約800の俳誌が俳句結社から発行されていると云う。結社に所属して俳句を楽しんでいる人は、投句した自分の俳句が主宰選で何句採られたか?、巻頭句にはならなくてもライバルより高い位置に掲載されているか?、主宰などに鑑賞句として採用されているか?、又は、結社主催の句会に出て、主宰選や互選をどれ位貰えたか?が大きな関心事になっていると思う。その気持ちは解らぬではないが、自分の俳句人生がそのように、「人」に左右されてしまって良いのであろうか?
その俳句には、市場(読者の意向)に左右されない固有の「価値」が有る筈である。その俳句が選ばれるかどうかは、選ぶ人の「価値観」に掛かっていて、その俳句固有の「価値」とは別なものである。ならば、その俳句固有の「価値」とは何か、この答を出さなければならない。
俳句の「価値」を論じれば、俳句とは何か?、俳句を何の為に作るのか?、俳句を何故作るのか?等の俳句本質論に入って行きそうである。ここに入れば百家百論、纏まる話では無い。俳句の「価値」を、出来上がった結果にに求めるのではなく、一句を作り上げる過程に求めなければ、この「価値論」は収まらない。
円空が、鉈一丁と数本の彫刻刀を携えて全国を行脚し、その場所、場所で精魂を傾けて仏像を彫り、それをその土地に残して次の土地へと巡って行った。円空の仏像の「価値」とは、一つの木片に全身全霊を注ぎ、没我して一気に彫上げる、修行とも云える彫刻姿勢である。その結果として、人の心を打つ「円空仏」が生れたのだと思う。
円空と同様に、どれだけ全身全霊を打込んで対象と対峙し、或いは対象に没入して俳句を詠んだかが、その俳句の「目的」であり「価値」だと思う。やがて何人かの読者が、その「価値」を感受して感動して貰えるかも知れないが、それは望外の喜びとしなければならない。
この俳句の「価値」を伊藤柏翠から学んだ。即ち、「一句一作仏の心」である。
0コメント