南瓜(かぼちゃ)の花

https://www.akatsuka.gr.jp/bosco/yamatouta79/ 【心に咲く花 79回 南瓜(かぼちゃ)の花】より

向じ家の南瓜の花は  屋根をこえて  延び来るかな黄の花を向けて  

                          ― 島木赤彦(しまきあかひこ)

【現代訳】

向こうの家の南瓜の花は元気がよく、

屋根をこえて、こちらにまで延びてきているなあ。黄色い花を向けながら。

今年、庭に植えた南瓜を見ながら、黄色い花は見る人をワクワクさせてくれるなあと思いました。

アジアでもアフリカでも、ウクライナでも栽培されている南瓜。南米ペルーや北米メキシコでは紀元前から南瓜栽培がおこなわれていたそうです。

国内に目を向けると、愛知県原産の「砂子南瓜」や沖縄県在来種と言われる「島かぼちゃ」などが知られています。

北海道で農業を営む歌人の時田則男(ときたのりお)さんには、「トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどり来ぬ」という作品があります。

北海道から沖縄まで、さらには世界でも、時代を超えて親しまれてきた南瓜。栄養豊富な野菜です。南瓜の煮物やパンプキンスープなど、世界の家庭の食卓に今日もきっと南瓜は活用されているのではないでしょうか。

「かぼちやおほきく咲いてひらいておばあさんの顔」と詠んだのは自由律俳句の種田山頭火(たねださんとうか)です。文豪夏目漱石(なつめそうせき)にも、「なんのその南瓜の花も咲けばこそ」という俳句があります。「南瓜煮てこれも仏に供へけり」と詠んだのは高浜虚子(たかはまきょし)でした。

近代歌人 島木赤彦が詠んだ掲出歌と向き合いながら、私は現在、小学生の教科書に採用されている原田直友(はらだなおとも)さんの「かぼちゃのつるが」という作品を思い出しました。

かぼちゃのつるが はい上がり はい上がり 葉をひろげ 葉をひろげ はい上がり

葉をひろげ 細い先は 竹をしっかりにぎって 屋根の上に はい上がり

短くなった竹の上に はい上がり 小さなその先たんは いっせいに

赤子のような手を開いて ああ今 空をつかもうとしている

幾つかの教科書に採られているこの作品。繰り返し表現を用いながら、南瓜の元気な様子を読者に感じさせてくれます。ちなみに俳句で「南瓜の花」は夏の季語、「南瓜」は秋の季語です。

鑑賞して良し、食べて良しの南瓜はこれからも多くの人たちの心身を潤してくれることでしょう。


https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19990705,20010721,20060618,20150601&tit=%93%EC%89Z%82%CC%89%D4&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%93%EC%89Z%82%CC%89%D4%82%CC 【季語が南瓜の花の句】より

 花南瓜素顔にあればなつかしき

                           小山 遥

学生時代、同級生の女性から「着ている服の色に、その日の気分が左右される」と聞かされて、いたく感心したことがあった。なにせ当方は、小学生以降どこに行くにも黒い学生服を着ていたので、迂闊にもそういうことには気がつかなかったのである。お恥ずかしくも馬鹿な話だ。女性の場合は、この服のとっかえひっかえに加えて化粧ということがあるから、物の見え方も男とはずいぶん違っているのだろう。化粧のおかげで見える物もあれば、逆によく見えない物もあるのだろう。この句には、そういうことが詠まれている。たまたまの素顔のままの外出で、作者は南瓜の花を見かけた。普段のように化粧をしていたら、きっと気にもかけないで通り過ぎてしまっただろう黄色い花に気を引かれている。このときの作者は、いつだって素顔だった少女時代の気分に戻ったのだ。したがって、しみじみとした「なつかしさ」の気分にひたれたというのである。化粧、恐るべし。……とまで作者は書いてはいないけれど、学生時代と同様に、私はいたく感心している。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)

 貧乏な日本が佳し花南瓜

                           池田澄子

南瓜は、日本が貧乏だったころを象徴する野菜だ。敗戦の前後、食料難の時代には、いたるところで南瓜が栽培されていた。自宅の庭はもとより、屋根の上にまで蔓を這わせていたのだから、忘れられない。花は夏の間中咲きつづけ、次から次へと実を結ぶ。肥料もままならなかったのに、よほど生命力が強くたくましい植物なのだ。屋根の上の花はともかく、だいたいが地べたにくっつくように咲くので、黄色い花は土埃をかぶって汚らしい印象だった。あまり暑い日には、不貞腐れたようにしぼんでしまう。しぼむと、しょんぼりとして、ますます汚らしい。南瓜ばかり食べて、人々の顔は黄色くなっていた。そんな時代のことを、作者は豊かな日本の畑の一画に「花南瓜」をみとめて、思い出している。肥料も潤沢だから、きっとこの花は、写真に撮って図鑑に載せてもよいくらいに奇麗なのだろう。しかし作者は、きっぱりと「貧乏な日本が佳(よ)し」と言い切っている。貧乏がよいわけはないけれど、いまのような変な豊かさよりは、断じて「佳(よ)し」と。この断言は、さまざまなことを思わせて、心に沁みる。変化球を得意とする作者が、珍しく投げ込んできた直球をどう打ち返すのか。それは、読者個々の思いにゆだねなければなるまい。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)

 南瓜咲く室戸の雨は湯のごとし

                           大峯あきら

季語は「南瓜(かぼちゃ)の花」で夏。「室戸(むろと)」は、高知県の室戸だ。残念ながら行ったことはないけれど、戦前から二度も(1934・1961)気象史上に残る超大型台風に見舞われている土地なので、地名だけは昔からよく知っている。地形から見ても、いかにも風や雨の激しそうなところだ。その室戸に「南瓜」の花が咲き、その黄色い花々を叩くようにして、雨が降っている。なんといっても、その雨が「湯のごとし」という形容が素晴らしい。さながら湯を浴びせかけるように、降っている南国の雨。雨の跳ねる様子が、まるで立ちのぼる湯煙のように見えているのだろう。そして、こう言ってはナンだけれど、南瓜の花は決してきれいな花ではない。多く地面に蔓を這わせて栽培するので、咲きはじめるや、たちまち土埃などで汚れてしまう。そうした環境からくる汚れもあるし、花自体が大きくてふにゃふにゃしているので、きりりんしゃんと自己主張する美しさにも欠けている。一言で言うならば、最初から最後まで「べちゃあっ」とした印象は拭えない。そんな花に湯のような雨がかかるのだから、これはもう汚れが洗い落とされるどころか、無理にも地面に押しつけられて、泥水のなかへと浸されてゆく。実際に見ている作者は、外気の蒸し暑さに加えてのこの情景には、なおさらに暑苦しさを覚えさせられたのではあるまいか。南瓜の花の特性をよくとらえて、南国に特有の夏の雨の雰囲気を見事に描き出した佳句と言えよう。青柳志解樹編著『俳句の花・下巻』(1997)所収。(清水哲男)

 バス停の屋根は南瓜の花盛り

                           富川浩子

いかにも初夏らしいが、ちょっと珍しい情景。微笑を浮かべる読者が多いだろう。バス停にグリーンのカーテンをかけて、乗客に涼を呼ぶ効果をねらったものかもしれない。だが、戦中戦後の一時期を知っている私などには、涼を呼ぶどころか暑苦しさしか迫ってこない。バス停の屋根どころか、当時は民家の屋根にまで南瓜が栽培されていた。むろん、食料不足を補うための庶民の智慧がそうさせたものである。そして、南瓜が熟れるころともなると、どこの家庭でも食事ごとにほとんど主食として南瓜が食卓に上がったものだった。来る日も来る日も南瓜ばかり。嘘みたいな話だが、人々の顔が黄色くなっていった。だから私より上の年代の人のなかには、いまだに南瓜を嫌う人が多い。同じ句を読んでも、感想は大いに異なる場合があるということです。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000