https://rikadiary.cocolog-nifty.com/kusuda/2019/04/post-1135f7.html 【俳句結社「寅の日」への道(6)】 より
「さまざまのこと思い出す桜かな 芭蕉」
地域で毎年「花見」する公園にでかけた。
今年最後の「花見」を楽しむために。雲ひとつない青空が応援してくれた。「満開」は確かに少し過ぎていた。
散りゆく花吹雪がこれまたみごとなものだった!!
そんなときいつも思い出すのか、この芭蕉の名句だった。
▼私の手持ちの歳時記は、『第4版 俳句歳時記』(角川学芸出版編 角川文庫)である。第3版も一冊だけもっていた。 その第3版の「序」がとても興味深かった。
「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」と詩人寺田寅彦は言った。季語には日本の風土に生きてきた日本人の生活の知恵が凝縮されている。季節感はもちろんのこと、倫理観・美意識、ありとあらゆる日本人の感情が短い文言に収約されて季語になった。
とはじまっていた。ところが第4版では、この寅彦のコトバは消えていた。
▼オンライン「寅の日」7年の歩みなかで、95編の随筆を読んできた。
私はずっと、この寅彦のコトバを探していた。しかし、今のところこのコトバ、そのものズバリは見つけることができないでいる。
しかし、きわめて近いコトバはみつけていた。それは毎年大晦日(寅彦の命日)に読む「日本人の自然観」(青空文庫より)のなかにあった。
短歌俳諧(はいかい)に現われる自然の風物とそれに付随する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては俳諧歳時記(はいかいさいじき)がある。
さらに補足説明してこう言っていた。
私のいわゆる全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時にまた空間の標示として役立つものがこのいわゆる季題であると思われる。
と。
▼俳句結社「寅の日」の話、少し前にすすめよう。
寅彦がこう教えてくれた歳時記(もちろん手持ちのもので可)を持って集まり、
◆寺田寅彦「俳句入門」十選 !!
(1) 俳句の精神 6
(2) 天文と俳句 6
を一緒に読むぐらいのところからはじめませんか?
いきなり句会、吟行ではなく、言わば 俳句結社「寅の日」準備会 のようなものを。
時は刻々と過ぎていく。蓮根の植え替えから3週目の大賀ハス観察池の水はやっと澄み、水面から葉芽がひとつふたつと顔を出しはじめた!!
https://www.sankei.com/article/20171210-AEPP3UXN7JOYPHWA6N6F7LEGH4/ 【地貌からの「日本文化」照射 『季語体系の背景 地貌季語探訪』宮坂静生著】より
著者が全国各地の生活に根ざした季節のことば=地貌季語の作句と蒐集(しゅうしゅう)を提唱してから30年。この間の収穫が『語りかける季語 ゆるやかな日本』(平成18年)、『ゆたかなる季語 こまやかな日本』(20年)の姉妹編とこの新著ということになる。最初の1冊は大岡信(まこと)、井上ひさし、山崎正和、池澤夏樹ら具眼の士から高い評価を得て、第58回読売文学賞を受賞している。
さて本書をどう形容したらいいものか。姉妹編を読了していたので、ある程度の予想はしていたのだが、作品の圧倒的ともいえる迫力に絶句したというのが正直なところ。ごく控えめに言って、瞠目(どうもく)すべき奇蹟(きせき)の書ということになる。件(くだん)の具眼の士といえど、この破天荒な新展開には息をのむのではないか。「日本人の精神史に新たな一章を加えた」(柳田邦男)を首肯する。
作者は世に氾濫する季語体系の見直しに固執する。これは歳時記編纂(へんさん)史に金字塔を立てた山本健吉の「季題・季語ピラミッド説」に対する異議申し立てといえる。山本版歳時記も含め、現今の歳時記は「今日の私たちの生活に迂遠(うえん)と思われる季題を省いた」とか、「例句のない季題の大部分は削除した」と〈凡例〉に録し、使用されることが少ないというだけで、旧季語を削除してきた。大岡信が「季語が時代の季感と運命をともにするというようなことになったら、われわれの言葉は、死語の一大貯蔵庫になってしまう」と嘆かれたことが想起される。
著者が日本文化を「北の文化」(北海道)「中の文化」(本州、四国、九州)「南の文化」(南島)の3区分で考えるのは、今の季語体系が王城千年の京都言葉で占有されるなど偏重があるからだ。新著では幻の傀儡(かいらい)国家「満州」やシベリアなど、海外へと視線も拡張される。ハバロフスクで作られた詩人、石原吉郎の地貌俳句はやはり衝撃的だ。
巻末の160冊余の参考文献に柳田国男、宮本常一、赤坂憲雄らの著書が目を射る。「瑞穂の国の民俗学」を超え、「いくつもの日本」へ-今後の作者の精神の方位を予感させる。(岩波書店・3700円+税)
評・斎藤慎爾(俳人、文芸評論家)
Facebook俳句の雑学小辞典さん投稿記事 2016年5月29日 ·
季語(4)山本健吉の季語ピラミッド説
山本健吉氏は「季語の年輪」(最新俳句歳時記・新年)の中で、
「日本人の風雅(文芸・芸術)で、とくに重んじられてきたのは五個の景物であり、それを中心として和歌の題がとりまき、その外側に連歌の季題がある。さらにそのまわりに俳諧の季題、もう一つ外側に俳句の季題があり、さらに一番外側には現実の季語がひしめきあっている」
という見解を説いている。
健吉氏は以上のことを「五個の景物」を中心とする同心円で図示した上で、
「俳諧の季語の世界は、以上のように、ピラミッドの頂点部から次第に裾野に至って、現実世界と接触する。このような世界を前提として、俳諧・俳句という文学が成立しているのである。」
と説く。
健吉氏は季題を時代の美意識が選び取った美の題目であるとし、季語を季物を取り込もうとするそれ以外の総ての言葉としている。
健吉氏によると、和歌の時代から重んじられてきた五個の景物として「花・時鳥(ほととぎす)・月・雪・紅葉」を挙げている。
健吉氏の「最新俳句歳時記」の中から例を取ると、和歌の題は「のどか・かすみ・鶯」などであり、次の世代の連歌の題は「暖か・さえずり・鳥の巣」、その次の俳諧の題は「鳥交る・虻・田螺」、その次の俳句の題は「春昼・浅利」単に季節現象を示す季語は「風光る・山笑う・孕み鹿」などがある。風光る・山笑うなどはすでに俳句の題として昇格してもよさそうではあるが。
要するに、季語群を絶えず裾野を広げつつあるピラミッド、同心円として考えるのである。
最下段の単に季節現象を現す季語も、やがて俳句としての美意識が蓄積されると一段あがり、新たにその時代にあった季節現象があらたに加わっていく。
そして時代に合わなくなった季語は排除されていく、その繰り返しによって一つ一つの季語に歴史の密度が籠められ、季語の総体がそれ自体で一つの大きな文学的空間を作り出していくと。
たとえば最近季語になっている「ゼリー(夏)」などは、今のところ最下段の位置にいると思えるが、多くの人に詠まれていくうちにだんだんと位があがり、何百年か後には、季題と呼ばれる時が来るか、それとも時代に合わずに弾かれてしまうかもしれない。
参考 山下一海著「俳句・そのこころ」日本放送出版協会
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