直感と願い

https://note.com/nag1aky/n/ne45bc624934d 【個人的な最近の俳句④:直感と願い】より

あまり俳句と関係ないかもしれませんが、最近思う2つのことです。1つめは「直感」。

つくづく俳句でも、生活その他でも同じだなあと思うのが「思い込みのクセが強いと、肝心な時に“直感”がはたらかない」あるラジオ・パーソナリティの言葉です。

私が師事しているヨーガの先生も「自分はこうだ、こうあらねばならない、という考えを外したときに新しい体と心に出会える。その結果、変わっていける」というようなことを常々仰っています。

「見たいものしか見ない 聴きたいことしか聴かない」 日常に心が摩耗していくと、しばしば陥りがちなループ(精神が新しい経験を拒否する)。

でも、本当の感性の発見や新しいステージへのブレークスルーは

自分の「思い込みのリミット」が外れた「直感」が動いたときにやってくる。

その時に新しい風景や体験がやってくる。感性は更新される。

直感は、いつ、やってくるかわからない。だから、心にいつも少し空白をつくって

ぼーっと「待つ」。それが意外と効くのではないか。それが今の自分にとっては必要だと思うこの頃です。俳句創作でも日々の生活でも。

2つめ「願い」。

私は現在の状況や精神状態等がキツクなったとき

「こうなればいいなあ」と数日ほど思ったことがあります。

ものすごく強く願ったというわけではないのですが、何度も何度もそのことを思った。

そうしたら、そのとおりのことが実現したことが何度かあります。特にお仕事、本業も俳句関係も。本業では有期契約で働いていたころ「こういう仕事したいなあ」と数日思っていたら、最終日に条件ピッタリの募集が! 即応募したら、とんとん拍子に決定。

俳句関係では「●●で講師をしたいなあ」と思っていたら、年末のそれこそ仕事納め間際に●●さんから連絡を頂き。こちらもすぐに話が進み現在に至る。

などなど。

ある本のことを考えつつ電車に乗ったら、目に入った社内吊広告がその本の宣伝とか、そういうことが割とある私。

「偶然じゃね?」そうかもしれません。でも、偶然でもこういう「めぐりあわせ」は大事にしたい。そして、感謝したい。

そのことで「心(脳)の風通し」がよくなることもあるのではないか、と思うのです。

呼吸法により体の血液循環が良くなって、代謝が上がり筋肉の状態も正常になり姿勢が良くなるように。

風通しがよくなることで結果的に俳句を生み出しやすくなったり人と共に豊かに暮らしていけるように。そんなふうに一日一日をおくりたいと考えています。


Facebook加藤隆行さん投稿記事 【実はちゃんともらえる】

「わかってほしい」と思う人ほど、なぜか、いちばんわかってくれなかったりする。

「認めてほしい」と願う相手ほど、こっちの努力を「できて当然」と思って、スルーしてきたりする。人生、そんなことの連続だったりする。

ボクも昔は「ちゃんと見てほしいな」とか「よくやったと 言ってもらえたらなあ」って思ってた気がします。

でも、まわりの大人たちは忙しかったり、ちょっと心配性だったりして、ついつい「もっとこうしなさい」とか「それじゃダメでしょ」とか「ちゃんとしっかりがんばれ」とか言いたくなる人たちばかりで。だから大人になった今も、気づけばまた似たような人に「認めてほしい」って思ってたりする。

いやいや、待て待て。なんでまた、その困難ルートに行こうとしているんだ、自分。笑

ここ最近、しみじみ思っているのは──**「アナタが欲しいものは、 欲しい“相手”からはもらえない」**ってこと。

冷たいあの人から「優しさ」が欲しい。不機嫌なあの人から「感謝」が欲しい。愛をくれなかった人から「愛」が欲しい。でも、そもそもその人は、それを“出せる人”じゃなかったりする。悪気があるわけじゃないんです。ただ単に、出し方を知らない。自分のことでいっぱいいっぱい。その人自身も、もらえずに生きてきたからあげ方がわからない。

だからね、欲しいところからもらおうとするのを、いったん手放してみる。

「じゃあ誰からもらえばいいの?」って?──それは、“もらえるところ”から、もらえばいいんです。当たり前だけど、水は出る蛇口をひねるんだよ。出ない蛇口をにらんでも、出ない。笑あなたをちゃんと見てくれる人、いつも静かに寄り添ってくれてる人、あなたをちゃんと認めてくれる人。もしかしたら、っていうか絶対に、近くにいる。

アナタがうらやましがっている欲しいものがもらえてる人ってね、この「水が出る蛇口」を見つけて、これでいいんだ、いや、これがいいんだ」って決めた人なんです。

“水が出てこない蛇口”にこだわるのを、やめた人。で、いまその人は、おいしい水をゴクゴク飲んでる。そして実は…、「自分で自分に与える」っていう、最強の蛇口もある。

この蛇口から水を出せる人は水流が強すぎて、びしょ濡れになっちゃうぐらいになれるんですわ。だから、なぜだか人生で「もらえない、 自分には無い無い」て嘆いている人は、

これじゃないんだ、ってその蛇口手放してみてね。

これ、お金もチャンスも全部同じだからね(^ω^)


https://sengohaiku.blogspot.com/2021/02/hadzuki-pittari012.html 【【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】12 自分を「更新」する俳句  瀬戸優理子】より

著者を思わせるスレンダーなショートカットの女性が、自身の姿形にジャストサイズの箱の中に納まっている。そんなイラストが描かれた句集『ぴったりの箱』の表紙は、なかなかにインパクトがある。

 女性は、笑っても、泣いても、安らいでも、不安そうでもない。表情と言える表情はないのだけれど、これから「魂」を入れて動き出しますよ、とでもいうような準備万端な視線を読者に向けている。

 「あとがき」で触れているように、なつさんは、「俳句で自分自身の『寸法』を確かめる作業」を続けているという。そして、この第一句集で自身が(今のところ)ぴったりとおさまる寸法の箱を見つけた、と。

 俳句十七音も、「箱」と一緒だ。言葉を盛り込み過ぎても、スカスカすぎても、おさまりが悪い。伝わらない。「箱」に過不足なく収まることで、いわゆる佳句となる(と思われている)。

 ただ、句集を通読すればわかるが、なつさんが目指しているのは、そういう俳句ではない。誰かが、「なつはづきの俳句」という「箱」を開けてくれた時、その中にぴったりおさまった「私」がきらきらした瞳で「あなた」を見つめ返す。あるいは、真剣な眼差しで訴えかける。もしくは、あえて視線を逸らす。そんなサプライズを仕掛けたいというチャーミングな野望が見え隠れする。その野望実現のために、大きすぎず、小さすぎず、その都度「ぴったりの箱」を見つける作業が必要だったのだろう。

 自身の寸法がわからない中での確認作業は、時に体当たりである。

夏あざみ二度確かめるこの痛み

春の雲素顔ひとつに決められぬ

毛糸編む嘘つく指はどの指か

紺セーター着ていい人のふりをする

 驚くほどストレートな自己表出に、一瞬たじろぐ。一句目、「痛み」とわかっていながら、二度もその感覚を味わいに行って自身に刻む自傷行為。これが自傷しながら自身を愛するという逆説的ナルシシズムでないことは、上記に挙げた他の3句や句集後半に配置された「リストカットにて朧夜のあらわれる」でよくわかる。闇の底に沈むのではなく、朧夜があらわれるまで目を凝らす凛とした視線。

 2句目の「素顔」をひとつに決められないことへの居心地の悪さ。3句目の気づかずに「嘘」をついているかもしれないと自問する内省。4句目の「いい人のふり」をしてしまう自身へのちょっとした罪悪感。自分を起点として世界と関わり合う時に「不誠実」を犯しているのではないかという、うしろめたさに付きまとわれているかのようだ。しかし、そんな自分から目を逸らさない態度は「誠実さ」でもあると、読者である私には感じられる。

 「春の雲」「毛糸編む」「紺セーター」。季語と心情を配合させるシンプルな詠み方だが、ネガティブに傾こうとする心情から一歩進んだ「明るい抜け道」を予感させる飛躍のさせ方が、なつ流の「寸法」を確かめる作業の成果だろう。

 ストレートな感情を隠さない一方で、なつさんは含羞の人でもある。

君に電話狐火ひとつずつ消える

泣くときはいつも横顔リラの花

夢二の忌冗談まばたきで返す

無花果やアルトの音域で生きて

 猜疑心をゆっくり消していくためにかける何気ないふりの電話、涙がこぼれるのを見せまいと横を向く所作、冗談を言う相手に咄嗟にどう反応していいかわからなくなる戸惑い、本当はもっと声を張れるのに敢えて「アルトの音域」に留まる奥ゆかしさ。心を揺らしつつも、客観的な視点で自身を捉え直し、十七音に表現する。寸法を再確認するための真摯な作業を繰り返す。

 あちこちに身体の一部をぶつけて傷をつくり、時に慎重に縮こまり、膝を抱えて静かに涙し、もう大丈夫と再びそろそろと立ち上がる。そうして見つけた、自身をとりまく世界と自分との「心地よい距離感」。自然体にのびのびと言葉が躍動していると感じさせる次のような句群が眩しい。

はつなつや肺は小さな森であり

ゲルニカや水中花にも来る明日

図書館は鯨を待っている呼吸

沈黙の明るく置かれ晩白柚

 

 いずれも、身体性と直観の冴えが発揮され、「虚」と「実」の相互往来が自在な魅力的な句である。

 さて、体当たりで営んできた自分自身の寸法を確認する作業も、最後は少し余裕の表情を見せ始める。

綿棒で闇をくすぐる春隣

 句集の末尾に置かれた句である。「少女期や夜の鯖雲ばかり見て」と、なすすべもなく佇んでいたのは、はるか遠い昔。少女は大人になり、「俳句」という世界と対峙するための強い味方を得ている。

 にもかかわらず、である。ちょっとした「闇」を前にすると、まだ少しの弱気が襲うのだ。と同時に、その弱気を笑う茶目っ気もある。掲句、「くすぐる」の措辞になつはづきらしさが炸裂していて、こちらもニヤリとしてしまう。なんてったって「春隣」。しかも、耳の中に広がる小さな柔らかな「闇」である。くすぐるようにかき混ぜているうちに、いつしか「ほう」と甘いため息が漏れてきそうだ。

 心の微妙な「揺れ」に敏感であることが、彼女の作句への原動力であり、ぴったりの寸法を更新していくエネルギーともなるのだろう。次の「ぴったり」を見つけにいく旅のプロセスを、今後の作品で垣間見るが楽しみである。




コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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