Facebook寺島 義治さん投稿記事
7月5日に大災害が起きるかもというウワサがある。
「私が見た未来 完全版」というマンガ本が元らしい。海外まで波及した。
これが当たる・当たらないよりも「どうしてそんなウワサが流れるのか」を見るほうが、ずっと面白そうだ。こういうのは、現象としては「流言飛語」というそうだ。
しかしこのコトバには「ウソ」「デマ」という意味はない。ただ現象として、独り歩きをしはじめた拡散情報を示す。社会学的には、流言飛語が発生する社会には「不安」があるそうだ。
先行きの読めない未来への不安が、その中核だそうである。ではこれを「なぜ信じるか」は、心理学の分野になるらしい。流言飛語を信じるのは「飢え」だそうである。これは食べることだけでなく、情報への渇望も含む。
ベースに持っている不安を解消、あるいは説明してくれる情報が不足していると、人は「それを説明してくれるもの」を求めるのだそうだ。人間と環境(世界)をつなぐものは「イメージ」なのだそうである。そのイメージは主に、経験と情報によって形成される。
流言飛語を求めるということは、そのイメージに「欠損」があることを示している。
ようするに、なんかいろいろと、不安とか不満とかがある。それを補う代償行為として、こういった流言飛語を信じるという行動が起きるのだそうである。
そして、この流言飛語を補強・補佐する思想がある。
「儒教」である。
儒教では天変地異を「天譴(てんけん)」といい、腐敗した国家や国民に対する天罰と捉えるそうだ。これを「天譴論」といい、いがいと現代の政治家も信じていたりするらしい。
ただしこれが元は儒教であることは、あまり知られてないようだ。これがじつは、社会心理学的には、わりとコワイらしい。
「予言の自己成就」という現象があって、予言に影響されて行った「人の行為」によって、結果的に予言が成就してしまうという現象。
7月に大災害があるという話が拡散し、海外旅行者が日本への旅行をキャンセルして、旅行業界にダメージを与えているのもその一つだそうだ。
「天譴」というような発想を政治家が信じていると、その行為が「予言の自己成就」を加速させる可能性があるらしい。一介の市民と政治家では、その影響力は桁違いになる。
政治家が流言飛語を強化する思想を持っていると、危険度が上昇する場合があるということだ。「ピグマリオン効果」というのもあり、これは「人に期待されたように人は動く」というのがある。
もし政治家が天譴論を信じていて、民衆が特定の予言を信じていたら「政治家が予言を信じる民衆の期待通りに動いてしまう」場合があるそうだ。
不安や不満を抱えた民衆は「リセット願望」を持つこともあり、それが影響すると、ほんとうに社会がリセットに働く可能性がある。もちろん現代では、天譴論をマンキンで信じる政治家はおそらく多くはない。と思う。とにかく流言飛語は「民衆の不安」が生んでいる。
だから「流言飛語が広まるほどに民衆は不安を抱えている」という事実を知ることが、政治家には必要ということなのかもしれない。
まあ知ったところで、なにができるというわけでも、ないのかもしれないけどな。
それに7月の件については、ほとんどの人は「ネタ」にして遊んでいるだけだ。
それがいちばん望ましい。本気にすると「自己成就」してしまうからな。
日本人の多くが、理性的で現実的な思考をしてくれているおかげで、助かっているのかもしれん。
https://www.j.u-tokyo.ac.jp/adviser/column/n-52/ 【コラム52:感情に耳を傾ける】より
満開だった桜の木も、新緑に包まれる季節となりました。3年生の皆さんは、新しいキャンパスに慣れてきた頃でしょうか。4年生の皆さんは、気持ちが引き締まるとともに、溌剌とした下級生の姿が眩しく見えることもあったかもしれませんね。人々が行き交い、環境が変化する時期は、どうも外側に目が向き、自分の内面にはなかなか目が届かないものです。今回は、「感情に耳を傾ける」というテーマでお話ししたいと思います。
皆さんにとって、感情とは大切なものでしょうか、それとも煩わしいものでしょうか。感情は、様々な分野で研究されており、私たちの生活に密着したもの、あるいは人間の本質と言ってもよいかもしれません。私は、そんな感情の「機能」に関心をもっています。
ひとつの感情には、適応的・不適応的、両方の「機能」があります。例えば、罪悪感という感情について、ある本ではこう述べられています。生存競争において、自分の利益をより多く得ようとするのは合理的である。しかも、相応の対価を払うことなく(つまり、ごまかせるならごまかして)、より多い利益を得ることができるなら、そうすることに越したことはない。その点では、罪の意識を感じる人間は、そうでない動物よりも劣るはずだ、と。しかし、この本の続きはこうです。罪悪感、もしくは良心の呵責ともいえる感情をもつ人は、より多くの他者から信頼されやすい。つまり、罪悪感があることで、他者との誠実な関係が築きやすくなり、結果的に、より大きな利益や安全を得られるだろう。
このように、罪悪感というような、一見ネガティブで扱いにくい感情であっても、社会生活を送る私たちにとっては、機能的(functional)な側面をもっているのです。一方で、もしもこの感情が強くなりすぎると、不必要に自分を責めたり、自分が守るべき主張や権利を守れなくなったりすることもあるかもしれません。私は法学には明るくないのですが、法学部の皆さんは、罪悪感とか良心の呵責といった感情を拾い上げ、それをもとに判断を迫られることもあるのかと想像して、例に挙げてみました。
さて、私たちが日常生活で感じる、もっと身近なネガティブ感情も、両価的な役割をもちます。さらに、自分のこころとからだの状態を示す大切なシグナルでもあります。例えば、試験前の不安は、準備が足りないところに気づかせ、勉強に臨むように自らを奮い立たせてくれます。しかし、不安になりすぎると、どこから手をつけるべきかわからず、どこにも終わりがないような気がして、身動きが取れなくなってしまいます。そんなときは、「ああ、今、自分は不安なんだな」、「この不安はどこから来ているんだろう」、「何が変われば、この不安は軽くなるのか」など、ステップを踏んで今の感情を整理することで、日常を過ごしやすくするヒントが得られます。鬱々とした感情は、休憩が必要というサインですし、劣等感は、自分の理想や高い志の裏返しだといえるでしょう。本来、感情は自分のニーズを教えてくれるものなのです。どのような感情にも、適応的・不適応的の両方の「機能」があるという見方をすると、少し気持ちが楽になり、自分が何をしたいか・すべきかが見えてくるかもしれません。
もちろん、日々の生活の中では、学習の仕方や履修のスケジュールなど、現実的に解決せねばならない問題も沢山あるかと思います。しかし、毎日のパフォーマンスを上げるためにも、自分の感情に耳を傾けてみることが役に立つことがあります。学習相談室のよさは、学習面・心理面どちらの相談も気兼ねなくできるところです。視野が狭まってきたときや、自分のことがよくわからなくなったとき、少し立ち止まって一緒に整理できる場所があることを思い出してみてください。
(文責:北原)
Facebookアナンド チャラムさん投稿記事
あなたが本当にこの地球に平和を望むならばあなたのハートあなたの存在の中にまず平和を創りなさい そこが 始めるには正しい場所だからだ そこから拡げなさい
インドの神秘家OSHO講話より
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*チャラムのメタファー解説
あなたが本当に
平和を望むなら あなたの内側の争いから始めるといい
あなたのマインドは常に不平不満を言っている 外側に対して 境遇に対して 状況に対して
そして あなた自身に対しても その争いは あなたをより良くしようと より安全にしようと より幸せにしようという マインドなりの試みだ
だが その試みは マインドがどの自我に対して行うか によって変化する だから争いが起きるのだ それを葛藤という それを自己呵責という それを悩み、混乱という
マインドが別のマインドを批判し主導権争いが始まる するとまた別のマインドがその仲裁に入る そうして あなたのマインドは 更に争い混乱する 平和にしようと すればするほど
内側の混乱は拡大する 混乱を収める唯一の方法は その争いに関わらないことだ
賛成せず、反対せず 手伝わず、邪魔しない 肯定もせず否定もせず ただ観ている
それが観照者だ だが 忘れてはいけない どれほど間違った方法でも マインドは
あなたという自我のために 動いているという事を
だから マインドを観照した時 必ず 「ありがとう」とだけ言う それ以上でも、それ以下でもない マインドは あなたの本性/真我ではない マインドは あなたの中にいる他の人格だ そして それは、あなたという 自我/エゴのためだけに働く それが理解できたら
外側へも応用可能だ すべては 存在の意志としてある あなたの自我/エゴにとって
都合が良いか悪いかなど 宇宙にとって問題ではない 存在は 神は 宇宙は
ニセモノのあなた 自我/エゴのためにではなく ホンモノのあなた 本性/真我のために在るのだ LOVE Charam
FacebookHisao Aibaさん投稿記事
心Heartに耳を傾けなさい
より深く心に耳を傾け、そして、心に従いなさい 思考は自分のものではない
それは社会から与えられたものだ 心は自分のものだ それは、神自身から与えられたものだ
心に耳を傾ければ、瞑想は難しいものではなくなる 瞑想は成就できるものだ
そうすれば、何の問題も残らない ものごとが明らかになり そのありのままを、見ることができるようになる そのとき、自分が何をすべきか 何をすべきではないかを、選択する必要がなくなる するべきことがすぐにわかる そこに選択の余地はない 何が正しい行ないかを知っているのだから 決して後悔することがない そのとき、人は間違いを犯すことがなくなる 間違いを犯したと世界中がみなしたとしても それが自分の心から生まれている限り
人は完全に心と共にある それが間違いではないこと、決して後悔はしないことを
自分の存在そのものを通して知っている 究極的にそれが正しいことになることを知っている
今ここで、その最終的な結果を想像できなくとも 心はそれを、はるかによく知っている
なぜなら、心は存在の神秘の最奥に住んでいるからだ 心には過去も未来もない あるのは今だけだ ひとたび瞑想が充足すると、瞑想が成就すると 人生はおだやかな、優雅な、あざやかなものとなる OSHO
OSHOサクシン瞑想センターのwebサイトから転載
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