俳句に革命を起こした芭蕉の“発明”とは?

https://katene.chuden.jp/clubkatene/p/campaign/kazokujikan_prj/renippon_seasonal_word2/ 【俳人・後藤麻衣子の言の葉の旅|松尾芭蕉が未来に遺した17音の景色】より

〈古池や蛙飛びこむ水の音〉は当時誰もが驚いた革新的な作品

〈古池や蛙飛びこむ水の音〉誰もが一度は聞いたことのある、松尾芭蕉の有名な作品です。芭蕉四十二歳の作で、「蛙(かわず)」は春の季語です。

古池に蛙が飛び込む。ポチャン、と音がする。今改めて聞くと、平凡な風景に感じるかもしれません。でも実は当時、この句は周囲をあっと驚かせる、いわば革新ともいえる作品でした。

古来、和歌の世界では、蛙は「鳴き声を詠む」ことだけが許されていました。しかし芭蕉は、蛙が「池に飛び込んだ、その水の音」を詠んだのです。芭蕉はこの句をきっかけに、その独創性を世に広げていきます。この句は、蕉風俳諧*を確立した作品ともいわれています。もちろん現在は、「蛙は鳴き声しか詠んではいけない」ということはなく、自由な発想でさまざまな名句が生まれています。

これだけでなく芭蕉は、現在の俳句文化の原型をつくった一人としても知られます。

切れ字や取り合わせといった俳諧特有のレトリックを発明し、近代俳句につながる道筋を立ててくれた、そんな存在でもあると思っています。

誰もが疑うことなく、当然だと思っていたことと向き合い、新たな価値観を創造しながら作風を追い求めた芭蕉。滑稽や諧謔(かいぎゃく)を主としていた俳諧に、自然や人生を詠み込むことで芸術性を高め、のちの俳句文化の礎を築きました。

〈古池や蛙飛びこむ水の音〉は、それまで他愛のない言葉あそびだと言われていた俳諧に“心”の世界を描いた句。新たな世界に、芭蕉自身が飛び込んだ瞬間でもありました。

ちなみに、「俳句」という呼び名は近代俳句の用語なので、芭蕉の時代は正しくは「俳諧」ですが、芭蕉のこうした革命は明治に正岡子規の手に渡り、子規による俳諧革新を経て現在のかたちに近づき、一般向けの文芸として大成しました。

「俳句」と呼ばれるようになったのは明治のころです。

「未来のあたりまえを創る」。

松尾芭蕉は、そんな大きなことを成し遂げた偉人でもあると、私は思っています。

*蕉風…松尾芭蕉とその門人によって確立された作風のこと。「さび・しおり・細み・軽み」を重んじ、幽玄・閑寂の境地を求めた。

*俳諧…発句、連歌などの総称。「俳諧の連歌」の略。主に江戸時代に栄えた。明治に入り、正岡子規の俳諧革新以降「俳句」と呼ばれるようになる。

晩年を旅に生きた芭蕉の、人生をかけた紀行文学

松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀国(現在の三重県)の武士の家に生まれました。

藤堂良忠に仕えて俳諧を学び、のちに京都に上って北村季吟の弟子となります。

1672年に江戸に出た芭蕉は、当時流行していた談林風の俳諧をとりいれはじめます。その後も新しい俳諧の創造に没頭し、やがて「蕉風」と呼ばれる、新しい俳風を打ち立てました。

芭蕉は四十代になると盛んに旅に出るようになり、『おくのほそ道』『野ざらし紀行』『更科紀行』などのすぐれた紀行文を残します。

江戸時代は、庶民が気楽に旅行できるような時代ではありませんでした。

主な移動手段はもちろん徒歩。各関所には厳重な取り締まりがあり、手形も必要でした。

『おくのほそ道』は、1689年に約五ヶ月をかけて東北や北陸などを踏破した、芭蕉の生涯でもっとも長い旅となりました。

芭蕉はそのときすでに四十六歳。今でいう高齢の域で持病もありましたが、一日平均15キロ、記録によると一日で50キロ近くを移動した日もあったといわれています。

現代のような観光目的の楽しい旅とは異なり、当時の旅は過酷なものでしたが、芭蕉はそれでも「旅」に希望を求めて長い道のりを歩き続け、滞在地で名句を残しながら、紀行文を綴りました。

旅での風雅を追求し、歌枕*で尊敬する先人たちと心を重ねながら、自身の俳諧の道を信じて、旅先で出会った土地の記憶を十七音に閉じ込めていったのです。

芭蕉の作品は「紀行文」ともいわれますが、私は純粋な旅の記録としての紀行文ではないと思っています。推敲に推敲を重ね、何度も構成を練り直し、文学としての完成度を求めた作品。これらは、芭蕉の文学性に満ちた、“紀行文学”だと思います。

*歌枕…かつて和歌に多く詠み込まれてきた名所のこと

松尾芭蕉 旅の一覧『野ざらし紀行』

芭蕉最初の紀行文。江戸から東海道を上って故郷・伊賀へ帰郷。

吉野、京、近江、大垣、桑名、名古屋などを巡った(芭蕉41歳〜42歳)。

『鹿島詣(かしまもうで)』

月見を目的に、江戸と鹿島を往復した旅(芭蕉44歳)。短編だが、芭蕉が本格的な紀行文を執筆する出発点となった作品(芭蕉44歳)。

『笈(おい)の小文』

伊賀へ帰郷したのち吉野の桜を見て、近江や美濃へ足をのばす。桑名・熱田・名古屋、そして京・尾張・甲斐を経て深川へ(芭蕉44~45歳)。

『更科紀行』

岐阜を出発、木曽街道「寝覚の床」を経て、信濃・更科の姥捨山に到着し月見。翌日に善光寺を経由し、江戸に戻る(芭蕉45歳)。

『おくのほそ道』

江戸を出発し、奥州・出羽・北陸道を巡り、美濃の大垣で旅をむすぶ、約150日もの長旅。日本の古典の紀行作品の代表的存在(芭蕉46歳)。

古人が眺めた景色を追体験し、

「求めしものを求める」旅へ

芭蕉が門人に送ったアドバイスに、こんな言葉があります。

〈古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ〉*古人が残した作品をただ味わうばかりではなく、古人が求めたことを求め続けなさい、ということを伝えています。

実際に芭蕉は、能因や西行といった、彼が尊敬していた人たちのゆかりの地へ出向き、同じ場所に身を置き、自分の目で同じ景色を見て、さらに現地の人たちとも交流しながら旅を続け、名句をたくさん残してきました。

私が今、旅をする理由はいくつかありますが、歌枕の地へ出向くときに、いつもこの芭蕉の言葉を思い出します。古人の作品と触れるとき。旅先で句碑や景色を眺めるとき。その地でペンを持ち、俳句をつくるとき。何百年も経った今も、きっとそこには先人たちの想いや、古人が「求めしもの」があるはずです。ただ作品を読むだけではわからなかった、その場所に行ってはじめて得られるもの、目には見えない感覚のようなものを、心で掴みに行っているのかもしれません。

江戸の時代を旅に生きた芭蕉の紀行文学を、単なる古典として味わうだけではなく、芭蕉が求めたものはなんだったのか、作品に触れながら立ち止まって考えてみること。それこそが、旅先でしかできない、こころのアクティビティだと私は思っています。

その地に足を踏み入れ、古人と心を通わせる体験が、旅のひとつの醍醐味であり、旅の奥行きをぐっと深くしてくれる、ひとつのきっかけにもなると思います。

芭蕉が起こした革命も、今に読み継がれる紀行文学作品の数々も、時代を超えた大切なメッセージなのかもしれません。

1694年10月。51才でこの世を去った芭蕉。

亡くなる三日前、弟子に墨を摺らせ、病床で力を振り絞って句を残しました。

〈旅に病で夢は枯野をかけ廻る〉病のさなかでも、その夢のなかでも、そして今も、芭蕉の旅はまだきっと、どこかで続いています。

*古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ…芭蕉の俳文「許六離別の詞」に南山大師(空海)の言葉として引か


https://note.com/honno_hitotoki/n/n8a6793c67a50 【俳句に革命を起こした芭蕉の“発明”とは?|対談|小澤實×山口信博】より

俳人・小澤實さんが、芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、俳人と俳句と旅の関係を深く考え続けた二十年間の集大成『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)が昨年、第73回読売文学賞の随筆・紀行賞と第55回造本装幀コンクールの日本図書館協会賞をダブル受賞しました。これを記念して去る1月、著者の小澤さんと、本書の装丁を担当されたデザイナーで「澤」同人の山口信博さんが、紀伊国屋書店新宿本店詩歌担当の梅﨑実奈さんを司会進行に、俳句とデザインという「二に物ぶつ」の「取り合わせ」について語り合うトークショーを開催しました。今回はその一部を再構成して紹介します。

『芭蕉の風景』ダブル受賞記念

小澤實(著者)×山口信博(装丁者)対談「とりあわせデザイン論―ことばと絵の「二物衝撃」-」2023年1月22日(日)14時~15時30分紀伊國屋新宿本店2階 ブックサロンにて

目次

取り合わせの発明 二に物ぶつの衝撃  文学とデザインの取り合わせ 取り合わせの発明

梅﨑:そもそも芭蕉って、どんな人なのでしょうか。小澤先生は『日本文学全集』(河出書房)の近現代詩歌の巻で俳句の選をされて、作家ごとにキャッチコピーをつけていらっしゃいますよね。正岡子規だったら「近代俳句の始祖」、高浜虚子は「近代俳句最大の巨人」、井上井月せいげつだと「江戸と明治をつなぐ」とか。そこで、ぜひ芭蕉にもキャッチコピーをつけていただきたいのですが。

小澤:僕は「俳句の原型を作った人」というふうに思っています。俳句というのは近代俳句の用語なので、正しくは発句ほっくですけれども、その近代俳句の元を作ったのが芭蕉だと。もし芭蕉がいなかったら、それ以後の俳句の世界がどうなっていたか想像がつきません。俳句が蓄積されることもなかったのではないかと思います。その中でも一番大きいのが、「取り合わせ俳句」の発明だと考えていて、『芭蕉の風景』の中でもトピックとして解説しています。

梅﨑:『野ざらし紀行』についてのコラムですね。

この旅中、芭蕉は、現代の俳句に寄与する、二つの試みを行っていると考えている。一つは、取り合わせの俳句の発明である。季語とそれ以外のフレーズとの取り合わせを試みている。

秋風や藪やぶも畠はたけも不破ふわの関

芭蕉は、数々の取り合わせの名句を作ったが、この句はその最初期のものである。[上巻74ページ]

小澤:句意は、「秋風が吹いている。現在の藪も畑も、もともとは不破の関だったのである」。「秋風」という季語プラス切字きれじの「や」と、「藪も畠も不破の関」という風景描写、それを合わせて一つの世界を作っている。これが取り合わせ俳句です。

それに対するのが「一物いちぶつ仕立じたて」で、秋風だったら秋風のことだけを詠んでいる。季語のことだけで、五七五すべてを使ってしまう形ですね。取り合わせと、一物仕立てで、すべての俳句は説明がつきますので、お作りになるときにも、鑑賞するときにも、その二つの詠法をいつも心に置いていただきたいと思います。

梅﨑:取り合わせと一物仕立ては、季語との向き合い方がまったく違うと思うのですが、その違いについて教えていただけますか。

小澤:一物仕立ては季語そのものを描いていくので、いままで詠まれたその季語のすべての俳句を乗り越えないと、句として成立しないところがあります。対して、取り合わせの季語は、それまでにその季語で作られた、優れた作品の命を流し込むようにして作るわけです。先人たちの作品の力を借りていく。季語の使い方として対照的な違いがあります。

梅﨑:一物仕立てだけで行こうとすると、相当苦しい?

小澤:先人たちがみんなライバルになってしまうので、根性論的で、精神主義みたいな句になる。取り合わせの方は、みんなの力を借りていく。先人たちを友にしていくというか、そこが面白いところだと思っています。

山口:たとえば、原石鼎せきてい(大正~昭和期の俳人)の「秋風や模様のちがふ皿二つ」も、芭蕉を受けているんですか。

小澤:そうですね。古歌の秋風の寂しい雰囲気というものを受けて、芭蕉の句もあるし、石鼎の句もあると思います。

二に物ぶつの衝撃

梅﨑:「不破の関」の句に戻しますが、取り合わせた藤原良経よしつねの歌について、詳しくお伺いしたいのですが。

人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風 藤原良経

歌意は、「関守が住まなくなった不破の関所の板廂いたびさしよ、荒れ果てた後はただ秋の風ばかりが吹いている」。[上巻95ページ]

小澤:「秋の風」の中には、秋風そのものと、荒れ果てた寂しさというものが含まれていて、それが芭蕉の「不破の関」の句の中に流れ込んでいる。和歌の枕詞まくらことばとか序詞じょことばというのは、歌の内容からすると異物じゃないですか。この法則性はあるけれども関係ないものが入っているということを参考にして、芭蕉は取り合わせ俳句を発明したのではないでしょうか。

梅﨑:和歌に入っている枕詞などの異物が、詩の言葉を広げるというか、知的飛躍を生むということに気づいて、取り合わせ俳句を作ったということですか。

小澤:それから、新古今の時代の歌は、上の句と下の句でちょっとずらしてきますよね。その技法も、取り合わせと関係があると思っています。芭蕉は、一番自分が言いたいことと関わりないものが入っている面白さに、和歌を通して気づいたのだと思います。取り合わせた二物の衝撃が名句を生み出し、俳句に革命をもたらしました。

名歌の力が季語を通して句に流れ込んで安定するのである。そして、「板びさし」という具体的な小さなものに絞った古歌に対して、建物が滅びた後の大きな景を詠んでいるのが対照的。みごとな本歌取である。[上巻95ページ]

山口:取り合わせ俳句は、切れていないと二物になりませんよね。いつも悩んで、不安だからつい切字をくっつけてしまう。でも、「や」を入れても切れていないこともあったりして、切字で間をつくるのが難しい。どうしたらいいですか。

小澤:意識して、切ろう切ろうと思い続けるしかないんじゃないでしょうか。季語とそれ以外のものは離そうと、常に意識することが大事だと思っています。

山口:装丁の仕事も同じで、本とデザインの間が難しいんですよね。内容を個人として解釈しても、それが正解とは言えないわけです。構造とか商業性も考える必要があるし、編集者からのオーダーや予算の制約もある。考えているうちにわからなくなってしまったり、つい説明的に着地点を探そうとしてしまったり……。僕は、デザインの先生について勉強してきたデザイナーではないので、俳句からデザインを学んだり、考えたりということをすごくしています。小澤さんの俳句のお話を、自分のフィールドに持ってきて、デザインの方法として教えてもらっている感じがします。

文学とデザインの取り合わせ

梅﨑:『芭蕉の風景』の装丁についてのお話に入っていきたいと思います。イラストが浅生あさおハルミンさんですが、最初にご覧になったときはどう思われましたか。

小澤:毎月の「澤」(小澤さんの結社の雑誌)の表紙で使われていたイラストが、上下巻の二冊になっていて、驚きました。「たくらみ」にやられましたね。

山口:まず、ハルミンさんに「澤」の表紙として、二年間、24回分のイラストをオーダーしたんです。「澤」の同人の方々からは、いままでと違っていてかわいいというお声が多かったですね。それで下準備をしておいて、一気に『芭蕉の風景』に入れてお見せしました。

梅﨑:小澤さんには秘密で(笑)

山口:秘密にした気はないですけど、編集者との間でたくらみをしました。ほかにもたくらみはいっぱいしていて、たとえば帯を上巻と下巻で違う方向に斜めにしているんです。これは、人生の上り下りを象徴しています。

造本装幀コンクールの受賞作品は、技術の粋を凝らしたような作品が多いのですが、僕はそういうことは全然していなくて、装幀で本文の構造をどう表すかを考えたんですね。この本は、紀行文でもあるし、芭蕉の句集でもあるし、小澤さんの句集でもある。三つの構造を一つの紀行文としてまとめあげるには、どうやって造るか。

それは相当スタディーしたし、編集者とも校正も含めて、かなりやりとりしました。表層的なところではなくて、そういうことが認められたというのが嬉しかったですね。

小澤:僕もこの形になって嬉しかったです。軽やかで、これは「かるみ」だなと思ったんですよ。芭蕉の最後の境地である、日常平凡のところから詩を作っていくという「かるみ」の世界が体現されていると感じて、嬉しかったですね。

学者の堅苦しい芭蕉の本ではないということも、見れば即わかるように造られていて、それも嬉しかった。ハルミンさんのお手柄でもありますけれど、空間を広々と取って軽やかに動きを出している山口さんの装丁によるところも大きいと思います。

山口:実は、小澤さんの前著『名句の所以ゆえん』(毎日新聞出版)と、わざと似たデザインにしています。

梅﨑:その本も山口さんが装丁されたんですよね。

山口:あの本から小澤先生を知った人は多いと思うので、それが残像としてあって、手に取ってもらえたらと思いました。『名句の所以』は、味岡伸太郎さんが作った書体を使っていますが、「の」の字がすごくいいんですよね。それで意識的に同じ書体を使っています。そうやって、できれば小澤實のアイデンティティーみたいなものを作れたらなと。

梅﨑:装丁をもって、中身とともに、小澤實を作るという。

山口:かなり策略家でしょ。

梅﨑:私は売る側として、タイトルも重要だけど、装丁が内容をちゃんと表しているかということをいつも気にかけて見ているんですけど、『芭蕉の風景』は、文章とデザインの関係が俳句の取り合わせのようですてきだと思いました。

小澤:読売文学賞を受賞した本は、二冊とも山口さんに装丁していただいていて、やっぱり装丁は山口さんにしてもらわないといけないなと思っております(笑)

▼この対談の動画をこちらでご覧いただけます

小澤 實(おざわ・みのる)

昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。

山口信博(やまぐち・のぶひろ)

1948年、千葉県生まれ。桑沢デザイン研究所中退。デザイン事務所、コスモPRを経て独立。主な仕事としては、住まいの図書館『住まい学大系』全100冊のブック・デザイン、鹿島出版会の雑誌「SD」のアート・ディレクター、SD選書のリニューアル。著書に『白の消息』(2006年、ラトルズ)。共著に『礼のかたち』『折る、贈る。』(共に2003年、ラトルズ)、『半紙で折る折形歳時記』(2004年、平凡社)。アート・ディレクター。現在(2008年5月)、折形を研究する場、折形デザイン研究所主宰。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000