「役割がある」という考え方

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

生きがい

生きがいというとき、なにか違和感を覚えるのは、それが「モノ寄り」であるからです。趣味が生きがいという人もいます。それを聞いて、一生懸命に「趣味」を作ろう、探そうとする人もいます。

孫がいきがいというのを聞いて、孫との距離を縮めようと頑張るひとや、頻繁に連絡をするようになったという人もいます。

果たして、生きがい=生きる甲斐があるとはそういうことなのか?という違和感。

趣味であれ、また孫や仕事でも、それさえあれば「大丈夫」「生きる価値がある」と安心できるような・・・お守りですね。

生きがいという名の何かを外に見つけて、それを自分に結びつけなければならないかのようです。

もちろん、趣味があってもいいし、孫を大切に思ってもいい。それがなければ空っぽになるようであれば、「依存」や「確認作業」のようですし、成果や対象を求めようとする気配を感じます。

達成感に似ています。何かに没頭できる自分、誰かに必要とされる自分、そこに「生きがい」という目的を置いているような・・・。

「生き甲斐がある」とは、「生きること(生活)そのものがすでに甲斐である」と気づくことではないか。そんなことを思います。


https://www.otaru-general-hospital.jp/blog/massage/h290106/ 【人の立場と役割の果たす意味を考える】より

人生においてその人の立場、役割の果たす意味を知って行動することが重要である。

立場は人を作る、人を変える、人に教えることによってその人の思考、態度、行動に大きな影響を及ぼし、その人に果たすべき役割を与える。役割はその人に割り当てられた任務である。人は立場に相応しい役割を果たさなければ評価されない。

立場を得るために一生懸命に苦労、努力することは、人間力のある人を作る。人は得られた立場を謙虚に受けとめて善用することで周囲に喜び、幸せをもたらす。

一方で人は周囲の意見を聞かず独善的に権力を乱用する、公私混同して後継者を身内から登用する、世の中の流れを的確に読めずに無謀な言動をするなど立場の悪用により、周囲に迷惑、悲惨な状況をもたらす。

立場は人に世の中の厳しさを教える。人は立場での仕事、行動によって周囲から評価されることを認識する。その立場を離れるとその人のこれまでの人間性を周囲から厳しく評価され、寂しい想いをする。特に政治家、実業家で一時期に活躍した人達が、時代の流れについていけずに晩節を汚す。

歴史は繰り返すと言われる。それは生じた事実の現象が表面的に似ているということで本質的にはそれぞれの時代の背景に影響され異なっていることを理解しないと、誤った判断につながる。

老舗の店のなかで生き延びている店は、古いしきたりに固執せずに時代に即応した活動方針を立てて経営する。それが伝統ある老舗として高い評価を得る。このことは大学の教室、一般病院の経営においても当て嵌まる。

私の人生において立場と、役割の果たす意味は重要であった。立場を得るには与えられた機会に果敢に挑戦する場合と、周囲から強力に要請される場合がある。

大学時代に教授、日本麻酔科学会の会長、理事長の立場を得るために厳しい選挙戦に挑んだ。その立場を成し遂げるにはその立場に相応しい実力、実績を付ける切実感、組織の発展、人の成長を図る使命感、そして組織の円滑、円満に運営する責任感が必要であった。

職場の上司が部下から厳しく批判される場合がある。それは上司が現場にいる機会が少なく、意思疎通がとれないので共感できない。

仕事中に問題が生じ困惑した場合に適切、迅速な指導、支援する配慮がないので、頼りにならず信頼できない。

上司の個人的都合、要求を押し付け、部下を犠牲にする態度をとるので尊敬できない。

このような上司をもつ組織は、教育指導体制がとれておらず雰囲気が暗く、不平、不満が多く、やがて崩壊する。

大相撲の部屋では、親方が協会の仕事で忙しく留守にする機会が多くなると、部屋の稽古場に緊張感がなくなり、やがて衰退していくケースがある。同様なことは対外的活動が多く教室や病院を留守にする教授や局長・院長のところにもみられる。

私は教授就任の挨拶で「教授の立場は横綱と同じで、実力がなく、活躍できなくなると引退するのみである。そのことを覚悟して頑張る」と述べた。教授定年後の小樽市病院事業管理者には、当時の札幌医科大学長、小樽市長から就任を強く要請されてなった。その場合の私の立場と役割は市当局、市民一般からの要望をしっかり把握すること、その実施する優先順位を決めること、情報を公開しながら強いリーダーシップを発揮して行動すること、そして市民に質の高く、信頼される医療が行われ、小樽のシンボル的病院建設に尽力することであった。さらに自分の心に秘めていたことは自分の引き際の適切な時期を考えるであった。

この引き際に関しては、教授現職の時に貴重な出会いと思い出があった。それはある著名な外科の名誉教授が講演会後の酒宴の席で今後3つの事から引退すると突然話された。それは自分の行った臨床、基礎研究のデータがないので学術講演は行わない。

登山家としての判断力と体力が衰えたのでパーティーの生命の危険を避けるためリーダーにはならない。これまで男気と義理で無理していろいろ面倒をみてきたが今後余計なことはしないようにするであった。 これらの言葉には含蓄があり、自分の引き際を考える際に参考になる。

私は病院事業管理者の立場をマラソンのペースメーカーの役割に譬える。それは良い成績を出すため先頭に立って選手集団を引っぱり、ゴールの10㎞位手前の地点で選手達から離れる。私は事業管理者に就任して2期8年の節目を迎え、新病院が開院し病院運営も軌道に乗ってきたので、あとは職員達がお互いに協力、実力を出し合ってゴールを目指して進むことが新病院の将来にとって望まれる。また私は医学・医療の学術活動の中で生きてきたので、原稿依頼、学術集会での講演、座長などの要請がなくなった時が引き際である。平成28年には多くの学術活動の依頼、要請があり、これまでの仕事の集大成となった。これはローソクの炎が消える直前に大きく輝く現象であり、一花咲かせることができた。ところが今年も学術活動の依頼が多くきて、その炎がまだ大きく輝いている。また当病院ではいくつかの診療科の体制強化、経営面で新公立病院改革プランの策定と実施、そして小樽市病院局長として小樽市医療行政の委員活動に携っている。これらの仕事が円滑、円満に実行されていくように自分の立場、役割を適正かつ客観的に考えて対応することを求められる。

 自分の人生は責任と義務をもって自分で考え、決断し、実行して、成果を上げる。そのためには能力、気力、体力が必要であり、このうちで体力が引き際、引退を決めるうえで最も重要な要因である。横綱千代の富士が引退を決めた時の言葉は「体力の限界、横綱として相撲を続けていく気力がなくなった」だった。この世の中を元気に活動、活躍し自分の立場と役割を立派に果たしていくには、基礎体力を鍛え、体質を改善し、体調を整えて総合体力を維持することが重要である。


http://teamaoi2003.com/post/7246 【「役割がある」という考え方】より

今までのブログで、「知的障害がある人は役立っている」という表現でいくつかの記事を書いたと思います。

事の初めは、知的障害がある人の存在理由を考えていたことです。

神奈川県立津久井やまゆり園という施設で入所者の人たちが狙われた事件があり、19人の人が亡くなり、その時に「知的に重度の障害がある人は不要である」というニュアンスの言葉を植松被告が言っていることを知ったからです。(2020年1月8日より裁判開始)

知的障害がある人が「存在してもよい理由」などという生温い理由ではなく、「存在しなければならない理由」を考えたいと思っていた時に、ある人から「知的障害がある人たちは、誰かの自己実現のために存在する」という言葉を伺い、それがその時に、自分が一番納得しやすい言葉でした。まだまだ自分の考えが確立したわけでもなく、それでもその時の考えをまとめておきたかった時期です。

(2017年7月25日に書いた記事)

あのころは、「知的障害がある人は、他の人の役に立っているんだ。だから死んでよいわけではない」という意味合いに、答えを求め考えていました。

別な表現で、「生きているだけで価値がある」とおっしゃる人がいます。

社会の中で役に立たなければならないのではなく、生きているだけで価値がある。

これも確かに正論です。

もともと、命に対して、あえて考えること自体、間違っているかもしれないのです。

でも、知的障害者はいない方がよいと考える人をもっと納得させることができる、しなやかさを持った言葉が欲しいのです。

そして、「生きているだけで価値がある」については、すでに「自分は価値がない人間だ」と思っている人にとっては、どうなのか?

他者から「価値がない」と言われたら、どうなのか?とも思うのです。

社会は簡単に、価値を決めたがるのです。

「あなたの価値は?」「あなたは役立っている?」と、誰かが評価をすることではないはずですが、自分自身が自分に対しての不安を払しょくさせ、納得するものが欲しい人もいると思っていると考えます。

そこから月日がたちました。

この問題は、もちろん、自分の命について他者が評価をするというところに問題があるのですが、先ほども書いたように、知的障害者不要論を持ち出す人に考えを変えてもらえるような話し合う材料が欲しいですし、自分の価値を低く見積もっている人にも間違った考えだったと感じてほしいために、自分に対して、整理をしているところなのです。

そして、自分自身が「役に立つ」ということで表現していたことに、全面的に納得していない自分がいましたから。

それとは別に「役割がある」という言葉を知りました。

「役に立っている」とは、他者が感じることが中心のようなイメージがあります。自分も感じることがあるかもしれませんが、誰かから「ありがとう」「助かったよ」などの言葉を言われなければ、自分自身で感じにくい可能性もあります。

「人に迷惑をかけている」など考えてしまいがちな自己評価の低い人にとっては、「役に立っていない」と自分を評価するでしょう。

でも、「役割がある」と感じるのは、他者の場合もあるかもしれませんが、自分自身が自分に対して感じることができると思います。

この中には、職業などの立場だけではないですし、良いイメージだけではなく「嫌われ役だ」と感じる人もいますし、「悪い見本」という人もいます。

「自分は役に立っている」という言い方はなかなかしないですが、「自分には役割がある」は、自分一人で自分に対して感じられるイメージです。

さらに言うと、「役割」とは、生きている時だけではないのです。

たとえば、亡くなったおじいさんの心優しい生き方を何年もたってからでも思い出し、おじいさんのように心優しく人に接して生きていきたいと思うお孫さんにとっては、おじいさんの「役割」を感じることは、亡くなってからも続きます。

そして、亡くなったおじいさんには感じ取ることはできなくても、それは他者が「おじいさんの存在が自分の役に立った」と感じることなのです。ただ、おじいさんとしては生きている間に、自分のことを見ている人がいることは感じていたかとは思います。そのおじいさんに「役割」があったことは、おじいさん自身も感じていたでしょうし、自身の役割をし続けていたことが、他者につながったのではないでしょうか。

この「役割」に着目したのは、がん患者さんの緩和ケアをされている人たちのコミュニティーに山田が入ったことがきっかけです。

知的障害がある人への支援とは、また違った視点ではありますが、生きることとか、つながるという視点に自分の仕事が役立つことがあるだろうし、また逆に、私にとっても役立つ何かがあるのではないだろうかと思ったことがきっかけです。

ある時に人が生きていくうえで、必要なものは何だろう?という視点を問われました。ワークショップがあり、死ぬ間際まで何を持っていたいか?というニュアンスの質問に、お金や仕事、家族や友達ということを選ぶ人もいましたが、私は「役割」を選びました。自分にとって、今まさに「役割」がないと困るからですし、「役割」があると思っていますし、死ぬ間際まで自分ができることや死んでからも必要とする人が使える発信物を今作ること(役割)をして、必要な人には山田をお役立ていただきたいし、それが知的障害がある人の幸せにつながると考えているからです。

このあたりで、教育現場も振り返ってみましょう。

迷惑をかけてはいけない

みんなと同じように

先生の言うことを聞きなさい

こうして、自分を見失う機会は、多く用意されているのではないでしょうか?

今いる大人たちは、そういう場を与えられ、自分が困っていたにもかかわらず、子供たちに同じような視点をまた放り投げ、社会に負の感情を蔓延させているのではないでしょうか?ですから、そこも改善していかなければならないと考えているところです。

さて、どんな人でも生きるということをしています。

そのなかで、何かの行動をし、人と関わることをしたり、いやなことには関わらないこともします。それはその人にとって必要な、そして自由な生き方なのですが、先ほども書いたように、その生き方について、役立つか?を問うのは、他者もしくは他者を意識した視点なのです。

相手に役立つか?

社会に役立つか?

自分は自分として生きているのに、他者が自分を評価するのです。

だから、役立つ人間になりたいと考えることにつながるのではないでしょうか?

知的障害がかなり重い人の中には、そういうことさえも考えられない人もいます。

だからと言って、知的障害がある人に対して、他者が自分の価値基準で役に立つか立たないかと評価したがるのは、なぜなのでしょう?人の役に立たないと決めつけているだけなのです。

他者の存在価値について評価をしたがる人は、その人やその人の周りにいるコミュニティーのことを知らない人だと思います。表面的な見た目や自分の良く知っている人(特に有名な人)の意見に同調しやすいのは、よくあることです。

矛盾を生じていると思いませんか?

自分で自分のことを決めたいのに、他者がそれを役に立つかどうかを決めるということに。

自分の人生に対して他者が口を出してくるときは嫌悪感を持つのに、他者の人生に対して自分が口を出したり、究極は「いない方がいいんじゃない?」「死ねば?」と言い放つことに。

そして、その矛盾が社会を作っているところなのです。

人そのものが役に立つか立たないかより、その時々のその人の存在やその人の言動や思い出などに「役割」があるのは、申しあげたとおりです。

その存在(役割)を目の当たりにした人自身の人生に役立てるかもしれませんし、知らないから役立てられない人などもいます。

もちろん良いシーンばかりではなく、反面教師としての「役割」がある人や自分自身の失敗が、自分の将来に対して「役割」を持つこともあります。

人は人を

喜ばせたり、

傷つけたり、

見本にしたり(良しも悪しも)、

助けたいと思ったり…

人は生まれた瞬間から役割があり、亡くなってからも役割があり、それは自分にとっても、人に対しても、社会を作る上でも、役割を持っているということなのです。

自分の役割を活かすかどうかは、誰かが決めることかもしれませんが、自分自身はどんな評価をされようが、それは他者の課題ですし、自分とは切り離して考えることだと思います。

役割はあるけど、活かされるかどうかはわからないですし、活かされなくても活かされても、あなた自身の役割は続けていけるもののはずです。

自分の人生が誰かの目に留まらないとしても不幸ではないですし、評価を求めず自分自身の暮らしをしていくことが、自分らしさや自分の幸せに通じるのではないでしょうか?

他者は好き勝手言うものです。

役に立つかどうかという視点で苦しむよりも、役割があるということを確認し、自分の人生を生きていくことなのです。

生きづらさを抱えている人にとっては、そんな視点も有効になるのかもしれないし、他者に対して自分は役立たなければならないと考えている人にとっても、自分の役割をするだけで、それをだれがどう思おうとそれは相手が決めることであり、自分が決めることではないと思える人が多くなると、暮らしやすくなるのではないかと思います。

自分の役割を考え、人に惑わされず、自分の生活をすることです。

目の当たりにするのは、社会の中で悩む人の「自分は役に立っていない」「自分には価値がない」という論理。さらには、前述の事件で放たれた「知的障害がある人は社会の役に立たない」という不要論。

その中で、自分という何らかの役割がある人に対して、あなたは、役に立たないといいますか?その評価は意味をなさないと思いませんか?と問いたいです。

他者を意識している自分より、自分を自分の人生の主人公にする自分のほうが、「役割」に徹することができ、安心を手に入れられ、その時こそ、自分自身からも「生きているだけで価値がある」「社会に役立っている」を認識するときなのだと思います。

これは、「知的障害がある人が存在しなければならない理由」ではなく、知的障害がある人もその人の役割があるという話になります。その役割をどうとらえるかは人それぞれに任せることになりますが、知的障害がある人の役割を知らない人には、間違った解釈にならないよう、人それぞれが持つ役割を説明していくことになるでしょう。

また、これを書いたことは私の「役割」であり、それを誰かに必要とされなくても、私の「役割」をしただけで、今日の私にとっては、これが書けたことに対してほんのちょっと役割ができたといううれしさを持っています。でも、まだまだ引き続き、答えを求めて、考えていくことだと思っています。

「私には役割があります」と思えること。

「あの人にはその人の役割があるよね」と、自分と切り離して思えること。

「あの人の役割は、自分には関係ない」と思えることは、それはそれでよいこと。

そして、他者の役割を知ろうとすることは、大切なこと。

人の人生を評価せず、誰かと自分を比べなくても良いのだと思える人が増えたり、役立たなければならないと考え不安になる人が減っていくと、きっと、社会はもっと緩やかに、しなやかに、あたたかくなるのではないでしょうか。

自分が持つ役割。

他者が持つ役割。

そんな視点も持ってみませんか?

参考:

「役割」を意識させてくださったのは、

一般社団法人プラスケアです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000