生を信頼してごらん

FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事·

ちょっと生を愛してごらん、生を信頼してごらん、すると生はあなたに必要なもの全てを与えてくれるだろう。生はあなたにとって至福になる、感謝の祈りに。Osho 


https://www.osho.com/ja/read/featured-books/yoga/trust-no-matter-how-many-times-you-are-deceived 【どんなにだまされても信頼しなさい!】より

 Osho,西洋からプネーにもどって以来、私は胸に緊張としめつけられる感じがあるのに気づいています。私は以前ほどオープンではなく、信頼していないように感じるのです。

 とてもいい。それはなくなるだろう。だが、あなたは理解しなければいけない。というのも、よく知っておかないと、それはまたやってくる可能性があるからだ。信頼しているときはいつでも、あなたはリラックスしている。そして、どんな疑いであれそれを許したら、ハートは緊張してしまう。というのも、ハートは信頼によってリラックスし、疑いによって縮むからだ。

 普通、人びとはそのことに気づいていない。実際、彼らは絶えずハートを縮ませ、しぼませたままだ。だから彼らは、そこをリラックスさせるとどんな感じがするのか忘れてしまっている。逆を知らずに、彼らはすべてがオーケーだと思っている。とにかく、100人の内99人はハートをしぼませて生きている。

 あなたが頭にいればいるほど、ハートはしぼむ。あなたが頭にいないとき、ハートは蓮の花のように開く……そしてそれが開くときは、すばらしく美しい。そのときあなたはほんとうに生き、ハートはリラックスしている。だがハートは、信頼の内、愛の内でしかリラックスできない。不信や疑いとともにマインドが入ってくる。疑いはマインドの入口だ。それは餌のようなものだ。あなたは釣りに行き、餌をつける。疑いはマインドにとって餌だ。

 ひとたびあなたが疑いに捕らわれると、マインドにつかまったことになる。だから疑いがやってきても、たとえやってきたとしても、なんの価値もない。私は、疑いはいつも正しいわけではないと言っているのではない。そんなことは言っていない。私はそんなことを言うような人物ではない。あなたの疑いが完全に正しくても、それでも間違っている。なぜなら、それがあなたのハートを破壊するからだ。疑いにはなんの価値もない。

 たとえば、あなたが見知らぬ部屋に誰か見知らぬ人といるとしよう。そしてあなたは、その人が泥棒か信頼できない人ではないかと疑う。この部屋でこの人と眠るのは安全だろうか? たとえその人が泥棒だとしても、人殺しだとしても、疑いに価値はない。

 疑って生きるより、信頼して死ぬほうがよい。疑って百万長者になるよりも、信頼して盗まれるほうがよい。あなたの富を盗む人は、なにも盗んだことにはならない。だがもし疑ったら、あなたはハートを失う。

 だから、信頼するようにと私が言うとき、私は信頼はいつもうまくいくと言っているわけではない。そんなことは言っていない。何度も何度も、信頼はあなたを多くの困難な状況に置くことになるだろう。というのも信頼すればするほど、あなたは攻撃されやすくなるからだ。そして、信頼すればするほど、あなたは騙そうと待ち構えている人たちの犠牲にされやすくなる。彼らは信頼する人たちを必要とする。そうでなければ、誰をもだますことはできない。

 だが、それでも私はだまされなさいと言う。それは疑い深いことほど高くはつかない。もし、人が選ばなければならず、その選択肢が二つ――だまされるべきか、疑うべきか――その二つしかないのなら、だまされた方がいい。ひとたびこれが決意されたら、疑いはあなたを捕らえることができない。

 疑いが強力なのは、それがあなたにずる賢さを与えるからだ。疑いが強力なのは、「あなたは無防備だ。私が守ってあげよう」と言うからだ。疑いは、「私は信頼に反対しているのではない。信頼してもいいが、まず見ることだ。まず疑って、信頼はその後だ。だまされる可能性がないとわかってから信頼すればいい」と言う。疑いはけっして「私は信頼することに反対だ」とは言わない。いや、疑いはいつも、「実際私は、あなたが信頼に足る誰かを見つけられるように手助けしようとしているのだ。私はあなたのしもべにすぎない。もしあなたが私に耳を貸してくれたら、あなたは誰か信頼できる人を見つけることができるだろう」と言う。

 だが、あなたは絶対にそういう人を見つけられないだろう。なぜなら、いったん疑うことに慣れてしまうと、癖になってしまうからだ。たとえあなたが、神と顔をつき合わせても、疑い続けるだろう。それは外側の人には関係ない。単にあなたの習慣のせいだ。あなたはそれをすぐにゆるめることはできない。もしあなたが、生涯にわたってそれを保護し、見守り、養ってきているとしたら、それを脇に置くことはできない。

 何度も何度も、信頼はひじょうに不確かな状況をつくりだし、あなたを危険な道へと導くだろう。あなたはますます攻撃されやすくなり、簡単にあざむかれ、だまされる。だが、それでも私は、どんなに高くつこうとも信頼だけが守るべきただひとつの宝だ、と言おう。それに、あなたはもうこのことが理解できるだろう。というのも、あなたのハートが、あなたのシステムの中で何がうまくいっていないかを、すぐに知らせてくれるからだ。あなたが、信頼と疑い、そしてその影響を感じることができるのはよい兆候だ。

 だから、ハートのなかでなにかが縮んでいるのを感じたら、いつでもすぐに内側を見なさい――どこかで疑いがわき起こっている。どこかであなたは信頼との接触を失っている。どこかであなたはもう生と響き合っていない。あなたは切り離されてしまった。

 疑いは切り離す。信頼は一体にする。そして、あなたが一体になると、ハートはリズムをとり、ハーモニーを奏でて、うまく流れる。それが、神聖であることのなんたるかだ。ハートの内にあり、そのハートが花開いていること――それが神聖な人のなんたるかだ。頭のなかにいて、計算高く、ずる賢いことは神聖ではないということだ。

 だから、ただそれを見守り、その兆候をふたたび失わないようにしなさい。グッド。

Osho, A Rose Is A Rose Is A Rose, #3 より抜粋

 Osho,今回西洋に6か月いて、とても自分が変わったように思えます。いったい自分がなにをすべきかわかるのです――自分の恐怖を乗り越えて関係性のなかに入ろう、自分を信頼して人びとと交わろう、と。

 あなたは「自分自身を信頼したい」と言い、そして「恐怖を落としたい」と言う。あなたは「人びととの関係性に入りたい」と言う。だがこれらはみな相対立している。もしほんとうに自分自身を信頼したいなら、自分の恐怖も信頼しなければならない。「この恐怖を落とさないといけない」と言ったら、自分に対する不信が始まっている。その恐怖は自分自身の存在からやってくる。外側からやってくるわけではない。それはあなたの恐怖だ……それはあなただ。

 一方では「自分自身を信頼したい」と言いながら、すぐに「恐怖を落としたい」と言う――もう不信が始まっている。恐怖も受け容れることだ。それはそこにある。いったいどうすることができよう。自分自身を信頼したいと言うとき、人びとはいつも善いものばかりを信頼したがる――愛とか、祈りとか、沈黙を。ところがその反対のものになると、自分自身を信頼したくない。そして戦いを始める。

 もし愛があるなら、そこには必ず憎しみの部分がある。自分自身を信頼するなら、愛と憎しみ両方を信頼する。愛憎を信頼する。なぜなら両方ともあなたのものだからだ。わけへだてしない。「こんな憎しみはまったくいらない。ただスイートに愛していたい」などと言わない。そんなことを言ったら葛藤が始まる。

 知性のあるところならどこにでも、恐怖はある。恐れないのはばか者だけだ。だから恐怖を落としたかったら、どこまでも愚かになるほかない。石のように鈍く、無感覚になるほかない。花はいつも恐れる。それは華奢で、こわれやすい。今はここにあっても、次の瞬間にはなくなってしまうかもしれない。

 人間の意識はこの存在のなかでもっとも繊細なものだ。だからいつも恐怖がある。それはべつにおかしくない。自然なことだ。「恐怖なんていらない」と言ったとたん、恐怖そのものを恐れるようになる。それは微妙な恐怖になる。そしていつまでたっても、かくれんぼをしていられる。

 受け容れるということはすべてを受け容れることだ。信頼とはすべてを信頼することだ――善いも悪いも。あなたのなかの罪人も聖者もともに信頼する。聖者を選び罪人を捨てるとしたら、あなたは自分自身を信頼していない。今までに自分自身を信頼していた聖者はいない。彼らは、「悪魔的な部分」と自分で呼ぶその部分をいつも拒絶してきた。宗教的な人びとは自分自身を受け容れない。ただ善い人間であろうとする。しかし生というものは正反対のものなしには存在できない。生は弁証法だ。

 無感覚になることもできるが、それでは役に立たない。それによって知性がさらに大きく花開くことはない。そして知性が失われたら、すべてが失われる。

 憎しみを落としたかったら、愛も落とさないといけない。するとすべてが失われてしまう。だからこそ聖者たちは愛を恐れるようになったのだ。愛について語りはするが、愛することはできない。なぜなら憎しみや怒りを恐れているからだ。

 私の姿勢は、非分割の姿勢だ。あなたには自分自身を信頼してほしいが、そのときにはそれがなんであろうとも信頼する。自分の存在が人びととのつきあいや関係性を望んでいないなら、それを信頼する。それがあなたというものだ――どうして強制する? 強制はすべて不信頼だ。

 ずっとそうやって永久に隠れていられそうです。

 自分のあるがままにまかせるのだ! あなたは自分のあるがままでしかない。だからといって物事が変化しないというわけではない。物事はとてつもなく変化する。でもただ受け容れるのだ。ばかみたいに強制したり、変化させたり、あれこれやったりするのはやめて、ただ自分自身になる。隠れるのが好きなら、それもオーケーだ。隠れていてなにも悪いことはない。それこそあなたに自然に現れたものだ――あなたは隠れ人だ。もし逃げることがあなたに自然に現れたとしたら、あなたは逃避家だ。だがそれもオーケーだ。

 一か月のあいだ、その「オーケーであること」のなかにとどまる。そしてそれが信頼というものだ。比較も、選択もない。矛盾があったとしても、それはそこにある。一か月のあいだ、この絶対的な「オーケーであること」の空気のなかに生きる。するときっと物事が変わってくるだろう。なんの努力もなく、あなたは人びととつきあいだす。すると、そこにはとてつもない美しさがある。少しずつあなたにもわかってくるだろう――恐怖はそれほどでもなくなり、知性が失われることもないと。自分の恐怖さえも受け容れるとき、あなたは恐れなくなる。いったい誰が恐怖を落としたいと思うのか。それもまた恐怖だ!

 あなたは自分の恐怖を受け容れるだけの勇気を持っていない。あなたは自分自身の恐怖を恐れている。自分の恐怖を受け容れるとき、あなたは恐れなくなる。あなたは無恐怖になる。ここのところがわかるかな? あなたがなんであったとしても――善、悪、罪人、聖者、昼、夜、夏、冬――なんであったとしても、それがあなたというものだ。

Osho, The Great Nothing, #21 より抜粋

 自分自身を信頼するとき、私はいろんなことを自分に問いかけます……そのひとつは、はたしてあなたが私の師(マスター)だろうか、ということです。

 私を落としたいときには、いつでも落としていいよ! だがこれはたんにこういうことだ――あなたは信頼が生じてきたと思っているが、それは信頼ではなくてただのエゴだ。もしそれが信頼なら、あなたはもっと私を信頼するようになるだろう。信頼はけっして疑いを生み出さない。信頼はさらなる信頼しか生み出さない。もし弟子が信頼に到達したら、師にさらに感謝し、師をさらに信頼する。自分自身にたいする信頼は、けっして師への信頼と逆行するものではない。もしそうなら、それは勘違いでしかない。それはたんにエゴが自分自身を主張し、「自己への信頼」を装っているだけだ。するとあらゆる疑いが生じてくる。すべてが生じてくる。

 でもそれが楽しいなら、それもまったく問題ない!

 あなたが信頼と呼ぶこのトリップを楽しんでいるなら、それはまったく問題ない。楽しめばいい! べつに悪いことはない。人びとはひじょうにおかしな考えを持っている。どこかの誰かが自分の師として宿命づけられていると――あたかも前もって決定されているかのように。

 もしあなたが私の弟子だったら、私はあなたの師であり、もしあなたが私の弟子でなかったら、私はあなたの師ではない。それはあなたが弟子であることによって起こるのだ。ところが人びとはひじょうにばかげた考えを持っている。いつも私に聞くのだ、「あなたは私の師ですか」と。あたかも私が師であることが、彼らが弟子であることに関係ないかのようだ……。

 それはすべて弟子にかかっている。私のほうはまったく、あなたの師であろうがなかろうが関係ない。どちらであろうと、私にとってはまったく問題ない。あなたのほうが弟子になるのかならないのか決めるのだ。はたして私があなたの師かどうかなんてたずねるものじゃない。それは二義的なことだ。もしあなたが弟子であるなら、私は師だ。もしあなたが弟子でなければ、私は師ではない。最初はあなたのほうから始まる。そして弟子になるということは信頼であり、とてつもない愛であり、明け渡す勇気だ。

 エゴがこうしたすべてを邪魔するせいで、「自己への信頼が生じた今、いったいなんの必要があるのか」というゲームが始まってしまう。でもその自己への信頼を試してみるといい。サニヤスを落とし、自己への信頼を試し、どうなるか見てごらん。もしなにかが起こったら、すばらしい。もしあなたが成長したら、すばらしい。もし成長しなかったら、もどってくればいい。ほかに道はない。

 試してみるといい! もし自分のなかになにかが生じ、自分ひとりでも充分だと思えるようなら、試してごらん。べつに難しく考えなくていい。そしてもし疑いが生じるようなら、私が今言っている通りだ。それを疑えばいい。

 だからあなたには完全な自由をあげよう。弟子は完全に自由でないといけない。私と一緒にいるのもいないのもあなた次第だ。私はなにも強制しない……。

 だからそれについて考え、自分で決めるのだ。私に聞いても役に立たない。私に聞いて役に立つのは私を信頼しているときだけだが、そうだとしたら聞くこともないだろう。ただひとつだけ覚えておいてほしい。もしほんとうに自分のなかに信頼が生じてきたなら、それによって私にたいする信頼も深まる。それはけっして逆行はしない。そうでなかったら、それはただのエゴ・トリップだ。

Osho, Turn On, Tune In And Drop The Lot, #27 より抜粋

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000