https://enkieden.exblog.jp/27908994/ 【蝦夷征討(えみしせいとう)】より
日本書紀によると、12代景行天皇40年夏、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺した。
時代は西暦330年頃と考えられる。皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと、302年頃-332年頃)は西国の熊襲退治から帰って来て数年しか経っていなかったが、東国の蝦夷征討の将軍として再び出発した。
日本武尊は伊勢神宮に詣で、神宮斎主で叔母の倭媛命(やまとひめのみこと)に挨拶した。倭媛は日本武尊に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、無事を祈った。
駿河の焼津(やいず)に着いた日本武尊は、賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で逃れた。それで天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われた。
日本武尊は相模から上総(かみつふさ、千葉県)に船で渡ろうとして、暴風に遭い漂流した。その時、日本武尊に同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み、人身御供として嵐を鎮めた。
弟橘媛は穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘で、日本武尊の船団運用は穂積氏が担っていたと考えられる。全体の指揮官は物部大咩布(もののべのおおめふ)であった。2018年12月25日投稿の「物部大咩布命」をご参照ください。
日本武尊は陸奥国(みちのくのくに)に入り、蝦夷の支配地に入ると賊は恐れて服従した。
陸奥国の前方後円墳を調べると、3世紀から4世紀の古墳時代前期に築造されたものが多いが、後期にも大型古墳が築造されている。
東北最大の雷神山古墳(宮城県名取市植松山1)が墳丘全長168m、4世紀末の築造、
亀ケ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町青津)が全長127m、4世紀後半築造、
会津大塚山古墳(福島県会津若松市一箕町)が全長114m、4世紀末築造、鉄製品に加え三角縁神獣鏡が出土している。
玉山古墳(福島県いわき市四倉町玉山)が全長112m、4世紀半ばの築造。
杵ガ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町稲荷塚)は3世紀末から4世紀初頭の築造で、墳丘長45.6mと小さいが、東北地方最古級の前方後円墳。
岩手県奥州市胆沢区(いさわく)南都田(なつだ)の角塚古墳(つのづかこふん)も、墳丘長45mと小さいが、列島最北端の前方後円墳で、5世紀後半築造、国の史跡になっている。
山形県にも稲荷森古墳(南陽市長岡稲荷森)があり、墳丘長96m、4世紀末築造。
日本武尊の東国遠征の結果として、東北地方が大和政権と密接に繋がり、前方後円墳が築造されていったことが分かる。
日本武尊は蝦夷平定後、各地を巡り、尾張国造の娘の宮簀媛(みやずひめ)を娶り長く留まった。日本武尊は草薙剣を宮簀媛の家に置いたまま、大和に帰る途中に伊勢の能褒野(のぼの)で病死した。2016年11月1日投稿の「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。
草薙剣は三種の神器の一つとして祀られ、熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)の御神体となっている。
10代崇神天皇(251年-301年)の皇子である豊城入彦(とよきいりひこ)を祖とする皇別氏族があり、その中の毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県と栃木県)を本拠地とした古代豪族である。
豊城入彦は崇神天皇の命により東国を治め、子孫の毛野氏の支配地より北は蝦夷地(えぞち)であった。豊城入彦の母は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)、紀伊国荒河戸畔(あらかわとべ)の娘で、崇神天皇の妃になった。
日本武尊が東国遠征に行った時には、毛野氏は豊城入彦の孫・彦狭島王(ひこさしまのみこ、初代上毛野国造)か、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのみこ)だったと考えられるので、日本武尊にとっては大いに手助けになったのではないか。作戦や道案内、援軍の加勢もあったであろう。
御諸別王の名が、出雲の大国主命と少彦名命に縁のあるような気がする。群馬県前橋市三夜沢町の赤城神社(上毛野国二宮)の祭神が、豊城入彦命と大己貴命になっている。栃木県宇都宮市の二荒山神社(下毛野国一宮)の祭神が、豊城入彦命・大物主命(大国主命)・事代主命となっている。
豊城入彦命が出雲の大己貴命を信仰していたようだ。
日本武尊の蝦夷征討後も毛野氏は、蝦夷地の支配・管理運営に勤め、善政をしいたと日本書紀に記されている。
毛野国は16代仁徳天皇の時代に、上毛野国(かみつけぬのくに、群馬県)と下毛野国(しもつけぬのくに、栃木県)に分かれた。後には上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)と呼ばれるようになる。
7世紀半ばの飛鳥時代に越国の国司であった阿倍比羅夫が、蝦夷征討の将軍として活躍し、658年には水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、660年には粛慎(みしはせ、北海道か樺太の蝦夷)とも交戦して勝利した。しかし、白村江の戦いでは662年に第二次派遣の征新羅将軍として水軍を率いたが、663年に大敗した。
唐は白村江の後、高句麗を攻撃した。668年に高句麗は滅び、唐に吸収された。
阿倍比羅夫の孫に阿倍仲麻呂(698年-770年)がおり、遣唐留学生として717年に長安に渡り高官として働いたが、帰国せず唐で亡くなった。
阿倍仲麻呂が753年に唐の都・長安で、故郷の大和を想って詠んだ歌、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
阿倍比羅夫の生没年は分からないが、阿倍比羅夫と阿倍仲麻呂の活躍時期の違いを考えると、仲麻呂は比羅夫の孫ではなく、4世孫か5世孫くらいの開きがある。
日本列島では、8世紀から9世紀にかけても蝦夷との戦いは続き、坂上田村麻呂(758年-811年)が征夷大将軍として蝦夷征伐を行った。
https://adeac.jp/nagara-town/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht020210 【大和の勇者たち】より
このヤマトタケルは、もともと大和地方の勇者を意味するのであるが、御名を伝えようとして設置したと伝える。タケルベは東は常陸から、南は薩摩に至る地域の軍事上の要地にあり一種の軍団であり、朝廷から各地方鎮撫の為に置かれたらしく、ヤマトタケルの西討東征の物語は、このタケルベの地方征略の史実が反映し、多くの遠征軍が四世紀から五世紀ごろにかけて、各地で長い間に経験した数多くの出来ごとが、一人の英雄のすぐれた業績として、まとめあげられたのではなかろうかといわれており、現在の形にまとめあげられた時期は、六世紀後半ともされている。(4)『日本書紀』『古事記』共に上総に上陸された後、常陸に向われた経路について何も語っていない。
しかし上総の中央部には非常に数多く、ヤマトタケルノミコトに関連する伝説地が遺っている。房総地方におけるミコトの伝説地については、堀一郎・川村優・平野馨などの諸先学の調査がある。(5)平野馨氏は君津郡を中心に多くの伝説を集め、多方面から考察せられた『房総のやまとたける』の「あとがき」で、次のように言われている事は注目すべきであろう。
「西上総に伝わる日本武尊伝説について民俗学的な立場から冗筆を以て考察を試みて来た。その結果として全くの付会に過ぎないものと、付会ではあってもその中に古代的感覚とか信仰の祕んでいるもの、或る場合には記紀から輸入したものなどのあることがわかった。そして更にもう一つ、全体を通観してもっと古代の事実に近い面もあることが明らかになった。例えば相模と上総の間の航路や、東京湾から太平洋岸への陸路の道順などである。そして又大和朝廷から武勇優れた武将が派遣されて、この地に遠征して来たというのは恐らく事実であろう。勿論一回限り一人の英雄ではない。記紀によってみても大和勢力の東方経路は長期にわたって非常に多い。
即ち神代の香取・鹿島をはじめ、天津彦根命(馬来由・須恵の国造の祖)・天穂日命や、神武時代の天富命、崇神時代四道将軍の一人武渟川別命の東国派遣であり、豊城入彦命の上下毛陸奥征圧・武内宿禰の東北巡察などがある。そして日本武尊の東征となるがその後にも景行天皇東巡・彦狹島王・御諸別王の派遣、清寧時代の巡察、宍人臣鴈・田村麻呂の東征などがある。このような記載に示されている度重なる東国征服の過程における種々な印象が、この地方では日本武尊に集約されたものとみられる。従って上総には記紀の日本武尊よりもはるかに拡大された事跡が止められているのである。――(略)―― 私達の先祖は自分らの持っている苦楽と哀歓の歴史を開拓の物語りを、そして信仰などをそれぞれ日本武尊の事蹟と結びつけて語り伝え育てて来たのであった。伝説には確かに付会したものが多いが、その伝説のヒロインには民衆の悲願が、そして或時は憧憬がこめられている。伝説の主人公は民衆の代表者である。そこに人間らしい素朴さの一面を認めうるのである。
私は伝説を解剖し放しでなく、次の段階として伝説を組み立て伝えていった民衆の、みずみずしい豊かなる感覚とエネルギーを、正当に評価しなければならないと思っている」
すなわちこの伝説地や、ミコトの通られたと伝える道筋は現実の一人の足跡ではなく、東方に進出した大和朝廷の勢力拡張の進展のあとと、考えなければならないのだが、この長柄にもミコトの東征にまつわる古い伝承が残っている。
https://zipangu-tourism.com/posts/History0511 【武神。日本武尊(ヤマトタケル)の正体判明!? 所沢市/神明神社【クセの強い神社仏閣探報記】】より
神明神社。全国に5000社程度、『神明』を冠した神社があるそうですが、意外になんですが、これらの神社の多くは『神明』としての歴史はあまり深くないんですよね(語弊があるので後ほどフォローします)。整理がてら、記者の地元にある『所澤・神明神社』を解説しつつその理由を探っていたら、古事記のヒーロとして描かれる『日本武尊(やまとたけるのみこと)』の正体が見えたので言語化しておきたいと思います。
先に考察の答えを書いておきます。所澤・神明社の創建は8世紀後半から9世紀初頭。創建逸話に絡む『日本武尊(やまとたける)』とは当時の征夷大将軍『坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)』。以前も同じ話を少しだけ記事化しておりますが、少しだけアップデートしてあります。で、紹介する所澤・神明社は元々は法相宗の仏閣だったと考えられる。が考察の結論です。
では、この論拠をひとつづつ解説していこうと思います。意外に壮大なので(笑)ごゆるりとお楽しみください。
現在の所澤・神明神社の主祭神といえば、ほぼ『天照大神(あまてらすおおみかみ)』です。言わずと知れた日本の神道の最高位とも言われる女神で、全国にある神明社の総本山といえば『神宮』つまり伊勢神宮です。
記者は実は神明社を訪れるのが好きです。理由はいくつかあるのですが、そのほとんどが元々は神明社でないことが多いからです。つまり、その場所にある神明社ルーツを探ると表向きと違う『その土地』のルーツや地場の信仰が見え隠れしてくるからなんです。
神明の名を関する神社、『天照大神』が主祭神になっている神社は殆ど後付け説
『クセの強い神社仏閣探報記』として連載をしている内容は、何度も申し上げていますが、小社で発刊している『アマテラス解体新書』と『皇室と王室の解体新書』の著者である岡本佳之さんの考察する土台に則って記者が考察しているものです。著者には日本の歴史に対してのいくつかの土台となる説を細部に渡り提示しているのですが、まとめておきます。
(1)日本神話の多くは古代エジプト、古代メソポタミアの史実を転化している
(2)天皇制、神道および日本の国号は『天武天皇』が整えたシステムである。編纂された古事記は天武天皇の血統の視点で描かれている。日本書紀は『天智天皇』の血統視点で描かれた書物である。天智天皇の血統は『仏教』を重んじた一族だった。
(3)よって、天武天皇と天智天皇は兄弟ではない
(4)天武天皇の血統と天智天皇の血統は大元は同じでも辿ってきたルートが別物
(5)天武天皇は周王朝・新羅経由の血統でエジプト第18王朝を遠祖に持つ
(6)天智天皇はペルシャ・百済経由の血統でエジプト第18王朝を遠祖に持つ
(7)聖書は民族をまとめるために、エジプトでの歴史を転化して創作されている
(8)現在の皇統は明治維新をもって藤原系(仏教)から天武天皇系(神道)の血統に変わっている(戻っている)。<ゆにえ、廃仏毀釈、神仏習合を経て仏閣が神道系の宗教施設に変わっている事案が多い>
だいたい上記のような岡本佳之さんの基本考察を考え方の土台にしつつ、注目している神社の社伝などから古来の信仰をほじくり出す。というのが当記事の基本になっています。と、この方程式にのっとりますと、
もともとこちらの所澤・神明社は創建時には仏閣で、日本武尊(やまとたける)云々が創建に絡んでいるという社伝も、ある意味、設定だと考えることができます(信仰を否定するわけではありません)。
天照大神をお祭りしていることの多い伊勢系の神明社は、そのほとんどが明治維新の廃仏毀釈運動後に『仏閣→神社』にジョブチェンジしていることが多く、歴史を俯瞰して考察した場合、こちらも同様の経緯を辿っていると考えることができます。
元は真言宗の仏閣だった(が、あった)神明社
では、雑に結論を出しましたが、社伝からもう少し詳しく紐解いていくことにしましょう。意外に摂社群に土着の信仰の片鱗が隠されているので、なかなか面白い神明社ではあるのです。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)に祈られたことに由来します。
日本武尊が東夷征伐にあたり、当神社の付近である小手指原にさしかかり、ここで休憩したと伝えられます。所澤神明社はそのおり、日本武尊が天照大御神に祈られたことに因んで、土地の民が天照大御神を祀ったものといわれます。
所澤神明社は、所沢周辺に数多く残る日本武尊に関する伝説の中心的な存在でもあるわけです。
当神社は、文政九年(1826) に、火災に遭い社殿および別当寺であった真言宗花向院が焼失いたしました。それ以前の二度の火災とも併せて、このとき古記録と宝器のほとんどが失われたために、残念ながら正確な創立年は不詳となってしまいました。
しかし、現在も境内に残る老けやきは周囲一丈二尺、大樫は一丈三尺、喬杉は一丈二尺というように、何本もの大樹が堂々とそびえており、当神社がはるかな古よりつづく神社であることをしめしています。
文政の火災で総鎮守である神明社を失った氏子たちの愁いは大きく、直ちに再建にとりかかりました。当時の名工、中手妙王太郎の後見のもとに、社殿が造営されたと伝えられています。
明治二年に寺社を分離して花向院は廃寺、神明社が独立し、明治三十五年には現在の社殿が建立されました。また、昭和九年に県下随一の大きさを誇る総檜づくりの雄大な拝殿が完成。また末社も相殿として新築し、昭和九年に竣工したものです。
まず、日本武尊が絡む由来が設定であろうと考える理由。こちらは同じ埼玉県の三峯神社考察時にも指摘したのですが、ここ武蔵野の『日本武尊』に絡む逸話のモデルについて、記者は実在した征夷大将軍『坂上田村麻呂』がモデルになっているのではないかと指摘しています。日本武尊の伝説は日本各地に数あれど、彼が実際に存在した考古学的証拠はいっさい見つかっていません。
そんななか、『アマテラス解体新書』、『皇室と王室の解体新書』の著者である岡本佳之氏は古事記に登場する日本武尊を様々な証拠を提示しつつ中国の周王朝の王統の数名がモデルになっていると指摘しています。
その土台に則っているわりに、日本武尊は坂上田村麻呂ではないかと言っているのは矛盾しているのではないかと思われるかもしれませんが、ここは矛盾しません。
そもそも坂上田村麻呂=日本武尊という考察に至ったのは、古事記で語られる日本武尊のモデルは周王朝の王という岡本佳之氏の説が本当ならば、埼玉などの武蔵野界隈の古い伝説に残っている日本武尊とはなんなのか?となったからです。
坂上田村麻呂=日本武尊説
武蔵野界隈の誰かによる東征の伝説の数々...。そうなると、日本武尊なんて設定が生まれた古事記・日本書紀の編纂以降の話になると考えられます。以降の派手な東征逸話...となると8世紀後半から9世紀後半に活躍した征夷大将軍『坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)』あたりはさぞ人気だったと思うのです。
となると、年代的にも活躍的にもこの『坂上田村麻呂』が界隈をうろちょろしていて、いろんな逸話が都合の良い伝承に紐づいている可能性を指摘したいわけです。
埼玉県所沢市には北野天神という古社があるのですが、そちらは小手指という場所にあります。そちらにも東征してきた日本武尊の伝説が社伝にあるのですが、それも神明社と似たような経緯なのじゃないかと思ってしまうわけです。
この坂上田村麻呂が自ら『日本武尊の化身である』と誇ったにせよ、まわりの持ち上げ組が、そう讃えたのかは知りませんが、そういった転化があったのでは?と最初は思ったのです。
このあたりの逸話が元だと考えれば、創建年や地域の歴史を鑑みても辻褄があってきます。ただ、調べていくうちに社伝に『日本武尊』が明記されている裏事情が見えてきました。それについては後述します。日本武尊=坂上田村麻呂。この考察を主張するにはちょっとした矛盾があったのですが、調べていくうちに解消しました。
先にも書きましたが『この神社の創建は日本武尊〜』だとか『崇神天皇の時代に遡り』だとかいう社伝は歴史的観点から見るとちょっと、『盛り』設定であると解釈するわけです。なので、所澤・神明社の真の歴史を深掘りするならば社伝にある真言宗花向院についてと、本殿以外に配置されている摂社群から考察していく必要があります。
真言宗花向院とは?
社伝にある真言宗花向院の創建については、さすがに表層の資料からでは追いかけることができませんでした。社伝にあるように文政九年(1826)に火災云々の記録が残っていますので、当然ながらそこから創建年は更に遡る可能性があります。
そこでピンとくるのが社伝に出てくる『日本武尊』です。これを記者は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ、758年-811年)と考察しているのですが、坂上田村麻呂は毘沙門天推しの人物。まず、これを覚えておいてください(だから神道の神である日本武尊を自身に投影する説には疑問を感じた)。
因みにこの田村麻呂東征は延暦20年(801年)〜延暦21年(802年)ごろに本格的に行われています。第一回目はもう少し早いですが、それぐらいです。
これを元に考えると、真言宗花向院の創建は9世紀初頭くらいの可能性と考えました。ただし、真言宗ではなく、法相宗のお寺として生まれたのでは? とまずは考察しました。
見えてきた事実。社伝で語られる『日本武尊』の真の正体
社伝にあります真言宗のお寺ですが、真言宗の空海は坂上田村麻呂の死後に来日した僧侶ですので、坂上田村麻呂と直接的な因果はなさそうです。が、坂上田村麻呂の宗派を考察するに、京都清水寺の創建に絡んでいる人物ですので法相宗であった可能性が指摘されています。
(ただ、可能性として、界隈には修験者の役小角(えんのおずぬ)伝説も多く、アメニズム、密教よりの話が絡むこともあり得ます。所澤・神明社境内には冨士講の石碑などもある)
法相宗の唯識思想は真言宗に取り入れられており、空海は法相宗の唯識思想を学び、それを密教の教えに取り入れました。唯識の「識の働きによって世界が形成される」という考え方は、真言密教における「大日如来の智慧の顕現」という考え方と共鳴する部分があります。つまり、建立のタイミングで法相宗であったとしても、のちに真言宗の仏閣として発展していくことには違和感はありません(仏教について記者が詳しくはないので、この解釈が正しいかはさておきます)。
で、坂上田村麻呂の推し神とも言える、武神・毘沙門天(びしゃもんてん)は法相宗の中でも四天王に含まれる重要な神様。ついでにいえば、神性が古事記に描かれる『日本武尊』と同一です。武の神様ってヤツですね。
このあたりでピンと来たのですが、坂上田村麻呂は古事記の日本武尊を自身に投影したのではなく、自分の信じている毘沙門天を自身に投影(我こそは毘沙門天の化身なり〜的な/もしくは他人が見立てた)したのではないでしょうか。
そこで東征の折、立ち寄った所澤の地で信仰のランドマークとして毘沙門天を祀る社をこの地に建てたのではないか(建立を働きかけた。もしくは彼の伝説にあやかった)と妄想しました。近所の小手指(こてさし)・北野天神社や、同じく神明社と併設された多聞院などが所沢市にあることからも、この考察、以外にイケてる気がするのです。
ただ、明治以降の廃仏毀釈運動では神道の神である日本武尊(やまとたけるのみこと)を全面に推し出す必要があり、後付けで社伝などに記録された可能性があります。元々は毘沙門天に関連する宗教施設(法相宗or真言宗)ではありましたが、創建は日本武尊という設定に置き換え、さらに神道・天孫系の神明社と名を変え、現在に至るというのが真相なのではないでしょうか。
ややこしいですが、毘沙門天推しの坂上田村麻呂の伝説が、かなり新しい時代(下手すると明治維新以降)に『日本武尊(やまとたける)』に置き換えられたと考えることができます。これならば矛盾しません。
この考察もあり、真言宗/密教絡みで、武蔵野各地にある日本武尊伝説が絡む各神社の謎も同時に解けた気がしている記者です(埼玉三峯神社、妙見神社、榛名神社ほか)。
なので、神明社としての歴史は浅いかとは思うのですが、宗教施設としての歴史は、8世紀後半に遡ると言えるかもしれません。
気になる摂社群もフォロー考察することで見えてくる、界隈でブイブイ言わせていた氏族
実は記事を書く前にキーになるのではないかと考えていた、神明社内にある摂社がありました。それについても触れておきたいのです。第一の摂社と明記されている『蔵殿神社』です。この界隈の土地神的役割だったともあり、明治維新以前は従殿権現(じゅうどのごんげん)と称されていたとあります。現在は崇神天皇が祀られているとありますが、コレは明治維新以降の神道推しの流れの後付け設定と考えることができます。
ちなみ西東京の尉殿神社には元々、倶利迦羅不動明王が祀られている。こちらも真言密教で重要視される。こちらは、所澤・神明社の本殿から一段下がった場所にある摂社。
十殿権現といえば、真言宗などでも重要視される神様なので、真言宗花向院の話も含めると、ああ、やっぱりここって元々は『仏閣だったのね』というのが記者の結論です。ほか末社に阿夫利神社(あふりじんじゃ)ってのがあるのですが、コレ、お祀りしているのが大山祇命(おおやまつみのみこと)で、秦氏や阿曇氏の祖神のひとつ。
神明社であれば菊花の紋が重用されそうなものですが、秦氏にゆかりのある巴紋が多いことからも秦氏の影が地域に影響を与えていたのではないかということが考察できる。小手指の地名も記者は『秦氏にゆかりのある小手姫から来てる』を説として主張しておきます。
因みに秦氏も阿曇氏もどちらも仏教推しの氏族なんですよね。特に秦氏と坂上田村麻呂の関係をかい摘むと本説の裏付けになるかもなので以下も紹介しておきます。
日本武尊の妻・小手姫(おてひめ)と坂上田村麻呂の妻・高子姫の逸話の類似
所沢市の小手指という場所にある北野天神社も結局このあたりの氏族や坂上田村麻呂が絡んでいた形跡があります。小手指の地名の由来は、武具の籠手に由来しているというのが定説ですが、それもあるのですが、福島県の千貫森の伝説にある小手姫(おてひめ)の小手にも由来していると思うのです。で、この小手姫、秦氏/葛城氏とも関連があると考えられます。
小手姫の出自は葛城氏。葛城氏は秦氏の兄弟氏族。※どちらもインド・クシャーナ朝が遠祖(岡本佳之氏説)
北野天神は所沢市にある古社で延喜式にも名を連ねる。天神なので菅原道真が御祭神だが、ここも日本武尊が創建に云々との社伝があり、物部天神社、國渭地祇(くにいちぎ)神社との三社合祀。
北野天神境内には摂社として文子天神社がある。多治比文子(たじひあやこ)は養蚕や機織りの神様としても知られている。このスキル特性は秦氏ですよねぇ。小手指の地名が小手姫から来ていると考察しているのはこのあたりが根拠のひとつ。
小手姫と言えば福島県千貫森に伝わる悲劇のヒロインなのですが、日本武尊の妻設定があります。日本武尊、東征のおりに日本武尊は小手姫に出会い妻として迎え入れます。後に東の地に迎えに向かう予定だったのですが、それが叶わず待ち続ける。というお話。
坂上田村麻呂の妻に関するざっくりとした伝説(寓話と思われますが)
(1) 田村麻呂と「阿弖流為の妹」の伝説矢じる
坂上田村麻呂は、蝦夷(えみし)の指導者である阿弖流為(アテルイ)と戦いました。ある伝説では、阿弖流為の妹(または娘)が田村麻呂と結ばれたとされています。しかし、戦いの前に田村麻呂は都に戻り、彼女は東北に取り残された。
この話の流れが、小手姫伝説と似ているんですよね。
(2) 田村麻呂の妃・高子姫伝説(福島県)
福島県には、「高子姫(たかこひめ)」という田村麻呂の妃に関する伝説があります。田村麻呂が東北行脚の際に、高子姫という女性と出会い結ばれた。しかし、戦うために田村麻呂は一旦、高子姫は夫の帰りを待ちながら諦めた。
この「待ち続けた妃」の話も、小手姫伝説と共通点が多い。と思いませんか? もしかしてこの寓話自体が古事記の日本武尊の悲劇のストーリーを転化させた可能性もありますが...。
このあたりも、後世に語られる日本武尊は坂上田村麻呂をモデルにしているのではないかという根拠のひとつです。表現が難しいんですけど、神代の歴史を御由緒に組み込むために本来は毘沙門天の化身としての坂上田村麻呂(法相宗/真言宗)だったと思うのですが、神道的な流れで行くと日本武尊に転化したかったんでしょうね。
元々、武蔵野界隈には日本武尊伝説が創建に絡んだ神社が多いのですが、まぁ、坂上田村麻呂あたりがモデルだと仮定すれば、だいたい辻褄がいくんです。歴史の妄想学ではありますが、楽しませていただきました。
0コメント