https://ameblo.jp/1030kiku/entry-12720021719.html 【「生る」宮沢賢治で生命誌を読む】
こんにちは。渡邉希久子です。「生る」宮沢賢治で生命誌を読むは、昨年、数年ぶりに偶然出会った友達と近況報告する中でその友人が編集の仕事をしたという事で読んでみた本ですが
とても感銘を受けた一冊です。生命誌という視点から、宮沢賢治の自然に対する洞察を作品を通して書かれた本です。
「土神ときつね」「セロ弾きのゴーシュ」「なめとこ山の熊」その他の童話や詩も含め、まだ読んだことのない人にも分かるように作品に添いながら生命誌的観点で語られています。
命というものをどう捉えるか
わたしという人が、個の人間生活だけでなく自然と周囲を含む私事として捉えた生き方を探るべきなのではないかという、お題が与えられた内容かと思っています。
この情報過多で混沌とした時代において何を中心に置いたらよいかを考えさせられる本。
と私は感じました。
生る 〔宮沢賢治で生命誌を読む〕 (中村桂子コレクション・いのち愛づる生命誌(全8巻)第7巻)Amazon(アマゾン)2,000〜7,018円
この本を通して一貫しているテーマは人は「自然の中にいる」というものでこの感覚は、生命誌が一番大切にし、多くの方と共有したいと思っているものです。と筆者は語っています。
序章では、このように書かれています。
「人間は生きものであり、自然の一部である」というところから始める生活様式を組み立て、
それを支える自然征服型ではない 科学技術に目を向けるのでなければ、問題は解決しません。自然の物語に目を向け、そこにある知恵を身につけることです。
そこで登場するのが宮沢賢治です。賢治は、作品の最初に置かれる言葉「きれいにすきとほつた風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむ」とし、"虹や月明かりかはもらったお話を語る" と言っています。自然の中にある物語に耳を傾け、生きものであることを意識しながら、競争社会に明け暮れて格差社会をつくるよりは、自然に秘められた知恵を学び、すべての人が本当の幸せを感じる社会をつくる方が楽しいに決まってます。とあります。
自然と言うと、自分が住んでいる周りには自然は無いしと思われるかも知れませんが、それは忘れているだけで食べているもの、ひとつとっても、自然からいただいたものです。
当たり前のように自然からの恩恵を受け取っているにもかかわらずただそれを忘れているのに過ぎないのだと思います。
宮沢賢治の詩(賢治は詩のことを心象スケッチと読んでいます)「春と修羅」の一節にはこうあります。
「すべてがわたくしの中のみんなであるように」生命誌が大切にしている人は「自然の中にいる」という感覚をこの言葉のように捉えるとしたら自然の中の生きものとしての私というのが現れ、それは全体が自分であり、自分が全体だという意識にたどり着きます。
この考え方が人と自然、自分と他人を分け過ぎて考える事なく自分も社会も幸せに導く鍵になっていると感じています。
そんな事をキラキラとした言葉の宝石で散りばめた賢治の作品から染み入るように感じられる美しい本です。ご興味ありましたら手に取ってじっくり読んでいただきたいです。
https://mag.yamap.com/magazine/45978 【生命誌研究・中村桂子さんと語る、弱さを活かして生きのびる方法 |「生きもの目線」の哲学②】より
人間は生きものである──。この考えをもとに、約40億年の生命の歴史を研究してきたのが、中村桂子さんです。今回教えていただいたのは、人間をはじめとした生きものの「弱さ」こそ、生きのびる起点になるということ。生きやすい社会をつくるため、自然から学ぶ大切さについて語ってもらいました。
人間の弱さが起点に
YAMAP 春山慶彦(以下、春山) ぜひ中村先生にお聞きしたいことがあるんです。
生命誌研究者 中村桂子(以下、中村) はい、なんでしょう。
春山
人間の最たる特徴は何だろうと考えたとき、それは「巡礼」ではないかと思うに至りました。というのも「巡礼」には、人間の主な特徴の2つが凝縮されているからです。
1つは、直立二足歩行。これだけ長距離を二足で歩くことができる生きものは、人間をおいて他にはいない。もう1つが「祈り」。人間は、誰かを想ったり、自分の存在を超えて何かを想うことができます。祈りも極めて人間的な特徴の1つです。
直立二足歩行と祈り。この2つの営みがつまった「巡礼」を追っていけば、人間とは何か、生きるとは何か、人間をとりまく環境・風土とは何かが見えてくるのではと感じています。
20代でそのことに気づき、以来、自分の生涯のテーマとして「巡礼」を大事にしています。
春山
中村先生の『生る 宮沢賢治で生命誌を読む』を拝読したとき、まさにそうだなと思ったのが、直立二足歩行の話なんです。なぜ人間は二足歩行をするようになったのか。それは人間が弱かったからだ、と。
森が後退していってサバンナになったとき、人間は弱かったために遠くまで食べ物を取りに行かないといけなくなった。さらに取った食べものを家族や大事な仲間たちに持ち帰るために、手で抱える必要があった。
私はこれからの社会で、特に大事になってくるテーマは「人間の弱さ」に立ち返ることだと思っているんです。というのも、「人間とは何か」を突き詰めれば突き詰めるほど、「人間の弱さ」が根底にあるからです。
直立二足歩行も、人間の弱さを起点にしていた。その弱さを自分たちの特徴に変えたというのがすごくおもしろい。極めて人間らしい。
先生はこの人間の弱さについて、どのように考えていらっしゃいますか。
中村
そうですね。まず、この説はかなり有力ですけど、まだ説なんですね。人間はアフリカで立ったということになっていますが、実はつい最近、木の上で二足歩行していたという化石がヨーロッパで見つかったんです。
ですから、すでに木の上で二足歩行が始まっていたのかもしれません。今、いろいろな方たちが議論していて、わからないことも多いけれど。私は春山さんが言われた説が大好き(笑)。
なぜかというと、今おっしゃったように、弱いからこそ立ったって面白いじゃない。おそらく今だって、弱いからこそ新しいことをやるということはいっぱいあると思うんです。
よく皆さん、「生きものは素晴らしい」っておっしゃるけど、私はね、調べれば調べるほど生きものって「へんてこ」だと思う。
春山
へんてこ(笑)。
中村
ええ。生きものくらい、へんてこなものはないと思いますよ。養老孟司さん(解剖学者)が集めている虫なんか見てごらんなさい。へんてことしか言いようがないじゃないですか(笑)。
そして、へんてこの中でも最たるものは人間だと思います。人間ほどへんてこな存在はない。だってなんでこんなことするのっていうこと、たくさんあるじゃないですか。
資本主義なんて考えたりするでしょう。ほかの生き物ならそんなことしないで、一生をきちっと生きているのに、何でこんなにいろいろなものに振り回されて、あたふた生きているのかしら。
生きものはみな素晴らしいとか、その中でも人間は特に優れている、なんてとんでもない。人間は生きもので、へんてこなんです。へんてこを捨てて立派になろうとするのではなく、へんてこはへんてことして、どうやってきていくかを考えたほうがよっぽど面白いですよ、と言いたい。
中村
弱さもそうです。そもそも、弱さを組み込んでいるからこそ、生きてこられたんですよ。私は、いつも「人間とは何か」と聞かれたら、2つのことをお話しします。
1つめが人間は「矛盾の塊」だということ。先ほども申し上げたように、全部違って全部同じというんですから、変でしょう。生き物を調べると、こうした矛盾がたくさん出てくるわけです。これを日常語で言えば、「へんてこ」ですよね。
それからもう1つは、「続いていくもの」です。少なくとも40億年は続いてきたわけです。今、生きものが絶滅するとか、地球の危機だとか言われますよね。私からすると、皆さん余計なことおっしゃるなと思います。たしかに人間は滅びるかもしれません。
中村
でも、多くの生きものは人間が何かしたぐらいのことでは消えない。だって、この地球上で40億年続いてきたんですよ。
では、なぜ続けてこられたかのかといえば、それはへんてこだから。矛盾を組み込んだんです。合理的にしようとしたり、効率よくやろうとしていたら消えていたでしょう。1つの価値基準で競争して、勝ち抜いたものだけを残そうとしたら、まず消えていた。何でもありなんだよ、と矛盾を抱えてきたから続いてきたんですよね。
つまり弱さや矛盾があったがゆえに続いてきた。私はこれが生きものの本質だと思っているんです。弱さを組み込んだからこそ生きものが続いているのであって、強いことがいいというわけではない。弱さを克服する必要なんてないんです。むしろその弱さをうまく活かそうとすることが、生きのびるための方法ではないかと思います。
春山
そうですね。
中村
人間は弱さゆえに二足歩行になり、そしてとんでもなく頭が大きくなって、いろんなことができるようになった。ほかの生きものたちもそれぞれの弱さを活かして生きているわけですよね。
うまく食べ物を取ることができないから、ほかの生きものに寄生しようとか。だから、弱さというのは人間だけのものではなく、生きものすべての特徴で、その弱さを活かしてそれぞれの新しい生き方が生まれたのだと思います。
春山
弱さが新しさを生む可能性につながっていますね。
中村
そう。それがあるからこそ、生きものたちが続いてきたので、人間だけが弱さを活かしているわけでもない。人間は、二足歩行というほかの生きものがやらなかった、とても特殊なことをやったけれど、それがどうも弱さと関係していると思うと楽しいじゃないですか。
春山
たしかに、希望が持てます。ワクワクしますよね。
中村
強かったから、誰かをやっつけたから、というよりも、弱いから、そーっと立ったんだよ、みたいなほうがいいじゃないですか(笑)。
春山
何かいじらしい感じがして、人間らしいです。
中村
本当にそうよね。
遊び、無駄、余白について
春山
今、社会から遊びや無駄、余白といったものがどんどんなくなっているように思います。暇な時間も、なかなかないですよね。
ちょっとでも時間があったらスマートフォンを見て情報を得たり、ゲームをしたり。効率重視の世の中に押されて、目的もなくぼーっとするなど何も考えない時間が、なくなりつつあります。
中村
そうですね。さっき矛盾と言いましたけど、人間のいろいろな行為も合理的にできていないと動きませんから、大部分は機能的です。でも同時に大変な無駄も抱えています。
例えばコロナで「免疫」に注目が集まりましたが、免疫研究の初期の頃は、外から異物が入ってきたらそれに合わせて、その都度それをやっつけるような免疫細胞を生み出していると考えられていたんです。
ところが実際は、何が来るか分からないから、あらかじめ全部準備しておくということがわかった。何か異物が入ってきたら、それを担当する係(免疫細胞)がやっつける。ほかは無用ですよね。そうしたら死ぬんです。
活躍するか、しないか分からないものを毎日つくり続けている。これは大変な無駄ではありませんか。でも、それをやってきたからこそ生き続けてこられた。
だから、免疫で我々は守られるようになったんです。自分の身を守るという合理性の陰に、膨大な無駄がある。
だから、その無駄をなくしたら、おそらく人間は生き続けてこられなかったでしょうね。生きものの世界はそういうことはしない。生き続けていくためには、無駄なものをたくさんつくって、毎日死ぬということをやっている。
たとえば、自然のままに生きていた古代の狩猟採集民というのは、狩り以外の時間がたっぷりあったと言われていますね。
春山
そうですね。歌ったり、踊ったり。
中村
文献を読むと、実際に狩りをしている時間はかなり短いとあります。あとはゆったりとみんなでおしゃべりして、空想の世界の話をしていた、と。昔は狩猟採集民というと、毎日朝から晩まで動物を追いかけていたと思われていましたが、そうではなく、実働時間は我々よりずっと少ないのよね。
農業を始めたら、忙しく働かないといけなくなったけれど、その前の狩猟採集民時代は、余裕があって、それを楽しんでいたことが最近になって分かってきました。人間は本来、そういう生き方をしていたんだなと思いますよね。
春山
そうですね。気候変動が喫緊の課題になっている今、大事なことは、人間もほかの生きものと同じいのちであり、自然の一部であるという生命誌・自然観を養うことだと思っています。
気候が変わってきているということは、暮らし方を変えないといけないということでもあります。その意味でも、生命誌に基づいて、社会をつくり直すことが必要だと思います。人間の弱さに焦点を当て、そこからシステムや制度をつくり直す。それができると生きやすい社会になるのではないかと思っています。
中村
本当にそうね。私もそう思って生命誌の研究をしているんです。
中村先生の地球とつながるよろこび。
春山
最後になりますが、私たちYAMAPは、「地球とつながるよろこび。」という言葉を企業理念に掲げています。中村先生にとって、地球とつながるよろこびというのは、どんなときに感じますか。
中村
そうねぇ、つながるも何も、私、地球の上で生まれたから、つながるというより……
春山
もう既につながっている。
中村
ええ。生まれたときから今に至るまでつながっている。私たちが知っている生きものは地球にしかいないのよ。そう考えると地球は本当に面白い。やっぱりこれもへんてこな星ですよ。私、へんてこというのが好きなの。人間もへんてこな人が好き。春山さんもへんてこかもしれない(笑)。
春山
ほんと、へんてこです(笑)。今日は直接にお話をお伺いできて光栄でした。ありがとうございました。
中村
こちらこそありがとうございました。
https://www.youtube.com/watch?v=NvqTRrxVlB4&t=1s
0コメント