facebook斉藤 一治 さん投稿記事
一休さんは、今から約600年前に生まれ88歳という 当時としては、けた外れの長生きでした。一休さんは、人生の苦しみ、悩みにさいなまれた時期 がありました。
けれども、一休さんは人生を通じて「物事の善し悪しに、あまり厳しくこだわり過ぎない ありのままをありのままに見て認めてしまう」と いうことを悟ったようです。
その後の一休さんは、リラック スした心、こだわらない、楽々とした軽い氣分を忘れま せんでした。一休さんは自分が亡くなる時、不安がる弟子たちに 一通の封書を渡し、
「この先、この寺で、ほんとうにどう にもならないようなことが起こったら、これを開きなさい」と言い残しました。何年か経って寺に大変な難問題が 持ち上がり、どうしようもないので弟子達が集まって、その封書を開いてみると、 そこに
「しんぱいするな なんとかなる」とだけ書いてあったそうです。
途端に弟子達 は、落ち着きを取り戻し難儀を解決できたという。
https://blog.goo.ne.jp/romantics2010/e/ee3d6c972f20d52b705c315e72d19056 【一休と良寛(前) (bon)】より
一休さんも良寛さんも、子供の絵本などによく出て来た懐かしい感じがする人ですね。
もう、10数年前に買ったシリーズ単行本12冊は、殆どページをめくらないまま本箱に入っていました。このシリーズは、“仏教を生きる” 全12巻(中央公論新社、2000年)で、執筆者、解説者(鼎談)はそれぞれ専門の方々で編纂されています。 で、このうち “狂と遊に生きる(一休・良寛)” (久保田展弘著、2000.6 ¥1,600)から、
私として初めて知る新しい事柄や驚き、その人の背景など・・印象に残ったところをかいつまんで記事アップしてみました。お二人を一度にアップすると長くなりすぎますので、記事を前・後二つに分けて掲載させていただきました。 で、今回は、“一休さん” です。
一休さんは、通常、一休宗純といわれていますが、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、詩人です。1394~1481の88歳と長命です。 南北朝時代が終結し、幕府は第3代将軍足利義満最盛期の頃、北朝方の後小松天皇のご落胤として、京都嵯峨の農家で生まれたと伝えられています。 南朝の天皇から三種の神器を移されて間もない北朝の天皇の寵愛した相手が南朝系の女性(一休の母)であったため、宮中を追われて、民間に入って一休を産み、一休はついぞ父には会うこともなかったという運命の人だったようです。
6歳というまだ子供のうちに、禅寺 “安国寺” に入り、出家し、「周建(しゅうけん)」となり、この頃が、いわゆる “とんちの一休さん” であったようです。早くから詩才に優れ13歳で既に評判となり、その後名前を「宗純」とあらためますが、22歳の時、大徳寺に入り、禅宗の課題に対して、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」 と答えたことから高層より “一休” の道号を授かるのです。
なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指すとあります。
一休和尚像 (ウイキペディアより)
一休の時代は、いわゆる応仁の乱を挟んで、混乱の世の中が続く上、度重なる飢饉にも見舞われた地獄絵のような時代だったようですが、反面、明、朝鮮との交易によって富を蓄え力のある守護大名や、堺の商人を始め町人経済が大きな力を持ち、このような戦乱続きの世に文芸、茶道、連歌、猿楽などの文化が栄えたという不思議な時代だったのですね。 生きることに喘ぐ庶民との間にあまりにもひどい乖離があったのですね。禅僧は、中国直輸入の文化の
指南役を務めるなど、豪商や武家を相手に伽藍が文芸の世界となり、茶道に遊ぶ僧の姿がそこにあり、一休は、こうした “直指人心、見性成仏” を離れた曖昧な禅を徹底して否定するのでした。 殊勝げな形式ともっともらしさへのうなずきに対する徹底した否定は、一休の人間性の復活への叫びではないか、著者は断言するのです。高僧門下に向かって、“欲の深い連中が法を説き、厚かましく恥を知らないただの畜生” と一休は罵倒するのです。一休は、晩年までほとんど定住の寺を持たず、一所不在の行動の中に打ち出された禅、それが一休の禅であり、そこには絶えず人との交流があったのですね。 広く、能楽や茶道に秀でた文化人の他、真宗本願寺第八法主の蓮如とも深い交流があったそうです。
この程度では、到底、一休の目指す禅への取り組みや精神性を伝えることは無理ですが、とにかく型破りに見えるくらい、その言動や行動が、常識的な観点での “狂” に見えるのですね。 しかも、直接的で、妥協がゆるされない・・
そんな信念の人のようです。 そして、そこに飾り気がなく、ネット記事から、彼のうたと人柄など、以下のような記述があります。
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし] 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
人柄として、印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女がいた。
木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。
親交のあった蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いしたという。一休による風狂破格の世界を呈する漢詩集 “狂雲集” は、仏門の求道者の自分を詠んでもいるが、女色に耽溺する自己をも詠むなど、まさに、この書名のように狂雲集の世界は尋常一様でないと評されています。
この詩集の中に、“美人の陰に水仙化の香有り”と題した詩を引用します。
楚台応望更応擧 楚台にまさに望むべし、更にまさに擧ずべし
半夜玉床愁夢間 半夜、玉床、愁夢の間
花綻一茎梅樹下 花はほころぶ一茎、梅樹の下
凌波仙子遶腰間 凌波仙子、腰間をめぐる
この本にある意訳は、“美しい女の体を求め、今まさにそこに上ろうとするのは、真夜中の二人のベッドの、愁いをたたえた夢の中であった。花はほころぶひと茎、梅樹のもと、波に身をゆだねる仙女、その腰の間をめぐる” とあり、さらに、ここで、花が女陰を、梅樹は男根を象徴するとすれば、その情景は男女の愛の営みそのままということになる・・と。 時に、一休76歳の冬の寒い一夜であったそうです。
盲目の美女、森女(しんにょ)と晩年を共に暮らす中で、一休の森女に対する信頼の純粋さと、その愛をうたった詩があまりにも率直でありすぎ しかも公表してしまっているのです。 著者は、“一休にとって、森女は、光だったにちがいない。それは同時に、森女にとって一休は、手に触れることのできる光だったのではないでしょうか。”と述べています。
一休寺(酬恩庵:京田辺市) (ウイキペディアより)
長くなりましたが、最後に、“一休さんの頓智” のいくつかをネット記事から再掲(コピペ)しておきます。
屏風の虎退治
足利義満が一休に出した問題の一つ。「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。
このはし渡るべからず
桔梗屋が一休に出した問題の一つ。店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず(『この橋を渡るな』の意)」と書いてある。しかし一休は、「この端(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った。
後日談で、同じ問題に加えて「真ん中も歩いては駄目」と難題を出されたが、「橋に乗らねばよいのだろう」と敷物を敷いてその上を歩いて渡ってきた。
七曲りの松
京都に、「七曲りの松」があった。「この松をまっすぐに見た者には金一貫文与える。大徳寺住職・一休」 という立て札が立った。金一貫文は、今日なら百万円である。以後、松の周囲は人だかりで、何とか一貫文をかせごうと、人々は、松の木をまっすぐ見ようと努力した。 だが、一向に見ることができない。ついには梯子をかけ、上から見るものまで現れる。
「一休さんがウソを言われるはずがない。どこからか見えるのであろう。」 蓮如上人が通りかかられた。「また一休さんの悪戯か。よし、私はまっすぐに見たから一貫文もらって来よう。」と、一休のところへ。「真っ直ぐに見たから、一貫文もらいたい。」「蓮如か、お前は駄目だ。立て札の裏を見て来たか。」裏には、「但し、本願寺の蓮如だけは除く」とあった。 一休は蓮如上人にはすぐ見破られてしまうことが分かっていたのだ。
蓮如上人は再び、七曲がりの松の所に戻られた。「どうでした、一貫文、もらえましたか」
「いや、一休が堪忍してくれと、謝ったから、許してやった。」「一体、どこから、真っ直ぐに見られたのですか」
「この松を『曲がった松じゃなー』と見るのが、まっすぐに見るということだ。曲がりくねった松を真っ直ぐに見ようとしているから、見ることができない。曲がった松は、曲がった松と見るのが、本当に、まっすぐ見るということだ。」
https://blog.goo.ne.jp/romantics2010/e/8638e258e7589e1722bd7f7f2ff979f9 【一休と良寛(後) (bon)】より
先のブログの続きです。
“狂と遊に生きる(一休・良寛)”(久保田展弘著、2000.6)の記述から、その人の背景など・・印象に残ったところの記事、後篇です。
今回は、 “良寛さん” です。 この本の他、ウイキペディアなども参照しました。
良寛(1758年~1831年)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶(禅僧)で、歌人、漢詩人、書家です。俗名を 山本栄蔵 または 文孝(ぶんこう)といいます。号は大愚。
良寛は越後国出雲崎に、地区の名主であった父の四男三女の長子として生まれ、純粋でのんびりとした性格のまま成長し、名主であった父の後を継ぐ名主見習いの2年目に突如出家(18歳)し、曹洞宗光照寺にて修行をするとあります。
この頃のエピソードに、“出雲崎代官と漁民との間に争いが起こった時、仲裁に入った文考が、双方の悪口雑言を、そのままそれぞれ相手方に伝え、事態を一層険悪なものにした” とあり、 “そのバカ正直をとがめる代官に、文考は「人を騙すような者が利口だと言われるような世の中は間違っている」と嘆いた” のだそうです。 それにしても、18歳の青年が父を捨て、名主の跡取り息子が家を出るという異常とも思える人生に飛び込んだのでした。
しかし、その生涯をたどる手立ては極めて少ないそうですが、それは良寛が禅僧でありながら、いかに宗派や僧籍にこだわる事なく、ただ民の中で “あるがままに” 生きていたかを物語っていることに他ならないのです。 父は、山本家に婿入りし、名主となるがもともとその才覚に長けていなく、むしろ俳人「以南」として名が知れるほどで、良寛もこの父に似たところがあるというか、名主としての経営的センスに欠けるどころか、調停役なども全くできない人であったそうです。
この頃、全国各地に米騒動が頻発し、越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出し、村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であったとあり、両親の説得にも関わらず、良寛は頑なに修行を続けたのだそうです。
出家後、22歳(1779年)の時、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を "生涯の師" と定め、師事することにより、良寛の人生は一変するのです。 良寛という法名もこの時に授かったそうです。
北陸と瀬戸内の陽光を浴びた景色、気候は正反対ともいえる違いがあり、ここでの修行僧のスケジュールは、それこそ厳しい生活規則の中で、良寛は昼行燈から生まれ変わるのです。 年月を経て、良寛が修行に夢中になっていた時には、たわいもないこととして見過ごしていた、日常のその一事が、目の前に意味をもって浮かび上がってくるのでした。 自分が、修行という構えを脱ぎ捨てた時、かの仙桂和尚(座禅もせずに、畑ばかりをしてみんなに食べさせていた)が底知れない意味をもって迫ってくるのです。
厳しい修行の合間には、子供たちと手まりをついたり、かくれんぼしたり、また、行脚の旅に出たり、黙々とした一途な日常を過ごし、印可を受けるまでになりましたが、その円通寺の住職になるでもなく、33歳の時、円通寺を辞し、ふるさと越後への長い行脚に出るのでした。 ただ1本の杖と鉄鉢を手に、良寛は禅林という、本来、超俗であるべき世界を離れ、しかも世俗の価値観からも離脱したのです。 「昼行燈」の栄蔵が、故郷を離れて20年振りに、大愚良寛となって飢饉に喘ぐ越後へと向かうのでした。
錦を飾って帰るわけでも、両手を広げ、友人知人のまえに笑顔で帰郷の声を上げるわけでもなく、世間の価値観で見れば、敗残者の身なりで・・。 良寛像 (ウイキペディアより)
乞食僧良寛の帰郷は、しかし、生家のある町ではありませんでした。既に両親は他界していて、10人の兄弟も何人かは先んじていましたが、弟が後継ぎとしている家にもよらず、それをやり過ごした、海べりの空小屋を転々とした後、国頭山の中腹にある“五号庵” に入り、そこで亡くなるまでの30年ほどを過ごしたのです。
きてみれば わが故里は 荒れにけり 庭もまがきも 落ち葉のみしておそらく、自分の生家の前を通った時の思いであったのでしょう。 そして、自らが住む五号庵は、
わが宿は 竹の柱に 菰すだれ 五号庵 (新潟観光HPより)
何となくさびしい、わびしい感じがしますけれども、良寛にとっては、そんな外面的なことに腐心している訳では決してなく、そこに俗世を超越した信念にむしろ充実した自由な心だったのではないかと思われます。
前編の “一休” と比較しますと、一休は、禅の正当性を直截にいい、現実の教団禅を告発し続け否定しましたが、しかし、良寛は、居住空間に徹底して寄り添うことによって、自然のありようを平明に歌い、自分の内面を抑制しながら告白し、現実の禅を否定しています。 一方は、“狂”に傾き、一方は、“遊”に自身を放下しています。
かすみ立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ この日くらしつ
子供らと 手まりつきつつ 此のさとに 遊ぶ春日は 暮れずともよし
定住の寺も檀家もなく、常に乞食僧であり、行脚の人であったその人の仏法は、無所有でいて揺るぎない良寛の日々そのものであったのです。 良寛がそこにいることによって和気が充ち、その人と語ることによって、こころが打ち解け、和んでくる・・そんな人なんですね。
生涯懶立身 生涯、身を立つるに物憂く
謄々任天真 謄々、天真に任す
嚢中三升米 嚢中、三升の米
炉辺一束薪 炉辺に、一束のたきぎ
誰問迷悟跡 誰か問わん、迷悟の跡
何知名利塵 何ぞ知らん、名利の塵
夜雨草庵裡 夜雨、草庵のうち
双脚等間伸 双脚、等間に伸ばす
著者意訳は、“将来何をして、どんなえらい奴になろうなんてことは、私の性に合わない。自然に任せ、あるがままに悠然と生きている。
頭陀袋には三升の米があり、囲炉裏の傍には一束の薪がある。それだけでいいじゃないか。迷いだ、悟りだといって、古人のたどった道をたどるつもりもない。まして、名誉だの利益だのという、そんなことに関わるつもりもない。夜の雨が草庵の屋根を打つ音を聞いて、二本の脚を思わず前に伸ばしているだけだ。”
こんな良寛にも、後年三人の女性との交流が伝えられています。
60歳になろうとする良寛は、若いころ知り合いであったと思われる7つ違い(下)の維馨尼(いきょうに)を通じて、読みたかった万葉集の借用を頼んだのがきっかけで、双方、深い恋心に結ばれたそうです。 彼女は、万葉集4千5百余首のうたの中から、短歌190首を抄出しましたが、その内の三分の一が恋歌である相聞歌で占められていたとか。 彼女のそうした思いが、いつしか良寛にも熱い思いを抱かせていったのです。 彼女は、また良寛のために献身的な、托鉢に4年間も出たりして、とうとう58歳の人生を閉じてしまいます。
良寛の晩年5年間を彩る子弟の交わりがあります。長岡藩士の娘は18歳で医師と結婚しますが、離縁して剃髪して貞心尼となります。
幼いころから読書好きで、歌を詠んでいた貞心は、そのころ詩歌や書でも広く名の知られていた良寛に、強い憧れをもっていた
のでしょう。 勝気で、自分の人生を選び取ることに積極的な貞心は、ひとたび良寛に会うや、もう引くことを知らない人のように接近したそうです。 貞心尼30歳、良寛70歳のときです。その後、貞心尼は、病床にある良寛を献身的に見守り、心身のすべてをかけて尽くしたのでした。
貞心を待つ良寛は、 いついつと まちにし人は 来りけり 今はあひ見て 何か思はむ
そして貞心は、師匠良寛に、 いきしにの さかひはなれて すむみのも さらぬわかれの あるぞかなしき
さらに、良寛の返歌、 うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ
いのち燃える晩年でした。 享年74歳。
貞心尼は、良寛没後5年後に、必死に集めた良寛歌集「蓮の露」(はちすのつゆ)を編むのです。良寛に向き合う貞心、貞心に向き合う良寛、この二人の熱い思いがここに収められているのです。最後に、貞心がほとばしる情熱と、あたりを憚ることを知らないその積極的な出会いは、一気に深まっていったそうですが、その出会いの歌を・・。
はじめてあひ見奉りて
きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞおもふ
良寛の返歌、
ゆめの世に かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに
良寛辞世の句
「散る桜 残る桜も 散る桜」
“生家跡には「良寛堂」が建っていて、その中には、良寛が生涯肌身離さず身につけていた念持仏「枕地蔵」が収められている。
石塔に刻まれた句にはいにしえへに かはらぬものはありそみと むかいにみゆる さどのしまなりとあり、堂の裏手には良寛の坐像がある。”
以下には、良寛の格言、ことばを列記します。全部で90ほどあるようですが、その一部です。
一見すると当たり前のことですが、多くの部分で自分にも当てはまると愕然としてしまいます。
・ことばの多き・口のはやき・手がら話・人のもの言いきらぬ中に物言う・はなしの長き
・こうしゃくの長き・自まん話・物言いのはてしなき・ことわり(理屈)のすぎたる
・人のはなしのじゃまする・しめやかなる座にて心なく物言う・酒にえいてことわり(理屈)言う・親せつらしく物言う・物知り顔に言う・へつらう事・あなどる事・人のかくすことをあからさまに言う・己が氏素性の高きを人に語る・さしたることなきことをこまごま言う
・役人のよしあし・子供のこしゃくなる・おしのつよき・よく物のこうしゃくをしたがる
・老人のくどき・口をすぼめて物言う・品に似合わぬ話・よく知らぬことを憚りなく言う
・学者くさき話・風雅くさき話・人のきりょうのあるなし・おれがこうしたこうした
・さとりくさき話・茶人くさき話・あくびと共にねん仏
前・後編とも、なかなかこなれていなくて、理解しがたいところが多々あったと、誠に申し訳なく思う次第です。 お疲れさまでした。
私自身としては、このお二人の生きようは、時代が違い、その行動や表現も全く違っていますが、人間の持つ業が如何に世を
進めているかという反面、それが迷いの根源となっているという因果に気が付きました。
秋のささやき
https://www.youtube.com/watch?v=fwq-IrTrSI8&list=PLDCB402A152E97A3A
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