facebookあいことば投稿記事
目の前に1枚の紙があります。あなたが紙の片面を「こちらが表」と定義するとき同時に「裏」が生まれます。あなたが「生」まれたとき同時に「死」が生まれました。
あなたが何かを「美しい」と思ったとき同時に「醜い」ものも頭の中に生まれました。
もし世界に「男性」がいなければ自分が「女性」だとはわからない。
「善-悪」「強-弱」「高-低」「勝ち-負け」「出逢い-別れ」…それらは別々のものではなくすべてワンセットであり互いに支えあっている。
凍える寒さを経験した人は日差しの暖かさを知っていて病気を経験した人は健康への感謝を知っていて飢えを経験した人は一膳のご飯の美味しさを知っていて孤独を経験した人は
絆の大切さを知っていて絶望を経験した者は希望のありがたみをよく知っている。
でも自分の弱さを認められない人は他人の弱さを受け入れることもできず
自分の弱さがわからなければ自分の強さにも気づくことができないのです。
光が美しく輝くことを支えているのは「闇」であり光が存在できるのは闇がそこに在るからです。
あなたの光の部分を引き出すためにまず闇の部分を受け入れよう。
これは、闇を好きになれという意味ではありません。
好きになるのと存在を認めるのとではまったく違う。
長所(光)と短所(闇)両方あるからこそこの人なんだと認めてあげること。
自分のダメなところカッコ悪いところは素直に認めればよいのだ。
そうやってプラスもマイナスも両方を受け入れそれでよいのだと自分を許してあげると
心の余裕が生まれる。心に余裕が生まれるとそのマイナスの欠点から魅力的な人間力がにじみ出てくる。
そうなれば、人はどんどん活き活きと輝いてくるんだよ。
この世は表裏一体 どの言葉も納得しますね。
※『 思わず涙する感動秘話』より
facebook長岡 美妃さん投稿記事 ·
この世にありながら、この世に属していない・・・それが「自分」。
ぜんまい仕掛けのように宇宙森羅万象は動いている。その動きは一糸乱れぬ完璧かつ壮大なスペクタルを見ているようだ。ミクロからマクロまでが複雑に絡み合う宇宙空間、、、すごすぎる奇跡。今ここに完璧をみる。
そんな完璧を眺めながら、ふと思う。「なぜにこんな壮大なる宇宙を必要としたのか?」つまり「なぜ宇宙は存在するのか?」・・・認識する側される側の二元がなければ宇宙は存在しない。さらにこの二元は同時になければならない。
言わずもがな認識する側は「自分」であり、認識される側は「宇宙」である。宇宙の存在理由は「自分」にある訳だ。ということは、宇宙が「自分」に関係ないはずはなく、宇宙のあり方は「自分」なのだ。
人類史上、多くの悟り人がいた。有名どころとしてソクラテス、釈迦、老子、孔子、モーセ、ジーザス・・・彼らは宇宙森羅万象を「外」から眺める眼を付けていた。その眼で宇宙の完璧な秩序を眺めたことだろう。
しかしその心の眼を肉体の目に移した時、彼らは何を見たのか?そこには人間の苦しみの煩悶、悲しみの慟哭、絶望の嘆きが渦巻いている姿であった。そしてそれぞれの時代背景やキャラによって違っていたが、人間が作り出す混沌とした世界を宇宙森羅万象の秩序に沿わせようと人間的努力をした者もあり、また諦めた者もある。
「自分」即「世界」、「世界」即「自分」。つまり自分が世界を創り出しており、また世界が自分を創り出している。ならば、世界が真の恒久世界平和になった時、つまり人間の中から苦しみ悲しみ絶望が消えてなくなった時、人間脳でカウントしたならば永い永い「自分」完成の道は終わるのだ。
対象化したらすべて脳機能の中、つまり二元の世界に留まってしまう。
二元の世界に立てば、そこには生老病死があり相対比較があり生存競争が渦巻いている。安心安全など、どこにもない。不信不安恐怖が待ち構えている地獄。今のラッキーが次のアンラッキーにコロリコロリと変貌し、人は「生きることは大変だ」と口癖のように言う。
だから古今東西の賢人は言うのだ。「悟れ」と。
それは「二元という幻想に惑わされることなく本性で生きよ。そのもので生きよ。」ということ。実在するのは一元のみなのだ。
あらゆる事物を対象化してはならない。
では一体どうしたらそのようなことができるというのか?
それは一元を「動きそのもの」とする発明による。この発明者Noh Jesu氏は言う「存在が動くのではなく、動きが存在させている」。
動きそのもの、、、対象など生み出す刹那もない。これが一元に心を留めるコツである。つまり「そのもの」になる行なのだ。
その姿は二元の世界から見たらまるで酩酊状態に映るだろう。だからニーチェは葡萄酒の神ディオニソスをこよなく愛したのだ。
酩酊状態では物事の境界線をしっかり引いて対象化するのは困難なのだから。(笑)
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