https://note.com/seana428/n/neacaf0959c3b?magazine_key=m5e54fbcf6675 【ことばの羽音を届けたくて、音羽シーナになりました】より
ことばに、そっと羽が生えたような名前に出会いました。音にのせて、やさしさを届けたい。
羽のように、ふわっと心をゆるめたい。そんな想いを込めて、今日から 音羽シーナ(おとは しーな) と名乗ることにしました。
新しい名前とともに、これからも“わたし時間”のそばに寄り添える言葉と声をお届けしていきます。どうぞよろしくお願いします。
今までどおり「シーナ」と呼んでくれたら、うれシーナ!ヽ(´ー`)ノ
音声配信で、どうして名字つけたか?を語りました。もしよければ🎵
https://www.kansei-ai.com/post/20240216 【言葉を音のイメージで捉えるブーバキキ効果とは?】より
ブーバ/キキ効果と音象徴
突然ですが、こちらの2つの画像について、どちらかが「ブーバ」どちらかが「キキ」の場合、みなさんはどちらがブーバでどちらがキキだと思いますか?
ブーバキキ
心理学研究において上記の実験をした場合、高い確率で以下のように左をブーバ、右をキキと回答することが分かっています。
ブーバキキ
この実験は言語音と図形に何らかの関連性があることを示しており、ブーバ/キキ効果と呼ばれます。ブーバ/キキ効果は図形の場合ですが、このように言語音が特定の感覚を想起させる現象のことを一般に音象徴(おんしょうちょう)と呼びます。
しかし、すべての言葉が音象徴を持つわけではありません。
言葉の恣意性
例えば「夜」という言葉は、「よる」という音で構成されますが、それと「日没から日の出までの時間」という意味との間に何らかのつながりはあるでしょうか。
そこにつながりは見出せず、日本語でたまたま昔からそのように取り決めて発音しているということに過ぎません。
言葉の恣意性
このように言葉の記号(音)と意味との間に必然性を持たない性質のことを「言語の恣意性」と呼びます。
近代言語学の父と呼ばれるソシュールはこの考え方を提唱し、現在でも言語の一般的な性質として考えられています。
オノマトペ
このように、言葉には恣意性が見られるものと、そうではなく音象徴の特徴を持つものがあります。特にオノマトペには音象徴の特徴がよく現れており、「ふわふわ」「キラキラ」「もちもち」「うきうき」など日本語では多くのオノマトペが用いられています。
オノマトペにも実は種類があり、下記の図のように分類されております。擬音語、擬態語は皆さんご存じかと思いますが、その先にもさらに分類がされていたのです!オノマトペは奥が深いですね。
オノマトペ
言葉の音からイメージがもたらされるオノマトペ、大変興味深いですよね。こちらの資料ではよりオノマトペの興味深い世界について丁寧に解説しています。是非合わせてご覧ください。
facebook長岡 美妃さん投稿記事
世界は言語で出来ている。
言語がなければ、世界は存在しない。それに気づいたのがウィトゲンシュタインである。
自分の周りを見渡してみる。
目を開けた瞬間に存在が飛び込んでくるが、それと同時に言語が張り付いていることがわかる。
例えば、空に雲が浮かんでいるとする。なぜ「空に雲が浮かんでいる」と認識できるのかと言えば、それは言語があるからである。
もし言語がなければ、空も雲も存在はしない。そして空も雲も存在しなければ、時空間も認識できなくなる。
逆に言えば、言語の檻に捕まっていると言える。つまり世界=言語なのだ。さらに言うなれば、世界とは実在ではなく言語が生み出した幻想である。
それ故、ウィトゲンシュタインは「言語の限界が世界の限界だ」と言う。
社会科学を勉強していて思ったことがある。
社会とはその時代が生み出した概念(言語)によって生まれた泡である。社会は新しい概念の誕生によっていかようにも変化していく。
神という概念が宗教社会(文明)を作り出したように、力という概念が科学社会(文明)を作り出したように。
そして今、科学のシンギュラリティを迎えようとしている。
それは科学文明の終焉を意味し、同時に新しい概念が生まれたということである。
そしてその新しい概念は「動き」である。それは人類が使うようになる、ナノファイバーよりも細い太さzeroの新素材である。
その新素材は環境破壊zeroであり、爆発エンジンからzeroスペースを利用したエンジンに切り替えていく。また人間を生存意志から引き剥がし精神意志に変えていく。個人の概念が幻であることに気づかせ、共同体を作り出すことを意志させる。ゆえに世界から戦争が自然になくなっていく。こうして精神文明は作られていくのだ。
世界は言語で出来ている。
「動き」の発見は言語の限界を突破させるに至る。なぜなら人類が使っていた言語とは静止つまり死の言語を使っていたからである。
「動き」の言語は1-5-1完全言語と呼ばれ、存在の内側から物事を観せるのだ。世界の限界をいとも容易く突破させていく。
ペラリと現実から「私」が剥がされる感覚・・・
私が見ている
私が喋っている
私が聞いている
私が考えている
私が生きている
その「私」とは一体どこにいるのか?
目、口、耳、脳、体が、ここで言う「私」なのか?・・・いや、目に私はいない、口に私はいない、耳に私はいない、脳に私はいない、体に私はいない
そうなのだ、、、この曖昧な言語の使い方が錯覚を作り出し、「私」を現実に引っ付ける。まるで現実の中に「私」がいるかのように錯覚させる。
この現実で見ているものはすべて、「私」の対象物である。手も足もお腹も・・・体は目の前のパソコンと同じ「私」の対象物。ということは、対象物は対象物であって「私」ではない・・・では「私」はどこにいる?
ヴィトゲンシュタインは「私は大きさのない点に収斂される」と言った。確かに、「私」とは模様形があってはならない。なぜなら模様形になった時、それは「私」の対象物となってしまうからである。大きさのない点、秀逸である。
ではヴィトゲンシュタインに問う。「大きさのない点とは何か?」
前期の彼はこの点を「私」の実在と言った。しかし後期の彼においては、点は完全に無くなる。つまり主客未分に至るのだ。
ここに至った時、意識のクォンタムジャンプが起こる。
対象はすべて消え去り、見ているそのもの、喋っているそのもの、聞いているそのもの、考えているそのもの、生きているそのもの、つまり行そのものが「私」であったのだと。
知識というのは言語化された対象物である。対象物であるうちはスクリーン画面を眺めているにすぎない。その知を「生きて」こそ、「私」が現存してくるのだ。
facebook人の心に灯をともす投稿記事【「また今度」という言葉】
豊留菜瑞(とよどめなつみ)氏の心に響く言葉より…
「ごめん、今日は忙しくて・・・・・・また今度ね」何気なく口にする「また今度」。
私たちはこの言葉を、まるで無限の時間があるかのように使っています。
しかし、その「また今度」は本当に来るのでしょうか?ある数学者が「人生の残り時間」を計算したところ、衝撃的な結果が算出されました。
幼い子どもが「公園に行こう!」と手を引っ張る瞬間。小学生になれば、もう手をつなごうとはしなくなります。その時が訪れるまで、あと5年だとしたら。週に1回だとしても、残り260回。たった260回しか、その小さな手を握る機会は残されていないのです。
両親から「今度、家に来ない?」と電話がかかってくる瞬間。
両親の年齢が50歳だと仮定し、その両親が80歳まで生きたとして、仮に年に2回会っても、残り30年×2回=60回。たった60回しか、両親と会う機会が残されていないのです。
親友から「久しぶりに会わない?」とメッセージが届く瞬間。
30歳の人が、80歳まで生きられたとして、3ヶ月に1回会っても、残り50年×4回=200回。
たった200回しかない貴重な機会を、本当に「また今度」で済ませていいのでしょうか?
これらの「今」は、二度と同じ形では訪れません。そして、この計算は最も楽観的な場合です。私たちには、この回数すら保証されていないのです。
「また今度」という言葉の裏に隠された現実。それは、私たちの「時間」が思っているより、ずっと少ないということ。先日、私はある40代の女性から胸が詰まる話を聞きました。
「母が突然、亡くなってしまいました。『また今度会いに行こう』って思っていた矢先のことでした。それまで、仕事が忙しくて。 『会いに行きたいけど、今は忙しいから』って、何度も何度も後回しにしていたんです。『また今度』 って、言ってたことを後悔しています・・・」彼女の声は震えていました。
私たちは「忙しい」という言葉で、どれだけ多くのものを諦めているでしょうか。
『忙しさ幻想』サンマーク出版 https://amzn.to/4mcKzTC
2001年のアメリカの同時テロの時に、有名になった詩がある。
「最後だとわかっていたなら」(ノーマ コーネット マレック)
あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら わたしは
あなたを抱きしめて キスをして そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら わたしは
その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど 最後だとわかっていたなら 一言だけでもいい・・・ 「あなたを愛してる」と わたしは伝えただろう 今日は最後の日ではない、と誰もが信じている。 明日もあると思うから、忙しいから、「また今度」と言ってしまう。
例えば、レストランにおいて、「これが最後の食事」というお客様が来たとしたらどうだろう。人生最後の食事にこの店を選んでくれた、そんな方になら、 きっと涙を浮かべて必死にサービスするに違いない。
「一期一会」とは茶道の言葉。あなたと出会っているこの時間は、二度とない、生涯に一度きりの機会。だからこそ、 茶会では、心からのおもてなしをする、という意味だ。
「また今度」と言う言葉・・・「一期一会」の気持ちで一日一日をすごしたい。
facebook絵本を楽しむオトナたち ·寺島計輔 さん投稿記事
ことばのかたち/おーなり 由子講談社2013年7月第1刷
吉村淑子さんの投稿を見て、読みました。吉村さん、素晴らしい本のご紹介、ありがとうございました。
優しい言葉と、淡く柔らかい絵の素敵な絵本です。話すことばが 目に見えたらどんなかたちを しているだろう大きくて やわらかい花はどんなことば?言葉に無関心ではいられません。意味不明な言葉や、雑な言葉は使わないように、心がけているつもりです。
どこまでそれが、実行できているかは自信はありません。
インターネットを通じてのコミュニケーションが、大きな部分を占めるようになっています。
一度発っした言葉が、取り返しのつかない事態を招かないように。
自分が伝えたいことが、十分に伝わるように。
気をつけなければいけない時代でありながら、言葉使いがますます雑になっているような気がします。
自分が口にした言葉がどんな形なのかを、見てみたいです。
だけど・・・だれかを傷つける ことばが針のかたちを しているとしたらどうだろ。
絵も怖いですが、自分の言葉が針になって、相手に突き刺さるのを想像するだけで怖いです。
「だまっている」という ことばのむこうにゆたかな森が ひろがっているかもしれない。
言葉の限界を知るからこそ、見える風景があるかも知れません。
とどいた ことばがこもれびのように わらいますように ひたすらやさしさに包まれます。
まいにち 消えていく 話しことばのむこうの こころのかたちを さがす
自分が口にした言葉、自分に向けられた言葉の姿を見定めること。
棘のある言葉のように思えて、実はしずかで やわらかな毛布の形をしているかもしれません。
やさしい真綿のようなことばが ぎゅうぎゅうと がんじがらめに 相手をしめつけるのを みるかもしれません
良くも、悪くも、言葉が持つ力に謙虚に向き合いたいと思います。
#ことばのかたち #おーなり由子
https://www.youtube.com/watch?v=-PCMS8VciSA
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