https://www.kateigaho.com/article/detail/177082 【連載「雨のことば」8月 白雨(はくう)】より
文=矢部太郎(お笑いタレント・漫画家・気象予報士)
「白雨」とは夕立やにわか雨のこと。雨脚が強く太いため、地面から跳ね上がるしぶきが白く見えることからこう言われます。
白いしぶきとともに立ちのぼる雨の匂いも感じられるような。その匂いがいつかの夏の記憶を連れてくるような。そんな言葉です。
写真/アフロ夏の日差しが大気を暖め上昇気流が生まれ出来た入道雲がプールに入っている僕の頭上から急に激しい雨を降らせる。いつもは濡れてはいけない、濡れたくない雨なのに、今は濡れてもいいのだ。というあの不思議な感覚。
夕立の匂いはそんな遠い夏の記憶も呼び起します。
この時季の雨のことば 銀竹(ぎんちく) 山賊雨(さんぞくあめ) 一陣の雨(いちじんのあめ) 瞑怒雨(めいどう)
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20060628&tit=%8D%D6%93%A1%89%C3%8Bv&tit2=%8D%D6%93%A1%89%C3%8Bv%82%CC 【斎藤嘉久の句】より
金盥あるを告げ行く白雨かな
斎藤嘉久
季語は「白雨(はくう)」で夏。夕立のこと。「白雨」と書いて「ゆうだち」と読ませる場合もあるが、掲句では音数律からして「はくう」だろう。一天にわかにかき曇り、いきなりざあっと降ってきた。こりゃたまらんと、作者は家の中へ。と、表では何やらガンガンと金属を叩く音がする。あ、金盥(かなだらい)が出しっぱなしだったな……。と思っているうちに、ざあっと白雨は雨脚を引いて、どこかに行ってしまった。すなわち、白雨が金盥のありどころを告げていったよ、というわけだ。最近は金盥も使わなくなっているので、もはや私たちの世代にとっても懐かしい情景だ。実際にこういう体験があったかどうかは別にして、昔はどの家にも金盥があったから、私たちの世代はこの句の情景を実感として受け止めることができる。ただそれだけの句なのだが、こういう詠みぶりは好きですね。句に欲というものがない。作者にはべつに傑作をものしようとか、人にほめられようとか、そういった昂りの気持ちは皆無である。言うならば、その場での詠み捨て句だ。その潔さ。作者の略歴を拝見すると、大正十三年生まれとある。句歴も半世紀に近い。その長い歳月にまるで裏ごしされるかのようにして達した一境地から、この詠みぶりは自然に出てきたものなのだろう。欲のある句もそれなりに面白いけれど、最近の私には、掲句のような無欲の句のほうが心に沁みるようになってきた。ついでに言っておけば、最近の若い人に散見される無欲を装った欲望ギラギラの句はみっともなくも、いやらしい。やはり年相応の裏打ちのない句は、たちまちメッキが剥がれてしまい、興醒めだからである。「俳句界」(2006年7月号)所載。(清水哲男)
https://note.com/310__sato/n/n25b4aa37eb30 【黒風白雨~こくふうはくう~】より
黒い風と白い雨には気をつけなさい 逆らってはいけません 立ち向かってもいけません
奥の部屋の衝立の影でじっとしているのです 姿を見てはいけません 話を聞いてもいけません 眼を閉じて耳を塞いで静かに潜んでいるのです …あぁ、何度も言われていたのに…
黒風白雨~こくふうはくう~
土埃を巻き起こす大風とともに降るにわか雨。暴風雨のこと。
「黒風」は土埃を巻き上げる強風。「白雨」はにわか雨。…今でいうゲリラ豪雨のことかな?
http://poetsohya.blog81.fc2.com/blog-entry-5797.html 【白雨の隈しる蟻のいそぎかな・・・三井秋風】より
白雨(ゆふだち)の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・三井秋風
三井秋風は芭蕉と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛西の鳴滝にあった別荘には、芭蕉らの文人が、よく往来したという。
いわゆる「旦那衆」パトロンという役回りと言えよう。
芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」という中国の神仙趣味の句があり、高雅を旨とした交友関係が偲ばれる。
秋風には「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西山宗因の談林派の影響下にある初期の漢詩風の破調句から、上に掲出した句のような、夕立に急いで物かげに逃げてゆく蟻を詠む、といった平明な蕉風に近い句まであって、当時の俳諧一般の作風の変化の推移のあとまで見えて、興味ふかい。『近世俳句俳文集』に載る。
この句の冒頭の「白雨」ゆふだち、という訓み、は何とも情趣ふかいものである。
広重の江戸風景の版画に、夕立が来て、人々が大あわてで橋を渡る景がある。
これなどは、まさに白雨=夕立、の光景である。
もともとの意味は「白日」の昼間に、にわかに降る雨のことを「白雨」と称したのである。
こういうところに漢字の表記による奥深い表現を感じるのである。
以下、歳時記に載る蟻と夕立の句を引く。
ぢぢと啼く蝉草にある夕立かな・・・・・・・・・・・・高浜虚子
小夕立大夕立の頃も過ぎ・・・・・・・・・・・・高野素十
祖母山も傾山も夕立かな・・・・・・・・・・・・山口青邨
半天を白雨走りぬ石仏寺・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
熱上る楢栗櫟夕立つ中・・・・・・・・・・・・石田波郷
夕立あと截られて鉄の匂ひをり・・・・・・・・・・・・楠本憲吉
蟻の道雲の峰よりつづきけん・・・・・・・・・・・・小林一茶
木蔭より総身赤き蟻出づる・・・・・・・・・・・・山口誓子
大蟻の雨をはじきて黒びかり・・・・・・・・・・・・・星野立子
夜も出づる蟻よ疲れは妻も負ふ・・・・・・・・・・・・大野林火
蟻殺すしんかんと青き天の下・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
ひとの瞳の中の蟻蟻蟻蟻蟻・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
蟻の列ここより地下に入りゆけり・・・・・・・・・・・・山口波津女
蟻の列切れ目の蟻の叫びをり・・・・・・・・・・・・・中条明
蟻の道遺業はこごみ偲ぶもの・・・・・・・・・・・・・・雨宮昌吉
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