facebook矢加部 幸彦さん投稿記事 ·
イザナギノ神が、イザナミノ神の神去りしことに嘆き悲しみ、執着により穢れに穢れるが、愛しき妻の醜き姿とともに、大霊悟する。それは、生と死の絶対、その大自然の真理を悟り、
清水にて禊がれ、執着を手放し、イザ行かんと、晴れ晴れと蘇る。生と死を超えた天晴れなる心、やり直す心が大和の心。。
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2231589/p008.pdf 【根の国】より 田村, 圓澄九州大学
日本神話にあらわれる根の国について、定説になっているのが、本居室長の黄泉図説である。一般に樹木の綴は地下にある乙とから、 笈伎は、綬の国号、下っ底の地下の園、すなわち黄泉国と解した。主韓国左右吉氏も~長説を歩け、根の国巻死者の図としている。根の園田%'.泉図説の防磁は、税務の筋書からすれば、・スサノヲが、生きたままで線の国 tζ 行かねばならとfいζとである。しかしスサノヲは、神話の世界では死を迎えたζとがない。スサノヲを生きたままで、根の幽iζ 追いやる認は、根の国=死者の閤の解釈をとる限り、納得できないのではないか。宜長の根の国=黄泉図説は、樹木の叙fζζfごわり 、棋を地下とのみ結びつけて解釈しようとしているが、しかし棋には、「根元」f根本」の意味がある。すなわち、「もと」「はじめJ「お ζりJの解釈が可能である。 ζの立場をとるならば、棋の国令、垂直的tζ 地下にのみ求めるべきでなく、水平的iと海の彼方κも求めるζとができると思う。持部の綬の国は、常』ζスサノヲと関連して現われるが、スサノヲ lと対する賎授と、線の国iζ 対する麓貌とが深くかかわりあっていると思う。まずスサノヲであるが、「答無道」「悪態不止而転Jと記されたスサノヲは、父母のイザナギ・イザナミからうとんじられ、姉のアマテラス大将1から 見放きれ、さらに八万神からも憎悪の自を向けられ、 高天原を追放される。神話の世界で、スサノヲほど身内・周辺から憎まれ嫌われ、鍛後tζ 追放の処箆をまで受ける神はない。そして根の国は、スサノヲのような無道者、暴悪者の国として錨かれている。注目されるのは、黄泉闘が死者一般の行くべきとζろであるのに対し、根の国は、スサノヲのみの行くべき国であったζとである。恨の図は、無道者、暴懇者であるスサノヲの国であり、一方的に嫌悪され、 E翼線されるしかなかった。綬の国tと行くことを述命づけられたスサノヲには、救済の手段は見出されとよいのである。スサノヲは、アマテラス大神と対照的に儲かれている。アマテラス大神は光り郷き、八万神の仰ぎみると ζろであるが、スサノヲは乱暴者であり、八万事~の追放をうける。 アマテラス大神の高天原は根の国とは対犠的であり、スサノヲは高天原に住むζとができないのである。アマテラス大抑制の耕す聞は、終雨や皐天1とも損筈を受けない「安田」「平問Jの良聞があったのに対し、スサノヲの閏は、耕作iζ 適せぬ「磁地」であった。乙の三つの聞の対比は、実は盟主穣の地のぬ-天原固ま草原中国と、不毛の地の根の国との対比でもある。両者は高下・尊卑の価値体系のなかにくみ乙まれている。-8ーしかしスサノヲにとって、般の闘は本国であった。「永1tr}綬悶Jは、スサノヲと根の悶との関係を暗示しているが、またスサノヲの居住の舞台を辿る乙とにより、 ζのことがあきらかになるであろう。(1) (2) (3) (。オノゴロ嶋で生まれたスサノヲは、父母から嫌われ、綬の閣に追いやられることになる。スサノヲは根の国に行く前に、姉のアマテラス大神iと別れを告げるため、 高天原氏上る。アマテラス大神から本心号車道われ、八万神から的せられ、追放の処分をうける。高天原から出雲の筋の川上におりる。(5 )根の国lとおもひく。つまりスサノヲは、高天原→出雲→綬の園と移っているのであるが、ただし高天原は、姉のアマテラス大神i ζ 別れを告げるために赴いたζとになっており、したがって高天原への遂J I瞬は、スサノヲに即していえば、かならずしも本筋とはいえない。「永就子被国Jがスサノヲの姿であるとすれば、恨の国→出llt →根の図ζそ、スサノヲの本来のコースではなかろうか。『日本番紀』のスサノヲ像において注目ぶれるのは、第ーに新緩と関係をもっていたζと、第二に悔の支配者であったことである。高天原を追われたスサノヲは、 子のイタケルを伴って「新緩国JfC降り、「曽戸茂梨芝処」にいたが、やがて綾土で舟を作り、海を渡って出雲』ζ移ったという。 『日本書紀』で新緩の国名が初めであらわれるのは、神代巻であり、そしてスサノヲとの関連にわ・いてであった。元援の『臼本書紀』の講舎のとき、惟良高尚治1上の曽Pr.定梨を「若今滋之保留処鍬」と解し、人びとを驚かせたが、「蘇之保留Jは「徐郎伐」 f徐緩伐」であり、ソウル、すとfわち王都を意味する。惟良氏は百済系渡来氏族といわれ、朝鮮半島のζとについての知識舎もっており、曽戸茂梨の新解釈令下すことができたのであろう。とζろでスサノヲの順路は、高天原→曽p茂梨→出雲である。高天原→出雲→曽戸茂梨でなかったことがE主怠される。『古事記』によれば、イザナギはアマテラス大神I ζ 高天原の統治を命じ、 月読命i ζ は夜の食国の、またスサノヲには海!京の支配を命じたという。スサノヲにとって、海の支配と板の国との往来は不可分であった。線の閣を新緑と考え、そしてスサノ ヲが新量産と出雲との閥ぞ往来したとすれば、スサノヲは海の支配者でもあったわけである。新緩と出雲との往来には、船を用いるしかない。海の支配者であったスサノヲは、また船の運用者でもあった。船材として必要な杉や将僚の縞林や裁緒、造船や航海などの知識。妓術を、スサノヲは身につけていた。とζろで新緩は、「財宝国」「金銀之国J「宝国Jであった。スサノヲは、 f稼郷の的Iとは、 ζれ金銀ゐり Jといっている。『古事記』『日本轡紀』の神話のなかで、新Z援は板の間として箆視さ-9れる反面、金銀財宝の留として能栂されている。新緩が、暴恕者・無道者の国としてのイメージi ζ 結びついたのは、 53 2年の新緩による金官加郎の併合や、 悶じく56 2年(欽明23 )の大加耶(高ill ) f,t どの滅亡の壊突であった。加郎との友好関係の維持を政策としていたヤマト朝廷にと って、新緩は惑行者・無道者の国であった。加1rnの復興が、欽明以降のヤマト朝廷の宿願であっただけに、新緩κ対する憎しみは深まったが、とくに66 0年(斉明6)の 百済の崩駿は、新羅R対する憎惑を激しくした。亡国の百済人がヤマト朝廷に迎えられ、その百済人が文化砺で指導的な役割を果たすようになっただけに、悪行者の国=新緩の評価は決定的であった。新緩を、金銀・財宝の国とするイメージの成立の時期は、天武・持統・文武朝の、いわゆる白鳳時代であったと恩う。新羅と唐との対立があらわとなり、新緑は日本Iと銭近するが、金銀・財宝の国=新緩のイメージは、ζの時期Iζ 形成されたのであろう。ヤマト朝廷側i ζ 、新羅4 ζ 対する統治権が、神から天皇』ζ授けられたとする主張があった。『古事記』 t ζ よれば、神功皇后t ζ 神がかりして、金銀の捌く珍宝の国=新緩の統治者は、神功皇后の胎中にある応桝1天皇であると告げられる。 ζれを告げた神は、アマテラス大神であり、また住吉の三神であったというのである。ヤマト朝廷による新緩支配を合理化する論理であるが、しかし、アマテラス大神が、新縫I ζ 対する統治権創始中の天皇に授ける機怨と、いわゆる天孫降臨によって、霊草原中国の統治権を幼いニニギ1 ζ授ける構想とには、共通の要素があると恩う。統治権を与えられたのが、嬰児ないし胎中の子であった乙と、そして統治権を与えたのが、アマテラス犬神であった乙とである。『日本省紀』にみられる新緩のイメージは、第一i ζ 、国を号事う無道者・悪行者の本国であった。スサノヲと新経との結合は、暴懇者スサノヲのイメージが基調となっている。すなわち加耶を奪い百済を滅tました新経人のイメージとが結びついている。新緩は無道者の国であり、スサノヲはその象徴であった。第二氏、スサノヲは、新緑を本国とする新羅人の一面をもっている。スサノヲは新総から出雲lと渡り、さらに出雲から新緩1 ζ 追いかえされるが、この発想の背燥に、スサノヲの本国としての線の国の観念があョた.t うに思われる。第三氏、新緑は金銀の国であり、財宝の闘であった。 ζの新緩1と対するヤマト朝廷の統治権は、アマテラス大事~から天皇に授けられたが、すとfわちヤマ ト朝廷の新緩支配は、神の意志であった。神統譜において、スサノヲをアマテラス大神の第iとしているが、乙の作為の線底1とは、ヤマト朝廷による新緩支配の合理化の怠図が隠されているのではあるまいか。摂の国は、単II'. 地理的な存在であるばかりではない。また宗教的立場から解明しつくされるものでもとfいと思う。根の国は、朝鮮半島とヤマト朝廷との対応・接触の過程のなかで形成されており、--I 0ーしたがって神話的・民俗的な性格をもっていると共に、むしろそれ以上iζ 、政治的性格をもっている点にとt .目する必要があるであろう。
https://www.youtube.com/watch?v=xdhN3ujtT3g
http://miuras-tiger.la.coocan.jp/koto-b-22.html 【根の国神話(ねのくにしんわ)】より
三浦 佑之 (MIURA Sukeyuki)
(大林太良・吉田敦彦監修『日本神話事典』大和書房 1997.6)
〔出典〕古事記
〔内容〕稲羽の素兎を助けたことで八上比売の愛を得たオホナムチは、そのために兄の *八十神たちから恨まれ妬まれて命を狙われる。そして、何度かの死を御祖の神(母神)に救われ、木(紀伊)の国のオホヤビコの助言を得て、 *スサノヲの支配する根の国(根の堅洲国)へ逃れる。そこで、「蛇の室」「呉公と蜂の室」に寝るという試練を課せられるが、スサノヲの娘 *スセリビメから与えられた「蛇の比礼」「呉公と蜂の比礼」によって無事に夜を明かす。また、野中に射た矢を取って来るように命じられて野に入ると廻りに火を着けられるが、これもネズミの援助によって難を逃れ、矢も無事に持ってくる。次には、頭の虱(実はムカデ)を取れとスサノヲから命じられるが、「牟久の木の実と赤土」を準備したスセリビメからムカデを食いちぎって吐き出しているように見せかける方法を教えられて難を逃れ、スサノヲの信頼を得る。
そして、スサノヲが満足して眠った隙をねらって、その髪を柱や垂木に縛り、根の国の呪宝である「生太刀・生弓矢」「天の詔琴」を奪い、スセリビメを連れて根の国から脱出する。逃げる時に木に触れて鳴った琴の音でスサノヲは目覚めるが、髪の毛を解いている間に、オホナムチは根の国と地上との境界まで逃げる。追いついたスサノヲは、「その太刀と弓矢で八十神をやっつけ、お前が大国主となり、スセリビメを正妻として立派な宮殿を造って地上の支配者になれ」という祝福の呪言を与える。オホナムチはその言葉通りに兄たちを討伐し、 *葦原中国の王者・大国主となって地上を支配した。
〔解説〕根の国は、記では「根の堅洲国」、紀では「根の国」と呼ばれている。また、大祓祝詞にも速サスラヒメの坐す「根の国・底の国」が見え、そこはすべての罪の集まる大海原の底にある世界と語られている。なお、紀にはスサノヲが根の国に行ったという記述があるだけで(第八段本書)、オホナムチの根の国神話は本書にも一書にもいっさい描かれていない(根の国の名義などについては当該項目を参照のこと)。
記の *稲羽素兎神話から *国作り神話までを、一括して大国主神話としてとらえた場合、根の国神話はその中間に位置し、オホナムチを葦原中国(地上世界)の王者としての *オホクニヌシへと転換させる上で重要な役割を果たしている。スサノヲの支配する根の国という異界へ行き、そこでさまざまな試練を課せられ、その試練をスセリビメの援助と自らの力とによって克服し、根の国の呪宝とスサノヲの祝福とを得て地上に戻り、八十神を倒して王となるわけで、記が描こうとした地上世界の統一と王の誕生は、根の国神話をもつことによってはじめて語ることができたのである。そこに、大国主神話をもたない紀の構想との大きな違いを見出すことができるだろう。
この神話のあとにはオホナムチという名はいっさい出てこないのだが、西郷信綱によれば、「大国主になったことは、オホナムヂの死」であり、その *死と再生の構造は、「成年式そのもの、ないしはそのシャーマン的形態」によってもたらされたものだと論じている。ここに描かれている「蛇の室」「呉公と蜂の室」に寝るといった行為が現実の成年式を反映したものか否かは別として、 *通過儀礼としての試練の克服によって新たな力を身につけ、少年が大人になるという成年式の構造をこの神話に見るのは誰にも異存がなかろう。ただし、ここに語られているのは、あくまでも少年英雄の地上の王への再生であり、そこにこそ記が国譲り神話の前に大国主神話を配置して偉大なる王の誕生を語ろうとした理由もあるはずである。
異界への往還は日本神話にはさまざまに語られるが、ことにこの神話の場合、 *黄泉の国神話との関連が注目される。両者はともに地下世界の印象をもち、「黄泉比良坂」と呼ばれる出入口を共有するが、それを西郷は、「地下という一つの世界の二つの側面、一つのものの二つの違ったあらわれ」であるという。しかし、記では両者はまったく別個の世界として構想されているということを忘れてはならない。死者の世界である *黄泉の国に対して、根の国の場合には、生命力の根源、地上世界を活性化する力を秘めた世界であるということが重要なのである。そして、その根の国を象徴するのが、呪宝としての「生太刀・生弓矢」「天の詔琴」であり、スセリビメという女神である。この呪宝と女神とを手に入れることによって、地上の王の力が保証されているというところに、根の国神話の性格は示されているのである。
〔参考文献〕松村武雄『日本神話の研究第三巻』(培風館昭30)。松前健『日本神話の形成』(塙書房昭45)。西郷信綱『古代人と夢』(平凡社昭47)
https://watayax.com/2019/01/10/monkouhajime8niti/ 【「聞香始」新聞記事】より
1月9日付の中日新聞に、前日8日に行なわれた「聞香始」の記事が載っていました。
香道の心得 ◆睦月◆ (6)終
ところで、蓬萊とは方丈、瀛州(えいしゅう)と共に中国の神山思想で説かれる仙境で、いづれも不老不死の仙人が住んでいるとの伝えがあります。組香にもこの三神山を主題にした〝三壺香〟と称する香式が創られています。「聞書(ききしょ)」には寿を賀するの香也と記されているように、これも祝賀の宴に欠かせない一つです。
京都の聞香始めは数ヶ所で行ないますが、やはり銀閣寺の弄清亭でのそれが最も〝稽古始〟らしく思えます。冷え冷えとした中でも久々にお合いする方々と聞香炉を手にし、祝賀の香を聞きますと何とも言い難い暖かみが全身に伝わってまいります。
※三壺(さんこ)…『日本国語大辞典』には次の説明があります。
///中国で、神仙が住んでいるという海中の壺の形に似た方壺・蓬壺・瀛壺(えいこ)の三つの山。
*和漢朗詠(1018頃)下「三壺に雲浮べり 七万里の程浪を分つ 五城に霞峙てり 十二楼の構天に挿めり<都良香>」〔捜神記〕///
※川口久雄『和漢朗詠集 全訳注』(講談社学術文庫)の543番に上記の詳しい解説があります。(^O^)
https://ameblo.jp/fufufu-mumble/entry-11907417963.html 【三壺香・草木香】より
八月の志野袋は、「桔梗」桔梗の花は、こういう感じ。本日の組香は、「三壺香」と、「草木香」上の記録紙は、私が書いたもの。なので、記念?に写真を撮らせてもらいました。
「三」の、一画目が失敗。あせる
。。。。。
~メモ~
神仙思想とは、「蓬莱」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」など超自然的な楽園とそこに住む神仙を信じる思想。この信仰に基づいて不老不死の薬が探索され養生法が説かれる。
神仙思想が山と結びつけられる理由は、「気」に満ち、幽玄な環境を持つ山が、修行に適し、
鉱物や、薬草が豊富であったことと考えられる。
。。。。。。
「三壺香(さんここう)」は初めてでしたが、「壺中天」、「壺中日月長」など日常から離れた別天地で遊ぶという意味もあり、とても大きくて私は大好きな言葉です。
瓢箪や、壺の中にも別天地がある…ホント?!?草木香は、詠草でした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cfdec9a81ae42b1ec55da4320db55f5a108419f4 【「⽇本⾹堂」450年から学ぶ、日本の香りの今昔】より
1575年に創業した「⾹⼗」を継承し、お線⾹・お⾹・フレグランスブランドを国内外に展開する「⽇本⾹堂グループ」。今年450年を迎えた「⽇本⾹堂グループ」から、日本が紡いできた香りの歴史と現在を紐解きます。
1500年の歴史を誇る、日本の香文化
香文化史の重要資料の一つで鎌倉期に記された『後伏見院宸翰薫物方』と『後小松院宸翰薫物方』
世界に誇る⻑い歴史と深さをもつ⽇本の⾹⽂化。仏教とともに⽇本に伝えられたとされ、その歴史は1500年にも及びます。
最も有名な⾹⽊といえば、聖武天皇以来(1200年前)正倉院に秘蔵されている「蘭奢待(らんじゃたい)」。天産物である⾹⽊には芸術作品のような「銘」(題)がつけられており、「蘭奢待」も室町時代にその名が世に知られるようになりました。
「⽇本⾹堂グループ」の起源は織田信長が天下を掌握した1575年、安田又右衛門源光弘によって誕生した「香十」にさかのぼります。第3代安田政清は豊臣秀吉御用、4代政長は徳川家康に仕えており、時の権力者と近しい関係にあったそうです。1700年代になると「香十」は茶道各流派家元へ薫物を納め名声を得ました。
1800年代になると茶道家元への「九重」、「若草」、光格天皇の献上薫物「千歳」などの名香を納めた「香十」。第14、15代十右衛門は江戸末期の京都の蘭学・博物学者山本亡羊の学塾に参加し、西洋の香りの研究にも努めるようになりました。
その後第17代高井十右衛門により小仲正規に譲渡され、現在の日本香堂HDSへと継承されています。
香道から、現代に広がる「香りを聞く」文化
香炉に小さな炭団を埋め、その上に銀葉という雲母板を置き、小片に切った香木をのせてたき、香りを聞く「聞香」
日本古来から続く香道では、香りを嗅ぎ分けることを「聞く」、もしくは「聞香」(ききこう、もんこう)と言います。「聞香」は香りを嗅ぎ分けることから始まり、感覚を呼び起こすことで終わります。この「⾹りを聞く」という体験を通じて、感性をより深く研ぎ澄ます機会を提案する「450プロジェクト“聞く〜awake your spirit〜”」が、今年450年を迎えた「⽇本⾹堂グループ」で4月8日より始まりました。
御家流⾹道第⼆⼗三世宗家・三條⻄堯⽔作銘の銘名⾹「羅國 しらべ」
発表会では書籍『⽇本の⾹ The scent of Japan』発売をはじめ、御家流⾹道第⼆⼗三世宗家・三條⻄堯⽔の銘名⾹「羅國しらべ」をお披露目。平安時代の⾹りを再現した「六種の薫物」や、お香と清酒を掛け合わせた「暁霞 -akigasumi-」、⾹⼗の伝統を継承し、最高の⾹原料と最新の技術で作り上げられた新作のお香「⾼井⼗右衛⾨」も発表されました。
また、日本香堂グループが展開するフレグランスブランド「Yohaku」のピュアポプリや、メゾンフレグランスブランドとして2018年に誕生した日本香堂グループの「KITOWA」、1979年に南フランスで創業した「エステバン」の新商品もお目見え。古来から現代に至るまで、様々な香りを聞くアイテムが一堂に会しました。
世界6大陸の香りを表現した「香り博」限定お香コレクション「EXPO INCENSE(エキスポインセンス)」(各1,650円)
さらに鳩居堂と松栄堂と日本香堂が手を取り合い、2025年4月18日(金)から5月18日(日)まで、和の香文化に親しむ特別イベント「香り博」が東京と京都で同時開催されます。室町時代より伝わる「香道」や、自らの感性で調香する「匂い香づくり」など、15種類全57回の体験型ワークショップなどを実施。日本の美意識や香りがもたらす心地良さなど、香りの魅力を再発見してみては?
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