エントロピーと俳句

http://www.obpen.com/eight_hundred/20161016_03.html 【『君が代』と熱力学の第二法則】より

志村 良知

 リオ・オリンピックでは日本選手の健闘で『君が代』を何度も聞いた。それで熱力学の第二法則にまつわる議論を思いだした。

 物理学の一分野である熱力学では乱雑さの度合を表すのにエントロピーという概念を導入している。エントロピーが大きいほど乱雑、小さいほど整然としているということになる。そして、熱力学の第二法則はいう「エントロピーは増大する」と。

 すなわち、世の中は放っておくと野放図になる。部屋は散らかり小人は不善をなす。幼児は勝手に走り回る。富の偏在は極限で革命を起こす。地球の南北の温度差は大規模な気象現象で平均化する。しかし、方向性のあるエネルギーを注ぎ込む事でエントロピーが小さい状態にもできる。掃除すれば部屋はきれいになる。保育士は幼児を整列させられる。躾と教育は無知無力な子供を社会生活ができる大人にする。すなわち、熱力学の第二法則は絶対不可逆ではなく、逆行させる事もできる。

「混ぜたらゴミ、分ければ資源」。この標語はまさに熱力学の第二法則の双方向性を語っている。資源=工業原材料にするには化学的にできるだけ単一に、すなわちエントロピーが小さい状態にする必要がある。その第一歩をゴミ発生源の家庭にやってもらうという分別収集は、今や実施していない自治体はない位一般化している。掃除、育児(躾)、分別。主婦は第二法則を逆行させるという物理学的偉業を毎日やっているわけである。

 大きな岩石は風化して砕け、礫から砂粒に、熱力学的にいうと総表面積が大きい安定状態に向かってエントロピーが増大して行く。『君が代』では「さざれ石の巌となりて」と熱力学の第二法則が逆行している。ありえない歌詞は国歌として不適切という論もある。しかし、さざれ石が巌となった石灰質角礫岩という岩が存在する。雨水に溶けた石灰岩が、セメントとなって砂礫を固めるという方向性を持った仕事をした結果の逆行で、摩訶不思議な力の仕業というわけではない。


https://note.com/deracine111/n/nd11e49f47011 【エントロピーと俳句】より

エントロピーという言葉は、なんだかむかし物理か何かで習ったような記憶はないでしょうか? あるいは、エントロピーという言葉はたまに聞くけど、改めてどういう意味なのか問われると分からないし、なんか自分の生活とは何の関係もなさそうだし、まあいいか、という感じでしょうか。

いわゆる熱力学の第2法則が、エントロピーの法則です(第1法則はエネルギー保存の法則)。エントロピーは、一言でいうと、ものの乱雑さや拡散の度合い、であり、それは時間とともに増大する、というのが法則です。

例えば、部屋に100°Cのお湯を入れたカップを置いておくと、やがてそのお湯は室温に等しくなります。これはお湯の熱量が部屋の中の空気に移動したわけです。これは熱エネルギーが拡散したのであり、エントロピーは増大したわけです。この動きは分子の拡散の動きに他なりません。

この分子の動きは、実は確率に関係します。ある小さな場所に分子がぎっしり集まっているケースより、広い空間に広がって分子が存在しているほうが確率(可能性)が高いのです。それで拡散するわけです。

コーヒーにミルクを一滴たらすと、徐々にミルクはカップ全体に拡がっていきます。これは、ミルクが垂らされてまだ混じっていない状態(ミルクの分子が集まっている状態)に比べて、ミルクコーヒーになった状態(コーヒーとミルクの分子が混じり合った状態)の方が確率的に高いので、分子は必ずその状態に移るのです。このようにしてエントロピーが増大します。

エントロピーは常に時間とともに増大します。例えば、ガラスのコップが、テーブルから落ちて割れると、粉々になります。これもエントロピーの増大です。あなたの部屋も時間が経つとだんだん散らかってきませんか? これもひとつのエントロピーの増大の形です。

こんな話がなぜ俳句と結びつくのか、と思われるかもしれません。このようにエントロピーは、分子の分散により生まれる熱エネルギーの法則とされていますが、さらにもう一つの重要な分野に関係しています。それは「情報」です。

それは、クロード・シャノン(1916-2001)が「情報」について、エントロピーの概念を応用したことです。シャノンは、現在私たちが1ビットとか1バイトとか言っている情報量の単位を生み出し、更に通信理論を革命的に飛躍させたと言われています。

2進法という方法を聞いたことがあると思います。つまり、0か1のみで表す方法です。その場合(0か1かという装置)を1ビットと言います。例えば、A、B、C、Dの4文字をこの2進法で表すには、A=00、B=01、C=10、D=11で表せます。これは、2つの(0か1か)という装置を使っているので、2ビットです。つまり2ビットで4種類の文字を表すことができます。同様に、3ビットで8種類、4ビットで16種類まで表すことができます。従い、アルファベット(全部で26文字)を表すには、5ビットの情報量で出来るわけです。

一方で、日本語を考えてみましょう。ひらがな、かたかな、漢字(5万語以上ある)を使うため、多くの情報が必要です。現在、日本語は16ビットの情報量で文字を表しているそうです。その場合、約6万5000字を表すことが出来るということです。

同じ文字数であっても、英語と日本語ではとても大きな情報量の差があることがわかります。

更に、面白い点は、情報の価値にあります。2つの情報を考えてみましょう。ひとつは「私は美味しいものが好きです」。もううひとつは、「私はプロの魔術師です」。

シャノンは、情報量を次のように計算しました。

情報量=log₂1/ P

なんか懐かしいけど、あまり見たくない数式だと思いますので、数式による計算は割愛して、例えば、1/2の確率で起こる事象(例えば、コインの表裏)は、Pに1/2を入れると、上記の情報量は、1ビットになります。

「私は美味しものが好きです」は、ほとんどの人がそうなので、100%になります。Pに1を入れると、情報量は0になります。一方で「私はプロの魔術師です」という情報はかなり価値がある情報です。プロの魔術師が仮に128人に1人いると仮定する(まあそんなにいるとは思えないですが)と、Pが1/128となり、この情報量は7ビットになります。

さてここからは、エントロピーの再登場です。

シャノンは、情報のエントロピーを期待値(確率×情報量)を使い次のように定義しました。

情報エントロピー=∑ P log₂1/P(単位はビット)

(∑は和を表すので、確率×情報量の合計になる)

ここにコインのケースを入れてみますと、1/2×1ビット+1/2×1ビットで合計で1となります。

一方で、魔術師のケース。プロの魔術師である確率を1/128とします。プロの魔術師でない情報量を計算すると0.011315ビットなので、プロの魔術師である情報量7ビットを使うと

127/128×0.011315ビット+1/128×7ビット=0.0659

このように、コインを単純に投げる際には、情報エントロピーが1であったのが、プロの魔術師という、確率を低めた情報に関しては、0.0659という小さいエントロピーになるわけです。

つまり、情報エントロピーは、答えがどうなるかわからない、つまり不確定であればあるほど大きくなり、一方高い情報価値で、不確定なものを含まないものほど、情報エントロピーは小さくなります。

お待たせしました。ここで、俳句について考えてみましょう。まず、日本語で表す際に必要な情報量の多さを指摘しました。アルファベットが5ビットで表せるのに対して、日本語は16ビットの情報量が必要なのです。

ということは、同じ文字数であれば、英語より日本語の方がはるかに情報量が多くなり(不確定性が下がる)、情報エントロピーは小さくなります。つまり、どうにでも理解できる、また散らかっている情報ではなくなるということです。

しかも日本語は、漢字の熟語があるため、単に文字の表現のみならず、熟語によってまた情報量が上がっていくことになります。

仮に17文字で表せる文字列は、日本語の場合は、6万5000通りの17乗。一方でアルファベットは、26通りの17乗ですから、まったく桁どころか、天文学的な数値の違いがあります。

つまりまとめると、俳句は17文字とは言え、その組み合わせは天文学的な数字、ほとんど無限に組み合わせが存在していること。これがアルファベットを使う言語との違いです。しかも、更に熟語、季語などにより、特殊な意味、感情、イメージとのつながりも生まれます。これにより、無限の中から、たった一つの特定の表現が生まれてくるのです。これが、世界でもっとも短い定型詩と言われる俳句が存在し続ける理由のひとつではないでしょうか。

更に言えることは、情報エントロピーの小ささが、俳句において非常に重要になるということ。どこにでもある、景色や思いではなく、様々な点で特殊で価値の高いものを対象としていること、またそれが読む人に正確に伝えることのできる形(不確定性の排除)になっていることです。

17文字の中に、様々な解釈の可能性のある言葉や、先人の使い古した言葉や、ありきたりの言葉を含めば含むほど、どんどん情報エントロピーは増大します。そして、その俳句は、価値のない平凡な俳句になってしまうのです。

もう一度最初に戻ります。時間とともに物は散らかっていきます。その散らかり具合、乱雑さの度合いがエントロピーです。熱力学の法則で、宇宙は常にエントロピーが増大しています。私たちの頭の中も何もしないと毎日エントロピーが増大し、散らかっていきます。

このように周りの様々なエントロピーが時間とともに増大し、頭の中が散らかっていくなか、俳句の創作は明らかに情報エントロピーの増大との戦いなのです。そして、この戦いに負けると、ああ、悲しいかな、あなたの俳句は、只事俳句、月並俳句と言われてしまうのです。  

            【完】


https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/01/blog-post_11.html 【〔俳句関連書を読む〕

『俳句の力学』 岸本尚毅】より             上田信治

目次

俳句の可能性;主題について―季題という秩序;季題を演じる;季題と取り合わせ;写生について;「写生」と「読み」について;言葉選びの心理;名山と名月;切れ字について―『葛飾』の場合;切れ字と叙情について;常態としての変化―俳句と時間;感覚について;俳句の設計思想;会話と棒読み―他者としての言葉;言葉と自然;内言語について;俳句という器

いわゆる昭和30年世代(←もう「通り名」ということで、いいでしょう)を代表する作家・岸本尚毅による俳論集。

一昨年、同じく世代の代表者の一人、小澤實の評論エッセイ『俳句のはじまる場所』について、本欄で取り上げ、「著者(小澤)の関心は、俳句の根拠すなわちそれが「はじまる場所」を、個人による表現から、伝統と共同性に置き直すことにあった」と書いた。

小澤が、いわば俳句の「外」に俳句の成立要件を確かめようとしたのと対称的に、岸本の思考は、本書において徹底して俳句の「内側」に向けられている。

そのことは岸本という作家の関心を、よく表していると思う。

見たところ、本書は、ざっくりと3部構成になっている。

1)主題=季題から見た俳句 

「主題について―季題という秩序」「季題を演じる」「季題と取り合わせ」

2)表現技術から見た俳句  

「写生について」から「俳句の設計思想」まで。

3)言葉の性質から見た俳句 

「会話と棒読み―他者としての言葉」「言葉と自然」「内言語について」

まず、表現技術に関する中盤が、面白い。

世が世なら「一子相伝」か「門外不出」かというようなテクニックが、惜しげもなく披露されている。だいたい、ここまで、技術を言語化できる作家は、そうそういないだろう(*1)。

「曖昧であることを明確に」とは、会社の仕事だけでなく、俳句の要諦でもあると思われます。(p.77「「写生」と「読み」について」)

切れ字を使うと、一句の中に緩い部分と急な部分、濃い部分と淡い部分が生じます。(…)緩く淡い部分を、急で濃い部分が吸い寄せることによって一句の一体感が生じます。(p.118「切れ字について」)

下五の「○○かな」の○○が季題でない場合、虚子は中七を「て」で止めます。(p.130 「切れ字と叙情について」)

さらに、切れ字「や」「かな」が、句内でどう「力学」的に働くかを記述するくだりなど、まさに「実作者としてはこれで十分」(筑紫磐井「豈weekly 16号」評論詩(切れについて6 又は岸本尚毅の『俳句の力学』))。

このまま書き続ければ、著者は、角川『俳句』の10年分の特集テーマに、端から結論を出してしまうだろう。

技術論に関心のない向きでも、『葛飾』の秋桜子が、その調べの中で切れ字「や」「かな」をどう生かしたか、またそれ以後の句集で、どう、その使用を抑制したかというような分析からは、得るところが多いはずだ。

まさにこれは「内側」からの思考である。

身につければ、俳句の分解掃除ができるようになる。

しかし本書は、それに尽きる本ではない。

まず、前半の、主題論。

著者は、虚子に倣って「ある俳句が「何を」詠ったものか、一句の主題は何かという問に対する答えは、季題というだけで十分です。」(p.31 「主題について」)と、立論する

すでに、まったく賛成できないという読者も多いと思われるが、注意してほしい、著者はまだ、その句の題を「問」われたら、その答は「季題」だと、つまり「題」は「題」だ、と言っているだけなのだ。

そして著者は、季題を軸に、中村草田男のある高名な句を理解しようと試みる。

金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り  中村草田男

草田男自身の意図する主題は、本人の「怒り」であって「金魚」ではないだろうと認めつつ、岸本は、ではこの「金魚」は何なのだと問う。

この「金魚」から「夏」の季節感を感じる人はいないと思います。読み手はただ、何の意味も脈絡もなく「彼奴」への手向けとして「金魚」が選ばれたことに当惑することでしょう。金魚は何を意味するのでしょうか。何の象徴なのでしょうか。

私は、この句の金魚は金魚以外の何物でもないと考えます。(p.41「季題を演じる」)

これには笑った。

確かにそうだ。草田男の「怒り」と無関係に、金魚が金魚として(意味や象徴に堕することなく)存在しているから、この句は人に記憶されるだけのチャームを備え得たのだ。

しかし「金魚以外の何物でもない」金魚とは、前後の脈絡からして「季題」としての金魚ということになる。

ここは危ないところで、「金魚」が「季題」であることの価値を、俳句内部から説明することは、おそらくできない。(*2)

岸本は、西洋古典絵画の花や風景が寓意を担っていたことを挙げ「画家は本気で寓意のために花や鳥を描いたのでしょうか。そうではないと思います。「寓意」とは口実に過ぎず、画家は花や鳥、虫そのものを描きたかったのです。」(p.41 同)、と、美術のアナロジーから、「金魚」が、草田男の主観的意図を離れて一句の中心たりうることを説明しようとする。

しかし、絵の花はそれ自体美しいが、「金魚」という言葉は、それ自体、没価値である。そこは岸本もよく分かっている。

俳句を知らない人にとって「金魚」も(〈勇気こそ地の塩なれや梅真白〉の)「梅」も唐突です。何で金魚なのか、何で梅なのか。(…)「季題だから」という答は、水戸黄門の印籠のように絶対的かつ無意味です。季題とは(…)一種の約束事です。(p.54 「季題と取り合わせ」)

けっきょく岸本は、虚子が「季題のあるところには如何なるものにも俳句はあります。如何なるものも季題のないところには俳句はありません。俳句は花鳥諷詠の文学であります。」(『俳句読本』)と述べた地点に立ち戻り、虚子と共に(開き直って?)言う。「これでいーのだ」と。(*3)(*4)

「何か」を、その「何か」の内部から説明しようとする思考は、どこかでトートロジーにおちいることが必然で、それを「神学」的思考という。言いたいことは「神は、いるから、いるのだ」に尽きてしまうのだが、その思考の究極の一点には、やむにやまれぬ「霊感」がある(霊感抜きでそれをする人は…気の毒である)。

「虚子」神学における問答無用地点を前にしての、岸本のためらいと立ち止まりが、本書前半の記述の特徴だ。

たとえば「このような考え方は「季題崇拝者の天動説」かもしれません」(p.43)と、立ち止まる。そこでいったん常識の地平に立ち戻り、逡巡の末、また元の(論理的に支えることが難しい)地点にまで戻ってくる。

そのためらいが、「ホトトギス」的ドグマの連発になりかねない思考を、救っている。

自分は、岸本の逡巡から、かえって「季題」の現代的価値についてヒントを得た。

実のところ、草田男の「金魚」を、文脈上の必要や寓意で読もうとすれば読めないこともないのだが(「彼奴」の卑小さを際だたせる作者の「可愛さ」の象徴、とか)、それでは金魚が、観念となって死んでしまう。

しかし俳句には「季題」という約束事があり、それは、俳句の「読み」にビルトインされているので、金魚は文脈中にありつつ文脈に完全には拘束されない。その異質さは、人間にとってまるで「生きた自然」のようだ。

そして、そんな仕方でそこに存在させられる「季題」は、構造的に「謎」となる。たとえばそれが、田中裕明に見られる「季題」の方法だったのではないか。(*5)

後半、岸本は、言葉の性質について、音楽家のエッセイや、作り手であり読み手でもある実感を参考に、こつこつと考えを進めていく。もはやイデオロギーとしての「虚子」は登場しない。そして、いくつかの聞き慣れない方法論(表現技術よりは包括的なもの)が、提示される。

言葉を他者として扱うこと、「自然」に「言葉」の真似をさせること、言葉が内言語として読者に共有されるように書くこと…。

ここには、たしかに、俳句を考えるためのオリジナルの概念が含まれている。それは、本書の達成と言えるものだろう。

それにしても、あらためて感心するのは、岸本において、俳句について考えることのほとんどが「どう書くか」に収斂していくことだ。

小澤實の『俳句のはじまる場所』は、現代に俳句の新しい「旗」をかかげる試みであったと思う。小川軽舟の『現代俳句の海図』は、この世代の作家を俳句史上に位置づけることを企図していた。

岸本の『俳句の力学』は、「どう書くか」を考えつづけることによって、俳句の本質に迫る試みである。

長期にわたる雑誌連載をまとめたものでありながら、狙い所にぶれがなく、その本気さを伺わせる。この人は、きっと、俳句をどう書くかにしか関心がない。しかし、その「書きかた」についての精緻な思考は、示唆に富み、これはやはり類のない俳書であると思わせる。

広く一読をお勧めします。(*6)

*1. 「ピタゴラスイッチ」などで知られる佐藤雅彦が「方法をとことん意識化してしまえば、その先にある、本質的に新しいものが発想できる」というようなことを言っていたのを、連想した。

*2. かといって、伝統的美意識や四季のある日本の風土と、季題の価値を「直結」するのも間抜けな話。それらが「よきもの」であることは、まともな日本人ならみ んな知っているわけで、そういう「好感情」をあてにした表現であるなら、カレンダーの菜の花と富士山の写真で十分ということに、なるまいか。

*3. 「私は虚子の言葉を金科玉条のように信奉しています。虚子を信じていれば間違いないと実感するからです」(p.58「写生について」)。

*4. 本書において「題」(title)あるいは「お題」と、いわゆる「主題」(theme)が、おそらく意図的に混同されている。

しかし、とにかく季題を一句の本質と見なすのだ、という詐術は、句に思わぬ奥行きを付け加える。たとえば本書p.31 。〈花を見し面を闇に打たせけり 普羅〉この句の主題は、季題の「花」ですとあるのを読んだ時、それまで「主」と見えていた普羅の内面が、景にさーっと溶けていくようで、ちょっとうっとりしてしまった。

*5. そういえば伝聞なんで不確かですが、田中裕明は「草田男好き」だったとか。

*6. 本書がけっこう入手しにくいところが、また奥義書めいている(笑)。Amazon.jp では品切れ中で、とんでもない値段で中古を売ろうとしてるプロ出品者がいる。他の書店サイトには在庫あるみたいです。(08.1.10現在)

そういえば、小澤、岸本、ときたら、次は田中裕明の文集が待たれますね。


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