facebook事件の案内人投稿記事 「阪神大震災 命の犬」
当時24歳だった島村さんは、神戸に住む祖父が88歳となり、米寿のお祝いをするため、
家族と一緒に福岡から神戸に遊びに来ました。平成7年1月15日の寒い冬のことです。
おじいさんは、神戸の芦屋というところにありました。六甲山の麓にある、高級住宅街です。
祖父は犬が大好きで、シーズーのモモという犬と暮らしていました。島村さんも犬は大好きでしたが、福岡の家はマンションで犬を飼うことはできませんでした。
モモは、島村さんがまだ大学生の時に一度会っただけでしたが、しっかりと覚えていたらしく、土曜日に島村さん一家が到着すると玄関で大歓迎し、その後も、島村さんと、祖父の膝の上を行ったり来たりしていました。16日に親戚たちが集まり、米寿のお祝いをしました。
そのにぎやかな宴会は夕方お開きとなり、島村さん一家は、その日の新幹線で福岡に戻る予定でした。親戚が帰ってから、島村さんは言いました。「ねえ、もう一泊してもいいかな」
しかし、両親はあまり乗り気ではありませんでした。しかし、祖父の家にもっといて、
モモと遊びたい島村さんは、引き下がりません。可愛い孫と一緒にいたいおじいちゃんも賛成しました。「たまに来たんだ。ゆっくりしていきなさい」反対していた両親も、娘と祖父の押しに負けて、渋々もう一泊していくことになりました。
その夜は、一回の寝室で祖父、となりの客間に両親が寝ました。島村さんはどうしても桃と一緒にいたくて、居間のソファーで一緒に寝ました。一緒に寝ているモモの、ふわふわと、柔らかい感触がたまりません。明け方、一緒に寝ていたモモがそわそわし始めました。
島村さんは、おしっこかなと思い、眠い目をこすりながら、上着を羽織り、居間のガラス戸から、庭にモモを出しました。モモは、庭に出てもおしっこはせず、ただ空を見上げてクゥーン、クゥーンと鳴いています。何かいるのかと思い、島村さんも外に出てみました。
その時です!ドドーン 轟音とともに、地面が激しく下から持ち上がりました。
ゆれたというより、突き上げられたという感じです。急激な揺れに、島村さんは転び、地面に倒れました。次の瞬間、建物が島村さんの上に覆いかぶさってきました。
平成7年、1月17日 午前 5時46分阪神、淡路大震災の最初の振動でした。
どのくらい気を失っていたかわかりません。島村さんが気づいたときは、真っ暗ながれきの中でした。木材や、コンクリートのかけらで囲まれた狭い空間の中でした。
家具か何かが倒れ掛かった木材を支え、かろうじてできた隙間に島村さんはいました。
上の方に、かすかに明るい光が、点のように見えました。
意識が戻った島村さんは、ようやく地震が起こったことに気づきました。
「おじいちゃーん」「おかあさーん」「おとうさーん」島村さんは暗闇の中で、何度も両親と祖父を呼びました。が、返事はありません。何度目かに大きな声を出したとき、足元で何かが動く音が聞こえました。それはモモでした。白い毛は、誇りと土で焦げ茶色になっていましたが紛れもなく、モモでした。モモは細かく震えています。手を伸ばそうと思いましたが、何かに挟まれて、手は動きませんでした。「モモ、大丈夫?頑張って」島村さんは声をかけ続けましたが、モモは、あまりの恐怖のせいか、声を出すことはありませんでした。
ただモモの震えだけが、島村さんの足元に伝わって、震えだけでモモが生きていることがわかりました。どれくらい時間が経ったのでしょう。孤独と絶望、恐怖が代わる代わるやってきました。それまで経験したことのない長い長い時間でした。上の方に見える小さな明るい点から、かすかに声が聞こえてきました。「オーイ、オーイ 誰かいるかー?」島村さんは残された力を振り絞って、できる限りの声で叫びました。「助けてー!ここにいます」
島村さんが近所の人に助け出されたのは6時間後のことでした。助け出された島村さんは、病院に運ばれ幸い手の指の骨折だけですみ、モモも一緒に救助されました。
モモは真っ黒になっていました。が、幸い怪我もなく、隣の家の人が預かってくれることとなりました。両親と祖父が遺体で見つかったのは、それから4時間後のことでした。
翌日、退院した島村さんは、歩いて芦屋の祖父の家に行きました。あちこちで火災が起きており、街中が焦げ臭く、異様な臭いに包まれていました。美しい神戸の街は跡形もなく破壊され、いつかテレビで見た、空襲の後のようでした。
祖父の家は跡形もなく崩れ落ち地面の上には、瓦の屋根だけが散乱していました。
がれきに向かって手を合わせました。涙が止まりませんでした。悲しいというより、苦しいという感じでした。しばらく手を合わせた後、隣の家にモモをあずけていることを思い出しました。隣の家は老夫婦が住んでいたのですが、母屋は健在だったため、避難所にはいかず、その家で暮らしていました。モモは、島村さんの姿を見ると、玄関の奥から嬉しそうに跳んできました。嬉しそうなモモを見て、島村さんはまた泣きました。もう誰もいません。生き残ったのは、自分とモモだけなのです。
島村さんはモモを引き取り、1週間後に福岡の家に戻りました。
島村さんのマンションは、ペット禁止でしたが、モモを一人にすることはできませんでした。
近所の人にバレないように、こっそりとモモを飼って、暮らし始めました。
本当の悲しみが襲ってきたのはそれからでした。「なぜ、自分だけが生き残ったのか」
「なぜ、あの時もう一泊しようと言ってしまったのか」「両親を殺したのは 私なんだ」
毎日毎日、自分を責める日が続きました。連日テレビで放送される地震のニュースを、まともに見ることはできませんでした。それどころか、「地震」という言葉を聞くだけで吐き気が襲って来るようになったのです。
福岡に戻って2週間ほどたったある日、夜中に目を覚ました島村さんは、耐えられない悲しみに襲われました。
目を閉じると、地震の前の日の祖父や、両親の笑顔が浮かんできます。
気分を変えようと8階のマンションのベランダに出ました。夜空を見ているうちに、この苦しさから解放されるには、死ねばいいんだと思い始めました。
今、このベランダから飛び降りれば楽になれるんだ・・・・・ベランダの柵の向こうには何もありません。ただ、夜空が広がっているのみ。
とてつもなく魅力的な、無の空間に見え、島村さんは、誘われるがままベランダのフェンスに手をかけ身を乗り出そうとしました。
その時です。ワン、ワン!・・・・・・ワン!!!部屋の中から大きな声が聞こえました。
あの地震以来、ほとんど声を出さなかったモモが、初めて大きな声で吠えたのです。
島村さんは我に返り部屋の中を見ました。暗いベットの上で、仁王立ちになったモモが、
島村さんに向かい、目をギラギラさせて、激しく怒っているかのように吠え続けていました。
「今、私が死んだら、モモはどうなるんだろう がれきの中で私と一緒に助け出されたモモは
またひとりぼっちになってしまうのだろうか」そう思う心が、島村さんを冷静にさせました。
島村さんはモモを抱きしめ、朝まで泣き続けました。涙が出なくなれば、悲しみも減るかも知れない・・・次の日から、島村さんはモモのためだけに生きようと決めました。
モモのためにペットと同居可能なマンションに引っ越し、休日は必ずモモと旅行に出かけたり買い物も必ず一緒に行きました モモにも、地震の後遺症はあり大きな音や、救急車のサイレンを聞くと体が固まり、怖そうにします。
しかし、普段は明るく、島村さんに思いっきり甘えてきました。たまに、夜中に突然震えだすこともありましたが、島村さんが抱き寄せると、しばらくして震えは収まっていきました。
島村さんも相変わらず、「地震」という言葉を聞くと気分が悪くなりましたが、桃だって耐えているんだと思い、勇気を出して乗り越えていきました。
やがて時が経ち、少しづつ島村さんは普通の暮らしになれていきました。
悲しい記憶は消すことはできませんが、あれ以来自殺を考えてたことはありませんでした。
モモと島村さんは二人寄り添って助け合いながら生きていきました。そして平成17年1月
モモは島村さんに看取られて静かに生涯を終えました。地震から10年の月日が経っていました。モモが死んでから島村さんはこう語ってくれました。
「私が死んだら、モモが一人ぼっちになると思い、モモが死ぬまでは、モモだけのために生きようと思いました。今まで、モモのことだけを考えて生きてきたつもりでした。
でも、今考えると逆だったんです。本当は、モモが私を生かしてくれたんです」
「モモは最愛のおじいちゃんをなくして相当悲しかったはずです。私と同じく、暗い中で長いあいだ閉じ込められて怖かったと思います。あの日の前日モモが甘えてこなければ、私たち家族は福岡に帰っていたかもしれません私とモモは、全く同じ気持ち同じ境遇だったのです。
でも、モモは恐怖の中で死のうとはしませんでした。それどころか、明るく甘えようとしてくれました。生きるということは、過去に引きずられることではなく今この瞬間、瞬間を少しでも良い時間にし、幸せを感じようとすることだとモモに教えられました」
「犬は利口です 恐怖も、悲しみもしっかり覚えています。彼らは、それを強い愛情で乗り越えているのだと実感しました。人も、犬も、大きな悲しみの中では無力です。でも、愛する存在と、愛してくれる存在があれば、その苦しみを乗り越えるために大きな力となるのです」
愛することで救える命があること愛されることで生きていく力が生まれることあなたが人生で迷いが生じたときこのこといつまでも忘れないで・・・
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