“未完のこの世”

https://note.com/lapplem08/n/n2e9d45714f40 【この世界は好都合に未完成】より

 私は、大学で西洋古代中世の勉強をしている。ただの歴史が得意だった中学生の頃、当たり前に日本史を高校では選択すると思っていた。しかし、高校で出会った世界史の先生に魅せられ、世界史を選択した。学年1位のテスト点を何度かとった。もっと歴史を学びたかった私は、大学で歴史学を専攻し、ゼミ分けの際に西洋古代中世を専門にした。

 私が歴史でも特に好きなのは、西洋の古代中世の芸術だった。古代の彫刻、宗教画。政治や戦争には興味がなかった。しかし、学ぶなかで芸術は社会を反映することを知った。中世キリスト教世界。それは私の理解の及ばぬ世界だ。

 私は、八百万の神を信じているほうだ。その方が楽しいし面白いと思うから。あらゆる私をあらゆる神様たちが見ている。お願いごとをする時、私はいつも自分の名前と所在(住所と家系の続柄)を先に言って、自分は全力を出すからどうか見守ってください、またはお力添えくださいとお願いする。その願いがかなわなくても、自分が不出来だったことを認められる。私の宗教観はそんな感じで、神様はいた方が楽しい。多ければ多いほどいい。そして神様たちはきっと見守ってくれているし、助けてくれる。戦うならば、助けてくれる。こう私が信じるのは、いわゆる多神教だ。

 キリスト教は知っての如く一神教である。神は一柱。その証明に多くの血が流れる宗教戦争も存在した。少しでも自己の中の神と相手の神が違えば、それは異端であり抹消すべき巨悪であった。アブラハムの宗教を信じる人々は、神の教えと異なるものと戦ってきた。

 大前提、宗教批判では無い。ただ私には理解出来なかった。隣人愛を解くのに、何故人を殺すのか。イエスはユダヤ教徒だけでなく、その他の人々も神の愛を受けることができると言ったのに。なぜなのか。学ぶ上でそれは知り得た。ひとつの解は「人」だと思っていなかったからだった。そして異端者は悪魔に憑かれているとされた。現代の我々が顧みれば、宗教差別、魔女裁判、身分差、貧困、疫病などおぞましいものが渦巻いていた時代。私にとって、中世キリスト教、中世ヨーロッパというのはあまり明るいイメージのないものであった。

 「発言を撤回してください。」

 学校で、若くして大学に神学を学びに行くラファウを褒め称える少年が「神!」と今の我々日本人が当たり前に使う褒め言葉をかけた時、ラファウの養父であり学校の先生であるポトツキが放った言葉だ。私は少年のその発言に戦慄し、ポトツキの言葉にそりゃそうだと感じた。

 異端審問官に拷問を受ける異端者。苦悩の梨が出てきて、名前が出ずとも分かった自分がいた。異端思想から改心すれば、捕まっても初犯なら釈放される。2度目は死。優秀なラファウは、ポトツキに頼まれ捕まっていた男フベルトの身柄を引き取ってきて欲しいと頼まれた。2人の関係は教え子と先生。ラファウはフベルトに声をかけられ見晴らしの良い丘へと行く。そこでラファウは地動説に出会った。

 教会は地球を中心として動く天があると言う天動説を指示していた。そんな世界を神は作った。地動説自体は古代ギリシアでアリスタルコスが説を唱えていたが主説にはならなかった。少数派であったことと、天動説の方がキリスト教の宇宙観では都合がいいから。中世キリスト教への疑念の晴れない私は、そんなの間違っている。おかしいの一点張りだった。

 ラファウは地動説を否定し、フベルトもその指摘にたしかに現状ではそうだと語る。そしてそれは神を否定することになるのに、何故探求するのだとラファウは問いかけた。私はそれの返答に驚愕した。

 「神を信じているからだ。」

 「神が作った世界が、美しくないわけがない。」

 中世キリスト教への疑念が、一気に別視点へと変わっていくような感覚がした。あぁ、そうか、だから彼らは説立証のために命を危機に晒そうとそれを探究し続けられたのか。コペルニクスは、完璧な円軌道を星々がしていると考えていた。この世は秩序だっていて、美しい数式、法則で表せる。なぜなら神が美しく作ったから。

 地動説の感動を抑えられないラファウは異端と分かりながらも研究してしまう。その研究を書いた紙切れを異端審問官ノヴァクに見つけられる。捕まりそうな所でフベルトが「それは私のものだ」と言い、彼が捕まり火炙りにされた。その後、ラファウは大学進学を前に研究の紙切れを燃やし残してしまう。ポトツキはその計算を修正した。ポトツキも前科があったのだった。ノヴァクがポトツキのもとを訪れる。息子、異端研究してるでしょと見抜かれてしまい、二度目のないポトツキは初犯なら改心すれば帰ってくると信じて密告してしまう。しかし、ラファウは改心しなかった。何故だと問うノヴァクにラファウは言う。

 「感動するからです。」

その後ラファウは自ら毒を煽り、獄中で自害した。自殺はキリスト教の教えに反している。それも見ながら、ノヴァクが言う前に分かった。そして、私が主人公ラファウが地動説を立証するんだろうと思っていた物語が消え失せた。フベルトが残した山の中腹に隠された箱。そこに地動説研究をラファウは残した。そしてそれをまた誰かに見つけられ、誰かが地動説に感動を覚える。彼は最初の点であった。

 たしかにそうか、あの雁字搦めの中世ヨーロッパ社会で、一人が社会を敵に回す地動説を完璧なものにすることは出来ないだろう。託せる者がいるから、死を恐怖せず受け入れられる。自分が居なくても世界は続いていく。そんな絶望とも言える事柄に彼らは希望を見出していた。この世は不浄だと言うのに、天国は素晴らしいと言うのに死にたくない。それは神を信じきれていないから。完璧でないから。

 中世キリスト教世界は、私にとって到底理解し難い事柄であった。しかし、アニメ「チ。地球の運動について」を5話まで視聴して、点と点が線になったような感覚を覚えた。彼らが異端研究を続ける理由も、彼らの崇め信仰する神がどのような存在であったのかも。

 私も、神様がいるからきっとこの世界は奇跡と神秘で満たされていて、美しい風景が、幸せがあるのだと思っている。逆も然りで、災害、疫病、その他の不幸の原因を神に求めることで祈祷や生贄という救いが編み出されてきた。それはきっとどの宗教も同じだったのだろうと、私は考えを改めさせられた。

 大学では主に古代芸術を勉強しようと思っていたが、他にも様々な事柄に触れて中世思想社会にも手を出し始めた。

 気付くと、最近は歴史題材の作品に心踊らされているなと気付いた。キングダムも、まぁブルーアーカイブも学園の名称や敵、ストーリー等がが神話や歴史に沿っているのでカウントできるように思う。根っからの歴女なんだろう。

 大好きなサカナクションが、主題歌を、2年ぶりの新曲を...!という違うオタク動機で見たアニメ「チ。地球の運動について」。非常に面白く興味深い物語だった。私が居ない時代も、生きた時代も、私が居なくなった時代も。世界は続いていく。そこにきっと希望はある。

 依然として、私はまだ死恐怖症を拗らせている。しかし、以前より発作のように恐怖に苛まれ寝られない夜を過ごす日々は少なくなった。「想えいつかの死」と題したnoteでは新たな死生観を見つけた私を書いた。今回のnoteで私は、歴史を学ぶうえで欠かせない宗教の中で、先人の死生観を学んだように思う。

 座学だけでは知り得ない価値観を知られて良かったように思う。

 あまりアニメは見ない方なのだが、今年は「ブルーアーカイブ The Animation」「ダンダダン」「チ。地球の運動について」と珍しく3作も見ている。単純に興味を無くしていたのもあるが、逆張りで天邪鬼な流行りに乗りたくない変な性のせいで貴重な機会を失っていることにやっと気付き始めた。「葬送のフリーレン」も「逃げ上手の若君」も見ておくべきだったなと後悔している。今後は高くアンテナを張って、いろんな作品を知りたい。


facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

【雑感】

『君たちはどう生きるか』と神話の系譜……13個の積み木に託された世界創造の寓意は?

宮崎駿の引退作『君たちはどう生きるか』は、少年の魂の旅を通して、私たち一人ひとりに深い問いを突きつけてくる。

「生きるとは何か」「選ぶとは何か」。

そしてその物語の奥底には、日本神話をはじめとする古代的宇宙観が密やかに息づいている。

「祖父の王国と“あの世”の系譜」

本作における“あの世”は、現世とは異なる秩序が支配する空間であり、その頂に立つ祖父は、まるで天つ神のように世界を設計し、管理しようとする存在である。

彼は少年にその後継者としての資格を与えようとするが、少年はそれを拒否する……。

ここに「創造と拒絶」「継承と自立」の物語が浮かび上がる。

この構造は、日本神話におけるイザナギとイザナミの神話、さらには天照大神(あまてらすおおみかみ)とスサノオ命の神々の葛藤と照応している。

神話の神々もまた、世界を生み、秩序を巡って争い、そして時に人間に選択を委ねていく。

宮崎の物語もまた、神によってではなく、人間の手によって新たな秩序が創られる瞬間を描いている。

「13個の積み木”とは何か…宇宙の設計図」

祖父の王国の核にあるのが、「13個の積み木」と呼ばれる構造物である。

これは単なるおもちゃではない。それぞれが別々の世界、あるいは異なる層の現実を象徴している。

13という数は、西洋では不吉とされることもあるが、日本神話においても“完全”とは少し外れた、不安定な数として意味を持つ。

そこには、「創造が未完であること」「完全性を拒む自由の象徴」が読み取れる。

加えて、日本の暦において旧暦は13か月で巡る年もあった。

つまり、13は円環から一歩はみ出した“境界の数字”であり、“異界”を象徴する数といえる。

宮崎は、この13という数字に「まだ終わらぬ創造」「誰かが完成させるべき世界の欠片」という意味を託したのではないか。

「母・義母・祖父……“異界の女性像”と“運命の分岐」

物語の中で、少年は実母、義母、そしてあの世での母性に満ちた存在と出会う。

彼女たちはすべて彼に何かを与えようとするが、それは「保護」ではなく「問い」である。

とりわけ義母の存在は、命をかけて少年を導く存在であり、神話における「巫女」や「黄泉の案内人」のようでもある。

母性とは、宮崎作品では常に“この世”と“あの世”を結ぶ通路である。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』にも見られたように、母は記憶と喪失を通じて、子どもを“選択”へと導く存在として描かれる。

最後に選ぶのは、“未完のこの世”にとどまること

宮崎駿はこの物語で、“完成された世界”=“あの世の王国”の継承ではなく、不完全で矛盾に満ちた“この世”で生きるという選択を肯定する。

祖父が整えた王国は一見、知性と秩序の集積だが、そこには自由も痛みもない。

少年はそこにとどまることを拒み、世界を構成する13個の積み木をそのままにして、あえて未完の現実世界へと戻っていく。

それは、まさに神々の世界を離れて、“人間”としての道を選ぶ叛逆の物語であり、宮崎自身の“創作”への問いとも重なる。

「神のように全てを制御せず、未完のまま誰かに託す」という姿勢は、彼自身の“引退”と重なり合っている。

「結びとして……未完の積み木を手渡された私たちへ」

『君たちはどう生きるか』という問いは、決して観客に向けられた命令ではない。それは、「君たちに積み木は託された」という宣言である。

神話的世界を背景にしながらも、最後に選ぶのは神ではなく人間であり、あの世ではなくこの世である。

13個の積み木は、まだ語られていない世界の断片であり、そのひとつひとつが、今を生きる私たちの手の中にあるのだ。

この作品は日本神話に通じた大人向けかもしれません。

興味のある方はこのGW期間中にご覧なって観てください。


facebook羽賀 ヒカルさん投稿記事【君たちはどう生きるか】

宮崎駿さんの最新作 私は素晴らしいと思いました。「君たちはどう生きるか?」

というタイトルは、滅びゆく日本や、世界や、人類に対する問いかけです。

宮崎駿さんの人生と、神話と、霊界と、今の日本と世界の現状の、相似的・フラクタル的な描かれ方が凄い。

宮崎駿さんがインタビューで「一本の映画で、世の中を変えるつもりで作んなきゃ。変わりゃしないんだけど。でも、そう思って作るのが映画だね」と仰ってて。改めて、その気概を感じる作品でした。そして「世界を変える作品」って、わかりやすいもんじゃない。世の中に迎合した、わかりやすいものって、合わせに行ってるから、世界を変える力は持たない。

世界を変えるものは、常識からみた時に、時に、狂気じみてて、意味わからかったりする。でも、全く、分からないわけでもない。

しかし、誰かの心に深く残って、人生や、世の中に影響を変えていく。

世界を変えるのは、狂気。

自分もまた、世界変えるつもりで、動画や言葉を遺していきたいと、改めて思いました。

なるはやで、解説動画とりたいな。

https://www.youtube.com/watch?v=oWwawYO5320

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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