深く観察する

facebookManish Kazuo Nukiiさん投稿記事  Osho/『人と花は共に主体性の海になる。』

クリシュナムルティが実に美しいことを言っている。それは、深い瞑想の中では、見る者は見られる者になるということだ。これは真実だ。だがあなた方は、そんなことは馬鹿げていると感じるだろう。クリシュナムルティが言うのは、人が花を見ていれば、その人は花になるということだろうか。そうなったら、どうやって家に帰る。

それに誰かが自分を摘んでしまったら、その人は困るだろう。「見る者は見られる者になる」。それは、自分が花になるという意味だろうか。

違う。だが、ある意味では、そうとも言える。自分が摘み取られるかも知れないとか、

誰かが持って行ってしまうとか、自分はもう人間ではない、という意味で花になるわけではないが。そういう意味ではない。だがマインドがなければ、自分を花から切り離している境界はない。また花にも、花を人から切り離している境界はない。

人と花は共に主体性の海になる。それらは溶け合い、出会う。人は人のまま、花も花のままだ。誰も間違ってあなたを摘んだりすることはない。だが、そこには融合がある。

これは人生では、人を愛した時にほんの束の間起こることがあるだけだ。

それも滅多にない。マインドは愛の中でさえ決して離れないからだ。

マインドはひとり合点の無意味なこと、自分だけの世界を創り続け、恋人に、その背景に

到達できるほどの親密さを許さない。形態が、エゴがいつでもその間に立つ。だが、時たま、それが起こる。もちろん、それは自分の「つもり」に反して起こっているに違いない。

それがあまりにも自然であるため、こちらのあらゆる妨害工作にもかかわらず、

時として、実在がぶつかって来ることがある。こちらのあらゆる手配にもかかわらず、

時として、実在が人を貫くことがある。時として、防衛機構が外れることがある。

ついうっかりしていたり、何かにあまりに熱中していて、自分の窓が開いていることを忘れる、その窓を見ていない。と、そこに実在が入って来る。

これは愛の中で見る者が見られる者になった時、ほんの一瞬、起こる。

それは美しい瞑想だ。愛する人があるなら、その人と一緒に座り、互いの目を見つめ合ってごらん。何も考えず、相手が誰かも、いっさい考えるということをせず、ただ互いに相手の目を見つめ合う。見る者が見られる者になった時、ある一瞥が起こるかも知れない。

自分がいなくなり、自分が誰だか、自分が愛する者になったのか、あるいは愛する者が自分になったのかも分からなくなった時に…。目は互いの中に入り込むための美しい扉だ。

だが、どうして私は、それが愛の中でしか可能でないと言うのかわかるかね。

それは人は愛の中でしか防御を解かず、くつろがないからだ。

相手を恐れていなければ、人は傷つきやすくなれる。それだけの勇気が出る。

そうでない時、人はいつも、防御している。相手が何をするか分からないからだ。

相手が自分を傷つけるかもしれない。それに防御を解いていれば、それだけ深い傷を負いかねない。愛の中では、人は互いの目の中を見ることができる。

背景と形態がひとつに溶け合う時、ある一瞥がある。人はその根底まで揺るがされ、突如として、ある一瞥を得る。自分はいない、しかも自分はいる、と。どこか深いところで、ひとつの出会いが起こったのだ。真の瞑想者には、これが宇宙そのものとの間に起こる。

瞑想者は木になるわけではないが、しかも木になる。瞑想者が木と共にいる時、そこに境界はない。そして、この無境界の国と波長があったら、もうその人は境界なしに動く。Osho


facebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事

愛をいくら頭で理解しても体験しなければ無駄なように、悟りを頭で理解する行為は死ぬほど無駄。理解ではなく、思考なしに深く観察すること。自分の中で唯一変化しないものを観察で見つけよう。

ヒント:思いも変化する、感情も変化する、体も変化する、そのすべての変化に気づいていて、一切変化しないものは? 変化するものはいつかすべて消えていく。真実、そして本質の私は変化せず、消えもしない。

太陽が東から登り、西に沈むというのは議論するよりも見れば分かる。同じように私たちの本質も議論するよりも見ることで分かる。悟りは考えや理論ではなく、ありのままを描写したもの。問題は観察の仕方↓

例えば、葉っぱの形態を知りたい時、葉っぱについてあれこれ考え、書物を読み、議論し合っているよりも、実際に細かく観察することが一番良いはず。

同じように私たちの本質(気づきの意識・空)もあれこれの説を読んだり、議論し合っているよりも、実際に深い観察からどうなのかを見るのが一番。

私は見たままの話をしているのであって、私の考えや学んだことを話しているのでは全くない。

では、どう深く観察するのか?

まずあらゆる思考を横に置くこと。雑念はもちろん、あそこ、ここ、上や下、私が座っている、などなど、一見事実を描写しているような思考もすべて横に置くこと。これが多くの私たちにとって難しい。

でも、できるよ〜。

幸運なことこに、私はルパート・スパイラさんによってダイレクトパスという思考を一切通さない観察を文字通り一対一でやってもらえた。

”思考は何でできているか?”というルパートさんの問いに思考なしで、ただ観察のみで答える。最初は、思考が見えないので、”透明”と答えた。

すると、ルパートさんに、”はい、その先を見て”と促され、透明の先に何があるのか?とつい考えが邪魔しそうになりながらも、ただ見ていった。

すると、あったのはただ気づきの意識のみ。そして、それはまさに不生不滅で、ただあるだけだった。

自然と涙が溢れ、変化するものを見つめて、変化しないものが見えてくる(色即是空)パワーに圧倒されていた。

https://danceofkizuki.wordpress.com/2018/10/17/%E6%82%9F%E3%82%8A%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%B8%89%E6%AE%B5%E9%9A%8E%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%BA%EF%BD%9E%E3%83%A8%E3%82%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BD%9E/ 【悟りへの三段階エクササイズ~ヨガの伝統から~】より

久しぶりにカシミール・シャイビズムの本(写真)を手に取ってみました。というのも、フェイスブックでルパート・スパイラさんの奥さん(Ellen Emmet)が、非二元とヨガにつての投稿をシェアしていたからです。

投稿によると、ヨガはもともと近代になりまでポーズというものはなく、本来の目的は体を通して本質を理解していく手段だったそうです。私はロンドンで何度かこのエレンさんの非二元ヨガを体験し、ヨガというのに、まったくポーズがないことに最初は少し戸惑いました。

ですが、ある意味とても新鮮で、ただただ体と体の感覚、体と外側の関係を見つめ、境界線が消えていくのが楽しくてたまりませんでした。と、書くと楽しそうに聞こえるかもしれませんが、非常に地味なワークで、自我が“つまらない”、“なんでこんなことやるの?”と騒ぎ出すほど地味です。

実際、エレンさんをご招待してあるグループでやってもらったときは、ほとんどの人が寝てしまいました(笑)。

さて、話を本に戻すと、いかにヨガが非二元の教えそのものだったか、いかに古代からの教えが今に通じて、というか真実のメッセージは変わっていないかがひしひしと分かります。

本の中に制限された意識の自我が、無限の純粋意識そのものの自己の本質を知るには3段階の方法があると書いてありました。

この3段階は、行う人のレベルに合わせるべきだが、とりあえず一番高いレベルから皆初めて、それができない場合は、2段階目、3段階目とやってみると良いと書いてあります。

ちなみに一番高いレベルをsambhavopaya、二番目をsakatopaya、三番目をanavopayaと呼ぶそうです。

で、一つ一つの段階の説明がこの後に続いています。

詳細は書けませんが、一番高いレベルとはなんと「在るにある」という、いつもこのブログで書いていたことでした。(思考は一切横に置いて、自分がいる、ここ、あそこなど、どの思考もすべて横に置く)

もちろん、それはニサルガダッタが彼の師から言われたこと、またルパート・スパイラさんがいつも言っていること(abiding with awareness)で、そのほかの非二元のメッセンジャーたちが言っていることと同じです。

二番目のsakatopayaは、口に出したり、唱えたりできない何かに集中すること。体の変化や思考、感覚など変化する世界の中で気づいている意識を維持していく。

三番目のanavopayaは、体の一部に集中したり、呼吸やマントラ使って心を集中させる方法。

自我的には、おそらく3つ目が一番何かをしている感が強いのでやりやすいでしょう。というのも、自我はどうしても何かつかめるものに集中してしまう傾向が非常に強いからです。

特に瞑想などをしていると、“穏やかな感じ”、“平和な感じ”、“思考のない空な感じ”など、自分が思う“非二元や悟りの状態(=つかめるもの)”を保っていると、自分が進んできたような気がしたり・・・。

もちろん、私たちのほとんどが、普段ものすごい思考活動の中にいますので、これはこれで心身ともにとっても良いことです。

話を戻して、第一番目のsambhavopayaがなぜもっとも高度なエクササイズとなっているのかは、何もしない、何もつかまない、とらえない、ただある、そこにあり続けるというのが自我には非常に難しいからでしょう。

ノンデュアリティと癒しのカフェでも、気づいている意識にただあってみてくださいとお話しますが、多くの人が気づいている意識そのものが何かを探そうとし、そこにとどまろうとしてしまいます。

一番シンプルに説明しようと、“今ここに自分がいるのが分かっていますよね? その分かっている意識にあるだけです”とお話しても腑に落ちない顔の人もとても多いです。

ので、“ただある”がぴんと来ない人、または仕事や日常の生活が忙しすぎて、思考のおしゃべりが止まらないときは、第三番目から始めるのも良いかもしれません。そして、徐々に二番目に移行していく。

つまり一見つかめるものに集中しているようで、実はそれらに気づいている意識を維持する。そして、最後に気づいている意識だけになる。ただあってみる。

さて、こういったエクササイズの紹介をすると、自我はたいてい張り切りだします。自分が悟るのだ!みたいに。

ので、同時に大切なのは、エクササイズをしている自分はすべて掴めるもの(体、思い、感情・感覚)であって、そこに瞑想者は存在せず、気づいている意識そのもののみであると見えてくるまであり続けることかもしれません♪

この手の本はすらすら読み進めて、頭で理解するよりも、一行づつ止まって見つめていくのが一番です。本当に分かっているの?と自分に徹底的に正直になりながら・・・♪

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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