facebook長岡 美妃さん投稿記事 4月29日 昭和天皇の誕生日。
私にとって昭和天皇とはいつも手を振っている方という薄い印象しかなかった。というのも昭和天皇のことを知る機会など皆無に等しかったからだ。
私が小学生の頃、「日の丸掲揚や国歌斉唱はいけないことだ」と言っている先生が何人もいた。そして国家を謳う時に椅子から立ち上がらない先生たちの姿を見ていた。そんな姿は、幼い子供の無意識に日の丸や国歌に対し後ろ向きな感情を植え付けた。と同時に日本人であることの後ろめたさ、自分は劣った民族である…と言う妄想を持たせるに至った。
しかし2012年2月、そんな無意識を払拭する事件が起こった。
それは100名くらいの会場の壇上で一人の韓国人が熱く語っていた言葉を聞いた。「日本、弱いふりするなよ!あなた方は強いだろ!」…えっ?と思った。何?って耳が開いた。
彼は続けた。「日本は真理の魂だ。分かってますか?あの戦争を終わりにできたことがどれほどのことなのか。1945年8月15日の昭和天皇の決断と覚悟、普通の人間ができることではないのです。ハッキリ言います。人類を救ったのは今やジーザスではない。昭和天皇です。」
その韓国人、彼の名はNoh Jesu。私は彼と出会わなかったら日本人として息ができていない。
彼は本気に日本を立たせる決断と覚悟をしている。彼は言う「明治神宮があるのに昭和神宮がないのはおかしい。1945年8月15日の解析が変わらない限り日本の未来はない。そしてそれはそのまま人類の未来はないと言うことだとわかって欲しい。」と。
4月29日、これは人類の祝日になるでしょう。そして今日はこれからNohさんと荒牧くんと稲妻in東京です!
すごい日に稲妻開催!張り切って行ってきまーす!
facebookノ ジェスさん投稿記事【これから東京稲妻です!】
人間の尊厳の時代を築くために、唯一無二、歴史的な事件を生み出した1945年8月15日の昭和天皇による永遠の終戦宣言。私は、この昭和天皇の決断と覚悟を、歴史上最大の宝だと心から思っています。今日は、昭和に改元されてから100年目に当たる昭和天皇のお誕生日。その記念すべき日に、東京で「稲妻」の開催に向けて準備を進めています。
今回は、130名近くの皆さまが参加してくださる予定です。本当に嬉しく、心から感謝しています。この場が、最高の意味価値を生み出す時間となるよう、全力で創り上げていきたいと思います。
facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
皇民の私達は、皆、天皇の赤子。天皇は言わば私達の親であり、故に、決して臣民(おおみたから)を責めたりせず、私達の行為の責任の一切をその御身に背負われ、その時代の人々の行いとともに、この世から神去られます。私達は、自身の生き様を、問うていくしかありません。。
facebook三上 智恵さん投稿記事 石破総理へ
石破さん 二週間前糸満の束辺名の丘の斜面から二十歳くらいの兵士のフルボディの遺骨が出ました ガマフヤーのメンバーが 頭骨がほんの数センチ地表に出ているのを見つけました
とても浅いところに腐葉土の下10数センチ こんな、手でかき分けても見つかる そんなところにまだまだ 探しに来てくれるのを 今か今かと 80年待ってる遺骨があるんです
石破さん 石破さんはずっと 日本の防衛を大事に考え 自衛隊の誇りと処遇についても
過去の戦争で戦った兵士の気持ちも 戦後の総理の中で最も 理解されている そのために動く力の ある方だと思います 戦後80年の節目です こうして全身で発見された 沖縄戦に斃れた若い兵士に手を合わせにきてくださいませんか?
おそらく顔面が致命傷で 爆破によって陥没するほどの 怪我を負って亡くなった
上顎が砕かれて 口の奥に直径5センチくらいの石が残ってました
見つめている方向と顎の位置は ズレてしまい どのような衝撃が加わったのか 具志堅隆松さんが歯医者さんの使う繊細な道具で 丁寧に泥を払って彼の最後の状況を解明しようと
這いつくばって 必死に取り組んでくれています
石破さん、先の対戦で 命を落とした将兵230万人 そのうち一人でも 亡くなったその場所の姿で 対面されたこと、ありますか?
沖縄にいると まだそういう機会があるんですよ そしてそれに対して 国のために戦ったはずなのに 国というのは なんと冷たいことをするのか なぜ見つけにきてもくれないのか
手を合わせてももらえないのか 埋まっている兵士の気持ちになると やるせなくなるのです
今からでも遅くはありません 戦後80年の大きな節目に 束辺名の丘に来て 若い兵士に会ってください 手を合わせてください 摩文仁の慰霊祭に来てくださるのなら そこから車で10分です 是非足を運んでください 全身全てを掘り出すのは 具志堅さんの中でも15年ぶりというなかなかないケースだそうです 具志堅さんは6月17日上京し 遺骨が残る南部の土砂を 埋め立てに使うのはやめると明言してから慰霊祭に来てほしい、と石破総理にお願いをしにいくそうです
回答をいただくまで23日の慰霊の日までハンストをするつもりかもしれません
山口の長生炭鉱の海底に眠る遺骨発掘に対しても「尊いことです」「危険な作業と知りながら、民間でどうぞ,政府は知りませんとは言えない」と踏み込んで発言してくださいましたね
戦争の犠牲者に対して真心で向き合う姿勢を総理大臣が示したこと近年無かったと思うので
胸が熱くなりました私は,昨日3時間近くこの若い兵士と向き合って最初,正直に言えば
怖かったけれども具志堅さんが丁寧に接し陸軍であるとか 応戦したであろう痕跡とか
彼の情報を紐解いて 説明してもらううちに 彼の人生に少しづつ興味を持ち
怖さは和らいでいき どうにか 彼の生まれたところに 返してあげたいと思いました
束辺名で眠っていたからつかくん、と心の中で勝手に名付けてつかくんは、戦争の非情さを
伝えるために令和7年の今,こうして全身で姿を現してくれたんだね
荷が重いけどつかくんのことを最大限に平和な世界を掴むための力がある人たちに伝えるね
私にも頑張らせてね!と手を合わせました石破総理もどうか,沖縄戦から80年のこの節目に
今までどの総理大臣もやらなかったこと
沖縄の野に眠る兵士に手を合わせる姿を私たちに見せてくださいよろしくお願いします!
拡散してくださって構いません
facebook神前 格さん投稿記事
「またたとえば現在ベトナムで戦われている戦闘についても、アメリカ側の北爆がいつ停止されいつ再開拡大されるか、フランスの仲介が功を奏するか、中ソの対立の及ぼす影響等々を一喜一憂し、テレビのニュース解説者のごとく庶民同士が論じあってみても、本当のところは無意味である。むしろ日々泥土の内に死んでいく兵士の死骸のみを非政治的にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望を噛みしめることのほうが有意義である。なぜならそうすることによって、少なくとも二つの体制が対立しているゆえに戦われるという戦争の相とは別に、二つの体制が自己自身を保存するために、直接火の粉のふりかからぬ場所とその人民を犠牲にしている今一つの恐ろしい政治の相があきらかになるからである」(高橋和巳『孤立無援の思想』1963年11月)
2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻してから3年あまりが経ちますが、戦闘は収まる気配がなく、ウクライナ、ロシア双方に多くの犠牲者が出ています。
一刻も早い戦争終結を望みますが、戦争は国家間の争いであり、個々人の力の及ばぬ領域だと考えると無力感に苛まれます。しかし、それでも個々人として出来ることは何かと考える必要があると思います。
2022年4月にも記事にしましたが、1963年11月に高橋和巳氏(1967年に京都大学文学部助教授に就任)が、「政治」「大衆」「国家権力」「民主主義」「戦争」「原爆」などについて論じた『孤立無援の思想』というエッセイを発表されていますので、その一部を抜粋転記して再度御紹介します。抜粋ではありますがかなりの長文です。最後までお読み頂ければ嬉しいです。
■以下、『孤立無援の思想』からの抜粋です。
にもかかわらず、現在においてもなお、政治は一体なんの権利があって、他のもろもろの人間の作業を中断させうるのか。おそらくは何の権利もないのである。
ただ国家権力はむきだしの形態において人を殺しうることを極限とするもろもろの力によって、人間の尊厳をけがし、人を貧窮化させ、その自尊心をこっぱみじんに破壊することができる、というだけのことにすぎないのである。
原爆が何のために作られたか、何のために必要以上に発展させられたか等の問題や、それを保有し、改良しつづける国家や政体のかかげる理念と、原爆がいかに抵触するかといった、いわば孤独な根本的設問は、すべてその情勢論に圧倒されていく運命にある。たとえば、民主主義というものは、それが代表制議会主義の形態をとる場合も、つねに全国民の供託による権力の大多数者の同意による発動を根本原則とする。ところが、原爆は、戦闘期における秘密保持を名分として、全き秘密裡に製造され、協力した科学者たちがその成果の予期以上の恐ろしさに後悔して、使用中止を勧告したのも無視して使用された。さらには、人民の生産する社会の富を階級や特定の党派による中間的搾取を排除して直接人民に還元することを至上命令とする社会主義国家においても、何ひとつ生産に役立たぬ武器の製造に社会の富を浪費することに対して、ただの一度も人民に謝罪するということは行われなかった。原爆の存在は、平和共存を正当化するものでなく、双方の体制のかかげる理念というものが虚偽であることを暴露するものだ、といった視点は、いまや孤立無援の非政治的思想としてしかありえなくなっている。
一方、私たちの周辺で論じられている大衆社会論は、大衆の政治的無関心を、あるいは分析しあるいは叱責しながら、それでは一体どうしようとしているのかと言えば、結局はより安易な床屋政談的情勢論を身につけよと勧告しているにすぎないのである。
清水幾多郎の簡潔な要約に従えば、「大衆社会のメンバーとしての大衆が複雑で面倒な政治問題について、民主主義の原則が要求するような関心を持っていないということ、また大衆が自分の内部から積極的に行動する主体であるよりは、さまざまのメディアを通じて行われる外部或いは上部からの操作の客体であるということ」(『現代の経験』大衆社会論の勝利)を大衆社会論は見いだした。清水幾多郎は、それに抗して大衆自身の政治的経験を重視しようとしているけれども、私にとっては、与えられる情報から、みずからの経験にいたるまでが、情勢論に支配されているということの方が重大であると印象される。
元来、民主主義政治というものは、本質的に情勢論を超えようとしない性質をもつ。それは賢者独裁や一党独裁とは異なり、また宗教団体や科学者の団体とも相違して、おのおのの利害のあい反し、あるいは齟齬する階級や階層が、情勢論的に事態を調整することをもって法制の基礎とするものであって、法を作るものは、独裁者の恣意や絶対者の観念ではないかわり、客観的な真理や何らかの理念でもないのである。
情勢論は、近代的思惟が絶対者の観念や、身分制による道徳や信条の区分を破壊したときに一般化した。最終的審判や絶対者の観念をもつものにとっては、情勢の移りかわりというものは、相対的な意味以上の第一義性はもたないし、逆に森羅万象が、相互の縁起によって無常そのものであるならば、特定の状況は彼に責任の存しない過去の因縁にすぎない。またカーストや封建的身分制の枠中では、その枠組自体が変化を抑圧するばかりか、かりに他の地域からの武力や貿易による作用によって情勢に変化がもたらされても、その変化に対応する責任者は、身分上の上層部、王侯や貴族、領主や武士たちに限られる。統治に参与しえないものにとっては、情勢論的な処世というものは、およそ意味がないのである。
現在のように万人が情勢論に敏感にならざるをえないこと自体、民主主義による権力概念の曖昧化と関係する。私たちに今や親しい民主主義なるものは、リップマンも指摘するように、「二つの幻影があり、その一つは、自分ひとりで物事を行うことのできる個人を仮定し、他のものは、ありとあらゆる物事の動きを調整する(新たな)神を仮定」(『世論』)しているのだが、その仮定をもはや誰も疑おうとはしない。だがそれは本当だろうか。
たとえば一つの企業体を例にとってみよう。その企業が生きのび発展するのには、大は国際的な景気の浮沈から、小は国内市場の情勢に対する的確な判断が必要である。それにあわせて新製品の案出や企業の合理化や商品価額の変動に対応する設備の膨張や操業の短縮が行われる。ところで、そうした情勢判断が必要なのは、その企業体に属するすべての成員にとってであるか。違うのである。朝から晩まで一つのプレス加工機や旋盤の前にいて、クラッチの踏みはずしやハンドルの回転を行っている労働力提供者にとって、世界の経済情勢というものは実は問題にはならない。なぜなら、彼は<参加>していないからである。参加の幻影をあたえられることはあっても、実際にはその情勢には参加していない。大株主や経営者や企業内エリートと同様に、そうした情勢に一喜一憂せよと言ってみたところで、企業がつぶれるせとぎわにでもならないかぎりそれは無理である。知識は必要から生まれる。身につけていたところで何の役にもたたない余計な知識を、そうでなくとも疲労している現代の大多数の人間に求めるのがそもそも無理である。彼らは当然、情勢論的な思考の埒外に押しだされる。
いまは企業を例にとったけれども、資本主義社会における独占的な企業はそれ自体すでに一つの小国家であって、国家がはらむ国家間矛盾や階級制などはすでに縮小された規模でみずからの内部にはらんでいる。したがって全く同様のことが国家の政治に関してもいいうる。大多数の従業員にとっての企業参加がアイディア箱への投書にすぎないごとく、また大衆投資家の喜怒が僅かな配当金の分配に限られ幻影以外の何物をも実質上所有しえないごとく、国家の政治に対する大多数の者の参与とは、四年ごとにおとずれる投票口の一片の紙切れであり、青色申告や源泉徴収、あるいは間接課税によって徴収されてゆく税金の代償に、自分たちが自動車を乗りまわせるわけでもない高速道路が建設されることにすぎない。
民主主義が開いてくれているようにみえる<参加>の可能性も、多くの者にとっては一個の幻影にすぎない以上、被治者における情勢論もまた、実は一個の幻影にすぎないのである。大衆の政治的無関心というものは、むしろ、参加をこばまれていることをうすうすは知っているその知恵のあらわれである。
またたとえば現在ベトナムで戦われている戦闘についても、アメリカ側の北爆がいつ停止されいつ再開拡大されるか、フランスの仲介が功を奏するか、中ソの対立の及ぼす影響等々を一喜一憂し、テレビのニュース解説者のごとく庶民同士が論じあってみても、本当のところは無意味である。むしろ日々泥土の内に死んでいく兵士の死骸のみを非政治的にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望を噛みしめることのほうが有意義である。なぜならそうすることによって、少なくとも二つの体制が対立しているゆえに戦われるという戦争の相とは別に、二つの体制が自己自身を保存するために、直接火の粉のふりかからぬ場所とその人民を犠牲にしている今一つの恐ろしい政治の相があきらかになるからである。
これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。
(以上、『孤立無援の思想』からの抜粋おわり)
私たちは、戦争を「絶対悪」と認識しなければなりません。戦争からは、何も生まれません。戦争は国土と人心を荒廃させます。人々の心に残るのは悲嘆と怨念です。戦争に聖戦などというものはありません。戦争は、老人が決め(ジイサンが宣戦布告し)、中年が命令し(オッサンが進軍ラッパを吹き)、青年が戦う(アンチャンが殺し合いをする)理不尽極まりないものです。戦争は国家が国民の基本的人権を蹂躙し、国民に他国民の大量殺人を強制するものです。
私たち人類は戦争を放棄しなければなりません。
私たちや私たちの子供や孫たちが、安心して楽しく暮らせる平和な社会を築くことが私たち大人の責任です。普通に考えて、オカシイと思うことは、オカシイと言い続けましょう。
(註)この記事は2022年4月24日の記事に加筆したものです。
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