facebook相田 公弘さん投稿記事 『 感動すること 』
明治維新の前夜、持てる情熱を惜しみなくぶつけた吉田松陰の教育は、門弟達に大きな変容をもたらすような影響を与えたようです。
松下村塾では、本当に塾生の個性を尊重し、相互に親しみ助け合い、魂のとびらを開いて交わらせるという生きた人間教育に主眼がおかれていました。
そこでは、塾生の自主性を尊重し、特に規則を定めたりしませんでした。
また身分を越えてお互いを磨き合う教育は、集まった者たちの魂を揺さぶらずにはいなかったのです。
松陰が門弟たちの指導に当たったのは、わずか1年と少しほどなのですが、松下村塾からは高杉晋作をはじめ、多くの時代の要となる逸材が羽ばたいていったのはご存じの通りです。
どんな人でも、松陰にかかれば、たちまち自分のすばらしさや存在意義、そして社会のために成すべき事を理解し、大きな情熱を持って自分の役割に邁進していくことができるようになったのです。
でも、その松陰でさえも、とても変化を与えることができなかった人たちがいたそうです。
それは、「感動をすることを忘れてしまった人たちです。」何を見ても、心を動かされることがない、何を聴いても驚かない。こんな人たちは、さび付いた機械と同じで、さすがの松陰もお手上げだったようです。
感動する能力は、本来誰もが持っているものなのです。私たちが、小さな子どもだった頃は、見るもの、聴くものがすべて驚くべきものであり、感動すべきものだったのです。
それは実は、私たちが何も知らなかったからではなくて、どんなものでも受け入れてみようという、こころの空間を大きく開いていたからなのではないでしょうか。
いろいろなことを楽しんだり、驚いたりする、こころの余裕があるからこそ、私たちは、感動することができるようです。
どうやら、感動とは私たちの、こころの空間の広さであると言ってもいいようですね。
そして、感動することが、私たちに、情熱や感謝の気持ち、生きる喜びを与えてくれるのではないでしょうか。
ところで、あなたは最近、感動するようなことに出会いましたか?
もし、思い当たらない人がいたとしたら、それはひょっとしたら、あなたのまわりに感動するような出来事がなかったからではくて、それに気づいて受け入れるだけのこころの余裕を忘れてしまっていたのかも知れません。
大人になった私たちは、子供と違って、いろいろ知識や経験を身につけてきました。
そして、安全に生きていくためには、自分を守るために、こころの守備範囲をある程度限定しておかなければならないということも分かります。
でも、たまには、子供に戻ったつもりで、こころの空間を広くして、まわりを見回してみてください。いろいろ感動するようなことが見えてくるかも知れませんよ。
まずは、今この瞬間に生きているあなた自身を感じてみて下さい。
これって、本当にすばらしいことで、感動してしまうことだと思います。
※すべての人が幸せになる魔法の言葉たちより
facebook山川 紘矢さん投稿記事 スピリチュアルメッセージ 第58弾
「目に見えない祝福」
あなたが今日、気づかずに通り過ぎたその瞬間に神は 静かに あなたを祝福していました。
風のなかに やさしさを乗せて 光のなかに 励ましを隠して すべては、そっと、あなたのまわりで動いています。私たちは 目に見える奇跡ばかりを求めますが 本当の奇跡は もっと繊細でもっと深く 魂の奥を震わせるものです。
出会い 別れ ひとつの涙 ひとつの微笑み。それらすべてが、「いのち」と「愛」の物語のなかに編みこまれた、目に見えない贈りもの。どうか 感じてください。この瞬間にも、
あなたの背中には 天の手が添えられていることを。あなたは愛されている 忘れられてなどいない あなたの歩みには 意味がある。 だから、今日も信じて歩いてください。
あなたの魂が、この世界に光を放つ存在であること
facebook加藤隆行さん投稿記事 【変である勇気】
ボクね、自分のことを「変な人」だと思ってるんです。え?ご存知でしたか(笑)
でも昔はそれがイヤでたまらなかった。みんなに合わせようとして、「普通っぽい人」を必死に演じてた。空気を読んで、流行を調べて、会話のテンポを研究して。…まるで「人間のやり方マニュアル」片手に生きてた感じ。
でもね、それってものすごく疲れる。しかも、「変な自分」を隠そうとすればするほど、なぜか余計に「変」が漏れ出してくるのよ。例えるなら──くしゃみを我慢してると、変なタイミングで鼻水が出るみたいな。
↑ 変な例え(笑)
がっこの先生からも高校の友達からも大学や会社の先輩からも「かとーは変なヤツだな~」と言われてた。(中学までは気にしてなかった)それがイヤで変じゃないように変だと思われないように「フツー」がどれかを探していた。でも、あるとき、ふと気づいたんです。「これ、隠すのムリだわ」って。って言っても40歳も過ぎてからだけど。
こんなふうに変なところを隠すエネルギーがあるなら、むしろ「変なところを愛でてみたら?」と思ってみた。そしたらめっちゃくちゃラクになった。
そして自分の「変」を受け入れたら、他人の変なところも、笑って受け入れられるようになった。「お前、変でオモロいなー」って、親近感まで湧いてきた。
そしたら先輩たちが言ってた「変」が自分への批判ではなくてなんだオモロイって言ってくれてたんだとぐるっと認識が変わった。なんだよ「変」でいいんじゃん。ていうか「変」がいいんじゃん。そう思えるようになるまで時間がかかった。
*
「みんな違ってみんないい」と言うけれど、ほんとにそう。みんな「ちょっと変」だからこそ、世界はおもしろい。「普通」になろうとしてたあの頃、ボクはずっと緊張してた。
今もちょっと人前行くと変を見せないようフツーを装ってしまうときがあるけど、ちょっと肩の力を抜いてみて、「変である勇気」を持って、変でいることを許してあげる。
(それが自分にとってフツーなんで)だって、変ってことは、その人にしかないオリジナルな魅力ってことだから。それをオモローとか、ステキとか言ってくれる人とつながればいい。
ボクは「変」を認めたらいろんな人が寄ってくるようになった。
フツーになったらみんなと合わせられたら人と親しくなれるのかと思ってたら全然逆だった。
そーいえば嫁さんも「はじめて会った時 若いのにサスペンダーしてて 変なヤツーって思った」と言っていた(笑)当時、個人的にサスペンダーがブームで(笑)
*
今日もどこかで誰かが、「こんな自分、変かな…?」って不安になってるかもしれない。
でも大丈夫。あなたが変なのは、あなただから。世界にたったひとつの、愛すべき「変」。
だから今日も、堂々と変でいこう。「うん、ボク、 ちょっと変なんです」って、そうニヤッと笑いながら( ¯ω¯ )
https://www.coco-h.com/blog/kenjiro/1319.html 【感動することは生きること】より
70代の男性が体に違和感を感じ、病院で診察を受けたところ、末期ガンで、余命数ケ月との診断を受けました。ショックのあまり放心状態で病院の廊下を歩いていると、窓には満開の桜が今を盛りと咲誇っていました。その時彼は、圧倒的な桜の美しさに心を奪われました。
これまで何十年、満開の桜を見てきたけれど、これほどしっかりと桜を見、その美しさに感動したのは、人生最後となろう目の前の桜が初めてでした。
それは絶望の中の一筋の感動という光明であり その感動は、生きる喜びであることでした。
私はコロナ禍での自粛生活を余儀なくされています。それはマイナスばかりではなく、
錆びついてしまった「感動のセンサー」を磨き上げるチャンスの時かもしれません。
冷たい風の中から、春風の気配を感じる・・・・土の中からちょっと顔を出した、青い芽をいとおしむ・・・流れゆく雲の形から、動物を連想する・・感動することは、生きる喜びなのです。
https://note.com/komugiko_mitsui/n/n4661ffb5ec54 【感動すること、生きること】より
アニメや漫画が大好きだ。ただ、見ようと思って後回しにする癖がやめられないため、なかなか流行りに追いつけなかったり王道の名作が見れていなかったりしがちである。
そしてネタバレされて、(例えば留学先の大学のインドネシア人の友人から五条悟VS宿儺戦の結果をまさかのネタバレされたりして)読んだことないのにあらゆる物語の結末を知ってるモンスターが生まれるのである。
あとワンピースはドフラミンゴがやられたところで止まってる。
今アニメが完結して話題の「チ。地球の運動について」もそう。
漫画が完結した時点で「読まなきゃ」と思い、アニメ化が決定した時点で「アニメまでには読み切らなきゃ」と思い、アニメが始まった時点で「早く読んでみなきゃ」と思い、1クール目が終わった時点で「アニメの方を見なきゃ」と思っていた。
この調子だと私が見始めた時期には逆に天動説が支持されているかもしれない。そうなるとややこしいので、早速見始めた。ちなみに「ようこそFACTへ」は現在読み進めている。
判断が早い、と鱗滝先生に褒められた。ちなみにこの記事は「チ。地球の運動について」についてのネタバレを含む。
また他の漫画についても触れるが、これはネタバレにはならないので(物語の超初期)安心して読んでほしい。
個人的には「チ。地球の運動について」を見て(読んで)いない方は見てから読んでいただきたい。
「感動できる」
さて、ここに残っている方々は「チ。地球の運動について」を見た(読んだ)方々ばかりであろう。そうであってほしい。
万が一見てなければ、最悪2話までは見てほしい。単行本だと1巻までは読んでほしい。
見ただろうか。読んだだろうか。この話は天動説が支持されていた世の中で、異端とされる地動説の証明に命をかけた人々の物語である。
というかこの記事でも書いたので概要は本当に省く。
物語の序盤、12歳の主人公(?)ラファウは地動説の研究により異端審問に掛けられ、拷問が決定する。
審問後、審問官であるノヴァクがラファウの元を尋ねて会話し、その最中にラファウはケシの実で自殺を図る。
自らの命を犠牲にして(C教では禁じられている自殺という罪を犯してまで)、信念を曲げないラファウに対し、ノヴァクは疑問を示す。
そのやり取りの中で出てきたのがこの小見出しのセリフである。
後にも同様の発言は出てくる(恐らく「チ。(以下略)は「感動」が主題の一つなんだろう)が、私は一番ここでの発言が刺さった。
初出だったから、というのもあるのだろうが、ともかく感動の重要性について考えた。
どっかで聞いたことあるような…??どれほど考えていたかというと一日中である。
卒論を控えていた理系大学生(当時)の1日を支配するとは恐ろしい。そう考えていると、ある漫画を思い出した。
生きる目的
ある漫画とは「葬送のフリーレン」である。私はこの漫画が大好きで、割と早い頃から読んでいた。友人と会話するときに古参アピしまくっていたせいで、そろそろ夜道には気をつけた方が良くなってきた。ボディガードも雇おうと思う。
ちなみにここで物語の詳細は説明しないので、未読・未視聴の方は今すぐフェルンが岩を破壊するまでを見て欲しい。さて、この漫画の何を思い出したか、という話だ。
フェルンが両親を亡くし、彼女自身も自殺を図ろうと崖に立っていた時に、ハイターが彼女にかけた言葉である。
「あなたの中にも、大切な思い出があるとすれば、死ぬのはもったいないと思いますよ」
葬送のフリーレン/2話、ハイターのセリフ
その結果、フェルンは自死を選ばず、フリーレンらと共に旅をすることになる。
フリーレンとのやり取りの中で勇者ヒンメルとの思い出話を語られたり、自身もさまざまな思い出を築いていく。
彼女の中にどれだけ先ほどのセリフが息づいているかは知らないが、そもそも彼女を生かしただけでも十分である。
さて、ここでラファウのセリフと比較してみたい。ラファウはご存知の通り、先ほどの発言の後死ぬ。だが、彼の受け継いだ木箱はその後の人々の運命を大きく変える。すなわち彼の感動は生き続ける。それが彼の生きた理由であり、感動の遺したものである。さらに運命を変えられた人々によって、世界も変わる。感動にはそれだけの力があると思う。
実際の世界でもたった一人の小さな感動でも、幾分かは世の中を変えるのかもしれない。
生きる理由
少しでも何かに感動したことがあるなら、それを他人に伝えるか否かは別として、その感動を自分の中に生かすために我々は生きるのかもしれない。
別に自己完結でも構わない。
私は今までのnoteの文章を読んでわかる通り、非常にのびのびと育てられた。
(「『読んでわかる通り』ってなんだ!読んだことないわ!」という人は今すぐ読んでほしい。ぜ〜んぶ。)家族との思い出もたくさんある。
あと友人との思い出もたくさんあるし、今後の叶えたい理想もある。
しかも多分私しかしたことのないような感動もたくさんあるはずだ。
私もたまにはメンタルがブレイクして「はいはい!!終わり!もうぜーんぶ終わり!!」となって風呂にも入らずストゼロを飲んでベッドに倒れ込む時もあるのだが、ブレした時にはこれらのセリフを思い出す(時がある)。
そして今まで感動したこととかを思い出し、なんとか安定させている。
理系の人間としてこんなこと言うのもなんだが、結局人を動かすのは感情だと思っている。
理屈というものは所詮感情を排した部分でしか議論できないと思っている。
感情の最たるものが感動だと私は考える。
…ここまでなんとか3ヶ月くらいかけて書いたのだが、普通にアニメの「チ。(以下略)」も完結してしまい、「葬送のフリーレン」も1年ぶりの新刊が出た。
時の流れは残酷である。
フリーレン、新刊を買ったものの読み始めてふと気づいた。
前巻の内容を忘れていることに。
時の流れは残酷である。
ただ、この3ヶ月、少なくともこの記事を投稿するまでの期間は生きられた、という喜びを込めて「公開に進む」ボタンを押そうと思う。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
ということでコメントには「あなたが生きる理由」を書いてください!
重くなくて大丈夫です!軽〜い気持ちで!!
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