スズランの実と宮沢賢治の『貝の火』

https://ameblo.jp/kizinekomimi5206/entry-12636459555.html 【スズランの実と宮沢賢治の『貝の火』】より

季節はいつの間にやらすすみ、今日は立冬だ。時折雨が降り、寒々とした感じがする。。。

寒いところの新型コロナの感染者数が、じわりじわりと増加しているのが気になるところだ。

昨日は、師匠からの指令で、所属する会の総会に向けての工作のパワポ作りの準備でお籠り。ちょっと、息抜きにと散歩に出た。県庁の西側の聖ミカエル教会の前を通りがかると。。。

おやっ?何だ?あぁ~スズランの実か。。。

フランスでは、5月1日にスズランを贈ると、贈った人も贈られた人も幸せになると言われるメイフラワー。

そうそう、幼稚園の頃、大病をして名古屋の日赤病院に入院したことがある。

その時にANAの客室乗務員さんが小児科病棟の子どもたちにも、スズランの花のしおりをプレゼントしてくれたことを覚えている。スズランの花言葉は「再び幸せが訪れる」とかで、ナースステーションのカウンターには、スズランの鉢が置かれていた。

50年以上前のことだけど。。。今でもANAはスズランを日赤病院に届けているそうだ。

愛らしく清楚な姿で 見ているだけで爽やかな気分になるような可憐な花のスズランの実は白い花とは対照的に赤くなる。春に白いドイツスズランの花を咲かせて、秋には全てではないのですが実が付き、しばらくすると赤くなる。

なんか美味しそうに見えますが。。。そのかわいらしい姿からは想像もできないほどの強い毒をもっています。

食べてしまうと、死に至る危険性もあるので、誤飲には注意が必要な植物だ。

この実をみつけて、ふと思い出したのが。。。宮沢賢治の童話『貝の火』だ。

そのなかにスズランの実が出てくるのだった。

南へ下り元町商店街方面へ 何件か古本屋さん巡りをして、見つけた宮澤賢治の復刻版。

清らかで余計な力の入っていない挿画で気に入って買ってしまった。

宮沢賢治 『貝の火』 

「ふん、いいにおいだなあ。うまいぞ、うまいぞ、スズランなんかまるでパリパリだ」

風が来たのでスズランは、葉はや花を互たがいにぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。ホモイはもううれしくて、息いきもつかずにぴょんぴょん草の上をかけ出しました。

ある日小川でひばりの子がおぼれていました。それをみつけたうさぎのホモイは必死に助け上げました。ホモイの家をひばりの両親が訪ねてきて、お礼に『貝の火』という宝の玉をもらいました。「鳥の王からの贈り物です、どうかお納めください。」玉の中では赤や黄色の炎が美しく燃えています。そのおかげでホモイは権力を得ます。しかし、ホモイは慢心をおこし、権力を悪用し始める。むぐらをいじめたり、狐に騙されて鳥の捕獲を容認したり、りすに過量の鈴蘭の実を集めさせたり、思い上がったことを言ったりもしましたが、そのために、宝珠は輝きを失いやがて砕け散って、その粉でホモイは失明してしまうのです。

ホモイがおとうさんやおっかさんや、兎のお医者さんのおかげで、すっかりよくなったのは、スズランにみんな青い実ができた頃でした。

善行をほどこして宝玉を手に入れるも、権威におぼれ誘惑に負けることあれば、その資格を失うという教訓のおはなし。

えっ!!ちょっと待って。。。スズランの実はウサギにとっては毒じゃないの?

たぶん、スズランという響きで、宮沢賢治がメルヘンチックに「たいへんおいしい実」として 、取り上げただけなのか!!おいおい。。。

賢治の代表作と言えば、多くの人が銀河鉄道の夜だ。もう少し詳しい人でよだかの星、注文の多い料理店かな。。。

『貝の火』と言う作品は、いささかマイナーかもしれませんが、示唆に富んだ作品だと再読して思う。小学生の頃に課題図書として父に買ってもらった本を今でも持っている。

銀河鉄道の夜(宮沢賢治童話集Ⅱ)にも貝の火は収められていて、読んでいたのですが。。。大人になってから読むとかなりイメージが違う。再読すると、読み落としていたことがたくさんある。奥深い。。。考えさせられるものがいろいろとあった。

読み返すにつれ賢治の真骨頂は、物語の筋より、背景や情景描写の中に溢れる詩情の言葉で

キラキラ輝いているようだ。。。


https://ameblo.jp/kojima0709/entry-12681960572.html 【スズランの青い実を毎年見つけるたびに、宮沢賢治の『貝の火』が頭に浮かびます。】より

みなさま、こんにちは!6月も後半に入りました。春の植物たちはそれぞれまた来年のための準備の真っ最中です。スズランもその一つ。庭の隅で青い実をたくさん見つけました。

この実が赤くなるのはもう少し先のことです。

スズランの青い実、を毎年見つけるたびに、宮沢賢治の『貝の火』が頭に浮かびます。

検索すると、”青空文庫”というサイトで文章がアップされていました。

宮沢賢治 貝の火 (aozora.gr.jp)  よかったら読んでみて下さい。

今日は夏至ですね。明るい時間が長いと、ついつい時間が後にずれて寝不足気味になるのが、

毎年、この季節の私の反省点です。みなさまは大丈夫ですか?早めに寝る体制を整えて、

本を読みながら寝落ちする…そんなことを今年は考えているところです。


https://ihatov.cc/blog/archives/2013/01/post_776.htm 【貝の火と父親】より

 「貝の火」というお話を読んだ後には、何となく不条理な感覚が残ってしまいませんか。

 野原に出ると悦んで、一人でぴんぴん踊っていた無邪気な子兎ホモイは、年相応に愚かでもあり、子どもらしい万能感の手綱を取りかねていました。「貝の火」の宝珠を授かってからも、むぐらをいじめたり、狐に騙されて鳥の捕獲を容認したり、思い上がったことを言ったりもしましたが、結局そのために最後には宝珠を失い、嘲笑され、失明してしまいます。

 もちろんホモイに落ち度があったのは確かですが、しかしこれでは、犯した罪と罰の重さが不釣り合いではないか、いたいけない子どもが、なぜこんな目に遭わないといけないのかなどと、やり場のない気持ちも起こります。

 この物語が、「因果応報」という掟の厳しさを描いていることには、誰しも異論はないでしょう。冒頭でホモイがひばりの子を救助したという「因」に対して、貝の火を授かるという「果」があり、その後の過ちの集積という「因」に対して、最後で貝の火を失うという「果」があるというのが外枠で、これがお話の骨格をなしています。

 しかし、きっと皆さんもお気づきでしょうが、その二つの大きな因果にはさまれた途中経過においては、ホモイの行動(因)と、貝の火の様子(果)とは、なぜかほとんど相関していないのです。そればかりか、ホモイが悪いことをして父に叱られ、「もう曇ってしまったぞ」とか「今日こそ砕けたぞ」とか言われるごとに、逆に貝の火はいっそう美しく燃えたのです。

 ここが、この物語に不条理さを感じてしまう、もう一つの点なのだろうと思います。

 「貝の火」は、前日までは「今日位美しいことはまだありませんでした」という様子だったのに、ある日突然「小さな小さな針でついた位の白い曇り」が現れ、その日の夜中には、もう火は消えていました。もしも「貝の火」が、もう少し早くからホモイの行動に対して警告を与えてくれていたら、彼も「慢」に陥らずに反省して行いを改めたでしょうし、注意をしていた父親の威信が揺らぐこともなかったでしょう。

 ホモイも父も、「貝の火」に複雑に燃える光の紋様を読み解こうとして、毎日その様子を注意深く観察します。そこには、ホモイの行いを判断するための何らかのメッセージが表現されているのではないかと、期待したのです。

 しかしこの方法は、見事に裏切られました。貝の火の様子は、ホモイへの評価を映す鏡ではなかったのです。

 では、それは何を映していたのか?という疑問が浮かびますが、ここで下記に、物語における「ホモイの行動」「父の行動」「貝の火の様子」を、一日ごとに表にしてみました。

 第一日

ホモイの行動 皆の尊敬を集めるようになり、自分は「大将」になったと考えた。狐を少尉に任命する。

父の行動  朝はすでに外出していた。夜は家族一緒に御馳走を食べる。

貝の火の様子 玉の美しいことは昨夜よりももっとです。

第二日

ホモイの行動 鈴蘭の実を集めるよう母に言われるが、大将がそんなことをするのはおかしいと、代りにむぐらに命令する。日光に弱いむぐらにはできず、怒って脅す。

父の行動  ホモイがむぐらを脅したこと、りすに過量の鈴蘭の実を集めさせたことを、強く叱る。貝の火は曇ってしまっているだろうと言う。

貝の火の様子 一昨夜よりももっともっと赤くもっともっと速く燃えてゐるのです。

第三日

ホモイの行動 狐が盗んできた角パンを受けとり、今後は狐が鶏を捕るのを咎めないよう約束させられる。

父の行動  盗品の角パンを見て怒って踏みにじり、ホモイを叱る。玉は砕けているだろうと言う。

貝の火の様子 お日さまの光を受けてまるで天上に昇って行きそうに美しく燃えました。

第四日

ホモイの行動 狐にそそのかされ再びむぐらの家族をいじめる。父に怒られるが、自分は生まれつき貝の火と離れないようになっていると言う。夜、高い錐のような山の頂上に片足で立っている夢を見る。

父の行動  ホモイがむぐらをいじめるのを見つけてむぐらを助け、ホモイを叱る。

今日こそ貝の火は砕けたぞと言うが右記のように美しいのを見た後、狐の角パンをみんなで食べる。

貝の火の様子 今日位美しいことはまだありませんでした。赤や緑や青や様々の火が烈しく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、又いなずまが閃いたり、光の血が流れたり・・・。

第五日

ホモイの行動 動物園を作ろうと狐に言われ、深く考えずに興味を持つ。狐が網で捕えた鳥たちに懇願されて解放してやろうとするが、狐に脅されて逃げ帰る。

父の行動  狐が捕えた鳥のことはホモイから知らされていない。狐の角パンを家族で食べる。曇った貝の火を漬けておくために、油を出してやる。

貝の火の様子 一所小さな小さな針でついた位の白い曇りが見える。

第六日

ホモイの行動 夜中に眼をさまして、貝の火がもう燃えていないことに気づき、泣き出す。狐が網で鳥を捕えていることを父に話す。狐と戦うよう父に言われ一緒に野原へ行きくが、何もできなかった。家で鳥たちに貝の火を見せた後、玉の破片で失明する。

父の行動  狐が鳥を捕えていることをホモイから聴き、狐と対決して鳥を逃がしてやる。貝の火が曇ってしまったことを鳥たちに言う。失明したホモイを慰める。

貝の火の様子 夜中に火は消えていた。一部始終が終わった後、砕けてホモイの目に入り、失明させた。その後またもとの玉に戻る。

 第一日はともかく、第二日以降のホモイは悪いことばかりしています。しかし、貝の火はそれにおかまいなく、美しく燃えつづけます。

 これに対して、お父さんの行動はずっとほんとうに立派です。つねにホモイの行動に注意を払い、問題があれば厳しく叱ります。第六日には、一人で「いのちがけ」で狐と対決し、捕えられていた鳥たちを助けるという勇敢さも見せます。

 その行動は父親として模範的にも思えますが、全体の中でもしも何か責められるべき点があるとすれば、第四日と第五日の夜に、狐が盗んできてホモイに渡した角パンを、家族で一緒に食べてしまうところです。第三日には、盗んで来たものは食べられないと言って、「土になげつけてむちゃくちゃにふみにじる」といういさぎよい態度を見せたのに、第四日には貝の火が美しく燃えつづける様を見て、何か自信をなくしたように、狐の賄賂を受け入れてしまったのです。

 さて、この表を眺めていると、結局「貝の火」の様子は、ホモイの行動にではなくて、実は父親の行動の方に相関していたのではないかと、思えてきます。

 第二日からホモイはむぐらをいじめますが、父はそんなホモイを厳しく叱ります。第三日の父は前述のように、狐が盗んで来た角パンを断固として拒否し、ここでも正義を貫きます。

 第四日にも、ホモイと狐がむぐらをいじめていたところへ、父が介入して可哀そうなむぐらを助けてやります。父子が帰宅した時点では、貝の火はこれまでで一番というほど美しく燃えていましたが、その後に父は、狐の角パンを食べるという過ちを、初めて犯します。この後の貝の火の様子は、翌日までわかりません。

 第五日の父は、昼間のホモイの行動のことは知りませんが、貝の火に小さな曇りができていることを告げられ、気を揉みつつ熱心に磨きます。しかし、曇りはとれるどころかだんだん大きくなってしまいました。そして、この日も前日に続き、狐の角パンをみんなで食べたのです。

 貝の火の光が消えてしまったのは、その晩でした。

 つまり、父親が正しい行動をしていた間は、(ホモイの行動に関係なく)貝の火はますます美しく燃え、父が過ちを犯した時に一点の曇りが現れ、まもなく火が消えたのです。こう考えると、少なくとも「因果関係」のつながりとしては、わかりやすくなります。

 この「貝の火」という物語では、主人公であるホモイが、最後まで父親への依存から抜け出せずにいるところに、不満を感じるという意見もあります。

 一方、これをホモイというよりも「父親の物語」として見ると、そこにはまた別の情景が現れてくるようにも思われます。


https://note.com/ogla_meg_0707/n/nbe77b535f05d 【宮沢賢治『貝の火』を読む】より

宮沢賢治の代表作と言えば、多くの人が銀河鉄道の夜を上げるかと思います。もう少し詳しい人でよだかの星、注文の多い料理店などでしょうか。そういう意味では今回取り上げる『貝の火』と言う作品は、いささかマイナーかもしれません。しかし非常に示唆に富んだ作品ですので、ご紹介がてら、解説したいと思います。

物語の概要

まず、この『貝の火』という物語について。主人公は兎の少年です。名前はホモイ。年齢設定ははっきりされていませんが、無邪気さや強く言う狐に流されるあたりから見て、10歳前後くらいかと思います。物語は、このホモイが川に流されたひばりの子を助けるところから始まります。川に流されたひばりの子を見つけると、自ら飛び込み捕まえ、両手に高く掲げて流されないように懸命に勇気を振り絞って助ける。これは、本当に無私の勇気として描かれています。そして、この無私の勇気がホモイをさらなる試練へと誘うことになるのです。

宝珠『貝の火』

数日後、ホモイは助けたひばりの子の親から宝珠である貝の火を貰います。『手入れ次第ではどんなにも立派になる』と言う言葉と共に。幼さからか欲のないホモイは断ります。見ているだけで十分キレイだ。また見たくなったらひばりさんのところへ行きます。しかしひばりは承諾せず、ほぼ強制的にこの貝の火をホモイのところへ置いてゆくのです。貝の火を見たホモイの父は、この貝の火が持ち主の精神面に左右される存在であること、そしてこの貝の火を一生持ち続けることは大変な事を話します。ここで、貝の火の存在理由が暗示されるのです。

権力というものの難しさ・・・

さて、貝の火を手に入れたホモイですが、いつもと変わらず野原に遊びに行きます。ところがそれまで友達だった馬やリスたちがホモイを敬い始める。あの貝の火の持ち主、という事で周囲はホモイを今まで通りに扱わなくなる。権力を持った人間が、それまでと同じでいられない事への戯画です。そして多くの権力がそうであるように、その権力にあやかろうとする人物が近づいてくる。それが狐。宮沢賢治が描く狐は、素朴で可愛らしかったり、内面に悲しみを抱えた存在のものが多いのですが。この物語では、珍しくずるがしこい存在として描かれています。そしてホモイは、この狐にそそのかされてモグラをいじめてしまうのです。また、それとは知らずに狐が盗んできたパンを受け取ってしまいます。

ホモイの行動と貝の火の変化の不思議

ホモイの行動を知った両親(特に父)はひどく叱ります。そして『もう貝の火はその光を失ってしまっただろう』と断言しました。が、ホモイがこわごわ貝の火の入った箱を開けると、貝の火はそれまで以上に美しく輝いているのです。持ち主の精神性にその美しさが左右されるはずの貝の火であるはずなのに、ホモイが(狐にそそのかされたとはいえ)弱い者いじめをしても、(知らなかったとはいえ)盗んだパンを貰っても、貝の火は美しいまま。

結論から言うと、やがて貝の火は曇って砕け散り、ホモイが所持できたのは一週間ほどでした。しかし、ホモイの行動と貝の火の美しさは比例していません。これは何を意味するのでしょうか。

パンを投げ捨てた父が、やがて・・・

ホモイの父は、息子が貰ってきたパンに激怒します。これは盗んだものだ、こんなもの食べたりしない。土と一緒に踏みしだく激しさです。そして言います『貝の火はもう曇ってしまったに違いない』と。しかし、この時点では貝の火は輝きを失いません。その後、二度目にホモイがモグラをいじめた時も、慌てて駆け寄りモグラを助けます。その時も貝の火は曇りはしませんでした。ここでホモイに慢心がでます。僕と貝の火は離れられないようにできているんですよ。ホモイの父はこの点を諫めることなく『そうだといいがな』とだけ答えます。この時点では貝の火は美しいままですが、その晩、ホモイは悪夢にうなされます。そしてまたも狐にそそのかされて、弱い者いじめの手助けをするホモイ。とうとう、貝の火に小さな曇りができます。ホモイもその両親も心配して何度も磨きますが戻らない。疲れた父は今夜は戸棚のあのパンを食べて寝ようと言います。あんなに嫌悪していた盗品のパンを、食べてしまうのです。

曇る貝の火、焦る父ー

翌日、ホモイはまた狐にそそのかされて弱い者いじめに加担してしまいます。しかし今度は自分の非に気づき、狐にとらえられた小鳥たちを助けようとしました。が、狐が本性を現して脅かす。恐ろしくなったホモイは、小鳥たちを見捨てて家へ逃げ帰ります。不安から逃れるように貝の火に手を伸ばすホモイ。しかし、その貝の火には小さな曇りが出来ていました。この時、ホモイのお父さんにはそれまでの厳しさはありません。笑顔で今に戻る、と言います。そして当たり前のように、あの盗品のパンを一家で食べます。そしてその翌日、貝の火は光を失います。父は焦り、息子を狐と決闘させたり、捕らえられた小鳥たちを解き放ったりします。そして鳥たちに貝の火を曇らせてしまった、面目ないと謝罪し、自分たちの愚かさを笑ってくれと言う。そして次の瞬間、その貝の火が砕け散ってしまうのです。

この物語の寓意とは何か?

一読すると、この物語に込められた寓意は分かりにくいかと思います。ホモイが悪い事をしても輝いていた貝の火が、いじわるな狐と戦ったにも関わらず砕け散ってしまう。ホモイの『行動』と貝の火の輝きに関連性が見えず、戸惑う方も多い物語ではないでしょうか。よく読むと分かるのですが、貝の火の輝きはホモイの行動では無く、内面と呼応しているのです。そしてその内面の鍵となるのが父の言動です。

ホモイの父が厳しい父性を発揮し、しっかりとホモイを叱り、貝の火の輝きに無頓着に息子を導いていた時は、貝の火は輝きを失いませんでした。しかしだんだんと慢心し、盗品のパンを平気で食べるようになり、息子への躾よりも貝の火の輝きに象徴される世間体を気にするようになる。まだ幼いホモイは当然、父の強い影響下にあります。つまり父の軸がぶれてしまう事で、ホモイの内面もまた曇り、それが貝の火の輝きに影響してしまうのです。

宮沢賢治の童話には、この時代には珍しいほど強い父性を感じさせるものが多くあります。銀河鉄道の夜の副主人公・カムパネルラの父の息子の死を前にした強い態度。グスコーブドリの伝記に見られる多くの父親代わりの存在・・・賢治が子供の人格形成に父の存在をどれだけ重要視していたかがうかがえます。同時に前記の童話のような『強い父』が描けるようになるまでにはこうして試行錯誤しながら『父性とは何か』を問いかけ続けていたように思えます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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