https://note.com/hisatune/n/ne81f2d0507ca 【「名言との対話」2月20日。金子兜太「立禅。長年の間に亡くなった人で、自分のとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろいろ、つまり私にとって大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言っていくのです。今、二百人くらいになっているかな」】より
金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人。享年98。
加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論・実作両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。
日銀で定年まで仕事をしながら俳句に打ち込み、55歳で定年を迎えてからが本当の人生となる。60歳で朝日カルチャーセンターの講師を師の加藤楸邨から譲られ、俳句生活が本格的に始まる。64歳、現代俳句協会会長。68歳、朝日俳壇選者。69歳、紫綬褒章。89歳、文化功労者。91歳、毎日芸術賞特別賞、菊池寛賞。反戦の思い強く2015年にはいとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者をしている。
代表句をいくつか挙げてみよう。 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 彎曲し火傷し爆心地のマラソン 酒止めようかどの本能と遊ぼうか
座右の銘は一茶の「荒凡夫」。自由で平凡な男を意味している。一茶の「天地大戯場」という言葉が好きだった。「定住漂泊」の系譜に自分はいる、定住して漂泊心を温めながら屹立していこうとしていた。
金子兜太は人間の幸せというのは、煩悩のまま、欲のまま、本能のままに生きていくことであり、それこそが最高の自由だという。金子兜太のテーマは、自由にある。そして人間の実存とは、流れること、流動、しかしその都度、立場を明確にしていくことだ。
そういう価値からは、孔子ではなく老子、芭蕉ではなく一茶に惹かれる。近代では斉藤茂吉。そして種田山頭火、井上ひさし、小沢昭一、山田洋次などがその系譜に連なっている。
選句について。「俳句を作り、さまざまな人の俳句を選ぶという人生はその一日一日、いや一瞬一瞬に発見があります。好奇心が刺激され、一一刻一刻、毎日が新鮮なのです」
金子兜太は50代半ばから日記をほぼ毎日書くようになった。日記はやめないというより、やめられない。癖になっている。そして「私にとって日記が唯一の財産」となる。記録魔であった。
「私は他界があると信じている」「次の世界があるということでいいんですよ。そういうふうに考えた方がずっといい」「見えないものを感じとることこそ、ものを創る根幹になる」「私は経験だけをしゃべっています」(横尾忠則『創造&老年』(SB Creative))
2024年11月に山梨の山梨県立文学館の「金子兜太展 しかし日暮れを急がない」を訪問した。俳人・金子兜太の生い立ちから、前衛俳句の数々、ライバルたちとの交流など、99年の生涯の軌跡がわかる実に興味深い展示だった。
俳人でもあった教育者の父の影響。少年時代の医学者をめざす野心。桑原武夫の第二芸術論などで危機に瀕した短詩界で、短歌の岡井隆との同志的な戦い。同世代のライバルであり伝統俳句の旗手。飯田龍太との交流がわかるてがみのやり取り。朝日俳壇選者に選ばれた時に大喜びする日記。書斎の様子。俳人や歌人たちからのメッセージ、、、、
戦後の占領軍の文化政策政策によって、短歌や俳句は存続に危機にあった。それを救う役割を演じたのは、韻律にこだわった短歌の岡井隆であり、俳句の革新に燃えた前衛の金子兜太であった。兜太は提携や季語からの自由、「平和の俳句」などへの踏み込みなど、無限の可能性を追求した。
小学6年生の作文「私の希望」。俳人でもあった父の後を継いで医者になり、医学博士となって大発見をする。帝国大学の医学部かどこかの学部の最優等で出て世界一の医師になる。野口英世博士のように。それにはあきっぽく、おこりっぽい性格をなおし、努力と忍耐が必要だ。こういう野心を吐露している。
水戸高校から東京帝大経済学部を繰り上げ卒業し日銀に入行。主計中尉としてトラック島で敗戦を迎える。1947年28歳で日銀に復帰。30歳では組合専従でにらまれ、以降福岡支店、神戸支店、長崎支店とたらいまわしをされて、41歳で本店に復帰するが、仕事は与えられなかった。
この間、高校時代からたしなんだ俳句は続けていた。伝統俳句に対し、前衛俳句の旗手として活動していく。55歳、27年勤めた日銀を定年退職する。64歳、現代俳句協会会長に就任。67歳、朝日俳壇選者となる。この日の日記には大喜びの様子が記されていたのをほほえましく読んだ。
2004年の85歳で104歳の母を失う。87歳では「土」を教えてくれた妻・皆子が他界。2008年、89歳で文化功労者。2015年96歳では東京新聞で「平和の俳句」の選者。「アベ政治を許さない」を揮毫。文化勲章をもらえなかったのはこれが原因だったのではないだろうか。
「定住漂泊」。日常も旅であるから外に出ることにこだわらない。日常吟。
「存在者」。種田山頭火に関心。生きるべく生きている人間。存在そのままの生き様をさらす。
「荒凡夫」。小林一茶のいう荒凡夫を、自由で平凡な男と言い換える。「芭蕉に冷淡、蕪村は相手にせず、とことん一茶を追い続けた」。
同世代の一つ年下の伝統俳句の旗手・飯田龍太とは仲の良いライバル関係にあった。兜太は季語、定型、文語、古典を捨てた前衛俳句のリーダーだった。この二人の俳人が開いた広大な眺めが戦後俳句の地平であった。長崎で初めて会って以来の二人の手紙のやり取りや日記によって交流の様子がわかる。龍太は「交響曲のなかの低音部のよろしさである」と俳誌に書き、兜太はハガキで「急所にふれた文、うれしいです」と書く送っている。
金子兜太『語る兜太----わが俳句人生』中に、日航財団「地球歳時記」という項がでてくる。日航がネットワークを生かして世界中の子どものHAIKU(絵がついている)を2年毎の万博で披露する活動である。この中に、「アララギ」の歌人の柴生田稔の長子、柴生田俊一という「異才、異能」の人が地球歳時記というコンセプトをまとめたと紹介されている。このプロジェクトに貢献した詩人のジャック・スタム、作家の江国滋、早稲田大の佐藤和夫らが紹介されている。彼らには私も接触していたから、金子兜太にも夜の俳人たちの会合で会っている気もする。当時は60代後半であっただろう。この柴生田さんは広報課長で私は部下として仕えていた。「日航一の文化人」であった柴生田さんと私は気が合って実に楽しく仕事をした。私が後任となった後も、日航財団の主要プロジェクトとして続け成功した。一企業が日本文化をテーマとした活動を成功させたとして当時から評価が高かった。
冒頭の言葉は毎朝唱える「立禅」と自ら呼んだ方法である。坐禅ではなく立って行う。縁のあった人々を思い出しながら生きていることに感謝する儀式だ。「長年の間に亡くなった人で、自分のとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろいろ、つまり私にとって大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言っていくのです。今、二百人くらいになっているかな」。縁のあった人々を思い出しながら生きていることに感謝する。金子兜太は「長寿への意志」をはっきりと持って生きていた。この快老人は95歳では確か「百五才を目指す」と宣言していたのだが、98歳で逝去。百歳にわずかに届かなかった。
https://ameblo.jp/anzac76/entry-12886512118.html?fbclid=IwY2xjawJzALZleHRuA2FlbQIxMQABHs0A3jEncap0SX1QmpT8QlFVPJrdOqhnM3lXLPfuFfWwXlP5b9sC5QJQwkLj_aem_QdrDVUUtqugfmS_e2HJN4A 【供養ってどうすればいいの? 供養の種類と方法について(保存版)】より
私がいつもお通夜かお葬式の時にお話しすることが「供養」についてです。
皆さんにおすすめしている3つの供養についてお話しします。
利供養(りくよう)
◎1つ目は「利供養(りくよう)」といって、故人の喜ぶことをするという供養です。
故人はなにをしたら喜ばれるでしょうか。きっと故人の思い出話をしてさしあげると喜ばれるのではないでしょうか。あんなこともあったねと笑い、あんなこともあったねと泣き、皆で大いに語り合ってください。中には故人の好きだったものをお供えして一緒に食べるという方もおられるようです。そしてなにより、遺された子や孫の皆さんが「故人のおかげでこの世に生まれてくることができてよかった」という思いで生き生きと暮らしている姿を見せてあげることが、何よりの利供養になるはずです。故人の喜びにフォーカスすることで、悲しみにばかり引きずられないでしょう。
敬供養(きょうくよう)
◎2つ目は「敬供養(きょうくよう)」といって、故人に感謝の思いを伝えるという供養です。
あの時あんな言葉を掛けてくれたよね、ありがとう。あの時そっと支えてくれたよね、ありがとう。大きくなるまで育ててくれたよね、ありがとう。今の自分があるのはあなたのおかげだよね、ありがとう。そんなたくさんのありがとうが見つかると思いますが、ぜひそれを言葉にしてみてください。感謝を伝えることによって心の整理にも繋がります。もし過去のわだかまりがあったとしても、しだいにほどけていくでしょう。
行供養(ぎょうくよう)
◎3つ目は「行供養(ぎょうくよう)」といって、故人とともに仏の教えを実践するという供養です。故人はカルマ浄化の期間に入りますが、大切な人を亡くしたこの時を機縁にして、仏の教えをぜひ実践していきましょう。
中国・唐代の詩人である白楽天が道林禅師に「仏の教えとはどういうものでしょうか。」と尋ねたところ、「悪いことをしてはいけない。善いことをしなさい、そして自分の心を浄めなさい、これが仏の教えです。」と答えたといいます。
白楽天は「そんなことなら三歳の子供でもそう言うでしょう。」と言うと、道林禅師は「三つ子でもわかることが、八十の老人でも実践できないではないか。」と返した逸話があるそうです。頭で思うのは簡単でも、実践することは難しいのが仏の教えです。
さてそれでは悪いこと、善いこととは具体的にどのようなことでしょうか。
まず、悪いことには十の行い(十悪業)があり、それらはすべて貪瞋痴という三毒に身と口を意とが侵食されて生じるものなのだといいます。
【十悪業】
①「殺生(せっしょう)」
命を奪う事はもちろん、暴力をふるうこともまた生き生きとした心を殺す行為となります。
②「偸盗(ちゅうとう)」
与えられていない他人のものを盗る行為です
③「邪淫(じゃいん)」
性の暴行、傷つく事を承知の性行為です。
①~③が三毒が抑えられず「身」から生じたものとなり、次の結果への原因、つまり復讐の種となるカルマです。
戦争では殺人、窃盗、レイプは三点セットです。日本ではピンとこないでも、このカルマの中に入ってしまうかもしれません。
それに平和でモラルのあるように見える日本の中でも、女性、もしくは子供への性暴行の問題(フジテレビやジャニーズなど)が毎日のように報道されています。
④「妄語(もうご)」
人を惑わす言葉や嘘をつくという虚偽の言葉のことです。
➄「綺語(きご)」
正論や綺麗事で他者を裁く言葉のことです。
⑥「悪口(あっく)」
貶めたり中傷したりする言葉のことです。
⑦「両舌(りょうぜつ)」
あちらとこちらで言うことが違う二枚舌の言葉のことです。
④~⑦が三毒が抑えられず口から生じたものとなり、カルマとなります。
⑧「慳貪(けんどん)」
与えず欲しがるばかりの心
⑨「瞋恚(しんに)」
怒り、恨み、憎しみの心
⑩「邪見(じゃけん)」
一方的な見方、偏見を押し付ける痴(おろ)かな心
⑧~⑩が三毒が抑えられず心(態度)から生じたものとなり、カルマとなります。
貪られた分は貪り返したい。怒りをぶつけられた分は怒りをもって返したい。偏見を押し付けられた分は、偏見を押し付けて返したい。そういう因縁を生む心の状態です。
これらの十悪業が引き起こす延々と繋がる因縁を断ち切っていくことが仏の教えです。
悪業を落とすために習慣的にそれを戒め、善行を行っていくことが十善戒です。
【十善戒】
弟子某甲 尽未来際
不殺生 不偸盗 不邪淫
不妄語 不綺語 不悪口 不両舌
不慳貪 不瞋恚 不邪見
我々生きたものが悪業を落として善い行いをすることで、故人のカルマ浄化の恩恵ももたらされるはずです。
故人と離れ離れになってしまっても、同じ一本の仏道の上に進んでいるのだという感覚は、寂しさを和らげてくれることでしょう。
※お香を焚くということも、「自らが自らの心を浄める」行供養になります。
以上の三つの供養を「三種供養」といいます。
このお話をお通夜の時に聞いて下さった女子バスケットボール元日本代表の監督さんが、「私は生前故人には大変お世話になりました。故人のことを思って十善戒を実践してみます」って言って下さり、大変嬉しかったという思い出があります。
皆さんもぜひ実践してみてくださいね。
参列の方々におかれましては毎回毎回同じ法話をしていますが、どうぞご了承ください。
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