Facebook病氣になれば おめでとう斉藤 一治 さん投稿記事
○幽顕に出入し、神人に優遊して、自在ならざるはない。人かと思えば神、神かと思えば人、神人一致である。(丸山敏雄)
○私の腹には光の玉がある。
これはある最高の神様の魂であるから、私の言動総ては神様自身が、私を自由自在に動かしているのである。つまり神と人との区別がないわけで、これが真の神人合一なのである。(岡田茂吉)
○原始宇宙(創造主)は、個として一つの存在であって、自分という意識を持っています。
この世にたった一個の存在物であり、右も左も分からない原始無垢な生命です。
悲しいことに、原始宇宙は、自分の意識が備わると同時に、すぐまた、自己を破壊しなければなりません。
そこで原始宇宙は、渦を巻いて磁界を発生させ、氣を集めて物を作り、自己の原形を復元しています。
そして、人間を創造し、そこに自己の心を投影して、失った心を復元しています。
親渦の中心点に銀河を集めるのは、自己の体を復元するためであり、また、そこに人間の意識を宿すのは自分の心を復元するためです。
皆様は創造主の子供ではなく、神の分身であり、神自身です。
自分が大宇宙の当体であると悟れば、目に見える万物は自己の身体であり、森羅万象が貴方の胸の中に帰納します。
地球人類の苦悩は皆様の苦悩であり、星や銀河の誕生は皆様の喜びです。
それを体得したとき、きっと皆様は本物の神になります。
○『神とは人なり。「記紀」神話は、歴史的史実をもとに作られている』 (新井白石)
○真の自分を自分を識るとは神を識ること。貴方は本来は素晴らしい存在の神です。
内に無限なる愛と叡智とパワーを秘めた存在です。皆んなで、その真実の姿に立ち返ります。
http://tomoyuki1202.blog103.fc2.com/blog-entry-1347.html 【万人幸福の栞(その17)】より
本日は「万人幸福の栞」の17番目、最終回です。我々は人生という“演劇”の主役を演じている、という単純な話かと思えばそうではないみたいです。難しい言葉が並んでいるのでちょっと解りづらいですが、皆さんはどうお感じになるでしょうか。
人生は神の演劇、その主役は己自身である (人生神劇)
宇宙の生命、統一の中心、万象の根源、これを神あるいは仏と言う。民族により、宗教により、いろいろと名称は異なり、観方は違っているが、ただ1つの宇宙の統一力、支配者、主宰者をいうのである。しかし神は幽なるもの、説明を越え、思惟を絶する、感覚の外にある。
言いようもなく、考えようもない。絶対と言い、無限と言うも、光明無量又寿命無量、そうした言葉の末で、その真をつくし得るものではない。言えばすでにちがう。考えれば、もうこれとはなれる。万象は神の発顕、世界は神の顕現、人は神の性をうけて現われ、恰も天界での星の如く、小宇宙をなし、小中心をなして、その各々の境に於て主位に居る。すでに、幽なる力が顕われて万象となり、形をとった力は、ひそんで幽界に統一する。故に幽顕一体であり、神人不二である。この理を実にしたもの、これを神人合一、解脱、見神等と名づける。
ここまで行きついて、人は初めて真の自由を得る。
自在奔放、心の欲する所に従ってのりをこえない。幽顕に出入し、神人に優遊して、自在ならざるはない。人かと思えば神、神かと思えば人、神人一致である。ここに人が顕界の主となる意義が成り立つ。人は生命を神にうけているが、1度生れれば、各々の自性をうけて自由となる。この自由は、舞台における俳優の自由である。人生は演劇である。
劇作家、監督、演出、それは、ただ1人でかねていて、絶好無比、周到無類、到らぬくまもなく、及ばぬ時処もない。こうもこまかにゆきとどいたものかとおそれている。
その上批評もし、報酬も与え、賞罰もあるが、公平無私、かつて1度の手落ちもなく、しすぎもない。この演劇は、悠久の古から永遠の未来にまで踊りつづけている、大規模の幕切なしの劇である。
全地上が舞台であり、濃藍の海と、緑の岡と、コバルトの空と、背景の美しさ。花あり、紅葉あり、鳥鳴き、魚躍る。廻り舞台には昼夜の別もない。
その大演劇の主役は、己自身である。家にあっては父、会社に出ては社員。
そして旅行もあり、選挙もある。その時、その場を、いかに、真理(神)の筋書に合するように演出しているか。役者がこの頃なまけているぞ、いや得意になりすぎたぞ。
名優は言った、「うまいと拍手されるような事ではだめだ」と。時には他人の演ずる舞台の、観劇の場面もある。何れを見ても、悲劇・喜劇が、演ぜられている。小説や映画などは、
この人生劇の1部を切りとって、解説した説明書である。これを手引に、地球座人生劇場の、真理の芸術を、満喫しては如何であろう。無料、露天大活劇、新旧、喜悲、男女、老若、とりどりの大演劇である。そしてその主役は己自身である。演出の作法(ルール)は絶対倫理であり、万人幸福の倫理である。
ということで、人生に何があっても、何がおこっても、いいことも、悪い(と思える)こともそれはすべて自分の思い描いている演劇の一部であり、期待や後悔、成功や失敗、出会いと別れ、すべて自分が演出していると考えるのもおもしろいです。
結局、この世に生まれるということは、何かを修行しに出て来ているわけですから、その修行の演じる中身を自分で決めているとしてもおかしいとは思いません。
この世は舞台であり、人生は演劇であると。
すべては自分がテーマを決め、ストーリーを描き、キャストを決め、演出をしている。
そこには目的も一定のルールも存在する。
これがまた、次の舞台(人生)へと繋がっていくなんて、おもしろいと思われませんか?
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思春期、和多志は生きる意味ばかり問い続けました。
ある理科の教師が 「命の営みはリトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。
その時はショックでしたが 今はわかる氣がします。心は反応ですから。そしてエネルギーですから。
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11836315565.html 参照
心と魂は違いますね~ 魂はセルフといわれる選択の主体・吾心は「ころころ変わる連続的なエネルギーの流れ」であり現象世界への反応と言えそうです。
ニュートラルに生起する現象世界にどのように反応するかは千差万別です。(唯識論・一人一宇宙)心は吾が生み出すもの。想念とも言えます。
自分の思考パターン、セルフイメージ、感情、記憶、などなど~~そしてこれらは 心のアンカー・人生脚本・ドライバーとなり自分を縛り続けます。過去と未来に縛られ 今を生き難くします。心に操られないで心の主になりましょう。心は吾ではないのだから。
しかし イメージが一人一宇宙の現実を生む;唯識論
塵、芥にはポジティブなイメージは伴わないのでしょうか?
ダンワールドのワークショップに参加したとき テキストに ゴミのようなものは (エクササイズであったとしても) 汚いという現実認識が強すぎて リフレーミングができないと書いてありました。
しかしゴミを「豊かさの象徴」と考えると ゴミもポジティブなイメージに変えられると思わずにはおれませんでした。もっともこの豊かさは貪りの表れで ネガティブというのであれば 話は別.......善悪の区分をするのはややこしいですね。
しかしあえてポジティブを選択し続けると 脳のオペレーションシステムはポジティブシンキングになり ポジティブな事象を引き付け続けるというのですから 更にややこしい。
しかも一度掛けた心の色眼鏡(自己イメージ、人生脚本)は自力で取り外すことがとても困難です。しかも色眼鏡を通してすべてを見ますから その色はスタッキングアンカーされ ますます濃くなってしまいます。
いろいろな心の刷り込みがありますが ジェンダーの刷り込みは大問題です。「男は~であるべし」「女の子のくせに」こんな押しつけ(前に触れた外的抑圧)は誰もが経験しているのではないでしょうか。
幼い頃自分の性を否定された(例えば 男児の出産を期待された中で女児として生まれた、レイプなど)ことで 一生を左右するほどの 自己否定感を抱いた人によく会います。性は生です。性の否定は生の否定に繋がります。
心の色眼鏡(自己イメージ、人生脚本)は氣がつかないうちに掛けてしまいます。
唯識論に立つと 自己イメージのように和多志たちは生きていきます。
自己イメージの検証はとても大切です。(このためのトランプを作成しました。「アウェアネスカード」と呼びます。ひと組1500円です。関心のおありの方はお問い合わせください)
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