世界遺産への道 - 不易流行

https://fuekiryuko.net/articles/-/1488 【彦根城世界遺産への道 第11回 彦根城を活かす その1― 城下町の伝統を伝える城 ―】より

彦根市歴史まちづくり部文化財課 彦根城世界遺産登録推進室室長

小林 隆

2022年3月29日更新

彦根城の歴史を振り返る

彦根城の世界遺産登録を実現するためには、価値の証明、保存管理体制の整備に加えて、地元住民が主体となって「彦根城を活かした持続可能なまちづくり」を進めることが必要です。彦根城を活かすとは、具体的にはどうすることなのか。このテーマについて、しばらく考えてみたいと思います。

彦根城は江戸時代、彦根藩の政治拠点でした。彦根城の中堀より内側に城主と重臣が集まって暮らし、話し合いによって領民が幸せに暮らせるような政治が行われました。領民は、彦根城が今日もかわらぬ姿でそこにあるのを見て、無事に暮らせると感じました。

時代が江戸から明治に変わると、彦根城は政治拠点としての役割を終えました。明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行されると、その翌月に全国の城郭が兵部省の管轄下におかれました(翌年以降は陸軍省の所管)。彦根城については、同年12月に大阪鎮台第二分営が若狭の小浜からこの城に移されましたが、その部隊が明治6年(1873)に京都の伏見に移るなどして、軍事拠点としての役割も失いました。陸軍省は、明治11年(1878)に彦根城の解体に着手しました。ちょうどその時、明治天皇が滋賀県に行幸し、明治天皇に随行していた大蔵卿の大隈重信が彦根城を訪れて、地元住民が彦根城の保存を望んでいることを知りました。大隈が明治天皇に彦根城の解体中止を進言し、明治天皇の命令で、彦根城が永久保存されることになりました。

大隈重信銅像(早稲田大学構内)

地元住民の彦根城への思い

大正時代、彦根城の永久保存に深くかかわった大隈重信は、その時の出来事を新聞記者に語りました。その回顧録(『朝日新聞 京都付録』大正3年5月16日・17日付「隈伯と彦根城」)を見ると、地元住民が、彦根城にどのような思いを寄せていたのかがわかります。

彦根城を訪れた大隈に、ある彦根士族が思いの丈を次のように述べています。「わたしたちの祖先が、お殿様への忠節を尽くそうと思って、300年間見上げた天守を、もう見ることができなくなるのです」と。彦根の士族たちにとって、彦根城は「300年間、彦根藩士の魂をぶち込んで守護してきた」、「武士の魂の入れ物」でした。

彦根城の解体は、武士の魂が消し去られてしまうことに他ならず、城下町の歴史に幕を引くセレモニーになってしまいます。彦根士族たちの願いは、彦根城の解体を中止させ、城下町の伝統を守ることでした。その願いが大隈重信を介して明治天皇に届き、彦根城の解体が中止されたのです。

解体前の彦根城表門口

城下町の伝統を伝える

明治天皇が彦根城の解体中止を命じたことは、彦根の城下町としての伝統を途切れさせずに未来へ伝えた画期的な出来事でした。永久保存が決まった彦根城は、その後、彦根が井伊家の城下町だったことを示すランドマークとしての役割を果たし、今に至っています。

彦根城が今日も変わらぬ姿でそこにある限り、城下町としての伝統を有する彦根のまちの個性が失われることはありません。

https://fuekiryuko.net/articles/-/1522 【彦根城世界遺産への道第12回 彦根城を活かす その2 ―都市公園としての活用―】より

彦根市歴史まちづくり部文化財課 彦根城世界遺産登録推進室室長

小林 隆

2022年5月17日更新

彦根城の二面性

彦根城は、現在、特別史跡に指定されているとともに、金亀公園という都市公園として管理されています。彦根城に文化財としての側面に加えて、都市公園としての側面があることに、どれだけの方が気付いておられるでしょうか。

彦根城に史跡と公園の二面性を認める考えは、すでに明治時代からありました。明治27年(1894)に彦根城が国から井伊家に下賜され、その翌年に彦根城で彦根物産・古器物展覧会が開催されました。この展覧会の開催にあわせて発行されたパンフレットでは、彦根城が武家の盛んだった時代、とりわけ、井伊直政・直孝の武勲、井伊直弼の開国の偉業を伝える史跡であると同時に、湖国の絶景を眺めて、心を爽にし、意を楽しませる公園でもあると説明されています。彦根城の二面性は、昭和11年(1936)に発行された『彦根町勢要覧 附観光案内』でも指摘されていますので、第二次世界大戦以前の彦根の人たちは、彦根城を史跡として見るとともに、公園としても活用したいと考えていたようです。

空から見た特別史跡彦根城跡

彦根城の公園としての魅力

彦根城の公園としての活用は、すでに明治時代の初めから考えられていました。『日出新聞』の明治23年(1890)1月11日付け記事によれば、明治時代の初め、彦根城が陸軍省の管轄下に置かれた時から、地元の有志が、陸軍省から彦根城の払い下げをうけ、公園として活用し、お城を美しく保つ計画を立てていたといいます。

明治23年(1890)に滋賀県が犬上郡に彦根城の取り扱いについての意見を求めた時、地元の有力者から、彦根城は、眺望が良く、樹木が繁茂する、他に類のない優れた景勝地なので、整備を加え、さらに美観を高めるべきであるという提案がありました。

彦根城の多様な活用

金亀公園は、彦根城を含む面積37.9ヘクタールの都市公園で、住民の休息、鑑賞、散歩、遊戯、運動など、さまざまな目的で利用される総合公園として位置づけられています。平成元年度(1989年度)に「日本の都市公園100選」、平成18年度(2006年度)に「日本の歴史公園100選」にそれぞれ選ばれました。

日本国内のお城については、(特別)史跡に指定されているとともに、都市公園として管理されているところが少なくありません。そのうちの一つ、和歌山城について、ある女性が次のように語っています。「高校から天守閣まで(陸上部の)練習でよく往復したんです。初めてデートで来たのも和歌山城だったかな。これからも変わらず色んな人が集う場所であってほしい」(『朝日新聞』平成31年1月11日付)。お城にはさまざまな思いが込められています。歴史があり、緑豊かな彦根城についても、いろいろな思いを持った人たちに集っていただきたいと思います。

(以下略)


https://www.japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story019/column/1/ 【政宗が育んだ“伊達”な文化】より

多賀城碑と日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」

宮城県多賀城市市川字田屋場の小高い丘陵上にある古碑「多賀城碑」。

日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」に加え、「名勝おくのほそ道の風景地(壷碑(つぼの石ぶみ)・興井・末の松山)」の構成要素にもなっていますが、本来は、天平宝字6年(762)に陸奥国府であった多賀城を、大規模に改修したことを記念し建立されたものです。

この多賀城碑は、那須国造碑や多胡碑とともに、日本三古碑の一つに数えられています。

多賀城が大規模に改修された年に加え、神亀元年(724)に創建されたことが記されています。

奈良・平安時代の陸奥国府であった多賀城には、歌人として知られる大伴家持や、蝦夷との戦いで勇名をはせた坂上田村麻呂が長官として派遣されるなど、古代東北地方の中心として位置付けられていますが、多賀城の創建を示す資料は、唯一この多賀城碑に刻まれているのみです。

多賀城の発掘調査の進展とともに、碑に刻まれた文字の信憑性、重要性が明らかとなり、平成10年に国の重要文化財に指定されました。

さて、この多賀城碑。いつのころからか土中に埋まり、その存在は全く忘れ去られていました。

ところが、江戸時代初め(万治・寛文年間頃)に発見されると、平安時代の歌枕である「壺碑」と関連付けられ、大都市江戸の文人墨客をはじめ、世の注目するところとなりました。

紀行文『おくのほそ道』で有名な松尾芭蕉もその一人であり、自身の俳諧の理念である「不易流行」そのものを体現する古碑と捉え、この多賀城碑と対面した際には「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。

行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」と感涙したことでも知られています。

しかし、一方では、芭蕉が訪れた元禄2年(1689)、発見されて30年にも満たない頃には、すでに苔むした状態であったことも記されており、さほど貴重な扱いはされていなかったようです。

ところで、テレビドラマでも有名な水戸黄門こと徳川光圀を御存じの方も多いかと思いますが、この光圀、非常に歴史に興味関心が深く、明暦3年(1657)より歴史書である『大日本史』の編纂を始めていました。

日本各地に家臣を送り、『大日本史』の編纂に必要な地域の歴史を調べさせていて、仙台藩には丸山可澄という人を派遣し調査を行っていました。

可澄は当時の市川村で、苔むした状態の多賀城碑をつぶさに観察し、その状況を光圀に知らせます。

光圀は、延宝4年(1676)に草むらから発見された那須国造碑の重要性を認識し、碑堂の建設や管理人を配置する等、早くから歴史遺産の保存顕彰に力を尽くしていました。

このため、「つぼの石ぶみ」として知られる多賀城碑の現状を危惧し、碑堂を設けて保存してはどうかといった内容の書簡を、当時参勤交代で江戸に居た仙台藩4代藩主伊達綱村に送ります。

多賀城碑が現在に至るまで良好な状態で保存されているのは、このような光圀の働きかけが大きかったと言えるでしょう。

再び、多賀城碑。

神亀元年(724)に多賀城が創建されたことを刻んでいますが、まさに令和6年(2024)が記念すべき創建1300年の年となります。

多賀城碑の今日の姿があるのは、政宗から代々受け継がれてきた仙台藩の文化芸術に対する政策が大きかったと考えます。

歌枕の発見・整備と併せて、紀行文『おくのほそ道』で紹介されたことにより、全国的な知名度を得ることとなりました。

多賀城創建1300年となる令和6年。

多賀城市では様々なイベントを開催しますが、1300年の根拠を示す多賀城碑の価値が再び高まることを願っています。


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