一指李承憲@ILCHIjp
私たちはある日「生命」というプレゼントを受け取りました。それと共に無限な選択の自由も受け取りました。自分が何者か、何を人生の目的とするのかを私たちは選択できます。そして、選択した通りに生き、人生の意味を自ら創造していけます。生命をどう使うか自ら選択できるのは美しく素敵なことです
Facebook加藤隆行さん投稿記事【自由には責任がともなう】
「職業選択の自由~アハハン♪」と言うと、歳がバレそうですが人にはみんな「選択の自由」があります。むかーし 社会科や公民の授業でみんな習ったと思いますが、日本国民は「基本的人権」を有していてその中に「自由権」ってのがあります。
誰からの制約も、強制もされず、自由に物事を考え、自由に行動できる権利のことです。
職業だけでなく表現の自由とか 言論の自由とか信教の自由とか 学問の自由とかいいますよね。じゃあこの「自由」が無制限に自由だーー!というとそんなことはなくて
「他人の権利を不当に侵害しない 限りにおいて保障されている」つうことなんですね。
おおー、なんか難しくなってきた。で、何が言いたかったかと言うと「べきねば(義務・制限)」や「いけない(禁止)」という縛りを自分の中に無意識にも持っているとアナタには
「選択の自由」がないんだ、「選択の自由」を自ら「放棄」してるんだー。ってことを知っといて欲しいのです。「(絶対に)ちゃんとすべき」と思っていると「ちゃんとしない」という選択の自由が得られない。
今日は疲れたから、ま、ちゃんと掃除しなくてもいっかー家事しなくてもいっかーって思いたいのにって思いたいのに、「ちゃんとすべき」 に縛られて、ぐったり疲れているのに「やらなきゃ⋯」と自分を叱責したりできない自分はダメだと罪悪感を感じたりする。
日本国からは「権利」をもらっているのに本当は自由なはずなのに勝手に自分で罪を背負って
自分を罰してしまう。
その上、「ちゃんとすべき」と思っているとちゃんとしていない人を見るとイライラしてきて
「アンタもちゃんとしなさいよ!」「仕事をちゃんとこなしなさいよ」「ちゃんと整理整頓しなさいよ!」「ちゃんとしっかりしなさいよ!」と相手の「自由」を侵害するようになる。
アナタの自由は「他人の権利を不当に侵害しない 限りにおいて保障されている」のに、自分で自分の自由は放棄して他人の自由を侵害するという、、なんて迷惑な人。
でね、「自由と責任」ってセットってこれもよく聴くと思うのです。
「自由がある分、自由に行動しただけの責任(結果やリスク)を自分が引き受ける必要がある」ってことね。
じゃあ今「べきねば」で自分を縛って「自由」を放棄している人はなんの「責任」から逃れてるんだろうと考えることもできる。
実はこれはその人の「人生の責任」を放棄しているってことなのです。
「べきねば」に従うことでつまり「自由」を放棄することで自由に行動しないかわりに
人生の責任(結果やリスク)を引き受けなくて済む。
「べきねば」に従っていればリスクを回避できて「安全」だ、と思っていることなのです。
つまり「ちゃんとすべきだ!」「しっかりすべきだ!」「こうすべきだ!ああすべきだ!」
と声高に他人に怒りをぶつけてプンプンと怒っているあの上司や、あのお局さまは人生のリスク・危険を見ないようにして責任逃れしている弱虫だ、ということです。
ええ?!なんだって!?「べきねば」に逃げ込んでいる人だと言ってもいい。無意識にも「べきねば」を守らないと「危険」だ!と(勝手に)思っているってことなんだよね。
だから他人に強要しようとする。自分はいいこと正しいことやってると思ってる。じゃあなぜ「危険」かと言えばこれは結局いつも伝えている「過去の環境」で身につけたもの。
過去に危険や不安やショックな出来事から身を守るために作った思い込みが
その人の「べきねば」や「いけない」なのです。
そしてその根幹にあるのはほぼ「人(母親・先生・友達など)から 嫌われる恐れ」です。
「ちゃんとしないと」「しっかりしないと」めちゃくちゃ怒られたのかもしれん。
「時間をまもらないと」「ひとりで全部やらないと」「黙って言うこと聞かないと」
「弱音はかずにやらないと」そっぽ向かれたのかもしれない。その人の過去に、なにがあったんだろうね。誰に嫌われたり怒られたりしたんだろうね。
*
でもさ、「べきねば」に縛られて自由を失って他人にイライラして他人の自由を侵害してるってまったく「安全」じゃないでしょ?だからそれカンチガイなのです。
「べきねば」を掲げている人は実はその裏に危険への「恐れ・不安」があります。
その過去の「恐れ・不安」と向き合うのが怖いから、「べきねば」の鎧で自分をガッチガチに固めているのです。
だからそれを手放すには「恐れ」を伴いますがそれ自体が「過去の妄想」で「カンチガイ」です。だから「べきねば」「いけない」は「ああ自分を まもってきてくれたんだな」ともう手放していきましょう。
ちゃんとしなくてもいい。しっかりしなくてもいい。もちろんちゃんとしてもいい。しっかりしてもいい。自分で選んでいい。アナタには「選択の自由と責任」があります。
さあ、基本的人権を取り戻しましょう(^ω^)
おおー、カンタンに書こうと思ったのに結局なんか難しくなってしまた。
でもそのまま送るさ!わかんなかった人、べきねばの鎧が強い人、ぜひゆっくり読んでみてね。
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現代霊氣セミナーレベル1とレベル2を受講しました。
臼井霊氣が生まれる前は 霊氣療法は病氣治療法だったということです。
臼井霊氣は健康で幸せに生きるシステム。
臼井先生も人生の目的は何かと深く考えるようになり、長い探求の後人生の目的は幸福になること(精神性を高め 安心立命に到達すること)という結論を得たそうです。
(和多志は人生の目的は、自分で創造するもの、選択するものという結論を得ましたが・・・)
臼井先生は 安心立命の人生を実現したいと願い、求め続けましたが 安らかな境地は得られません。
目的が達成できなければ 生きる意味がないと死を覚悟して、鞍馬山で断食と座禅を開始し、数日後、体内霊氣と宇宙霊氣の響きあいが始まり 日ごとに共振共鳴が高まるのを感じたということです。
響きあいの心地よさとは現代霊氣交流会で マスター達から霊授を受けたとき 魂が振るえ続け、涙が溢れ続けた体験と類似しているのでしょうか?
臼井先生が断食をはじめて21日目の深夜、脳天を落雷が貫くような衝撃を受け意識不明に。氣が付くと夜明け前で、その時の意識は今まで味わったことのない爽快さに溢れていたとのこと。
体内霊氣と 鞍馬に満ちた宇宙霊氣が共鳴し、「和多志が宇宙だ、宇宙が和多志だ」という魂からの実感が得られ、大宇宙との一体感が完成。
この悟りの体験はダンワールドの創始者 イ・ースンホン博士と極似しています。彼の場合は不食不眠。寝ないでいるために滝の上で座禅。それでも睡魔に打ち勝てず、滝に転がり落ちて九死に一生を得たということ。彼も轟音が頭の中で聞こえ泉門が開き、「私は天地氣運」だという言葉が口から出たという話です。
人は本来健康に、幸せに作られている。その平安は大宇宙からの愛と調和の波動(霊氣)との響きあいで保たれる。霊氣との響きあいが薄れて体・心・魂のバランスが崩れると病氣や不幸が生まれ、「生き方を見直しなさい」という大宇宙からのメッセージをいただくことになる。全ては必要があって起きる故 バランスを崩して病んでいる相手に「直してあげる」というエゴの働きかけをするとヒーラー、ヒーリー双方にそのしっぺ返しが訪れる。
ヒーラーはレイキのパイプ役に徹することが大切。
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