https://ameblo.jp/toru-nishida/entry-12887215348.html?fbclid=IwY2xjawIuI2xleHRuA2FlbQIxMQABHWSwuwsCIW_6ON87M6JCXz08_MID_WK1bVqzOKzR_6jOKlVnNBBrXrg1LA_aem_3DClAQQ0R79hIsdHWK5b5g 【人づきあい&癒しに役立つ「の」の字の哲学】より
愛する魂の冒険者たちへ YouTubeライブご一緒くださりありがとうございました!
田宮さんの話がキレキレで、わかりやすく暖かく、、、西田からは、くつろぎのエネルギーワークもご提供いたしました。ぜひご活用ください。
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動画の中でもお話しさせていただきましたが、、、「の」の字の哲学と言うものがあります。
ひらがなの「の」の字の哲学です。なにかといえば、、、例えば、何かがあって、西田がくたびれて「ああ、、、くたびれたなぁ」って言った時に、田宮さんが「私も今日1日めっちゃ忙しくて疲れた!!!」と自己主張するってことは、しないんですよね。
「そう、疲れたの、おつかれさまでした。ゆっくり休むといいよ」と、気持ちをそのまま受け入れてくれる。知らんぷりをして聞き流すって事も、もちろんありません。
例えば、僕の娘が「わたし友達と温泉に行ってきたんだあー」と言ったら、いきなり、「誰といってきたんだい、どの温泉行ったんだい」って聞いたりとか、張り合うみたいに「パパも草津温泉行ってきたよ」とかは言いません。「そうなの、旅行してきたの、楽しかったんだね」と受けとめる。これが「のの字の哲学」です。
自分を主張する前に、まず共感する。相手が感じている何かをそのままそうなの と受け止める。私だってとか、私ならと、比べたりしてしまいそうなときも、「の」の字の、そうなので受け止める。
わたしたちって苦しい時に、慰められるのも嬉しいけど、悲しいの苦しいの、そうなんだね・・・って受け止めてもらえるとそれだけで、うんと楽になることがあるんですよね。
で、、、うれしいときも、そのまま、認めてもらえたらやっぱりうれしい。笑
この「の」の字の哲学は、「置かれた場所で咲きなさい」の大ベストセラーでも有名な渡辺和子先生が提唱されているものなんです。試してみると、なんともいえない安らぎを体験できるんですよね・・・そして、どうせだったら、次のことも見てあげたらよいのではないか、と西田は思うんですね。
それは、、、自分に対しても、ふだん、「の」の字の哲学で接してあげられてるかどうか ?ということです。
特に、「こういう自分だったらいいな」「こういう自分なら自分のことを認める」と自分に対して思っている自分がいるとき、、そこから自分が外れていることがわかった時に大きなショックを受けて自分を厳しくジャッジしたり、責めたりすることがあります。
(僕も経験があります。すごく苦しかったです)
けれども、そういう自分も受け入れて、そうなの。悲しいの、落ち込んでるの、、、と自分をあったかい態度で、包んであげることができます。
何なら神様がやってくれているように包んで見守ることさえできるんですよね。
そうすると、苦しみや悲しみの中に落ち込んで沼のなかでもがくしか生きるすべがなかったような自分がいつか、そこから、ふっと出られる、、、気づいたら、あ、出ている、そのようなことが起きてきます。
自分の気持ちの近くにいてあげる。自分を理解してあげる。たったそれだけで、変容が起きて、前向きに進めるようになったりするんですね。
自分にも、ほかの誰かに対しても、「の」の字の哲学を実践すると、安らぎが広がっていきます。さらに、、、できることがあります。それは、、、「の」の字の哲学を実践して、なにかの感情や気持ちを感じている自分を受け止めたら、そういう自分をまるごと神様に差し出して、「ああ、神様、いま自分はこんなふうです。あなたから見て、私はここからどうすればいいと思われますか?」とお尋ねしてみることができます。
そうすると、こたえが心の奥の静かな場所で、ふっとわかります。
*その場でわからなくても、その日の夢の中やふとしたときに、ぱっとわかったりします。
ピンときたら試してみてくださいね。それでは快適な夜をおすごしください。
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愛する家族の立つ大地が平安でありますように 顕彰大神通力 けんしょうだいじんつうりき
今日も命にありがとうございます。西田普 にしだあまね
https://www.youtube.com/watch?v=nTY7zJzkJ_k&t=7s
https://japanknowledge.com/articles/shiorigusa/15.html 【よもやま句歌栞草 Vol.15肉親】よりよもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.15肉親
明治以降、大正にかけての俳句で、肉親を詠んだものは案外に乏しい。私的なことを表に出すことを潔しとしない明治人の気概なのだろうか。遡って「父母のしきりにこひし雉の声」と両親へのひたぶるな思いを詠った芭蕉や、早世した実母への思いを動物の母親の姿に託して詠った一茶など江戸期の俳人たちは、それぞれに屈託なく肉親を詠んでいるように思う。リゴリズムの強い明治という時代には、父や母を率直に俳句の対象とする雰囲気がなかったのだろう。しかし近代的な個人主義がしだいに浸透してくると、親と子の対立、確執などが切実な課題となってきて、肉親をめぐっての俳句も増えていく。父親喪失、母親喪失といわれる現代は、やはり親子関係の希薄さをベースとした作品が目につくような気がする。
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る中村汀女
秋も深まり、夜の寒さもひとしおつのるある夜、寝についたのだが、わが子の床だけが、一人離れていることに気づき、気になってしようがない。思い切って引き寄せてみたら、思いのほかの軽さですっと引き寄せられたというのである。その果敢ないほどの軽さに「あはれ」としかいいようのない子への愛がこみ上げるのである。つとに名高い汀女一代の名吟。
母と寝て母を夢むる薮入かな松瀬青々
薮入りは正月の季語になっているが、正月とお盆の十六日前後に行なわれた奉公人の一日だけの休みで、多くは実家に帰った。炭太祗に「やぶ入の寝るやひとりの親の側」という句があるが、久しぶりに帰った実家では思いっきり親に甘えられるのが何よりの楽しみだった。太祗の句では親の側で寝るだけだが、この青々の句では母親と寝ていても、さらになおかつその母の夢を見ているというのだ。奉公先で毎晩、見るのはきまって母親の夢。その習いが続いているのだ。この夢を山口誓子は「この世で最も贅沢な夢」と評している。
端居してたゞ居る父の恐ろしき高野素十
縁側などで涼を味わっているのだから、この父親は充分にリラックスしているはずである。なのにそこにいるだけで、あいかわらず自分にとっては恐い存在。火事の次に恐いとされたこのような親父は、もはや絶滅してしまったようだ。
父となりしか蜥蜴とかげとともに立ち止る中村草田男
蜥蜴は走ってきたのが急に立ち止まって、まわりを見まわしたりすることがある。その行為に自分の心理状態を重ねたものだろう。実際に我が子誕生の知らせを受けて、道を歩いていた時の体験と考えなくてもいいと思う。自分の子が生まれたということは、父親になるということ。考えるまでもないのだが、それを自覚することはある種の心理的動揺をともなう。それが立ち止まる行為になったのである。
姉ゐねばおとなしき子やしやぼん玉杉田久女
姉と妹の関係では、妹がわがままをいったり、周囲を困らせたりするのを、姉がたしなめるといった役回りを演じることが多い。性格的な面ももちろんあるだろうが、共犯関係ともいえるもので結ばれ、それぞれの役を演じている場合も多いのではないだろうか。お姉ちゃんがいなくて、なぜかいつもよりも静かな妹。彼女の頼りなげな心理状態が「しやぼん玉」にたくされている。
陰ほともあらわに病む母見るも別れかな荻原井泉水
陰は女陰、女性の隠しどころである。そこさえも隠そうとする意識を失ったあられもない母の姿を眼前にして、もはや避けようもない死別を覚悟するのである。脳溢血で倒れたその母は半身不随となり、4年後に亡くなる。あらゆるものから目を逸らそうとしない冷徹な俳人の目。
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ森澄雄
「さう思ふ」と断定されちゃうと、もはやこの二人の間に他人の入り込む余地はない。夫婦随伴数十年の歳月の厚みである。ゆったりした語調も夜長の情感をしみじみと伝える。「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」なども妻恋い俳句として名高い。
井戸は母うつばりは父みな名無し三橋敏雄
この句の暗示しているのは自死。累代の母たちは井戸に身を投げ、父たちは梁〈はり〉に首を縊ったのである。名無しということは姓を持てなかった明治以前の庶民ということである。井戸もうつばりも昔の家にはかならずあったものだから、累々代々、家というものの犠牲になってきた庶民たちに思いを致しているのである。敏雄が親について詠った句は多く「父はまた雪より早く出立ちぬ」「肉附の匂ひ知らるな春の母」「夜の煤煙まつはり父子に別れなき」など佳句が多い。
枇杷とばば空港の遺失物柴田杜代
この「ばば」は自分のことだろう。おそらく空港で迷ったか、迎えの人が見つからないのだろう。お土産の枇杷を手にしているのか。大胆な言い切りに驚かされるが、空港を現代の家庭に擬してみると、行き場を失っている現代の婆たちの姿がほの見えてくる。
胎の子に母は風音母に秋池田澄子
胎児にとって母体のたてる音は風の音のように聞こえているかもしれない。しかしその母は秋のただなかで一人だけの感傷にふけっているようだ。あるいは瀟殺たる秋風に吹かれているのかもしれない。
受話器からしやぼんの如き母の声林桂
直喩によってシャボン玉と母の声を結びつけただけだが、「しゃぼん」の懐かしさとやさしい語感が、何か結びつけるなら母の声しかあり得ないと思わせるだけの説得力がある。おそらく故郷の母なのだろう。しばらく会っていないのだ。その隔たりがつくるあやふやさにも「しゃぼん」はぴったりマッチしている。
あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げて ふっと寂し五島美代子
好奇心の強い子供は何にでも手を出したがる。危ないから親はそれを次々に取り上げるが、そんなことを繰り返していたある一瞬、ふっと寂しさを感じたのである。子供の意欲を次々にそいでいるような自分。とは言っても危険からは守ってあげなければいけない。親であることの根本的な寂しさを、ある具体的な一瞬に凝縮させた。
Faceboo加藤隆行さん投稿記事 【いつまでもタダで練習できる】
母ちゃんと不仲という方のカウンセリング中によくするお話があります。
お聴きした方もいるかもしれませんが必要な方に届きますようニューバージョンとして再送します。
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母ちゃんという生き物は いつも、いつでも「心配」という玉を同じ球種同じコースに投げ込んできます。何度こちらが「投げるのやめて(><)」と言っても聴きません。
子どもが嫌がっていても全くお構いなしです。
飽きることなくくさることなく今日も今日とてコツコツと同じ「心配」を投げ続けます。
疲れを知らないその強肩・豪腕ぶりには、野茂も 大魔神佐々木も 松坂もダルビッシュも まーくんも 大谷翔平もビックリです。(野球しらんけど)
エースピッチャーである母ちゃんに投球をやめさせるのは至難の業です。
堪忍袋の緒が切れた!と「もう子どもじゃない!」「干渉するな!」「二度と会わない!」
などと強く伝えたところで彼女はへこたれません。というか、まったく聞いてません。
ほとぼりが冷めた頃には必ずリセットがかかり何事もなかったかのように また「心配」を投げつけて来ます。
酷いこと言っちゃった⋯お母さん傷つけちゃったかも⋯と自分が反省していた気持ちもまったくの無駄です。そして絶望的なことに彼女には“引退”という言葉も存在しないのです。
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だから息子、娘である、あなたはそろそろ「投げるな!」と言うのをあきらめて 母ちゃんのことは ありがたい「バッティングマシーン」だと思ってみましょう。
いつも投げてくる「心配」という玉を打ち返したりする練習をする。
「ほんと、 いやらしい玉、 投げてくるなぁ」「内角低めか」「いつもあの セットポジションから 投げてくるんだ」「冷静になれば 投球フォーム、読めるな」「あ、こういう時には甘く入ってくるな」「バッティングフォームを 改良してみよう」「大ぶりすぎるんだな」
「脇を締めて、短く構えて」「バントした方が いいんじゃないか?」「一本足打法にするか」「長嶋茂雄的に 「バッ! ビューン! バーッ!」 って打てばいいのか?」
「あれ?バッターボックスの 外から打ってもいいんだ!」「なんなら ピッチャーマインドの 後ろに回ってもいいんだ」⋯そうやって練習をしていくと実は、母ちゃんの心配玉は
「打ち返すものじゃない」「打ち返してもしょうがない」ということがわかってきます。
自分ではホームラン級だと思う長打を打ち返してもピッチャー強襲して大怪我させたのでは!?と思ってもやっぱりすぐに同じ「心配」を投げ続けてくるからです。
*
じゃあ打ち返さないとしたらどうするのか。方法はひとつ「受け取る」のです。
母親がどんなに過干渉でもどんなにアナタを支配しようとしてきているように見えたとしても
投げ続けている玉に書いてある文字はやっぱり「心配」なのです。
「あなたが、おまえがお母さんは心配なの」と投げ続けられている玉は「そうか、心配だよね」「心配してくれてありがとう」と受け取ってあげたときはじめて止まります。
子どもが心配なその「気持ち」をただただ受け取って欲しいだけなのです。
母ちゃんの行動は過剰に侵略してきているよう感じるので、受け取ったら負け、だと思っているかと思います。
でも母ちゃんは気持ちを受け取って欲しいだけなので、実は受け取ったら、
「ああやっとわかってくれた」と【安心】して、その玉は止まるものなのです。
すくなくとも打ち返すのは、そのあと。「いつまでも子どものことは心配だよね」
「心配してくれて、ありがとね」「でも、あとは自分でやってみるよ」
「いつも見ててくれてありがとね」打ち返し方もこんな感じでソフトにピッチャーゴロぐらいで返すのです。
*
そこまでくると永遠のライバル、母ちゃんからは「よく育った」「大人になった」と、その成長をねぎらってもらえるようになるかも、しれませんし、もらえないかも、しれません。
でもあいかわらず母ちゃんが「心配」を投げて来たとしてもその玉は必ず緩やかになりますし
ローテーション期間も広がります。
私自身も、自分が玉を受け取ることができるから【安心】して接しられるようになるし、
母親に優しい言葉をかけられる自分に【自己肯定感】が生まれます。
こうやって母ちゃんの「魂のこもった心配の玉」をみごとに受取り、ゆるやかに打ち返せるようになった時、あなたは自分の人生の「4番打者」になっています。
そうなったらもう誰の玉でもラクラク打ち返す(投げ返す)ことができます。
めんどくさい上司でも指示ばかりしてくる先輩でも口うるさい先生でもあれこれ言ってくるママ友でもだれでもそんなの母ちゃんの玉にくらべたら全然へなちょこです。鼻くそみたいなものです。
だから母ちゃんをありがたーーいバッティングマシーンだと思って日々、練習に勤しみましょう。
一方通行だと思っていたかあちゃんとキャッチボールができるようになったアナタの姿ボクには見えていますよ(^ω^)
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