戦前の日本

https://gendai.media/articles/-/146198 【「ヤマトタケル」は『古事記』と『日本書紀』では描かれ方が全然ちがう…その「意外な理由」】より

知られざる「戦前の正体」 辻田 真佐憲 文筆家 近現代史研究者

プロフィール

神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? 

右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。

歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。

※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。

『古事記』のヤマトタケル神話

では、なぜこの能久親王はヤマトタケルと比較されたのか。ここでまた神話を振り返らなければならない。

ヤマトタケルは、第12代景行天皇の皇子として生まれた。神功皇后の夫である第14代仲哀天皇は息子にあたる(その間の第13代成務天皇は弟)。

じつはこのヤマトタケル、『古事記』と『日本書紀』でずいぶんと神話の記述が異なっている。そこでまずは『古事記』をみてみよう。ここでのヤマトタケルは、悲劇のヒーローである。

はじめ小碓命(おうすのみこと)と名乗ったヤマトタケルは、兄の大碓命を惨殺したその荒々しい性情を恐れられ、父の天皇より西方のクマソタケル兄弟を征伐するよう命じられる。そして女装して不意をつき、これを刺殺。そのおり、相手の弟より「ヤマトタケル(倭健)」という名前を献上された。

都に凱旋したヤマトタケルは、しかし、また天皇より、東方12ヵ国への遠征を命ぜられてしまう。そのため、途中立ち寄った伊勢神宮で、叔母のヤマトヒメ(倭姫命)に「天皇は私が死ねばよいと思っているのだ」と嘆く。それでもヤマトヒメより草薙剣と袋(火打ち石入り)を授かり、東方に出撃した。

まず、尾張国でミヤズヒメ(宮簀媛)と婚約し再会を約束。つぎに、相武国(さがむのくに)で国造に欺かれて火計に遭うも、草薙剣で燃え盛る草を薙ぎ払い、火打ち石で向かい火をつけて危難を脱出。また走水では、海峡の神が荒ぶり道を阻んだものの、后のオトタチバナヒメ(弟橘媛)が入水してこれを鎮め、渡海に成功した。

こうしてヤマトタケルは、東国の奥地に進み、荒ぶる神々や服属しない民をことごとく平定。そして足柄、甲斐、科野国(しなののくに)を経て、尾張国に帰還し、そこでようやくミヤズヒメと結婚した。

ところがその後、伊吹山の神を討ち取ることに失敗して発病してしまう。そこで大和へ戻ろうとするも、その途上、伊勢国の能煩野(のぼの)で絶命。その直前、「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし」など有名な望郷の歌(国思歌)をうたった。

死没地には陵がつくられたが、ヤマトタケルは大きな白い千鳥となって、西へと飛んでいき、河内国の志幾にとどまった。そのため、ここにも陵がつくられたが、白い千鳥はさらに空高く飛び立っていった──。

日本初の銅像はヤマトタケル

以上が『古事記』での概略だが、いっぽうの『日本書紀』のヤマトタケルは、甲斐甲斐しい忠臣として描かれる。

東西に遠征して、最後に死没するという展開は変わらないものの、『古事記』でのように、手がつけられない荒くれものではない。兄は殺していないし、父の天皇から嫌われてもいない。東方遠征も、みずから志願してさえいる。

文学的に美しいのは前者だが、国威発揚になるのは後者だ。じっさい、戦前に参照されたのはもっぱら『日本書紀』のヤマトタケルだった。

そしてこのヤマトタケルもまた、明治初頭には神武天皇より知られた存在だった。やはり各地にゆかりのある神社や地名が残っている。

筆者は、大阪府羽曳野市の公立小学校に6年間通ったが、この羽曳野という名は、さきほどの白い千鳥(『日本書紀』では白鳥)が地上に降り立ち、羽を曳くがごとく飛び立ったという地元の伝承に由来する。ヤマトタケルの陵墓(白鳥陵)のひとつも同市内に存在する。

そして日本最初の銅像もまた、このヤマトタケルなのである。金沢市にある旧加賀藩主の庭園・兼六園に立つ、「明治紀年之標」(揮毫は有栖川宮熾仁親王)がそれで、西南戦争で戦死した将兵を慰霊するため1880(明治13)年10月に建立された。

台座となっている石組みの高さは6メートル、銅像は5.5メートル。靖国神社外苑の大村益次郎像が全高12メートルだから、それにほぼ等しい。

顔はふくよかで、髪が肩までかかり、袴がスカートのように広がっている。剣はもっているものの、女性のようで、あまり武人のようにみえない。クマソタケル討伐のときの故事(女装)を踏まえたものだろうか。

銅像のデザインはだれかわかっておらず、建立の理由も諸説ある。熊襲征伐と西南戦争の賊軍征伐を重ねたとも言われるが、定かではない。

さらに連載記事<「日本の初代天皇」とされる「神武天皇」のお墓がどこにあるか知っていますか>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。

*本記事の抜粋元・辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)では、「君が代はなぜ普及したのか?」「神武天皇によく似た「ある人物」とは?」「建国記念の日が生まれた背景とは?」……といった様々なトピックを通じて、日本人が意外と知らない「戦前の日本」の正体を浮き彫りにしていきます。「新書大賞2024」で第7位にランクインした、「ためになる」「わかりやすい」と話題のベストセラーです。


https://news.yahoo.co.jp/articles/dc8dd4a3d92e633e299234cd3908cb6d226f2768 【なぜ「悲運の軍人皇族」は「明治のヤマトタケル」と崇められたのか…その「驚きの理由」】より  歴史家・辻田真佐憲さん

※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。

ヤマトタケルと重ねられた能久親王

ともかく、天皇の命にしたがって各地を転々として、最後は病に倒れるヤマトタケルの姿が、同じく各地を転々として、最後は陣没する北白川宮能久親王に重ねられたのである。

1895(明治28)年11月、すなわち薨去(こうきょ)の翌月には早くも、大阪朝日新聞に能久親王をまつる神社を台湾に建てるべきという論説が掲載された。能久親王はヤマトタケルや、建武の新政(中興)を行った後醍醐天皇の四皇子に並ぶ存在だというのである。

日清の役亦皇族の軍に従ふ者多し。而して未だ職に斃(たお)れし者あらず。之あるは能久親王を以て中興後一人と為す。故に日本武尊より千二百余年にして後醍醐の四皇子あり、後醍醐の四皇子より五百六十年にして能久親王あり。其の功日本武の熊襲征伐東夷平定と多く相譲らず、而して大節巍然(ぎぜん)死を踏みて辞せざるものは、曷(なん)ぞ四皇子の下に在らんや。

これ以外にも、能久親王をヤマトタケルと比較したものは多かった。

このような動きにより、台湾神社(のち台湾神宮)、台南神社など台湾に創建されたほとんどの神社に能久親王は祭神として祀られた。まさにヤマトタケルと同じく神になったのである。

「東京のど真ん中」に建てられた銅像

photo by iStock

そして明治のヤマトタケルたる能久親王の銅像も1903(明治36)年に建てられた。場所は、東京北の丸に駐屯していた近衛歩兵第1、第2連隊の営門前。皇居と靖国神社の間、現在は日本武道館が建っているあたりだ。まさに東京のど真ん中である。

銅像は戦後も残されたが、1963(昭和38)年、北の丸公園の整備にともなって、やや南の東京国立近代美術館分室のまえに移設された。同館は、旧近衛師団司令部の庁舎だから、たいへんよく馴染んでいる。

能久親王は、いまにも駆け出さんとするかのような軍馬に跨っている。神話上の人物と異なり、躍動感にあふれてリアリティーがある。原型をつくった新海竹太郎(しんかいたけたろう)は、近衛騎兵として能久親王に仕えたあと(台湾にも出征している)、彫刻家に転じた異色の人物。鋳造は、陸軍砲兵工廠で行われた。

ちなみに軍人皇族の銅像は東京ではこれ以外にも、小松宮彰仁親王像、有栖川宮熾仁親王像、有栖川宮威仁(たけひと)親王像が建てられている。

さらに連載記事<「日本の初代天皇」とされる「神武天皇」のお墓がどこにあるか知っていますか>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)


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知られざる「戦前」の正体 辻田 真佐憲

「再発見」された神武天皇陵

少し脱線したが、このように神武天皇の重要度が高まっていくと、神武天皇陵も放ったらかしにはできなくなった。

神武天皇陵は、『古事記』に「御陵は畝火山(うねびやま)の北の方の白檮尾(かしのお)の上にあり」、『日本書紀』に「畝傍山東北陵に葬りまつる」と記されている。

やはり記紀で内容が微妙に異なるのだが、現在の奈良県橿原市にある畝傍山の北ないし東北に神武天皇陵があったという点では共通している。

神武天皇陵は、『日本書紀』や『延喜式』に記述が残っており、古代には存在していたようだ。だが、さきにも述べたように、中世になると荒廃して所在がわからなくなってしまった。

記紀の記述にもとづいて場所探しが行われたのは、泰平の世が訪れた江戸時代になってからだった。有力候補は、畝傍山東北裾野にある塚山(現・橿原市四条町)、丸山(同山本町)、神武田(じぶでん)(同大久保町、別名ミサンザイ)の3ヵ所だった。

もっとも、確たる証拠があったわけではない。江戸中期の元禄年間に行われた幕府の修陵事業では、神武天皇陵は塚山に定められたが(これを専門用語で「治定(じじょう)」という)、現在ここは2代目の綏靖(すいぜい)天皇陵となっている。

神武天皇陵が今日の場所に定められたのは、やはり幕末になってからだった。天皇の存在感が高まるなかでふたたび幕府により大規模な修陵が行われて、1863(文久3)年、勅裁により神武天皇陵が神武田に変更されたのである。

この場所は名前のとおり、水田だった。しかも江戸初期には、人糞を用いる糞田だったという記録も残っている。そんななかにあった土壇(国源寺という寺院の跡とされる)を基礎として土手や拝所、鳥居などが設けられた。糞田から天皇陵とは、なんともダイナミックな変化といわざるをえない。

なお残りの丸山は、畝傍山にもっとも近く、本居宣長や蒲生君平といった江戸時代の代表的な知識人も推した有力地だった。それでも外されたのは、近くに被差別部落があったからだといわれる。

やがて明治時代に入ると、さらに神武天皇陵の整備が進んだ。1898(明治31)年には、周濠のなかに円墳が築かれて、古墳の体裁が整えられた。そして皇紀2600年に大規模に整備されて、現在のように堂々たる姿になったのである。

急造された橿原神宮

その神武天皇陵のすぐ南には、神武天皇とその皇后ヒメタタライスズヒメをまつる橿原(かしはら)神宮が鎮座する。この神社は、その古い由緒にもかかわらず、やはり近代の創建である。

創建の発端は地元の請願だった。これだけ神武天皇が注目されているのに、即位の地である橿原宮跡に神社がないのはおかしい。この意見を受けて、1890(明治23)年、この年が皇紀2550年にあたることを記念して、橿原神宮が創建された。同年はまた、大日本帝国憲法が施行されて立憲政治がはじまった年でもあった。

当時の神社はすべて国家の管理下にあり、神社の勢いや祭神の尊貴さに応じて格付けが行われていた。橿原神宮はそのなかで最高格の官幣(かんぺい)大社に列せられた。

そして明治天皇の意向により、本殿には京都御所の温明殿(うんめいでん)、拝殿には同じく神嘉殿(しんかでん)が用いられた。のち神楽殿(かぐらでん)となった後者は1993(平成5)年に焼失したが、前者は現在でもそのまま使われている。

今日、橿原神宮を訪れると約16万坪もの広大な敷地に驚くが、はじめからそうだったわけではない。創建当初は約2万坪。それが大正年間の神武天皇2500年祭(神武天皇崩御より2500年の祭典)や、昭和戦前期の皇紀2600年の整備事業などで順次拡張されて、現状にいたったのである。

橿原神宮では、現在でも2月11日、紀元祭が勅使参向のもとで執り行われている。

筆者は2000年代前半、高校生だったとき、見学に行ったことがある。駐車場には、各種のスローガンも鮮やかな黒塗りの街宣車がひしめき、参道では、戦闘服に身を包んだ右翼団体の構成員たちが足音高く行進し、遠くからはどこからともなく軍歌が鳴り響いていた。そしてそのなかを、勅使がしずしずと進んでいく──。忘れられない光景だった。

神社の受付で式典への参加を希望すると、本殿のまえのテントに通された。そのときうたわれたのも、「君が代」と先述の唱歌「紀元節」だった。隣の男性高齢者は歌詞カードもみず、「紀元節」を高唱したので驚いた。まさに小学校で行われていた儀式のたまものだった。


https://gendai.media/articles/-/141418 【定まらない日本の自画像】より

われわれはいま、新しい時代のとば口に立っている。

明治維新から太平洋戦争の敗戦までは77年。敗戦から2022(令和4)年までもまた77年。戦前と戦後が並び、現代史が近代史をはじめて凌駕しようとする、これまでにない事態が目の前に開かれつつある。

いつまであの敗戦を引きずっているのか。憲法だって見直していいではないか。もういい加減「普通の国」になろう──。

近年、そういう声が徐々に高まっているのもゆえなきことではない。日本はもはや、アジアに燦然と輝く卓絶した経済大国ではなく、(そこで生活するものとしては忍びないことではあるものの)中国の後塵を遥かに拝しながら緩やかに衰退する斜陽国家になりつつあるのだから。

さはさりながら、われわれはみずからの国のありかたについて、かならずしも明確なビジョンがあるわけではない。

戦前と戦後を分かつ戦争の名称はその象徴だ。さきほど太平洋戦争ということばを便宜的に使ったけれども、これとて、けっして定まったものではない。

かといって、当時の名称である大東亜戦争はいまだ政治的に忌避されやすく、左派やアカデミズムの界隈が好むアジア・太平洋戦争(かつては15年戦争だった)もいかにも妥協の産物にすぎない。

もっとも中立的なのは「さきの戦争」「さきの大戦」だろうが、このぼんやりとした表現は、われわれの定まらぬ自画像にぴったり一致している。

このような状態だからこそ、われわれは過ぎ去ったはずの「戦前」にいつも揺さぶられている。まるで亡霊に怯えるように。

「新しい戦前」と「美しい国」

2022年末、タレントのタモリがテレビ番組「徹子の部屋」で2023年がいかなる年となるかと問われて、「新しい戦前」と答えて話題になった。

筆者は「素人がなにを」とあざ笑う狭量な専門家に与しない。数百万もの視聴者を相手にしていた人間の感性はときに鋭いものだ。

とはいえ、戦前ということばはたやすく使われすぎてもいる。なんでも戦前と認定しながら、あまりに戦前を知らない。残念ながら、歴史を生業とする物書きでもしばしばこの陥穽にハマっている。

現在と戦前の比較は、類似のみならず差異にも注意を払うべきである。なんでもかんでも戦前認定することは、かえって戦前のイメージを曖昧にし、貴重な歴史の教訓を役立たないものにするだろう。

わかりやすい例として、「安倍晋三は東条英機のような独裁者だ」という批判を考えてみよう。よく耳にした比較だが、かならずしも適切とはいいがたいものだった。

大日本帝国憲法のもとでは首相に権限が集中しにくく、かえって軍部の暴走を招いた面があった。根っからの軍事官僚で法令の条文に固執した東条もこれに苦慮しており、陸軍大臣や参謀総長などを兼任することで、なんとか自らのもとに権限を集めようとした。

独裁者と呼ばれたゆえんだが、それでもかれは、戦時中に首相の地位を追われてしまった。

戦後、このような戦時下の反省もあって、首相にさまざまな権限が集約されたのである。そのため、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりに倒錯している。

筆者はここで、同じく2022年、凶弾に斃たおれた安倍元首相が唱えた「日本を取り戻す」「美しい国」というスローガンを思い出さずにはおれない。それはときに戦前回帰的だといわれた。

だが、本当にそうだっただろうか。靖国神社に参拝しながら、東京五輪、大阪万博を招聘し、「三丁目の夕日」を理想として語る──。そこで取り戻すべきだとされた「美しい国」とは、戦前そのものではなく、都合のよさそうな部分を適当に寄せ集めた、戦前・戦後の奇妙なキメラではなかったか。

今日よく言われる戦前もこれとよく似ている。その実態は、しばしば左派が政権を批判するために日本の暗黒部分をことさらにかき集めて煮詰めたものだった。

つまり「美しい国」と「戦前回帰」は、ともに実際の戦前とはかけ離れた虚像であり、現在の右派・左派にとって使い勝手のいい願望の産物だったのである。これにもとづいて行われている議論が噛み合わず、不毛な争いに終始せざるをえないのは当然だった。

このような状態を脱するためには、だれかれ問わず、また右派にも左派にも媚こびず、戦前をまずしっかり知らなければならない。

さらに連載記事<大日本帝国は「神話国家」だった…日本人が意外と知らない「敗戦前の日本」を支配していた「虚構」の正体>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。

*本記事の抜粋元・辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)では、「君が代はなぜ普及したのか?」「神武天皇によく似た「ある人物」とは?」「建国記念の日が生まれた背景とは?」……といった様々なトピックを通じて、日本人が意外と知らない「戦前の日本」の正体を浮き彫りにしていきます。「新書大賞2024」で第7位にランクインした、「ためになる」「わかりやすい」と話題のベストセラーです。

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