皇帝の証とは?

https://ameblo.jp/tohoku-inehapo/entry-12734135001.html 【坂上苅田麻呂が教える皇帝の証とは?】より

いろいろ繋がる話なのですが、つながるそのモノがなんだかわかりません。とりあえず、記録しておきます。話が長くなりますが、宮城県南などに藤原家や天皇家内乱の時、一族や末裔、その家臣らが逃れている、左遷されている、からつながることだと思います。

彼らの何が問題であったか?まで理解できませんが、内乱があった発端の意図を知ることで、迫害された人達の鎮魂がなされると思うことです。

坂上刈田麻呂の名があがったのは、朝廷側も当時のことを慕い、想い、鎮魂したい、気持ちがあることでしょう。歴史を知ることで、わだかまりが流れていくことを願っております。

■藤原訓儒麻呂のこと

橘奈良麻呂VS藤原仲麻呂の乱で、刈田麻呂のことが気にかかってましたが関係ないので流してました。いちいち、拾っていたらきりがないです。

以前書いていた歴史なので割愛しますが、ちょっとふりかえると、橘奈良麻呂が衰退した頃に、淳仁天皇を推していた藤原仲麻呂らは、権力を誇示するようになります。

しかし、孝謙上皇(女帝)と道鏡によって変わっていきます。

本来は、孝謙上皇が病気の光明皇后のために、譲渡する形で太上天皇となります。

※太上天皇・・・譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号しかし、実際は、孝謙上皇の方が権力があった。その上皇をサポートしていた人に「道鏡」がいる。

仲麻呂は、このままでは孝謙上皇の思いのままになってしまうことに不満をもち、藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通して、孝謙上皇に道鏡との関係を改め直すように告げるが、ますます上皇は、反抗し、国家の大事や賞罰を奪うことを宣言する。

よって、仲麻呂は反乱を企てるが密告者により、最初は発覚され失敗します。

たぶん、道鏡は葛城系なのですよね。葛城氏らが藤原家により迫害されたかもしれない。

※道鏡塚(栃木県龍興寺)

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刈田麻呂が登場するのは、この時でした。(757年頃)※「藤原仲麻呂の乱」恵美押勝とも言います。「恵美」の名を子どもたちも使うようになります。

藤原家だけではない、家臣たちも多く処罰されているのですが、坂上刈田麻呂、牡鹿嶋足により「藤原訓儒麻呂(くしまろ)を射殺」とある。

藤原訓儒麻呂という人は、何をしたのか?

訓儒麻呂は、間民苦使(もみくし)という律令制における臨時に派遣された地方監察管という役職。鬼怒川の洪水を防ぐために水路を作る必要性を太政官に提出したり、租税の対象年齢について提案をしたりと、真面目な公務員といった感じのようですが。。。

※鬼怒川

https://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate_know020.html

父の仲麻呂の命令には絶対だったと思うし、逆らえないことがあったと想像します。

藤原訓儒麻呂は、かわいそうな人だったと思います。

それで、その理由が「皇帝の印となる璽(じ)」という印鑑のようなものが関係しているのです。

■御璽のこと

刈田麻呂の名が出なかったら、知らないことでした。

「重なる密告通知をうけた孝謙上皇は、少納言山村王を淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという」と、ありました。(wikipedia)

上皇、淳仁天皇が共にがほしかったのは、「御璽」だったようです。

駅鈴というのは、駅馬、伝馬の制度の設置に伴ってつくられ、この鈴を鳴らして人足と駅馬や船を挑発させ警備にあたらせる。※駅鈴(兵庫県朝来市和田山町寺)

通行手形のようなもの?

もうひとつ、重要なものが「御璽」らしい。中国でもこの印鑑のようなものは、非常に強い効力を持ちます。

水戸黄門がもっているような印籠に似ているもので、龍や亀などが彫刻されているものがあります。天皇や皇帝の命令は「絶対」であるからこそ、これらの印がとても重要な意味をもちます。しかし、当然、これを奪い還すでしょう。

仲麻呂は、山村王を襲い、御璽を奪いかえすように、息子の訓儒麻呂に命じます。

すると、またもや、孝謙上皇は反撃します。この時に、上皇は、刈田麻呂と牡鹿嶋足氏を出動させ、藤原訓儒麻呂を射殺します。

牡鹿嶋足氏→丸子氏(和邇)→「足(たり)」の名。

牡鹿ですので多賀城を焼きうちしたアザマロと対立を起していた道嶋氏と関わっています。(道嶋大盾)では、この璽(じ)というものは何であるか?

■璽をもっている始皇帝

秦の始皇帝が登場。璽は、「玉」のことで、「ぎょく」と読みます。始皇帝により皇帝の印章を指す言葉となりました。日本では、勾玉が「じ」にあたります。これが皇帝の証とされてきたそうです。

※日本の璽

※熊野牛王神符

多くは烏文字を用いる。熊野の「意匠」ですが、熊野の璽と言える。ということは、始皇帝が皇帝の発端ともなる?その始祖をもつ一族や天皇が、璽をもつことに?

中国の御璽は、「伝国璽(でんこくじ)」といい、こんな不思議なものです。

「受命於天,既寿永昌」※天の命をうけた皇帝の意味が書かれてるらしい。

何これ~。金文字のような。「秦の始皇帝より以前は、周王朝37代にわたって保持されてきた九鼎が帝権の象徴であり、それを持つ者が、すなわち天子とされた。

周が秦に滅ぼされた時に、秦は九鼎を持ち帰ろうとしたが、混乱の最中に泗水の底に沈んで失われたという。」

また、始皇帝が霊鳥の巣から発見した玉から造り出した印鑑とも言われます。

ちょっと説明・・・

「和紙の壁(かしのへき)」というのがあります。「完璧」の語源になった石です。

山中で玉の原石を見つけて楚の厲王に献上した話。献上した石が単なる雑石だったのを後の文王という人が、よくよく磨いてみると、名玉を得たという。

つまり、最初は雑石とされたのが、名玉に変わる。それが次の帝が引き継いでいることに。

だから、石=人 宝石に変える技というのが、錬金術のようですが、人智のことでしょう。

「智」を得る人。その玉が、こんな図にある。

※璧。

翡翠によって作られている。通常はドーナツ型の円盤。

※和氏の璧を持ちながら激怒する藺相如と慌てる秦王

「和氏の璧」の由来となった物語 【意味・例文・年表・歴史地図】

リンク

chugokugo-script.net

いずれにしても「玉」そして、ここからまた謎が謎をよぶ・・・始皇帝が璽であれば、

それ以前は、九鼎である」と?「九鼎が帝権の象徴」とありますが、九鼎とは、9つの「かなえ」とよみ、祭器です。

それが、これなのです。古代の中国でよく登場します。

※中国にて

鍋のようなものですが、諸説ありも、祭祀で使われたことが有力。しかし、詳細はわかりません。罪人などを処刑するさいに使われたなどもありますが、仏教が入り、殺生が禁止されて香炉のようなもので使われるようになったそうです。

土器、あるいは青銅器。そして、この鼎(かなえ)の漢字の意味は、必ず「三本足」であり、

これらの説がありました。

なぜ、印鑑のようなものから9つの鍋なのか・・・??その中に、「禹」があったのですよ~。

①「古代、中国の底の深い器。三本足で二つの取っ手がある。物を煮るのに用い、また、宗廟(祖先の霊や身分・地位の高い人の霊を祭る家屋)に置く宝器とされている。」

②「夏(カ)の禹王(うおう)が九枚の金を集めて作った九つの鼎。これを王位伝承の宝器として後代に伝えてから、転じて、「王位」、「王が国を統治する為に行う事業」の意味として 用いる」(例:鼎運)

③「鼎の三足を三公(中国の王を補佐する最高の地位の官名)にたとえて、「大臣」の地位を言う」※漢字・漢和辞典-OK辞典より

・・・だから?

毘沙門堂にもあった!びっくり 三足鍋!!しぇ~。こういうの、あんまりないですよ。

禹王→始皇帝 宇宙人くんということなので、驚く繋がり。

もうひとつ、興味深いこと。

■神功皇后に謁見する者とは

毘沙門堂の中にいろんな額がありまして。寺社には、奉納された絵がありますが、こういうの見るのが好きです。

猿田彦かな?これは神功皇后です。気長足姫尊=息長氏 母は、葛城氏。 アメノヒボコ・・・新羅王。この図をみて、わかったことがありました。この白い人。白い石だか餅のようなものを神功皇后に渡しています。五芒聖の梅なんですね。

そばにいるのは、武内宿禰でしょう。さて、この図はどーいう意味か?なんと、繋がったのが、また京都の月読神社だった!松尾大社です。

月延石(つきのべいし)の信仰。安産神

なので、白い人は秦氏と思い、東北に多い神功皇后神話が残されている理由がみえてくる。

日本書紀によると200年頃、神功皇后(第14代 仲哀天皇の皇后)は臨月であるにもかかわらず、神託に従い朝鮮半島の新羅征伐に向かいました。

その際、お腹に石(月延石)を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、

新羅征伐(結果的には三韓征伐)を達成。そして筑紫へ凱旋した後に第15代応神天皇(八幡大神)を無事出産しました。

聖徳太子社

だから「息長帯姫」とも書く。=たらし姫。妊婦さんがまく腹帯のこと。秋田唐松神社と同じです。(丸い石を置く)

参拝してたけどさー・・・まさか、ここに、神功皇后ゆかりの「月延石(つきのべいし)」が

しっかり書いてあった・・・とは。全く気づいてない!

こちらのサイトに「白い石」のことが。

月読神社 | 神功皇后ゆかりの「月延石」を祀る、安産守護のお社 - ふらふら京都散歩

有名スポーツ選手も参拝する、足腰の神様として注目されている護王神社。主祭神の和気清麻呂は、パワハラで左遷されても信念を貫き、復帰後は重役に抜擢され、大出世をした人です。なぜイノシシがシンボル?なぜ足腰の神様??このあたりをまとめてみました。

知らんかった。おそらく、神功皇后が出産した時の白い石を神格化しているものです。

(三韓征伐の神話)

東北ならば、イエスキリストの伝承はたくさん残っていますね。

当然、モーセの末裔がきていてもおかしくありません。

杖をもつモーセと禹王

秦氏は、古来からその統括する?ユダヤのリーダ的存在ですから、百済はその影響を強く受け、山伏、修験者やサンカに守られながら、その系統を守ってきたようです。

はではで~。(徐福の船)

私はこれらの皇帝の印は、物ではないと思っています。フェイクはたくさん作られ、本物はどこかに保管されているというが、それを奪うために争いが度々あったという。

ただ、簡単に作れるものでは、意味がないですよね。安徳天皇のことがあるように。

そこに「血統・血筋」があると思い、日本人は「印鑑」を用います。

古来から中国もそうでしたが、今も用いているのは、日本だけでは?

印鑑制度を廃止する方向に向かっていますが、確かに、サインの方が楽ですけどね・・・

元来、印鑑を押すあの赤いものを「朱肉」と呼びますが、赤は血です。肉は、肉体です。

血筋のことです。自身の名をその肉体に刻印する儀式的なことだから、「契約」は、大事なことですよね?

血統の証として、日本人は生活の中に、また遺伝子の中に刻印されていることがある。

石工のように貧しい家に生まれ、迫害をうけた人や、アメリカなど先祖や系譜を知らない人は、富を得ます。

血統を最初からもっている民族は、富を最初から得ているけど、差別します。

「どっちもなくしたい」のかもしれない。

ただ、日本は島国であり民族としては、非常にユニークというか、血が濃い。(あまり異国人と交わっていない)わりに、一民族に対し、遺伝種パターンは世界一。

日本は、古代のように原始に戻ると思います。日本列島の形は、「弓」三日月・・・

すべての人の魂の中に、刻印されていると思っていますので、それが「わたしである」という証明になりますね。

しかし、強いリーダーがいなければ生きていけないのでしょうか?(そうなのかもしれないねぇ)東北にその血統(痕跡)が残されていると思うから、大きな内乱を乗り越えてきたと感じています。

でなければ、こんな話に繋がりません。大きな戦乱でいえば、・三十八年戦争(アテルイとモレの時代)

・奥州合戦(源氏と奥州藤原氏・安倍氏)

・戊辰戦争(朝廷軍と会津藩)

桓武天皇になり、田村麻呂が征夷大将軍になりますが、南家から「藤原北家」がえみし征伐として乗り出します。北家の祖が「藤原魚名」ですから、ネストリウスの魚であることは言うまでもありません。

本物のリーダーは誰か?最後まで戦い守ってきたのは安倍氏やその末裔、特に母系だと思うことがあります。

東北の色濃い血統とは、母系です。この三脚の鍋に、安倍氏につながることがあるのです。

もうひとつ、マロが争いを好まなかったのではなく、戦術を吉備真備がもたらしたことを

坂上家が学んでいたと思われる話も。まだまだつづくよ~。


https://www.rekishijin.com/13407#:~:text=%E4%BC%9D%E5%9B%BD%E7%92%BD%EF%BC%88%E3%81%A7%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%8F%E3%81%98%EF%BC%89%E3%81%A8,%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93%EF%BC%89%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 【孫堅がゲットした皇帝の証・伝国璽は、どこへ行ってしまったのか?】より

ここからはじめる! 三国志入門 第31回 上永哲矢 世界史 中国

伝国璽(でんこくじ)とは皇帝用の印鑑で、玉を細工して造ったことから玉璽(ぎょくじ)ともいう。秦(しん)の始皇帝が造り、それが漢の時代にも受け継がれて代々「皇帝の証」とされた。後漢末期(189年)、これを入手したといわれるのが呉の始祖、孫堅(そんけん)である。彼の死後、伝国璽はどうなったのか?

孫堅にとっては「呪いのアイテム」だった?

関内侯という職の印が刻まれた青銅印。印章の材質は青銅、銀、金、玉があった。うち「玉」は皇帝の用いる印で、璽(じ)と特別扱いで呼ばれた。材質から玉璽、皇帝の正統性を受け継ぐものという意味で伝国璽とも呼ぶ。(許昌博物館)

 董卓(とうたく)の軍勢を破り、都・洛陽(らくよう)へ一番乗りした孫堅。焼け野原になった洛陽の古井戸から五色の光が差し、そこへ潜ってみると、伝国璽が見つかる(『呉書』)。

「受命于天既壽永昌」(天命を受け、年ながくして永昌ならん)とあり、大きさは四寸四方、つまみには五匹の龍が彫られ、まさに皇帝の所有物と見えた。本来なら、霊帝から少帝、献帝へ受け継がれるべきものが、董卓の強引な遷都により行方知れずになっていたのである。

「はてな? ……これは尋常の印顆(いんが)ではないが」

『三国志演義』(台詞は吉川英治版)では、孫堅はそういって伝国璽をしまい込み帰国する。しかし、それがトラブルを生み、袁紹(えんしょう)、劉表(りゅうひょう)と争い、命を落としてしまう。息子の孫策は、父の遺品の伝国璽を袁術(えんじゅつ)へ贈り、かわりに兵を授かって独立する。伝国璽を手に入れた袁術は皇帝を僭称(せんしょう)するも、やがて身を亡ぼす。下手をうてば、まるでロクなことにならない「呪いのアイテム」でもあるのだ。

「袁術は天子を僭称しようとしていたので、孫堅が伝国璽を手に入れたと聞くと、孫堅の妻を人質にして、それを奪い取った」(『山陽公載記』)。このように伝国璽が袁術の手に渡ったことは、正史の注にもある。

 袁術が滅びたあと、その持ち物の中から伝国璽を見つけ、持ち出したのは徐璆(じょきゅう)という人物だった。彼は伝国璽を本来の持ち主である献帝(けんてい)に届けるため許昌(きょしょう)へ急行。無事、返上した(『先賢行状』『後漢書』による)。

 ただ、徐璆が持ち出したのは本当に伝国璽だったのか。そもそも、孫堅は伝国璽を本当に入手していたのか。捏造ではないのか…。『三国志』のなかでも風説入り乱れていて、すでに当時から情報が錯そうしており、真偽不明というほかはない。

 220年、曹操の跡を継いだ曹丕(そうひ)は、献帝を退位させ、魏(ぎ)を建国したさいに伝国璽も受け継いだようである。『後漢書』には、献帝の皇后・曹節(そうせつ)は「曹丕の使者に伝国璽を投げつけた」と記されている。政権交代へのささやかな抵抗だった。

孫堅~孫策~袁術から献帝、曹丕から後世へ……

 このように持ち主を変えた伝国璽は、その後の王朝に受け継がれた。西晋、前趙、後趙などを経て、隋から唐へ。五代十国時代の946年、後晋の出帝(しゅつてい)が契丹(きったん)軍に降伏し、捕らえられたさいに紛失したという。降伏後、出帝は都の開封(かいほう)から、北方(遼寧省)に連れ去られ、そこで没している。出帝がどこかへ隠したのか、契丹が持ち去ったのか・・・。

 近年、清朝の第4代皇帝で、名君として名高い康煕帝(こうきてい/在位1661~1722年)の玉璽が見つかり、オークションにかけられたことがあった。1900年の義和団事件で8カ国連合軍が北京を占領したさい、宮廷から流出したそうである。アメリカへ持ち出され、ある中国人が13億もの大金で買す形になった。康煕帝は100以上もの印を持っていたといわれるが、いずれも古代から伝わった伝国璽ではない。新造であっても、皇帝が使う玉璽はそれこそが「伝国璽」になったということだろう。

日本にも「璽」がある?

 玉璽は日本でいえば皇室に受け継がれる「三種の神器」のようなものだ。八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種のうち、勾玉は「璽」(じ)ともいい、草薙剣とあわせて「剣璽(けんじ)」と呼ぶ。

 日本でも、これらをめぐって歴代の権力者が争いを繰り広げた。平家滅亡のときに安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだなどの逸話も伝わる。そのまま行方不明になったとも、あとで発見されたともいわれる。

 昭和から平成、平成から令和に元号が変わったときも、皇居で「剣璽渡御の儀」(けんじとぎょのぎ)が行なわれ、三種の神器を天皇陛下が受け継がれる様子が中継された。ただ、その中身は本当に昔から伝わる現物なのか、新造かレプリカなのかは誰にも確かめようがない。いずれにしても、天皇家のもとにあるものこそが正統ということになるのであろう。


https://www.city.tamura.lg.jp/soshiki/30/bunkazai_tamuramaro1.html 【「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)①」 令和6年1月号掲載】より

平成17(2005)年3 月に合併し、田村市となった滝根町、大越町、都路町、常葉町、船引町は、もともと三春町、小野町とともに田村郡を形成していました。また、昭和40(1965)年まで、現在の郡山市田村町、中田町、西田町も田村郡でした。「田村」という地名は、坂上田村麻呂(以下、田村麻呂)の名が由来しているといわれ、この地域には田村麻呂に関する多くの伝説が残っています。

特(生涯学習課)文化財連載_坂上田村麻呂像(郡山市所蔵)

(写真:坂上田村麻呂像/郡山市所蔵)

では、なぜこの地域に田村麻呂伝説が残っているのでしょうか。

平安時代初期、天皇を中心とした中央集権国家ができつつある中、当時の東北地方は、蝦夷(えみし)によって治められていました。それを倒して統一国家を作ろうと、蝦夷征伐(せいばつ)が何度か行われ、田村麻呂が征夷大将軍として東北地方を平定した功績が認められたからでしょう。

室町時代前半、この地を治めた田村庄司一族(しょうじいちぞく)や、その後、戦国時代にこの地を治めた田村義顕(よしあき)、隆顕(たかあき)、清顕(きよあき)の田村三代も姓を「田村」としたのは、田村麻呂がこの地を平定したことから、『「田村」と名乗れば平定できる』と考えたからかもしれません。

田村麻呂伝説は、田村麻呂の父と母の出会いから田村麻呂誕生、幼少期のエピソード、その後の母との再会といった田村麻呂本人に関するもの、この地方を治めていた蝦夷との戦いに関するもの、入水寺や堂山王子神社、大鏑矢神社など寺院や神社の創建、勧かんじょう請に関するもの、地名や草木、岩などの呼称に関するもの、田村麻呂の敵としてこの地方を治めていた蝦夷の頭領・大多鬼丸(おおたきまる)など、蝦夷側を主人公としたものなどに大きく分類できます。

今回はその中で、田村麻呂の誕生に関するものにスポットを当てます。

田村麻呂の父・苅田麻呂(かりたまろ)が蝦夷との戦いを終えて京に帰る途中、木賊田村(とくさだむら)(郡山市田村町徳定)で阿口陀姫(あくだひめ)に会い、田村麻呂が生まれたものの、「田村麻呂が成人したら京に連れてくるように」と言い残し、苅田麻呂は帰ってしまいます。のちに成人し、京にのぼり、征夷大将軍となってこの地に戻った時、母と再会をしますが、その場所を「あいごうの橋(別に行合橋とも)」と呼ぶようになりました。

ただ、田村麻呂の母親は小野町の郷士の娘が母であったや、木賊田村で出会った女性が虎丸長者(とらまるちょうじゃ)の下女であったという伝説もあります。

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