https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-46396621 【「わびさび」、日本独自の世界観 完璧を求めず】より
ゆっくり回る碗から渋々と手を引っ込めながら、でこぼこした側面がゆっくりと止まるのを見ていた。もう少しだけまっすぐにしたかったな……と、そう思いながら。
日本の山口県の田舎にある古い陶芸の町、萩でのことだ。そのままにという陶芸家の言葉を信じたが、私にその意図が理解できたとは思えない。
陶芸家は笑顔でこう言った。「わびさびですよ」。
そして火を入れるため、碗をさっさと持って行ってしまった。私は座ったまま、いびつなのにと思いながら、陶芸家の言葉の意味を考えていた。
どうやら、「わびさび」という言葉の意味が分からないのは、よくあることらしい。日本の美意識の大事な部分で、日本の好みや美の基準に今も影響する古くからの理想なのだが、「わびさび」は翻訳できないだけでなく、日本文化において、定義すらできないと考えられている。
何かを深く味わった瞬間にふと使われがちだ。しかし、詳しい説明を求めると、必ずと言っていいほど「無理!」という返事が返ってくる。「わびさび」とは、世界を独特の視点から見る方法なのだ。
「わびさび」の概念は、中国の宋王朝(960〜1279年)の時代に道教から生まれ、禅仏教に取り込まれた。そもそもは、禁欲的かつ控えめに美を愛でる方法として捉えられていた。
現代では、はかなさや自然、哀愁を、もっと緩やかに愛でる鑑賞法となり、建物から陶器、生け花に至るまであらゆるものについて、不完全で不十分な姿を良しとしている。
「侘(わび)」は、「つつましく簡素なものの優美」を意味する。「寂(さび)」は、「時間の経過とそれに伴う劣化」を意味する。この2つが組み合わさり、日本文化に極めて重要な、独自の感覚が作られた。しかし、言葉は理解の妨げになると仏僧が信じたのと同じように、この説明は「わびさび」の表面をかすめるくらいしかできない。
東京大学の美学芸術学研究室の小田部胤久(たねひさ)教授は、わびさびを理解する入り口には、古いわび茶の作法(15世紀末から16世紀に茶人の村田珠光と千利休が完成させた茶の湯の道)が適していると提案する。当時人気だった(そして技術的に非の打ち所がない)中国からの輸入陶器ではなく、ありふれた日本の陶器を選ぶことで、2人はそれまでの美の決まりごとに挑んだ。それまでは美しいものと言えば、鮮やかな色彩や凝った装飾がつきものだった。その分かりやすい手がかりがないものを前に、茶席の客人は、華やかな器では目に入らなかった繊細な色調や手触りをじっくり味わうよう、促された。
不十分が想像力を刺激
わびさびは、物事を未完成や不十分なままで終わらせる。そこに、想像力が入り込む余地が生まれる――と、小田部教授は話す。
わびさびだと言われる何かに積極的に関わると、3つのことが実現できる。その作品の制作にかかわった自然の力に気づき、自然の力を受け入れ、そして二元論(私たちは自分を取り巻く環境とは切り離された存在だとする考え方)から抜け出ることができるのだ。
こうした経験を組み合わせると、ヒトは自分が自然界の一部だと思えるようになる。社会の仕組みに隔てられることなく、代わりに自然の時の移り変わりの中で自分は無力な存在なのだと。へこみやでこぼこは欠損ではなく、自然の創造物なのだと受け止めるようになる。たとえば、苔がでこぼこの壁で生い茂ったり、木が風に揺れてしなったりするように。
わびさびの美的感覚によって私たちの目は日常に向かって開いた。普通のものを普通ではなく美しいものとして扱う方法を、わびさびによって日本人は得たのだと、小田部教授は言う。壊滅的な自然災害にほとんど定期的に襲われる日本では、物事をあるがままに受け入れるというのは、文化にとって大事なことだからだ。
自然をただ単に危険で破滅的な力と位置付けるのではなく、わびさびの概念を使えば自然は美の源だと位置づけることができる。どれほど微小なものでも鑑賞の対象になる。わびさびを通じて自然は、色彩やデザインや文様のもととなり、刺激の源泉となり、対抗するのではなく協力するべき力となる。
避けがたい死の受容
自然においては死は避けがたい世界の一部なのだと受け入れることが、わびさびを本当に理解するための鍵となる。
作家のアンドリュー・ジュニパー氏は著書「Wabi Sabi: The Japanese Art of Impermanence(わびさび――無常の日本芸術)」で、「わびさび」についてこう書いている。「あらゆる無常なるものに見て取れる、はかない極上の美に意識を集中させるため、死生観を妥協なく取り入れる」。
自然の中にある模様は、それだけではただきれいなだけだが、無常と死への気づきを強調するはかないものだという文脈の中で理解すると、それは深遠なものとなる。
日本人同僚とわびさびについて話していた時に聞いた話を思い出す。10代の頃に京都を訪れたその女性は、静かな庭園のある木造の禅寺、銀閣寺の境内を急いで通り過ぎた。銀閣寺よりも有名な金閣寺が見たかったからだ。金閣寺は鏡のような池のほとりにたたずみ、息を呑むほど美しく豪華で、期待通りだった。伝統的な銀閣寺よりずっと印象的な美しさだった。
それから数十年して、この女性は再び黄金の寺を訪れた。確かに派手だが、金箔の輝きにワッとなる以上の感慨は、ほとんどなかった。しかし銀閣寺には、以前は気づかなかった魅力を感じた。古い木材には数え切れないほどの色合いや模様が含まれ、禅式の苔庭や銀沙灘は、自然の中にあるいくつもの形を縁取っていた。
子供の頃はこうした諸々を味わうことができなかったのだが、今は二次元的な黄金の輝きよりも、時間がもたらす荒廃の中にもっと素晴らしい深い美を見出せるようになっていたのだ。
画像説明,兄寺とも言える金閣寺のように華美ではないものの、銀閣寺には深遠な美しさがある
1人の人間の中でのこうした美の味わい方に興味をそそられ、私は芸術家の浜名一憲氏に連絡した。浜名氏の個性的な作品には、わびさびの要素があるとよく言われる。田園風景が広がるのどかな千葉県いすみ市にある、今にも壊れそうな農家の家の敷地を歩きながら、浜名氏は年月が流れる必要性に同意した。
若いころの感覚は大人の感覚とは違うと、浜名氏は言う。若いころは何でも新しい方がいいと思いがちだが、次第に歴史の移り変わりの物語性が分かるようになると、自分の家族にも自然の中にも、たくさんの物語があるのだと気づくのだと。そうするうちに人はやがて、全てのものが成長しては死んでいくのだという概念を理解するようになる。
浜名氏の作品では、時の流れが重要な要素だ。廃屋となった古い農家を使って、時間の経過を表現している。玄関の木枠はいろりの煙に何年もいぶされて黒ずんでいるし、土壁が崩れ始めている。ひとつひとつを指差しながら浜名氏は、人間味のない白い展示空間という冷たい二元性ではなく、こうした古い民家の歴史が自分の作品の背景としてぴったりだと思うと話す。
浜名氏は、高品質の粘土と陶器作りで知られる滋賀県の土で作品を作る。人間と自然が一緒になって何かを作りだすという、わびさびの重要な概念は浜名氏にとって大事なものだ。
作品を作る最初の段階では多少は意匠を考えるが、土は自然のものなので、作品の形もおのずと変わっていく。自然と戦いたくないので、自然が作り出す形に従い、受け入れるのだと言う。
浜名氏は作品の形作りだけでなく、その後の外見に関しても自然に任せている。農家の敷地内の辺り一面に生い茂った竹やぶの中で、屋外に置くことにした作品を見せてくれた。やぶの中に、数年ずつ埋めておくのだ。そうすることで極端な温度や周りの植物にさらされた作品には、独特の模様が付つく。中には壊れてしまうものもある。そうした作品をじっくりと見ながら私は、ひび割れによって作品の物語がさらに膨らむのだと、浜名氏のこの手法によって一つ一つの作品はひたすら美しくなっていくのだと気づいた。
わびさびと関連してしばしば取り上げられるのが、金継ぎの技術だ。金または漆を使って割れた陶器を修復する技法は、割れ目を隠すのではなくむしろ強調し、それも作品の一部にする。浜名氏の娘が作品のいくつかをうっかり割ってしまった時には、破片を数年間外に置いて自然に色と形をつけてもらったのだと、浜名氏は笑った。割れた作品を地元の金継ぎ師に修復してもらった時、色の違いが、非常に微妙でむらのある対比を作り出した。意図的には絶対に作り出せないものだ。自然の影響を受け入れ、家族の歴史を作品の中に見せることで、壊れたものから唯一無二の価値が生まれた。ほかの多くの社会では、壊れたからもう価値がないと捨てられていたかもしれないのだが。
完全性という欠陥
実のところ、ラテン語の「perfectus」(完全)から来る「perfect」(完璧)という言葉は、欧米を中心に多くの社会で、不当なまでに持ち上げられてきた。
完全で誤りがないことを優先させる完全性という理想は、基準値として達成不可能だというだけでなく、そもそも間違っている。道教では、完璧なものにはそれ以上の成長や発展はできないため、完璧はすなわち死に相当すると考えられている。私たちは完璧なモノを作り、完璧な状態を維持しようと努力する。しかし、あまりに完璧を重視するためかえって、そのモノの本来の目的を否定し、結果的に変化と成長の喜びを失ってしまう。
もののはかなさを美しいと愛でる心は、抽象的に思えるかもしれないが、日本ではごくごく素朴な娯楽の中にもそれを見出すことができる。桜の花を愛でる毎年の花見は多くの場合、すでに散り始めた桜の花びらが舞う中で宴会やピクニック、船乗りやお祭りを楽しむ行事だ。そして、散った花びらが地面にでたらめに作った模様も、枝の上で咲く花びらと同じように美しいと考えられている。
散りゆく花びらなど、欧米なら写真を何枚か撮っておしまいだろう。しかし、この束の間の美を純粋に受け入れる姿勢は、感動的でさえある。メランコリックな、哀愁に彩られた美の愛で方だ。しかし、一瞬一瞬をありのままに楽しもうという姿勢が学び取れる。
私たちは、でこぼこや傷を抱えて生きている。どれも、それまで経験してきたことの痕跡だ。消してしまうのは、人生がいかに複雑かを無視するのに等しい。不完全なものは不完全なままに保ち、壊れたものは直し、「欠陥があっても美しい」のではなく欠陥の中にこそ美しさを見出すよう学ぶことで、自然災害を乗り越え続ける日本の力は強くなる。
私が萩で作った陶器は数カ月後、郵便で届いた。でこぼこだった。けれどもそのでこぼこは、もはや欠点ではなかった。むしろありがたいことに、人生は完璧ではないし、完璧にしようと頑張るべきでもないのだと思い出させてくれた。
(英語記事 Japan's Unusual Way to View the World)
https://kodomo-manabi-labo.net/creativity-imagination 【「想像力」と「創造力」。未来で活躍するための「ソウゾウ力」を伸ばす6つの方法】より
長野真弓
20世紀最高の物理学者と称されるアルバート・アインシュタインは、「想像力は、知識より大切だ」と言い、喜劇王として知られるチャールズ・チャップリンは「人生でなによりも大切なのは、創造力だ」と言っています。
「想像力」と「創造力」。どちらの力も伸ばしてあげたいと願う親御さんは多いはず。では、これからの社会で重要になってくるのは、どちらの「 “ソウゾウ” 力」なのでしょうか? 今回は、「想像力」と「創造力」について考えます。
「想像力」と「創造力」の違いは?
「想像力」と「創造力」はどちらも同じような場面で使われますが、じつは意味が異なることをご存じですか。まずは、「想像力」と「創造力」の違いを詳しく見てみます。
■想像力とは「心に思い描く力」
想像力とは「心に思い描く能力」(新レインボー小学国語辞典)。英語では「imagination(イマジネーション)」です。
世界的ベストセラー『ハリーポッター』シリーズの著者、J・K・ローリング氏は、「想像力とは、存在しないものを描き、生み出す、人間特有の能力」と述べています。つまり、経験していないことや、現実にはないものを、自分の頭のなかに思い描く力ということ。
想像力はビジネスの世界でも注目されています。全日本空輸株式会社(ANA)は、「相手のことを想像する習慣、一歩先のことを想像する習慣が気づかいにつながる」として、想像する習慣を重視しています。また、「部下や取引先の人間関係にも想像力は欠かせない」と経営コンサルタントの小宮一慶氏が述べているように、想像力はビジネスリーダーの資質としても必須なようです。
■創造力とは「新しいものをつくり出す力」
創造力とは「新しいものをつくり出す能力」(ブリタニカ国際大百科辞典)。英語では「creativity(クリエイティビティ)」です。
子どものこころ専門医の坂野真理氏は、創造力について「自分で考えてゼロからなにかをつくり出す力」としています。創造力が発揮される場面というと、工作やブロック遊びなどをイメージする方が多いかもしれません。しかし、それだけではないようです。坂野氏によると、創造力がある人は、「与えられた指示通りに動くだけでなく、自分で問題意識をもって試行錯誤しながら価値を生み出すことができる」とのこと。
そしてまた、創造力も将来社会で必要となる力です。「変化に柔軟に対応できる、創造性のある人が、世界で求められている」と断言しているのは、人事コンサルタントで株式会社人材研究所代表取締役社長の曽和利光氏。AIなどのテクノロジーが台頭すればするほど、「イノベーションを生み出す原動力」となる「創造力をもった人材」が必要となってくるのです。
このように、想像力と創造力は異なる概念ですが、ふたつの力は密接に関わり合っています。「自由な発想に基づく想像力があるからこそ創造力が発揮され、また自分でいろいろなものを創造していくなかで想像力が育てられていく」と坂野氏が言うように、子どもにとって想像力と創造力はどちらも欠かせない、大切な能力なのです。
となれば、どちらの力も伸ばしてあげたいと思うのが親心。想像力と創造力を伸ばす方法を紹介します。
想像力と想像力1
子どもの「想像力」を伸ばす3つの方法
「どんな子どもも生き生きとした想像力をもって生まれてくる。しかし使わなければ、筋肉が衰えるのと同じように、鮮やかな想像力も次第に色あせてしまう」と言っていたのは、ディズニーランドの生みの親、ウォルト・ディズニーです。子どもの想像力が失われないように――子どもがもっている想像力をもっと伸ばす方法をご紹介します。
想像力を伸ばす方法1:本を読む
本を読むことで想像力は培われます。書評家として活躍する豊崎由美氏は、その理由を「本には映像がないため、想像力を伸ばすことができる」と話しています。映像がないからこそ、「物語の世界をより理解するために、頭のなかで挿絵をつくって想像しようとする」のだそう。また、読書で得られる疑似体験も想像力を高めます。現実では出会えないさまざまな世界や人物を知ることで、子どもたちの想像の世界が広がるのです。
想像力を伸ばす方法2:ごっこ遊びをする
前出の坂野氏は、「ごっこ遊び」をすすめています。葉っぱをなにかに見立てたり、動物になりきったりと、ごっこ遊びには想像力を高める要素がたくさん詰まっているのです。その際、ごっこ遊びに使うおもちゃの数は少なめにしましょう。トレド大学の児童発達学研究チームによると、「おもちゃは少ないほうが、子どもはより長い時間集中して遊び、探究心や想像力を発揮しやすくなる」そうですよ。
想像力を伸ばす方法3:「イメージ会話」をする
親子の会話を工夫して、想像力を伸ばすことも可能です。たとえば、法政大学文学部心理学学科の渡辺弥生氏は、「あの雲、なにに見える?」などと問いかける、「イメージ会話」を提案しています。想像力の芽生えは、イメージすることから始まるそう。会話のコツは、保護者自身が子どものイメージの世界に入り込むこと。景色を見ながら、「あの大きな石はなにに見える?」「空から〇〇が降ってきたらどうする?」など、イメージを促す声かけを心がけてみましょう。
想像力と創造力2
子どもの「創造力」を伸ばす3つの方法
イノベーションを起こし続けた、アップル共同創業者のスティーブ・ジョブズ氏。彼の考える「創造力」とは、「一見すると関係のないように見えるさまざまな分野の疑問や課題、アイデアやひらめきを上手につなぎ合わせる力」でした。枠にとらわれない創造力を育むために、次の3つの方法を参考にしてみてください。
創造力を伸ばす方法1:芸術に触れる
ジャズピアニスト・数学者・STEAM教育者として活躍する中島さち子氏は、「五感を磨いて創造性を育むべき」と強調します。親子で美術館を訪れ、好きな作品について語り合う、楽器やダンスを習うなど、子どもが芸術に触れる機会をたくさんつくってあげましょう。実際に、コロンビア大学芸術教育センターの調査では、「芸術の授業を多く受けている生徒ほど、創造性が高い」ことが報告されていますよ。
創造力を伸ばす方法2:「落書き」する
精神科医で作家の樺沢紫苑氏、精神医学者のスリニ・ピレイ氏は、記憶力や創造力を高めるとして「落書き」をすすめています。ピレイ氏によると、落書きは「脳のリラックス状態」と「脳の集中状態」が同時に起こる動作なのだそう。真逆とも言える脳の状態が、ずっと続くわけですから脳が鍛えられるのも納得です。ホワイトボードなどを用意して、「なにを書いてもOK!」な、のびのび落書きスペースを家のどこかにつくってみてはいかがですか。
創造力を伸ばす方法3:瞑想(マインドフルネス)
エラスムス大学の研究で、「1日10分程度のマインドフルネス瞑想には創造性を高める効果がある」ことがわかっています。Googleなど大手企業も生産性向上のために瞑想を取り入れていることからも、その効力は確かと言えそうです。
精神科医で禅僧の川野泰周氏が推奨する、子ども向けマインドフルネスは以下です。ぜひ親子一緒にやってみてくださいね。
呼吸を感じる瞑想
仰向けになり、お腹の上にぬいぐるみやクッションを載せます(大きめでふわふわしたものが◎)。ぬいぐるみが上下する様子を観察しながら呼吸を繰り返します。お腹がよく見えるように、低めの枕を使うといいでしょう。呼吸のみに意識を集中します。
最後に、想像力と創造力のどちらにも必要なものがあります。それは「空白の時間」。ライフコーチのボーク重子氏の娘さんが通ったアメリカの名門小学校では「毎日20分の空想」(=空白の時間)という宿題があったそう。想像力と創造力を伸ばしたいなら、忙しすぎるスケジュールは大敵。子どもが「ぼーっとできる時間」を、1日のどこかで確保してあげてください。
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想像力も創造力も、特別な能力ではありません。たとえば、子どもが砂場で山をつくるのも、大人が冷蔵庫にある食材でパッと料理をつくるのも、想像力と創造力があるからこそ。そしてどちらの力も、心がけ次第でいくらでも高めることができるのです。
https://ikeya.tv/2021/07/hiraizumi/ 【芭蕉に学ぶ創造力と想像力。】より
中尊寺を目指し、平泉へ。
全く記憶にないが、中学校の修学旅行は東北で昼間は中尊寺や宮沢賢治記念館などを巡り、夜はソーラン節の練習と楽しかった思い出は一切ない。
中学生にとって、修学のための旅行とは名ばかりで仲間達との思い出づくりが99%を占めている。
それを夕方から夜にみっちりソーラン節の練習をさせられると、クラスの団結どころか嫌気がさしてくるものだ。
それから「東北はつまらない」というイメージが刷り込まれているのか、成人してからも東北へあまり出向いたことがない。
唯一、名前だけ覚えている中尊寺も全く記憶から消えており、「どんなところだったっけ?」とたまに記憶を探っていた。
そんな平泉も10年前にめでたく世界遺産登録。
今や東北の花形の観光地となっている。
平泉と聞くと松尾芭蕉の連想する。
実際中尊寺にも松尾芭蕉の像が立っている。
奥の細道で江戸から北陸、東北と巡った半年の旅は俳句のバイブル。
授業でもよく習う。
俳句のセンスは全くわからないが、絵か字しかない時代にたった数文で見てない人に情景を伝えると考えると凄いことだ。
もちろん、芭蕉も凄いが、それを読んで情景を思い浮かべられる当時の人の想像力もとても凄い。
僕が好んで撮っている映像も、旅をしていい風景を叙情的に切り取るいう点では、芭蕉はまさにパイオニアである。
現代に置き換えれば、絵は写真とすると、俳句はブログやポエムなどになるだろうが、当時のことを考えれば、やっぱり動画になる気がする。
時間の流れや音など、切り取った一瞬の物語を情景と一緒に言葉にする。
それを聞いて、足りていない情報を自分の頭で補完して映像として楽しむ。
そんな作り手と読み手の創造力と想像力が俳句の楽しみなんだと思う。
夏草や 兵どもが 夢の跡 –
これを聞いて何も思わないのは、技術の進化のせいか、想像力の退化か、はたまた勉強不足か。
そんなことを芭蕉パイセンの銅像に問いかけ、中尊寺を後にした。
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