感じる力

facebook船木 威徳さん投稿記事【 私が「死んだら」、「私」は終わりか? 】

私が幼稚園の年少組にいたある日、隣のクラスの友人が川に落ちて亡くなりました。

当時、私の住んでいた町には幹線道路にしかガードレールはついておらず、その友人は

新しく買ってもらった自転車に初めて乗った後に、そのまま死んでしまったのです。

幼稚園で、先生たちが暗い顔で、いきさつを話してくれたときのことをいまも憶えています。

憶えている、というより、私が知っている、(話したこともない友人なので)見たことがある

人が、急に、「この世界から消えてしまう」 というできごとをどうとらえたらいいのか、

泣いている同級生たちを見ながら、私はよくわからずにいたように想うのです。 

その後、私が成長する過程で、肉親(曾祖父や祖父、祖母)が亡くなったり、私の父と最も仲のよかった会社の同僚が(家族で自宅に行き来していました)航空機事故で亡くなったり、中学の同級生が幾人か自死したりするのを聞きながら、やはり、「『死』とはなんなのか?」

考えたり、訊いたり、話し合ったりしてきましたが、いまだにその、本質、は私にはわかりません。

大勢の人びとの死の瞬間、呼吸や心臓の動きが止まる瞬間を診てきましたが、だからといって、死の本質が理解できるわけでもありません。

科学は、生物や無生物をひたすら分解し顕微鏡でのぞくことでは、ことの本質を究明できないので、ついに、原子・分子どころか素粒子の話に行き着いています。

でも、だからといって、生命とはなにか、ましてや生とは、死とは、いったいなんなのかその「本質」を説明できているのでしょうか?

もちろん、私は人類の真理の探究に意味がないとは想いませんし、その本能といえる好奇心と、たゆみない努力が人類の生存を支えてきたと考えてはいます。

しかし、私たちの存在を、物質や物理学的なエネルギーの話「だけ」で、合理的に説明しようとすることは、永遠に不可能だと、私は考えています。

なぜなら、私に限らず、すべての人たちが持っているはずの、本能・欲求が、根本的に

説明できなくなってしまうからです。

例えば、多くの科学者は、人間を含む生物もこの地球や宇宙も、「継続」を大前提にして

いると考えています。人も「生き続ける」というその一点に向ってあらゆる体内、細胞内の

化学反応が一定の範囲内で維持されておりそこから逸脱しようものなら、たちまちのうちに

不安や痛みという「感覚」を手段に、異常を「知らせようと」します。だからこそ、病気には

症状があるのだと教えられます。

私たちが苦痛や不安、恐怖を「感じる」プロセスは、随分と物質的に解明されてきました。ですが、そもそも、なぜ、人は「生き続けたい」のでしょうか?

百歩譲って、なにもなかった原始的な世界の中で「たまたま」、アミノ酸などなんらかの

生命体の構造の「かけら」が生じたとします。それが、「たまたま」をとてつもない回数重ねたところで、感情や意思を繰り返し「自覚」できる、生命体になれるものなのでしょうか。

それも、「たまたま」最上の環境を備えた、この地球だから起こったのだと(10000歩譲って)考えているのが、いまの科学の大前提ではないでしょうか。

普通に考えれば、一部の人たちのような「死んだらすべておしまい」という考えはあまりにも奇妙なものだと気づくはずです。

「~だ」と考える実体が、脳を持った人体という個体にすぎなければ、その個体はどれだけ強く何かを願おうが、どんな信念を持とうが、生物学的な死と同時に、ただの物質のかたまりになる、というか、私たちが生きているとは「感じられない」、水とタンパク質と、脂肪のかたまりに化けるだけです。

ですが、それでも、知恵を持った人間はかえって、「いや、死ぬとしても、死ぬギリギリまで、『生きたい』と「考える」力を身につけてきたからこそ、種として生き残れたのだ」と

考えるものなのでしょう。

ですが、そうすると、もう充分に知恵を身につけているはずの人間が、他者が死ぬのを見たときに「悲しむ(哀しむ)」のはなぜなのでしょうか?死んだら終わりだと信じているなら、なぜ悲しいのでしょうか。

・・・私も高校生くらいの時から読みだした哲学や宗教関連の書物は、大学生になって急増し、それでも、よくわからないままに医師になって、さまざまな経験をして、かつ感じてきました。真実はどこにあるのか、応用科学を扱う者の端くれとして、それなりに「証拠」にもあたって調べてもきました。いまの私が至っている考えは次のようなもの。

この世界や宇宙が果たして、ビッグバンから、始まったのかどうかは、わかりません。でも、確かに、この世界のすべては、一定の法則(物理や数学など人類が変えられないもの)が支配していることを理解しています。

ただ、私がもっとも強調したいのは、そうしたあらゆる「法則」さえ及ばない「力」が、この世界や宇宙ができる以前から「あった」ということです。その「力」は、ことばで表すなら

きわめて人格的で、究極の「いのち」といえる存在だと私は考えています。

つまり、最初に究極のいのちがあって、その人格を持った存在の力が先に、存在したのです。この世のあらゆる法則や秩序、人間が「いのち」と呼ぶものは、その存在から生まれ互いにつながった存在でありながら、「私」を持ったものとして、眼に見える世界にいるのだと。

この世界のあらゆる法則も、副次的にうまれた力もまったく及ばない「力」こそ、『愛』だと、私は信じています。

『愛』である、究極の「いのち」から、生命が生まれたのであって、偶然の積み重ねで

私が存在するのでは決してない、のです。

そして、その本質が『愛』であり、『愛』そのものという力が生み出した「いのち」を持つ人間はさまざまな力、能力を備えています。

もちろん学習能力も重要なひとつですが、私は、人間の持つ最高レベルの力こそ、『感じる』力だと考えるのです。

見る、聴くの五感だけではなく、腹の底で『 感じる 』ことができる力。

もし、愛を感じるとするならば、そこで感じているはずです。でもそれは、胃とか腸管と

いうような眼に見える場所ではないです。私たち自身であって、物理的な人体内ではない、見えないけれど、その見えない世界にあっては、私たちと一致しているところ。

現世界の私たちには見えない世界で、ひとりひとりであるのが、その個々人の魂だと想うのです。もちろん、魂は、この現世界の身体(タンパク質や脂肪のかたまり)が失せたところで、消えません。

その魂を見ることはできなくても、私たちは感じることができます。でも私たちは、どうしても見えるに重点を置いて生きているので、「見えなくなる」と不安だし、悲しい。

それは不完全で、自分の魂さえ「観る」ことができない私たちでさえも、不完全ながら、『 愛する 』ことができるからです。

その愛する人が、この現世界を去ってしまう。それ以上の悲しみはないでしょう。

ですが、それでも私たちは、「感じる」ことができることも経験しているはずです。

たとえ見えなくなった家族や友人、先生であっても、その魂を「感じる」ことができるのを。

亡くなった人たちを想い出すだけではなく、逢ったこともない著者の本や音楽、文学など

芸術作品を通じても、とんでもなく多くのことを学ぶというより、感じられるのです。

年が明けてから、私が、朝や寝る前のぼんやりした時間にいろいろ感じていることの

共通のテーマが「死」でした。毎日のように、私は「死」について考えているというより、

感じています。それが、不思議なほど、おだやかで、楽しく、幸せな時間なのです。

あるいは、もしかすると、私が昨年末から心がけるようにしていることが関係するのかも

知れません。それは、「私を愛する」ということ。

『 魂 』を含めた私自身をイメージし、もっと知りたい、教えてほしいと「対話する」ことです。そのなかで、ちょうど今朝、私がふと感じたのは、「だれかが死んでしまって悲しいのは『本当に畏れるべきこと、畏れるべき存在』を憶えておくためだよ」ということでした。

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「 しんでくれた 」 詩・谷川俊太郎

うし しんでくれた ぼくのために そいではんばーぐになった ありがとう うし

ほんとはね ぶたもしんでくれてる にわとりも それからいわしやさんまやさけやあさりや

いっぱいしんでくれてる ぼくはしんでやれない だれもぼくをたべないから

それに もししんだら おかあさんがなく おとうさんがなく おばあちゃんも いもうとも

だからぼくはいきる うしのぶん ぶたのぶん しんでくれたいきもののぶん

ぜんぶ(『ぼくは ぼく』(谷川俊太郎・童話屋)より)

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私がときどき観る動画(映画)を挙げます。アカデミー賞短編アニメ賞を受賞したほか

世界中で評価されている作品です。日本では「岸辺のふたり」として絵本(絶版)に

なっています。こちらもすばらしい。

https://youtu.be/CvA4Gn5OudI?si=f8i9IjRbvcd9IHac

(ふなきたけのり・百姓医者 2025/01/10)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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