https://okiron.net/archives/368 【【インタビュー】宮本亜門さんと沖縄【上】
松原 耕二】より
世界を舞台に活躍する演出家、宮本亜門さん。その亜門さんが沖縄を舞台に映画を撮り、自宅を建てて東京と行ったり来たりの生活をするなど、沖縄と深く関わっていることはよく知られている。ところが沖縄の家を売りに出すことに決めた亜門さん、そこにはどんな思いがあるのか。2018年(1月4日)に還暦を迎える宮本亜門さんに、沖縄への思いを聞いた。【聞き手=松原耕二】
沖縄との出会いは音楽
松原)亜門さんが2004年にブロードウェイでミュージカル「太平洋序曲」を演出されたとき、私はTBSのニューヨーク駐在員。それからのおつきあいですが、きょうは改めてじっくりお話を伺いたいと思います。まず、沖縄との出会いを聞かせてもらえますか?
亜門)最初は1993年、ネスカフェのCMの撮影でした。「沖縄に惚れて、一息つく」という設定だったのですが、沖縄に行ったこともない自分がその役割を「演じる」ことに、どこか後ろめたい気持ちがありました。でも、このごく短期間のホテル滞在時に、琉球音楽や人々に触れ、一瞬で沖縄に惚れ込んでしまいました。ここには、ホッとする安らぎがあり、音楽には天上界にいるような旋律に聞こえたんです。これ、日本じゃないなと。最初はそこに興味を持ったんです。
松原)日本じゃない?
亜門)うん。全く違う、異国の感覚があって。それがきっかけで、もっとちゃんと知りたいと思って、自分で旅行したんです。37歳のときでした。実はそのころ、仕事で息苦しさを感じていました。29歳で演出家になって、いろんな舞台もやれるようになって、どんどん忙しくなりました。その反動からか、スケジュールが埋まっていることだけがいいと思わなくなってきていて……。そんな思いも抱えながら、音楽をきっかけに惹かれていた沖縄に通うようになりました。
いきなり浴びた洗礼
亜門)沖縄本島中部の西海岸に面した読谷村で、ふらっと不動産屋さんを訪ねたことがあります。軽い気持ちで「このへんの海の近くで借りられる家はありますか」と尋ねたら、「ヤマトンチューに貸す家、土地なんてないよ」とバシっと言われたんです。それ以上、何も口をきいてくれなくて……。
松原)それって、亜門さんと分かっててですか。
亜門)分かっていません。顔見ないで言われたんです。僕のしゃべりはヤマトンチューだから。「うわ、こわいところだなー」と。そのときは、まだ真剣に家を探しに来たわけじゃなく、ちょっと言ってみただけ、だったのですが。今思い起こすと、読谷村内にある米軍施設「楚辺通信所」(通称・象のオリ)の賃借契約期限切れ問題(*注)の渦中で、村内はピリピリしていた時期だったのだと思います。当時はそのことに十分考えが及ばず、「これは、生半可な所じゃないな」と受け止めました。
でも、あちこちドライブしていると、人は優しいし、市場のおばさんたちは、「あんた、違い分かるんだって」って。だったら、野菜あげるよ、みたいな感じで会話が進んで、めちゃめちゃ親しみがある。
松原)ネスカフェの「違いがわかる男」のCM見てたんですね(笑)。
勝手に憧れていればいい
亜門)親しみがあるんだけど、ときどきビシッと言われる。どういう風に接したらいいんだろう、と思わざるを得ない経験が何度かありました。那覇市内で仮住まいをしていた時期に、市内で開催されたシンポジウムに請われて出席しました。4人のパネリストの中でヤマトンチューは僕だけ。その席で僕は「沖縄はとても素晴らしいと思ってて、僕はとても興味があるんです」って話したら、「ヤマトンチューの話すことは、それでいいんだけど」って一喝されたことがあったんですよ。
松原)それ、どういう意味だったんですか?
亜門)まあ、勝手に憧れていればいいって。
松原)(苦笑)
亜門)僕は別に、おべんちゃらを言ったわけではなくて、本音を話したんです。それがすごい、なんかこう、みんなの前で、あんな言い方をされたのは初めてで、あまりにもショックでした。
家を建てて住み始めてからは、こんな経験もしました。近所の人たちと集まって雑談しているさなか、地元女性が被害に遭った凶悪事件の容疑者がヤマトンチュー男性だったという情報が入ったんです。そのとき、さっきまで楽しく話していた地元の人が、僕のいる前で「やっぱり、ヤマトンチューのすることさ」と言ったんです。やっぱり、皆さんそう思っているんだなと。正直言うと、すごい悔しいというか……自分の勝手な片思いだったんだなって。彼らも僕のことを愛し、認めてくれていると思うけど、やっぱり心の奥を探ると、こういう言葉が出てくるんだと。それほど根深い何かがあるんだということを思い始めて、これはもう、僕なんかが解決できない根深い歴史があるんじゃないかと。沖縄とヤマトの関係の過去を知れば知るほど、沖縄の人々がそういう気持ちになるのも分からないではない、と思うようになりました。ある意味では愛憎関係なんですが……。
こういう経験をして僕は、沖縄の人になりたいって言わなくなりました。こんな素晴らしいところで暮らしている沖縄の人々はうらやましいという思いはありますが、自分はヤマトンチューで、琉球王国にさかのぼる苦難の歴史を全部理解することはきっとできないんだろうと。でも、少しでも分かり合えればとも思いました。そのためにできることはやろうと思って飛び込むことにしたんです。
「幸せのモノサシ」が違う
松原)沖縄社会に身を置いて、居心地は悪くなかったですか。
亜門)ある意味で、僕にとっては居心地がいい緊張感でした。ニューヨークでもロンドンでも海外に滞在していると、必ず差別意識や価値観の違いにぶつかりますから、自分の中ではかなり訓練されています。だから、ここ(沖縄)は外国だと思えば、それは当然。でも、沖縄は同じ日本なんです。何でなの? という気持ちも当然わきます。しかし、そのうち同じだと思う自分が本土の価値観を押し付けているんじゃないかと考えるようになりました。あまりにも異なる長い歴史を歩んできたからです。
沖縄戦の戦跡が数多く残る沖縄本島南部を初めてドライブしたときは、不思議な感覚に襲われました。過去と現代の分離感、とでも言うのかな。なんか時々ぞっと身体が震えるんだけど、ホッとする。この両方があったんだけど、南城市の玉城(たまぐすく)あたりに来たとき、素晴らしい自然に接してなんかちょっと楽になったんですね。
松原)亜門さんが後に家を建てることになる場所ですね。
亜門)そうです。でも、読谷村の不動産業者から浴びた厳しい言葉もそうですが、戦争のリアルな傷あとが残る土地で感じるある種の恐怖感も、僕にとっては必要だと思いました。舞台を作っていくうえで、人間の本質はなんぞやいうことに興味があるからでしょう。いろんなものを全部含めて、知っておきたいという思いもありました。
僕は沖縄の自然も、人も、食べ物も好きなんだけど、リゾート感覚でただゆったりくつろぎたいと思ったから住んだわけではないんです。やっぱり、東京にいて、一面的なものの見方しかできてないじゃないかと。裸の王様になるのが嫌だというのがずーっとあって。沖縄は最も近いところで最も違う国のようなものに僕は思えたんです。沖縄の人たちと東京で生きてきた自分とは価値観というか、「幸せのモノサシ」が違うと感じました。お金や地位や名誉、社会的な肩書といった価値観ではなく……うまく言えないんですが、例えば、島にふうーと風が吹く。すると、ごく自然に「この風、気持ちいいねー」という会話をおばあさんたちと交わすんです。いま生きていることの、どこを幸せと感じるか。その感度のセンスが、どうも違うような気がしてきたんですよね。沖縄で彼らと穏やかにしゃべっているときの喜び。あの自然と近い人間本来の感覚は、東京で味わったことはないです。
松原)最初に読谷村で「ヤマトンチューに貸す家、土地なんてないよ」と言われたけど、亜門さんは結局、沖縄に移住しましたね。沖縄の人たちに、受け入れられたなと思うときはありましたか。
亜門)受け入れられたと思ったことは正直ありません。僕もそこに期待していなかったから。「亜門さんは沖縄に溶け込んで幸せにやっていますよね」ってよく言われたけど、冗談言い合ったり、一緒にカチャーシーを踊ったりするのは最高だけど、沖縄の人と完全に一緒になろうとか、なれるとは思っていません。これは沖縄を否定するというのではないんです。
<【下】に続く。>
(*注)楚辺通信所の賃借契約期限切れ問題…1995年、一部の地主が賃借契約の更新を拒否。当時の大田昌秀知事も土地強制使用の代理署名を拒否したことで、一時的に日本政府による不法占拠状態になった。同施設は現在、返還されている。
【宮本亜門さん略歴】
1958年 東京・銀座生まれ。ミュージカル、ストレートプレイ、オペラ、歌舞伎等、ジャンルを越える演出家として国内外で幅広い作品を手がけている。2004年 ニューヨーク、オン・ブロードウェイにて、ミュージカル「太平洋序曲」を東洋人初のブロードウェイ演出家として手がけ、同作はトニー賞4部門でノミネートされた。2018年3月にフランスのラン国立歌劇場で三島由紀夫原作、黛敏郎作曲のオペラ「金閣寺」を上演予定。
https://okiron.net/archives/372 【【インタビュー】宮本亜門さんと沖縄【下】】より
あらゆる時代と空間が交錯
松原)亜門さんが監督を務めた「BEAT」という映画は98年公開ですね。沖縄を撮ろうというのはプロデューサーが決めたんですか? 亜門さん自身が決めたんですか?
亜門)舞台も設定も僕が決めました。プロデューサーから「映画を撮らないか」という話をいただいた時点で、「沖縄にすごく興味があります」とアピールしました。又吉栄喜さんが「豚の報い」で芥川賞を受賞して間もない時期でしたが、すごく面白かったんですね。南米の小説みたいな、我々が現実と思っていることが実は非現実ではないのか、そんな見えない世界と結びつく世界に触発されました。それで僕の中では、やっぱり沖縄って、現実なのか、幻想なのかわからない世界というか。もしかしたら何十年前、何百年前の過去と、目の前にあるいろんなものが交じり合っている、あらゆる時代と空間が交差しているようなイメージが定着していきました。
松原)かつての戦争も、眼前の基地や音楽も、そこで暮らす人々も重層的で、ひだがいっぱいあるみたいな感じですかね。
亜門)そう。祖先崇拝もアニミズムもそうだし、あらゆるものが生きている、過去のものとして終わっていない。そんな複雑さも含めて映画で表現したいと思ったわけです。
100人のウチナーンチュに話を聞いた
松原)映画「BEAT」の舞台は、1960年代のアメリカ統治下、しかもベトナム戦争の影響を受けている沖縄です。そこでウチナーンチュとヤマトンチュー、アメリカ兵、そして不思議な力を持った少年が関わり合いをもっていく。まさに沖縄の様々な表情を盛り込もうとした作品でしたが、当時の沖縄の空気は僕らにはなかなか肌で感じ取ることはできませんよね。
亜門)それで100人くらいのウチナーンチュに話を聞きました。
松原)そのときにかなり沖縄の歴史を学んだわけですね。
亜門)60年代のベトナム戦争真っただ中の混沌とした時代に、沖縄の人々が抱いた複雑な思いに触れました。アメリカ兵の親友がたくさんいたと涙ぐむ人や、俺は本当にあのアメリカ兵のジョーンが大好きだったんだ、でも帰ってこなかったんだと泣くおじさんもいました。沖縄の人を憎んでいる、と明かす沖縄の人もいました。
松原)え、沖縄の人が、沖縄の人を憎んでる?
亜門)ベトナムで戦死した兵士の遺体処理を仕事にしていた元基地従業員の女性です。人間は生きてるうちは国籍があるけど、遺体になっても「国の死体」として扱われる根源的意味を探りたいと思いました。そのことを彼女に問うと、「私は、人間は全部同じだと思う」と答えてくれました。だから、手足がちぎれてバラバラに送られてくる遺体も、なるべく元の姿に近づけるよう手当てしたんだと。決して気持ちのいい仕事ではないけど、同じ人間だからね、と本当に愛情を持って従事していた。その人が「沖縄の人を憎んでいる」というのは、そうした仕事に携わる彼女に対して周囲の沖縄の人々の視線はとても冷たかった、理解してもらえなかったという記憶があるからです。「アメリカ軍のために、そんなことまでやって」と変人扱いされ、そんな仕事はやめろとさんざん言われた、というんです。
沖縄の感覚を東京では共有できない
松原)沖縄の人もそれぞれ異なる価値観や立場、歴史を抱えて生きているんだということが見えてきたんですね。
亜門)そうなんです。もう、絶対結論は出せないと。僕は演劇をやっているから、全員が善と悪の両面を併せ持つという認識がもともとあるんですが。
松原)今の話を伺っていると、ドキュメンタリー番組「フェンス」を制作したときの僕の思いと重なりました。基地の中にいるアメリカ兵も、「基地反対派」と言われる人々も含め、沖縄で老若男女さまざまな人の話を聞いて番組を作ったんです。だから、今の沖縄に関する報道を見ていると、みんな基地に怒っているという感じで。それは一面本当だけど、ものすごく単色に映っています。亜門さんにはどう見えていますか?
亜門)マスコミは単色にしたいんじゃないんですか。記事としてはそのほうが書きやすいから。ただ、本土マスコミが沖縄の基地被害をどう取り上げようと、沖縄と本土の間にズレや誤解は払しょくできないと思います。基地や戦争に対する感覚は、沖縄と東京では全く異なります。米軍基地のない南城市で暮らしていても、軍用機が日常的に上空を飛来します。もうすぐ戦争が始まるのかな、という漠然とした不安な思いや、軍事や戦争が常に身近にある生活空間を、東京の人たちに実感させるのはかなり難しいでしょう。
自民党大会で「辺野古反対」を叫ぶ
松原)宜野湾市の米軍普天間基地の代替施設を造るため、名護市辺野古の埋め立てが進んでいます。普天間・辺野古問題について亜門さんはどのように考えていますか?
亜門)小泉純一郎さんが首相だったとき、自民党の党大会に招かれました。小泉さんはブロードウェイで僕が「太平洋序曲」を上演するとき、応援していただき、親交があったんです。
党大会に出席するに当たっては、「僕は国民代表でも何でもありませんよ」と事前に断ったんです。そうしたら小泉さんは「いや、亜門さん、好きなこと言ってくれればいいんですよ」って背中を押すんです。だから僕は、大会のあいさつで「辺野古移設には反対です」っていきなり宣言しちゃったんです。そうしたら、ヤジが飛び交うような状況になってしまい……。僕はヤジを飛ばされたの初めてだったんですが、あのときは負けるどころか、もっと強く自分の思いを語っている自分に驚きました。思いが強いと、ヤジはかえってエネルギーを与えてくれるんですね。「今日は、小泉首相に言いたいことを話してよいと言われたので、自分の思いの丈を言わせていただきます。辺野古の海は何とかそのままにしてください。皆さんに期待しています!」と続けたんです。数時間後に怖くなって身震いしたのを覚えています。
松原)そんなことがあったんですか。沖縄の自然や風土に対する亜門さんの思いは、南城市に家を持つことになった経緯からも浮かびますね。南城市の家の話に戻りますが、東京や世界中で仕事をする機会が多い亜門さんが沖縄に家を持っても、結局沖縄に帰る時間を十分確保できなかった、ということなんですか?
亜門)最初はね、もっと帰ると思っていたんですよ。意地でも1年の半分は帰ろうと思っていた。ヨーロッパ的というわけじゃないけど、年に半分くらいは仕事をして、半分は少し落ち着いてっていう生き方を描いていたら、やっぱり日本ではそういうことはまだできなかった。
松原)なるほど(笑)。でも、そもそもなぜ沖縄に家を建てようと思ったんですか?
亜門)あの当時の「家」に対する感覚が、ちょっとうまく表せないんだけど、家だと思ってないんですよ。建築家と土地を探しているときに、御嶽とか、お墓とか、沖縄のいろんな「祈りの場所」に出会ったんです。僕は沖縄のこうした精神性にやられちゃったんですね。家を建てるときに地鎮祭を催してもらったんですが、神事が一通り終わったタイミングで、夕日がバーッと見えて、あーきれいな夕陽だなって感動していたとき、地鎮祭に招待していた版画家の地元アーチスト、名嘉睦稔さんがこう言ったんです。「ここに土地を買ったと思わないでね」って。土地を買ったばかりで、これからまさに家を建てようとしているのに……。
睦稔さんが言いたかったのは、ここは地球の土地だから、ということだったんです。亜門さんの肉体もいつか朽ちるでしょう、この家も朽ちるからね。一時的に借りているだけだから、と。はぁーと思って。睦稔という人はそういう考え方を持っているんですけど、これこそ、僕が一番求めているものだと衝撃を受けたんです。そんなことがあって、違う視点でものを見るようになりました。自然とか、地球とか、そっちのほうから人間を見るような感覚って、自分自身の存在を違う視点から教えてくれているようで、とても幸せになれるんです。
マスコミが乗せられると本質を失う
松原)南城市のお家からは、沖縄戦の激戦地「摩文仁の丘」が正面に見えますね。どんな思いだったんですか?
亜門)僕はやっぱり、あの家も「祈りの場所」だと思っていましたね。摩文仁の丘が正面に見えるというのは、完全に意味がある、聖なる場所というか。人間の内面の美醜や、自然の怖さと美しさ、そうした両極が渦巻いている場所なんだと今も思っています。
松原)今の本土と沖縄の関係ってどう見えますか? いわゆる「沖縄ヘイト」もネットなどで飛び交っています。「基地に反対している人たちは、みんな日当をもらっている活動家なんだ」とか。もう全然事実と違うことが飛び交っているわけですよね。そういう空気みたいなものは東京で何か感じますか?
亜門)そういう人たちは、沖縄だけでなく、韓国や中国に対しても同様だと思いますが、ヘイトの対象を探して、ヘイトを発信することが自分たちの権限だと勘違いしているのではないでしょうか。自分自身への苛立ちをぶつける敵を作り出すことによって、自分こそが正しいと思いたい。これは不安な状況に置かれた人がよく起こすことと同じです。確かに増えている印象はありますね。ただ、そういうほんの一部の人たちがSNSに書くことが多く、目立って見えるだけで、一般の人たちやマスコミがそれに乗せられると、つい本質を失いがちになります。僕は実際、沖縄を嫌う人たちが急増しているとは全く思いません。
「基地だけの沖縄」に抗え
松原)亜門さんは、この時期に家を売って沖縄を去ろうとしています。これはどうしてですか?
亜門)これは一言でいえば年齢の問題です。いよいよこれから還暦になるということもあるんだけど、少なくともあと10年間以上、世界中のさまざまな場所に出かけていろいろな人たちと交流して、創作活動を続けていくことを自分に課しています。10代からそう夢見てきたこともあって、時間が足りない、それだけです。なので、家を大切にしてくれる方に譲ったほうが良いかと。
松原)これから沖縄とはどういう風につきあっていきますか?
亜門)沖縄は僕の心のふるさとですね。場所のふるさとというよりも。時折訪ねて、祈らせてもらって、原点に戻って生きることを感謝させてもらう場所。そして、沖縄は僕にとって永遠に必要な場所です。だから、別れだとは思っていません。沖縄の根源的な原始信仰、自然とか、幸せの視点とか、いろいろ教わった気がしています。僕は東京の都会に生まれたので、沖縄で観たり経験したりしたことは、それまでの人生で全く感じ得なかったことでした。沖縄で感じて得たものを胸に抱き、それを旅の友とし、これからも創作活動を続けたいと思っています。
沖縄には日本の文化の原点が残っていると思います。「異国」の人たちとの接し方も学ぶべきことが多い。沖縄にはこれから生きるヒントが山のようにあると思うんです。だけど、こうした沖縄の魅力を沖縄の人たちが積極的にアピールしない限り、「基地だけの沖縄」になってしまうと危惧しています。基地を押し付けてきた責任はヤマトの側にあり、僕もその一員です。沖縄の基地削減にもっと意識を向けなければいけないと考えています。そのうえで、沖縄の若い人たちには、沖縄本来の良さを見失わず、「幸せのモノサシ」をしっかり守り育ててもらいたいと願っています。(了)
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