https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%B8%82%E7%94%BA%E6%9D%91%E6%97%97%E4%B8%80%E8%A6%A7 【沖縄県の市町村旗一覧】より
沖縄県の市町村旗一覧(おきなわけんのしちょうそんきいちらん)は、沖縄県内の市町村に制定されている、あるいは制定されていた市町村旗の一覧である。なお、一覧の順序は全国地方公共団体コード順による。廃止された市町村旗は廃止日から順に掲載している。
概要
沖縄県の自治体では旗を制定している自治体が多く、特に市部では全自治体が制定されている。[1]制定されている旗の色には青色(那覇市[2]・宜野湾市[3]・石垣市など[3])と紫色(糸満市[4]・沖縄市[5]・島尻郡八重瀬町[6])が指定されている自治体が大半を占める。
https://okimu.jp/museum/column/099/ 【沖縄の旗を巡る】より
図1 沖縄県旗写真1 与那国の龕(がん)
図1は沖縄県章及び沖縄県旗で、1972年日の本土復帰にともない制定されました。では、1972年以前、つまり復帰前のアメリカ統治下の沖縄にはこのような県旗の様なものはあったのでしょうか。 本土復帰前、つまりアメリカ統治下の沖縄はというと、1945年の米軍上陸から軍による占領統治が行われ、1950年12月には琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー;United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)に統治が替わって本土復帰まで行われていました。
その統治のもと名ばかりの住民自治政府が発足し、沖縄諮詢会(しじゅんかい)(1945年)→沖縄民政府(1946年)→琉球政府(1952年)へと移り変わっていきました。
図2 幻となった沖縄旗
このような中、1950年1月に沖縄民政府が「沖縄を象徴する旗」を定めようと、美術家協会にデザイン委嘱して、青・白・赤の三色を配し左上に白い明星をつけ採択しました。そして、当時の志喜屋孝信知事が「琉球の旗」とすると発表しましたが、住民がまったく関心を示さなかったため、立ち消えになってしまいました(図2)。
図3 琉球船舶旗(変形デルタ旗)
一方、米国民政府は1952年2月27日布令65号において、国際信号旗のD(デルタ)旗の端を三角に切り落としたものを「琉球船舶旗」に決定し、船舶の掲揚を義務付けました(図3)。
それは、国際法で通常、公海を航行する船舶は常時国旗を掲げることになっていたためです。アメリカ統治下の沖縄の国際法上の地位は不安定で、星条旗(アメリカ合衆国の国旗)も日章旗(日本の国旗)も掲げることができなったからです。
ところが、1962年フィリピンの南東にあるインドネシア領のモロタイ島北方海域で操業中のマグロ漁船「球陽丸」が国籍不明を理由にインドネシア海軍機から銃撃をうけて4人の死傷者を出すという事件が起こりました。(球陽丸事件)
この事件を契機に船舶の日の丸掲揚が政治問題化し、立法院決議を受けて政府も佐藤・ジョンソン会談にて問題提起しました。その結果、日米協議委員会で討議され、琉球(RYUKYUS)の文字が入った三角旗付日の丸を船舶に掲揚することができるようになりました。(1967年)
図4 高等弁務官旗
また、1957年に米国民政府においても民政長官・副長官制が廃止され、高等弁務官が置かれるようになると、その高等弁務官室に鷲の回りにThe High Commissioner of The Ryukyu Islandsという文字が刻まれた紋章の高等弁務官旗が掲げられていました(図4)。
今年で戦後70年を迎える沖縄ですが、このように旗を巡る歴史が存在したということです。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/002517720110803006.htm 【第177回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第6号(平成23年8月3日(水曜日))】より抜粋
リーマン・ショック以来、子供の貧困という言葉がマスコミで取り上げられるようになり、この言葉を初めて聞いたとき、私は大変ショックを受けました。なぜなら、貧困は大人の問題であり、個人の責任だと思っていたからです。
社会は家族に侵入するということをフランスの社会学者が言っておりますが、社会の制度や考え方、物などは家庭にいや応なく入り込み、さまざまな影響を与え、家族の形にも機能にも変化を促すと述べております。
さて、戦後六十六年間の沖縄社会を振り返ってみたとき、果たして沖縄社会はどのような社会であったのか、そしてそれは家庭に、子供たちにどのような影響を与えてきたのかを子供の視点から考えてみたいと思います。
沖縄は、さきの大戦で唯一地上戦となり、多くの県民が戦闘に巻き込まれ命を落とし、そしてすべて焼き払われました。生き残った県民は仮収容所に集められ、アメリカに統治されることになりました。この焦土と化したゼロからの出発と異民族統治という二つの要因が、まさに沖縄の子供の貧困の出発点ではなかったかと思います。
特に、異民族支配の二十七年間は、子供たちにとっては空白の二十七年と言われ、教育、福祉面に大きなおくれを生じました。例えば、教育においては、戦後数年たっても、沖縄を統治していたアメリカにも琉球政府にも校舎の復興計画はなく、学校とは名ばかりで、馬小屋にも劣ると言われるほどでした。この状況を、昭和二十七年に発足した教職員会が本土政府と全国民に訴えて、ようやく校舎建築がなされました。
また、沖縄の児童福祉法は、本土におくれること六年、昭和二十八年に制定され、翌年、児童相談所が設置されました。しかし、設立当初から、窃盗や強盗、すり、忍び込み等が圧倒的に多く、忍び込みとは米軍基地への忍び込みで、成功すると盗んだ物資は戦果と称され、特に子供は、体が小さく見つかりにくいために重宝されたようです。
また、捨て子や家出児童、浮浪児等も後を絶たず、しかし、そのような子供たちを預かる養護施設は、復帰まで二カ所しかありませんでした。また、保育所も、昭和三十八年まで公立保育所は一カ所もなく、幾ら琉球政府に訴えても予算がないということで建ててもらえず、これも本土政府に訴えて、やっと翌年から公立保育所が設置されました。そのころ本土では、公立保育所五千カ所、私立保育所五千カ所、計一万カ所の保育所が設立されていたということです。この公立保育所設置のおくれが、沖縄の認可外保育所の誕生に拍車をかけたものと思われます。
それから、異民族支配の二十七年間の沖縄社会は、広大な土地を米軍にとられ、相次ぐ米軍の事件、事故等に翻弄されてきました。昭和三十年九月に、六歳の少女が米兵に暴行され、部隊のちり捨て場に遺棄された事件、昭和三十四年六月の、宮森小学校に米軍のジェット機が墜落し、児童十一名を含む十七名が死亡した事故、昭和四十年、読谷の民家に米軍の小型トレーラーが空から落下し、小学五年の少女が圧殺された事故等、枚挙にいとまがないほどです。そのため、大人たちは核抜き本土並みを訴え、祖国復帰運動に邁進してまいりました。
そして、昭和四十七年五月十五日、県民悲願の本土復帰がなされました。復帰により飛躍的な経済成長を遂げ、本土並みの豊かな安定した生活ができるのではないかと多くの県民が期待した夢は、無残にも打ち砕かれました。依然として米軍基地の七五%は沖縄に集中し、米兵による犯罪は後を絶たず、県民はまた基地問題に翻弄されるようになりました。
本土復帰後、二十七年の格差是正のため、沖縄振興開発計画が策定され、多くの資金が投入されてきました。しかし、失業率は全国の二倍近くあり、県民所得も最下位で、しかもその状態が何年も続いてきております。まさに貧困社会でありますが、その貧困社会は何に影響を及ぼすのでしょうか。
それは家庭であり、貧困が家庭を直撃し、家庭を崩壊させてきました。沖縄は、御存じのように、昭和六十年以降、離婚率が全国一となっております。離婚の原因を平成十年に県が調査しておりますが、大半が、元夫が生活費を入れない、借金があるなど、経済的理由で離婚をしております。
そのような中で、夜働かざるを得ない親もおり、しかし、夜乳幼児を預かる夜間保育所は三カ所しかなく、学童を預かる夜間学童保育所は一カ所もありません。そのため、夜子供たちだけ置いて働かなければならない状況が生まれ、それが児童虐待のネグレクトにつながり、そして夜親がいない寂しさから子供たちは深夜徘回し非行へとつながっていくというのが、沖縄の典型的な少年非行のパターンであります。
今や沖縄の少年非行は深刻な状況にあり、二〇一〇年の県警の調査によれば、深夜徘回は三万四千件で全国平均の二・九倍、飲酒は七倍、怠学は六・二倍で、いずれも全国ワーストであります。また、少年らによる集団暴行死亡事件も一九九二年から後を絶たず、犯罪少年の共犯者率、再犯者率も全国に比べて高い数字を示しております。
このように見てくると、沖縄の子供たちの問題は、明らかに貧困が背景にあり、その貧困を長年放置してきた結果ではないかと思われます。また、沖縄の貧困は構造的につくられた問題であり、さきの大戦で唯一地上戦を経験し、ゼロからの出発で、しかもその後二十七年間も米国に統治されていたということ、そして、広大な土地を米軍に奪われ、県民は狭隘な土地で第三次産業に従事するしかなく、失業率は全国一であり、それが離婚率につながり子供の貧困につながっていったということになります。
それと、あと一つ重要なことは、本県では、子供が虐待や集団暴行死亡事件で命を落としマスコミで大々的に報じられても、それは決して社会問題にはならないということです。なぜなら、沖縄にはそれ以上の大きな社会問題、つまり基地問題があるからです。
戦後、沖縄県民は、基地の弊害と軍事的緊張状態に苦しみ、基地撤去を何十年も訴え続け、基地問題に振り回されてきている間に、沖縄の一番の宝である子供の問題を後回しにしてきたということではないかと思います。
戦後六十六年間の沖縄社会の貧困は明らかに基地あるがゆえの構造的につくられた問題であり、貧困から派生するさまざまな親の問題が子供たちへとつながり、さらに貧困の世代間連鎖が確実に進んでいると言っても過言ではありません。
今、私たちは、この負の連鎖を断ち切り、出生率全国一の沖縄の子供たちの未来を切り開いていく責務があるのではないかと思います。そのためには、今回の振興計画の中にぜひ沖縄子ども振興計画を入れ、すべての子供たちの明るい未来をつくってほしいと切に希望いたします。そして、振興予算の中のせめて一割、いや、一割じゃなくてもいいです、一%でもいいですので、その一%をぜひ沖縄の子供たちの福祉の基盤整備に使わせていただければと思っております。よろしくお願いします。
どうもありがとうございました。(拍手)
○伊東委員長代理 ありがとうございました。
以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。
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○伊東委員長代理 これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑の申し出がありますので、順次これを許します。瑞慶覧長敏君。
○瑞慶覧委員 民主党の瑞慶覧長敏です。
本日は、四人の参考人の皆様に貴重な御提言をいただきました。ありがとうございます。
私の方からは、四人の皆様にそれぞれ一問ずつ質問をいたします。一気に四人の方に質問いたしますので、その後、皆さんの方でそれぞれお答えをいただきたいと思います。
まずは、仲井眞知事への質問でございます。
一九七二年五月に沖縄が本土に復帰して以来、四十年たっています。その間、現行の新振計まで、国は、沖縄関係予算とプラス防衛関係まで合わせると、大体十五兆一千億円の予算を沖縄に投じております。これが多いか少ないかは別の議論でございます。決してこれが突出しているわけではないです。一人当たり県民所得にこの予算を換算すると、沖縄県は全国でも大体八位ぐらいだという計算も出ていますので。ただ、御案内のとおり、県民所得は全国の都道府県の中でもまだ最下位。先ほど知事もおっしゃっていたように、背中は見えているということだったんですけれども。それから、失業率も七・五%前後です。県民の生活向上には必ずしも結びついていないんじゃないかなと思っております。
では、なぜこうなのか、知事の御所見をお伺いしたい。そして、この新しい振興策を県民生活向上にどのように結びつけていくのか、一括交付金等も絡めて、知事のお考えをお聞かせいただきたい。
続いて、知念榮治会長にお伺いいたします。
先月沖縄で、国際物流拠点をどのようにつくっていくかという勉強会を開きました。その中で、先ほど榮治会長も製造業が非常に厳しいとおっしゃっていましたが、製造業の方が、しかしそうはいっても、沖縄の地政的優位性、若い人材が確保できる、東アジアに近い、そういったものを生産活動に資すれば十分勝負ができるということを訴えておりました。ただ、そのためには国が、せめて三年間ぐらいでもいいから、税制面優遇措置、規制緩和、輸送コストの低減など、そういう支援をしてくれればということでした。
今御紹介した製造業者の方の国への注文等についてどのようにお考えなのか、御所見をお聞かせください。
それから、我部政明先生には、沖縄の安全保障に関してですけれども、違った視点で、では、米軍基地が存在したおかげで沖縄の県民の生活にどのような影響を今まで与え続けたのか、米軍基地というのは今後どうあるべきかというのをお聞かせください。
最後に、山内優子先生には、子供の貧困のことを訴えておられました。先生の資料の中、私は手に入れたのですけれども、行政も政治家も基地問題に振り回され、子供たちが悲鳴を上げ続けていたのに抜本的な手だてを講じてこなかったという一文もございます。ただ、それを考えると、そういう厳しい中ででも沖縄の子供たちというのは頑張ってきたんだなと。甲子園にしても春夏連覇をやっておりますし、それから文化面といった面も含めて、今後、先生のおっしゃっているような、一%という遠慮がちなことだったんですけれども、沖縄の子供たちの未来といいますか可能性、先生の夢が実現できれば日本にどのぐらい貢献できるのか、そこら辺を語っていただきたいと思います。
以上、よろしくお願いいたします。
○仲井眞参考人 瑞慶覧議員からの御質問にお答えさせていただきます。
御質問に直ちに明快に答弁ができるより大きな問題を含んでおりますので、簡単にしか申し上げられませんけれども、確かに生活の向上というのは、いろいろな見方がありますが、私は、この四十年間、政府はよくやってくれたと実は思っております。
そういう中で、社会資本の整備、いろいろな制度を整えるなどなどやっていただきましたけれども、まだまだ島々の生活や教育とか介護とか文化、芸能、さらには農業を含む産業、それからごみ処理に至るまで、特に島々については、縦割りの行政の仕組みをそのまま入れただけではなかなか解決しにくい。島によってプライオリティーも違う。したがって、やはり一括交付金的な使い勝手のいいお金を流していただくのが一番いいと私は思っております。
これから先は、やはり子育て、教育、文化、そして今申し上げた島々の包括的な生活の向上、人口増政策、あとは、無論、それぞれの島における農業や観光を中心とした産業の振興、みずから働いて生活水準を上げるというのが当然のことでございます。
しかし、その中で、これまでの国からの資金の流れではひもがつき過ぎていて融通がきかない、その地域地域に応じたプライオリティー、期間のつけ方などなど、可能な限り自由度の高いものをお願いしたい。そして、政策の策定と実行を、東京で二年ぐらいでかわるお役人ではなくて、恐縮ですが、現地にいる市町村を含む我々にお任せいただければどうかというのが基本でございます。一括交付金の仕組みは民主党さんの提案ですが、私どもは全面的に導入をお願いしたいと考えております。
○知念参考人 瑞慶覧議員にお答え申し上げます。
先ほど、沖縄にも製造業が成り立つ可能性はたくさんあるのではないか、そういう御質問がございました。
先ほど私もちょっと申し上げましたけれども、いわゆる日本の輸出産業の中で、輸出で日本は収入を上げているわけですが、外国にどんどんどんどん進出しようとしている企業がたくさんあるわけです。その中で、ある大手の製造業の経営者の方とお話をしますと、沖縄が、外国と同じように競争できるような、税制その他の制度面が同等な環境になれば、わざわざ我々は外国まで行く必要はない、むしろ日本の方が、日本人である以上は沖縄でやってもいい、こういう方がたくさんいらっしゃるわけです。ですから、そういう制度面のところをぜひ御検討いただきたいというのが一つ。
それからもう一つ、製造業の中では、県内の亜熱帯植物とか生物を活用した飲料あるいは産物を製造する、こういう研究が今盛んになっております。ただ、これは、研究に時間がかかるとか、あるいは費用がかかるとか、そういうことでなかなかまだ商品化になっておりませんが、研究はかなり進んでおります。
ですから、そういうところに思い切って資金を投ずると、必ず世界に通用するような商品が幾つか出てくるだろうと思っております。この辺は、私ども、先ほど申し上げたように、県の交付金制度ができて、県が優先的にそういうところに金を回せば沖縄独特の新しい製造業が生まれてくると思っていますので、ぜひその点を御理解願いたいと思います。
以上でございます。
〔伊東委員長代理退席、委員長着席〕
○我部参考人 御質問にお答えします。
基地の負担についてどう思うかということですが、基地の負担というのは多分、騒音、環境汚染、さらに言うと犯罪、直接的にすぐ出てくるのがそれなんですけれども、それ以外に、これらが長期化してくるといろいろな、人の健康、それから社会的なひずみ、先ほども出ましたように、子供の健全な成長。
もうちょっと言いますと、社会的なひずみは、経済的なこととつながっていきます。例えば、沖縄県にはすべての市町村に基地があって、基地があるのでお金が国から出ているということではありません。基地のない市町村もあって、基地のない市町村でもちゃんと子供は育てていかなきゃいけないので、何か貧困状態になっているというわけではありません。
ですから、基地があるから、ないからといって市民生活について差異を設けているわけではなくて、そういう意味では、むしろ基地のない市町村の方が逆に努力しているのかもしれないということです。逆に言えば、基地のある市町村は自分たちで、金が出てくるので、健全な財政運営できないという、能力を長い間ある意味で培う機会を失ってきたということでもあるということです。
それから、経済的には、先ほど知念さんの方からお話をされたような、社会的な産業構造のインパクトというのが長期にわたってあるということであります。
それから、基地は今後どうあるべきかでありますが、少なくとも、今問題になっています普天間基地を含んで、全海兵隊の基地を撤去した方がいいのじゃないかというふうに思います。これは可能だし、日本政府はそうは言っておりませんが、何とか普天間だけはというふうに考えているようですけれども、普天間を残すぐらいでしたら全部残るということになるので、逆に全部撤去してもらうということがよろしいのではないか。これはどこかというと県外か国外かという話になると思いますが、そのように考えております。
○山内参考人 お答えします。
確かに沖縄の子供たちは、非常に才能に恵まれた子供たちがたくさんいます。そして、きちっとしたいい環境の中でいい指導者がつけば、沖縄の子供たちはすべて伸びていくと私は思います。
しかし一方で、先ほど話した非行の子供とか虐待の子供たちがやはりいるわけなんですけれども、そういう子供たちがたとえいたとしても、そういう子供たちをしっかりフォローする施設がきちんとあれば、沖縄の子供たちはみんな伸びていくと思います。ですから、例えば三千億のせめて一%、それでも三十億です、これが十年間、恵まれない子供たちのために、基盤整備にきちっと使うことができれば、沖縄の子供たちは全部伸びていくと私は思います。
出生率は、三十五年間、沖縄は全国一位ですね。それだけ多くの宝を沖縄県は持っていると思います。ですから、一番多い出生率、全国一の沖縄の子供たちのために、ぜひその一%でもいいから使わせてもらいたいと思います。
○瑞慶覧委員 残り二分です。最後、仲井眞知事に、沖縄の可能性、一括交付金等も含めて獲得して、東アジアに近い、亜熱帯がある、それから国境離島も抱えている、その離島を生かした政策等を沖縄がこうやってやっていくんだという決意を一分でよろしくお願いいたします。
○仲井眞参考人 私ども、沖縄の二十一世紀ビジョンというのを、県民十万人以上の人が参加して昨年つくりました。また、それを踏まえて、一週間ほど前に、実現するための基本計画というのもつくりました。あと実行計画をつくるわけですが、八百ぐらいあります。
そういう中で、まさにおっしゃった我々の個性というのは、島々で成り立っている、大きな空間の資源を持っている、文化的な歴史、特性を持っている、そして我々自身が、あの島を大事にし、あの地域を大事にし、国際交流というのを、万国津梁と我々は呼んでいるわけですが、五、六百年前からやっている。これを生かして、日本と東南アジアとの交流の仲立ち、ちょっと偉そうなことを申し上げますが、そういう気概を持って、そして我々は、自立、交流、貢献の旗印のもとにしっかり頑張ってまいりたいと考えております。
○瑞慶覧委員 質問を終わります。ありがとうございました。
○北村委員長 次に、岸田文雄君。
○岸田委員 自民党の岸田文雄でございます。
まず、本日は、四人の参考人の皆様方、大変お暑い中、そしてお忙しい中御出席をいただきましたこと、心から感謝を申し上げます。
まず最初に、新しい振興計画ということで、仲井眞参考人にちょっとお話を聞かせていただきたいと存じます。
先ほど来お話を聞かせていただきました。来年で本土復帰四十年を迎えることになった、その間、まず三次の沖縄振興開発計画、そして現行の沖縄開発計画、四つの計画を通じて、社会資本整備等においては成果が上がったと評価できるけれども、一方で、一人当たりの県民所得あるいは完全失業率は全国で最悪、そういった数字を見るときに、まだまだ課題は多い、道のりは長い、こんなお話がございました。さらには、アジアとか日本の経済、新しい環境の変化を考え、沖縄の独自の特性、環境、こういったことを考えると、次の新しい振興計画は思い切った新しい発想が必要だということで、先ほど来知事の方から、新しい計画に向けての要望、期待、こういったことについて具体的にお話がございました。
私も、聞いておりまして、今の時代の変化、また沖縄の置かれている状況を考えますときに、新しい振興計画、新しい振興法、こうした新しい法律や計画がつくられるこのチャンスをとらえて、ぜひ思い切った新しい発想や制度をつくっていこうということ、この思い、意欲については大変重要だと思いますし、また大いに理解をするところであります。
そういったことを感じながら、少し知事のお話をお聞かせいただきたいのは、その中で、まず一括交付金の話がございました。沖縄の今の状況を考えたときに、全国一律の補助制度ではなくして、他の地域とは違う、さらには地元の独自性そして考え方、こういったものがしっかり生かされる新しい制度をつくらなければいけない、こういった思いで一括交付金も訴えておられるというふうに思います。この点について、まず、こうした考え方、一括交付金という制度、こういったものについては大いに前向きに理解をしなければいけない、私たち自民党においてもそのように強く感じます。
ただ、先ほどのお話を聞いておりまして、まず一括交付金という枠をつくる、これは重要なことであります。そして、枠の大きさをどのぐらいの大きさにするのか、これがまた大切なことです。いろいろお話を今までも聞いてまいりましたが、知事としては、過去十年間の沖縄予算の平均というようなものをめどとされまして、三千億という数字を要望の中に掲げておられるということであります。
こうした枠の大きさももちろん大切ですが、私は、もう少し具体的な制度設計というものもつくっておかないと、枠だけもらいましたというのであるならば、将来どんな事態が起こるとも限らない。新しい事態が起こった、あるいは大きな財政出動が必要になってくる、こういった場合もあるかもしれない。そういったときに、単に枠だけつくっておいたということであったならば柔軟な対応ができなくなってしまうのではないか、将来のさまざまな事態に備えるためにも、もう少し緻密な制度設計をしておかなければいけないのではないか、そのように思うんです。
まずもって、知事には、この一括交付金、もし成立したら具体的にどんなお金の使い方をしたいのか、どんなイメージを持っておられるか、それにつきましてちょっとお話を聞かせていただけますか。
○仲井眞参考人 今、岸田議員おっしゃったように、この一括交付金というのは、確かに民主党さんのマニフェストにありまして、自由にという、自由度の点で、私ども、ぴたっと合うなというのからスタートはいたしております。
ですから、これは、できれば民主党さんの制度設計、政府における制度設計も見ながら、我々もローカルガバメントとして、どういうふうな形であれば使い勝手がいいか、使いやすくなるか今研究中でして、実は歩きながら考えているという感じがございます。
ただし、先ほども申し上げましたように、私どもの実行計画みたいな、この十年を見ますと約八百ぐらい大小いろいろなものが実はあるわけでして、既存の枠内でやれるものと一括交付金を使わせていただくようなものと、我々、今仕分けをしている最中でございます。
そういう中で、特に島々に対する政策というのは、日本国でもわかりやすい政策というのははっきりありません。医療は医療、介護は介護、農業は農業、ごみ処理はごみ処理で、小さい島も大きな島もみんな同じようなことをやっておるわけですね。ですが、島ではその濃淡のつけ方がみんなそれぞれあります。ですから、こういうものは、それぞれの間でお金が融通できるようなものとか、我々、イメージはそういう感じがあるんです。
先ほどからありますような認可外保育園というのが沖縄に実はたくさんありまして、四百幾つかあって、二万人ぐらいの子供たちがそこにいるわけです。これは非常に使い勝手がいい、便利がいいからあるんです。認可された保育園も無論最近たくさんできていますが、これ以外はなかなか政策対象にならない。しかし、現実に使い勝手がよくて多くの人が使える、子供たちがいる。その中の改良、改善をやっていくためには、認可保育園に近いイメージで強化、支援する方法がやはり必要だと思うんです。
ですから、むしろそういう全国一律の仕組みに合わないものというのが、我々四十年の経験からいうと、なぜか沖縄に結構あるんですよ。これがたまっておりまして、一回、在庫一掃とは言いませんが、これに合うような仕組みをみずから考えさせていただき、これに対しての支援のお金が一括交付金のイメージであります。ただ、制度につきましては、私たちは一緒になって、歩きながら考えるしかないかなと実は思っております。
あとは、政策対象になっていないのが、離島間の運賃とか、物を運ぶ、人を運ぶ、これはみんな民営の航空会社と民営の船舶ですから、割にいいのがないんですね。ですから、これを我々でつくっていかないといけないとか、こういうものが百ぐらい実はあるわけですが、こういうものに適用するには、がちっとひものついていない資金がやはり要るな、こういうことでございまして、制度設計は、我々も歩きながらでございます。よろしくお願いいたします。
○岸田委員 ぜひ、こういった知事の思い、また地元の沖縄の自主的な事業への取り組みを尊重できる制度をつくっていかなければいけないとは思うんです。
ただ、そうはいっても、これは国のお金が入る。財源との兼ね合いでいうと、建設国債が使われるとしたならば、公共、非公共の区別ぐらいはつけておかなければいけないのではないかとか、あくまでもこれは国の財政出動ですから、少なくとも事後的には何に使ったかは確認する、そんな制度はつくっておかなきゃいけないんじゃないか、こんなことも思います。
さらには、その中に公共事業、道路とか港湾とか空港とか、こういった部分まで入るということになれば、例えば空港なんかは全国ネットワーク、他の地域との調整とか、そういったことも考えていかなければいけない部分が出てくる。あくまでも沖縄の自主性を尊重する仕掛けはつくっていかなきゃいけないと思いながらも、尊重しながらも、他地域との調整とか、こういった仕掛けもあわせて持っておかないと困る部分もあるのではないか。
さらには、今、全国においても一括交付金の議論が行われています。沖縄は別制度でという要望があるわけですが、全国の一括交付金の議論の中でも、県に交付金が支給された場合、市町村との関係がどうなるのか、市町村の方からいろいろ将来に対する不安の声が起こっている、こういったことがあります。
ですから、こうした新しい制度をつくるにしても、他地域とかあるいは市町村との調整、こういった制度も一応考えておかなければならないのではないか。こういった考え方については、知事、いかがでしょうか。
○仲井眞参考人 おっしゃるとおりでして、我々も、沖縄には四十一の市町村があります。それと私ども県、そういう形で仕事をいたしておりますから、現在、一括計上のお金で来ている二千三百億円は、一千億が国直轄事業、あとの千三百億を、市町村が約三百五、六十、そして県が約九百で分け合っております。ですが、これは、先ほど申し上げましたように、この十年ずっと下がりっ放しで、半分になっております。
そういうことで、我々は、市町村は無論我々と同等ですからいろいろな意見を持っておりますが、一括交付金にし、総額を確保するということで利害は確実に調整できると思っておりますし、ちょうど今、市町村と、これをどう運用し、どう活用していくかの協議会を発足させ、お互いに不満のない形をつくり上げようと考えているところでございます。
○岸田委員 いずれにしましても、ぜひ、国、県、市町村、あるいは他の地域とも調整ができるようなしっかりとした制度をつくって、結果として沖縄の自主性が尊重される事業に結びついていく、いい制度をつくっていきたいというふうに思いますし、それを政府にしっかりと我々も求めなければいけませんし、皆さんも沖縄においてしっかりと調整をしてもらわなければいけません。また、我々自民党も、今言った思いで独自の私たちの案というものをしっかりつくって沖縄の皆さんにも見ていただき御意見を聞かせていただく、こういったことで前向きに取り組んでいきたいと思いますので、ぜひ御指導をお願いしたいと存じます。
そうこうしているうちに時間がもう来ましたので、あと一つだけ、経済ということで知念参考人にお伺いしたいと存じます。
沖縄の経済、先ほど来いろいろな話が出ておりました。四十年を振り返ったときにいろいろな評価がされるわけですが、経済指標ということを見てみますと、沖縄の経済、先ほども知事の説明の中にありましたが、基地への依存度、復帰時点で一五・五%だったのが五・三%まで今低下している、こういった数字があります。
一方、その基地依存度の低下を補ったのは、最初は国の財政出動だったわけです。復帰時点で国の財政出動は二三・五%、これが平成十一年に四一・六%まで増加した、これがピークでありました。しかし、そこをピークにして徐々に国の財政出動の割合は低下して、今三五%程度というところまで下がっている。この低下した分を補ったのが、観光を初めとする地元の民間の経済活動だったということです。
だから、基地依存から国の財政出動それから民間の経済活動と、大きな流れとしては皆さんの期待する方向に向かっている、こういったことを感じるわけですが、ただ、まだまだ道のりは長い、まだまだ不十分だということなんだと思います。こういった流れを見ながら、次の振興計画に期待するというお話が知念参考人の方からありました。
その辺について、一つ加えていただきたいのは、先ほどの期待の中で、資料の中にありながらちょっと触れる時間がなかった沖縄科学技術大学院大学に対する期待について、民間の経営者そして経済界としてどういう期待を持っておられるのか、これについて触れていただくのと、それとあわせて、最後に、三月十一日、東日本大震災が発生してから後、私たち日本人は、日本の経済あるいはエネルギー政策を初め、さまざまな大きな政策について今転換を迫られています。そして、我々日本人の考え方とか生き方自体もいま一度見詰め直さなければいけない、こういったことが言われています。
戦後最大の国難と言われる東日本大震災を機に、大きな転機を私たち日本の国は迎えていると思うんですが、その中で、沖縄経済の現状ですけれども、沖縄の経済は、例えば輸出型の製造業の割合が低いとか、観光業が大変割合が大きいとか、他の地域にない特徴があります。この沖縄経済の真っただ中で頑張っておられる知念参考人の感覚として、三月十一日以降、沖縄の経済、何か変化を感じておられるか、また今後について何か思うことがおありになるか、その点について加えて御説明をいただければと思います。よろしくお願いします。
○北村委員長 知念参考人、なるべく簡潔にお願いいたします。
○知念参考人 それでは、岸田先生にお答えいたします。
問題は二つありまして、中国、アジア、ここに一番近い沖縄県は東アジアの中心にあるわけですが、日本が経済的に今苦しんでいるんですけれども、逆にアジアは非常に成長している。これをどう取り込むかということで、今、いろいろなプロモーションをやって、観光客を誘客したり物を売ったり、あるいは、ANAさんが今、那覇空港をアジアの拠点にしている、そこに全国から物資を集めて中国に売り込むとか、そういったことで、中国、アジアと日本とのかけ橋になって、あるいは、そのことが沖縄の発展と同時に日本の国にもプラスになる、そういう方向で今いろいろ行動しているということでございます。
それから、三・一一以降の問題ですけれども、実は、当然のことながら、沖縄は観光立県でありますので、三月、四月、五月と、東アジアからの観光が急激に減りました。その後、七月、八月、今度は大阪以南の、近辺からの個人客がかなりふえてまいりました。そういうことで、まだ全体としては減っておりますが、経済全体としては、直接的な影響としては、観光が減るという形で出ております。
ただ、我々沖縄県は、そういうことでずっと観光が主体でありましたので、特にアメリカの九・一一の事件の直後、あのときも大幅に沖縄は落ち込んだのですが、そのときに、沖縄が大変だということで、全国の方々が沖縄に旅行をしてもらって非常に助かったという例があります。
そういうことで、今回は、我々ができることをやろうということで、寄附とか支援とかは全国と同じようにやっていますが、真っ先に、経済界が中心になって、わずか二泊三日でしたけれども、百三十三名の人間が東北三県の観光地に行って応援をして帰ってきました。これを今、第二陣もやっておりますし、もう一陣もやる。
こういうことで、我々は観光立県であるがゆえに、被災地はもちろんですけれども、被災地じゃない観光地も全部観光がストップしている、こういうような状況をお聞きしまして、我々としても、そういうことを何回も経験しておりますので、支援をしてきているし、これからもずっとやるということでございます。
落ち込んだ観光客は、これからまた中国とか外国からも呼び寄せて、その対策は別途また考えていきたいと考えております。
以上でございます。
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