facebookPrem Sheelさん投稿記事
不可能な夢を見なさい。最初はほとんど馬鹿げているように見えるかも知れない。
確かにそう見える。だが、その夢が充分に強ければ、あなたのリアリティは変容を遂げる。
聞いた話だが……丘の中腹に三本の樹が生えていた。樹々はそよ風に揺られ、自分たちがなりたいものを夢に見ていた。
「いつか切り倒されて、ゆりかごになりたいなあ」と最初の樹が言った。「いつか切り倒されて、海を渡る大きな船になり、宝物や宝石を運びたいなあ」と二番目の樹が言った。
すると三番目の樹が言った。「丘の上に立って、 人々に天国を指し示したいなあ」
ある日のこと、樵たちがやって来て、最初の樹を切り倒し、「これで馬小屋をつくろう」と言った。樹は「僕は馬小屋なんかになりたくない。 ゆりかごになりたいんだ」と言って泣き叫んだが、樵たちは馬小屋にしてしまった。
やがてイエスが生まれ、他に場所がなかったので、彼らは赤ん坊をその馬小屋にそっと寝かせた。すると樹は言った。「おやおや、 僕が夢に見ていたものより ずっとすばらしいじゃないか」樵たちは二番目の樹を見て「この樹で漁船をつくろう」と言った。
樹は「いやだ! 漁船なんかになりたくない。 僕は宝物や宝石を運ぶ 大きな船になりたいんだ」と言ったが、樵たちは漁船をつくり、それを島の湖に浮かべた。
するとシモン・ペテロという名の漁師がその船を買い、イエスがその船に乗って人々に説教した。すると樹は言った。「おやおや、 僕が夢に見ていたものより ずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは三番目の樹を見て、「これで十字架をつくろう」と言った。樹は「十字架なんかになりたくない。人がその上で死ぬなんて 耐えられない。 僕は丘の上に立って人々に天国を指し示したいんだ」と言った。
だが樵たちはその樹で十字架をつくり、やがてイエスが磔(はりつけ)にされた。
そして、いつの時代にも人々は十字架に目を向けてきたが、それは神を指し示している。
樹でさえ、夢を見、それを実現できるとしたら、人間は言うに及ばない。
人間はこの世で最もすばらしい潜在能力をもっている。
欠けているものがあるとしたら、それは自分自身を超えたいという大きな夢が欠けているということだ。
あなたは世俗的なもので満足してしまっている。あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわりはじめている。あなたは上を見あげていない。遥か彼方から呼びかけてくるものがある!
遥か彼方から挑みかけてくるものがある。彼方からの挑戦を受け入れる者のみが人間だ。
そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても、人間の姿はしていても、真の人間ではない。
人間でありなさい!未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け入れなさい。
それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。
今見えているあなたは種子にすぎない。種子は土中に落ち、死ななければならない。
そして樹となり、花を咲かせなければならない。種子を割っても、そこには花は見つからない。科学が大切なことをそっくり見逃しているのはそこだ―科学は種子を割り続けてゆく。
科学は言う。「この種子から みごとな花が咲くだって? だったら種子を割って、 分析して見てみよう」そして、彼らは種子を割って分析する。
彼らは種子を分析する方法を手にしているが、花は見つからない。そこで彼らは花などないと言う。彼らはそのようにして神は存在しない、彼方なるものは存在しない、生命は偶然の産物にすぎず、天命などというものはない、という結論に到った。一休禅師の有名な道歌がある。
桜木をくだきて見れば花もなし 花をば春の空ぞ持ち来る 春が来るのを待ちなさい。
見たければ、春が来るのを待ちなさい。
あなたはそこで 人ではなく、ひとりの仏陀を見いだすだろう。
人ではなく ひとりのイエスを見いだすだろう。人ではなくひとりのクリシュナを見いだすだろう。
そのときあなたが見いだすのは 花であり、種子はもうどこにもない。種子は消え失せた。
種子の役割は終わった。それはこのうえもなく価値のあるものを守っていた。
それは青写真を運んでいた。もうそれは必要ではない。土が見つかり、春がやって来て、
そして種子には死ぬ勇気があった。人間のエゴは種子に他ならない。それはあくまでも自分を守ろうとする。人々は私に尋ねる。「エゴが神に対して これほどの障壁となるなら、 そもそもエゴは どうして存在するのですか?」それはあなたを守るために存在している。
ちょうど固い殻が種子の潜在力を守るために存在しているように。
その潜在力はひじょうに柔らかい。まわりに固い殻がなければ壊されてしまうかもしれない。
固い殻は敵ではない。固い殻が敵になるのは、春が来て、土壌が用意されているのに、
種子が死ぬことを拒むときだけだ。固い殻が「さあ、 春を敵にまわしても、 おまえを守り続けるぞ。 この土から君を守ってやるぞ」と言えば、問題が生じてくる。
問題が生じるのはそこだ。エゴそのものが問題なのではない。
子供には自我がいる。さもなければ子供はまったく無防備のままにさらされる。
子供はこの闘争の世界をどう生き延びてゆけばいいのかわからない。子供はたび重なる危険から身を守る術を知らない。子供はひじょうに柔らかく、もろい。
覚者(ブッダ)になる前に死んでしまうだろう。自我が彼を助ける。自我は一種の鎧であり、マインドもそうだ―それは子供を守っている。
それはあなたの敵ではない。それが敵になるのは次のような時だけだ。
その瞬間がやってきて、あなたには瞑想に入ってゆく用意ができているのに、師を見つけだし、技法を見つけだし、用意ができているのに、マインドは言う。「いやだ、 俺は死ねない。 俺がおまえに注いできた 祝福のすべてを思い起こせ。 俺がおまえに与えてきた恩恵を すべて思い起こせ。 俺がおまえにしてやったことを すべて思い起こすんだ! 感謝してしかるべきだ。 俺を滅ぼそうとするんじゃない」
そうなったら問題が生じる。そうなったら、守りであったものが破壊的になる。
そうなったら、あなたは自分自身の心と闘わなければならない。自分自身の自我と闘わなければならない。自分自身の鎧と闘わなければならない。もはや鎧は必要ではないからだ。
あなたは内なる潜在力を解き放たなければならない―春がやって来ている。
だから、春がやって来て、はじめてそれが問題になる。さもなければ、それは問題にはならず、助けになる。が、助けとなるものも障害になりかねない。
時が到れば、それは去らなければならない。
不可能な夢、自分自身を超えてゆく夢、ニルヴァーナの夢 解脱の夢、神の王国の夢を見るがいい―
夢見ることで、はじめてあなたはそれに向かって働きかけ、進みはじめる。
その夢を抱くことで、はじめてあなたの足に踊りの気配 リズムが感じられるようになる。
夢がなければ、あなたは 鈍感になってしまう。人々がだらだらと 生きているのはそのためだ。どうして踊ることができるだろう?
何のために?毎日ただ会社に行って仕事をし、家に帰って妻と口論したり、子供の不平に耳を傾けるためにかね?
次の日にはまた同じことがはじまり、それが年がら年中続いてゆく。
踊りたい気分にさせるものがあるだろうか?実のところ、人が生き続けているのは、自殺してしまわないのは奇蹟だ。
彼は何のために生きているのだろう?彼を待ちうけているものは何もない。彼が見あげることのできるものは何もない。夜空に星はなく、漆黒の闇が広がっている。
人が生き続けているのは、なんとか生きながらえているのは奇蹟だ。自殺する人々のほうが、道理にかなっているように見える。生き続けている人々は、まるで道理をわきまえていないように見える。惨めで、うんざりし、足を引きずりながら、それでも生き続けている。
だが、そこには何かがある。そこにはひとつのことが示されている。
それは、あなたの内奥の実存はどこかに可能性があることを知っているということだ。
いつその潜在力、可能性に目を開くかもしれない。いつその夢があなたをわしづかみに
するかもしれない。そうなったら意味が生まれ、踊りが起こる。
Osho - The Secret Of Secrets
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