https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/midokoro/menumasyoudenzan/rekisi.html 【聖天堂と貴惣門の歴史】より
聖天堂
極彩色が蘇った国宝「歓喜院聖天堂」
国宝 歓喜院聖天堂かんぎいんしょうでんどうは、約840年前に建てられたとされます。火事などの被害で何度か再建され、現在の建物は、宝暦10年(1760)に完成しました。
この時の工事は、大工棟梁の林正清はやしまさきよが統率しました。正清は、再建を企画し、優秀な職人を集め、お金を集めるため各地を回りました。工事の費用を負担したのは、幕府や大名、豪商ではなく、妻沼を中心とした庶民たちでした。しかし、道のりは平坦ではなく、大洪水などで中断を余儀なくされ、正清は亡くなります。
鮮やかな龍
生き生きとした唐子
正清の子、正信まさのぶによって、色鮮やかな彫刻で埋めつくされた壮麗な建物が完成するのは、工事開始から25年後のことでした。この聖天堂は、榛名神社社殿(高崎市)など後の北関東の建築に大きな影響を与えます。
ところで、中断の原因の一つとなった利根川の大洪水では、岩国藩(山口県)が、妻沼の復興工事を命じられました。藩士の中には、有名な錦帯橋(岩国市)の架けかえをした長谷川重右衛門はせがわじゅうえもんがいました。造営中の聖天堂を見た重右衛門は、貴惣門きそうもんの設計を思い立ち、正清に設計図を託します。
この時から100年余りを経た嘉永4年(1851)、正清の子孫の正道まさみちによって、お寺の門としては県内最大級の貴惣門が、ようやく完成しました。
貴惣門の最大の特徴は、全国に四例しかない特殊な屋根の形です。ぜひ一度、三つ重なる破風(山型の部分)を側面からご覧ください。また、精緻に施された彫刻の数々も見どころになっています。
貴惣門に施された彫刻(獅子)
貴惣門に施された彫刻(龍)
https://jinja-to-otera.blog.jp/archives/20123689.html 【国宝の『妻沼聖天山』へ行ってきました 】より
今回は埼玉県熊谷市にある『妻沼聖天山』への参拝です。こちらの本殿は国宝とのことで、
前々からゆっくりと見てみたいと思っていました。
『妻沼聖天山』(めぬましょうでんざん)は正式には妻沼聖天山歓喜院(かんぎいん)という高野山真言宗のお寺です。2012年に本殿が国宝に指定されました。
私は東側の歩道橋の所から境内に入ったのですが南側からも入れるようで、南側の道の反対側には大きな駐車場もあります。
クルマを停めて、いちばん東の「貴惣門」から入ります。貴惣門には、右側に毘沙門天、左側に持国天の像があります。「貴惣門」を入ると次の「中門」まではどーんと開けていて、左側にはだんご屋さんやいなり寿司屋さんなどが並んでいます。
途中、右手に『妻沼聖天山』をここに祀った斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)公の銅像があります。
ここで来た道を振り返ると・・・また、同じく右手には「観音様」も。そして「中門」です。
中門の左手に境内の案内看板がありました。中門を入ると続いて「仁王門」になります。
仁王門の左右には、向かって右側に口を開けた「ア」形、左側が口を結んだ「ウン」形の仁王(金剛力士)像が。門の右手には由来の看板がありました。仁王門を入ると、いよいよ国宝の「本殿」です。
こちらのご本尊である「聖天さま」というのは正式には「大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)」という仏様でヒンドゥー教ではガネーシャになります。
彫刻が素晴らしい本殿の側面と背面を観るには拝殿左手の入口から拝観料(700円)を払って敷地内に入るのですが私は迷わず入ることにしました。
入口の所には敷地内で観られる建物の案内があります。
拝殿へ参拝する人はひっきりなしだったのですがお金を払って入っている人は、その時は私だけだったようです。とりあえず本殿の側面を遠くからいろいろと眺めて何枚かの写真を撮りました。
そうこうしていると「お世話になります!」という明るい声が聞こえてきました。
見ると、敷地内の掃除をしている年配のスタッフの男性です。
私も「お世話様です~!」と応えると「よかったら解説しましょうか?」とのことでしたので
二つ返事で「ぜひお願いします!」となりました。こちらのボランティアガイドさんだったんですね。ここからは、その方から聞いたお話です。(聞きかじりのうる覚えです)
まずは本殿の南側側面から。
こちらは明り取りの窓。
こういった窓は金閣や銀閣にもあるらしいのですが窓枠に緻密な彫刻を施し、金箔まで貼ってあるのはこちらだけらしいです。
こちらでは大きな鳥が猿を掴んで水の上を飛んでいます。鳥は鷹(?)ですから、猿を捕らえたのかと思ったのですが鷹の姿をした聖天さまが庶民(猿)を助けているとのこと。
その証拠に、猿は鷹の足をしっかりと掴んでいます。
こちらは階段部分の彫刻。
ぶどう(食料)があったり、猫の前で小鳥が飛んでいたりと安全で満ち足りた社会を表しています。
こちらは軒下部分。ここに白い象がいるのですが・・・この象のすぐ右側に、色が塗られていない木が見えます。(まわりの木と色が違っている部分です)
こちらはわざと色を塗らないことでこの「本殿は未完成」としています。
『完成したものはそこから崩壊が始まる』ことを防ぐためです。有名な日光東照宮の陽明門の「逆さ柱」と同じです。こういったことは解説してもらわなければ絶対に見落としていたでしょう。
続いては屋根のすぐ下の部分。こちらの3人は左から孔子、釈迦、老子で、「儒教」「仏教」「道教」を説きましたが教えは三つとも違っていても、カメに入っているお酢をなめて「酸っぱい」と思うのはいっしょであるということを表しているそうです。
その下には「七福神」や「鶴・亀」などが彫られています。
そして下の部分。こちらには金色に塗られた動物がいます。
これらは本物を見たことがなかった職人たちが想像で彫った「サイ」だそうです。
ここ妻沼のすぐ北には利根川が流れており群馬に大雨が降るとよく氾濫しました。
境界の神様(?)であるサイをこの部分に配置することで氾濫の水がこれ以上上がってこないように願ったものでした。続いて西側側面に移ります。
こちらの屋根のすぐ下には水ガメを割って中で溺れる子供を助けている場面があります。
水ガメよりも大事な命の大切さを表しているそうです。
その下には囲碁で遊ぶ神様方
平和で豊かな世の中になったので神様も遊べるようになったということを表しています。
そして最後に北側の側面。こちらは屋根の下の彫り物。解説は失念しました。
そして、やはり遊んでいる神様方。囲んでいる盤は中国のすごろくだそうです。
こちらには聖天さまの化身である鷹(?)も。
こちらの鳳凰は、名前は忘れましたが高名な彫り師の作だそうです。
これで本殿の解説は終わり、続いて拝殿の解説に向かうのですが明治になって神仏習合が終わったのでこの柵を作って周りを神社にしたとのこと。
西側に3つほど神社のお社がありました。
「荒神社」「五社大明神」「天満宮」
ここから有料の敷地を出て、拝殿の解説になります。
拝殿の屋根のすぐ下、こちらには当時の三大習い事をしている彫り物が。
そしてすぐ下には竜が。
この竜は、下にある「鯉」が竜門を上って「シャチ」になり、やがて「竜」になるという「登竜門」を表しているそうです。
そして、拝殿の軒を支える長い曲がった横木ですがこれだけ長いのは珍しいそうで これも参拝に来た衆生のために長くしているそうです。
ここでボランティアガイドさんの解説は終わりました。時間にして30分くらいだったでしょうか。しかし内容はとても濃く、充実した時間を過ごせたように思います。
さてここからは一人で周ります。
拝殿の右手奥に庭が広がっていますので行ってみましょう。「鐘楼」がありました。
ご神木の「夫婦の木」です。奥にある「明王滝」さらに奥へと続きます。「弁天社」
「平和の塔」一回りして拝殿の前へ帰ってきました。
今度は拝殿の左手側にある「大師堂」へ行ってみます。
こちらの本殿の建築時には江戸幕府からまったくお金が出ず当時の多くの庶民や農民がお金を出し合い長い年月をかけて建築したということでそのぶん制約を受けず自由に作ることができたそうです。これで今回の『妻沼聖天山』への参拝はおしまいです。
https://koiyama.com/touryumon/ 【登龍門】より
登龍門とは、中国の故事が語源となっています。 昔、黄河の中流地域「函谷関(かんこくかん)」の上流、霊山に龍門(りゅうもん)という峡谷がありました。 龍門の峡谷は激流で普通の魚は登ることができず、そこを登りきれた魚は霊力が宿り、変じて龍になると言われていました。
この伝説になぞらえて、難関を突破して立身する事を「登龍門(龍門に登る)」と言うようになりました。 ちなみに竜は中国では皇帝の象徴とされていました。
日本では江戸時代になると子供の成長と出世を願い、各家で立てるようになったのが「鯉のぼり」だと言われています。 登龍門は日本の文化の中にしっかりと根付いているわけです。 「登龍門」「鯉の滝登り」「鯉のぼり」「龍門の滝」などいろんな表現がありますが、 それらは全て同じ語源から始まっている言葉なのです。
禹門三級
中国の夏王朝(紀元前1900年頃 – 紀元前1600年頃)の始祖とされる禹は父の跡を継ぎ黄河の治水事業に取り組みました。黄河上流の山を三段に切り開き、無事に治水事業を完成させました。この時に作られた三段の滝が「禹門三級」です。
画:内海 吉堂 伝
鯉の故事Wikipediaから
中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。
竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。 初期の鯉のぼりは真鯉(黒い鯉)の一色のみだった。歌川広重の『名所江戸百景』では大きな真鯉一匹が描かれている。
今年のこどもの日は、いったい、どうだったのかが?記憶にもないくらいなので寂しい限りですが、こどもの日に鯉のぼりを家の前で高く空に掲げるのは、この古事からきているといわれています。(諸説あります)
自らの愛する子供を鯉になぞらえて、『のぼり』を上げて、多くの人に見てもらうように表現する意味は?? なんなのでしょう?
古事から読み取れば、鯉の滝登りのように苦難を乗り越えて『立派な竜(龍)になってほしい』という願いがあるということになります。
立派な龍とは何なのでしょうか?
私は正確な答えを持ち合わせていませんが、平安時代からあると言われる鯉のぼりの風習と同時代にどのように龍が表現されているか?? をネットなどで見ると、お寺などの境内や建物に多くの彫刻として刻まれていることが分かります。
写真は、2年ほど前に、娘と一緒に行った台湾の龍山寺です。(画像引用:https://www.wbf.co.jp/taiwan/kanko/ryusanji.php)
建物は、龍の彫り物だらけで、柱から屋根まで見事な龍が造られ、描かれています
日本にも『龍』の文字がつくお寺はたくさんあります。
龍はお寺そのものというより、仏教(法)の守り神とされていているそうです
日本でも聖徳太子の17条憲法、第二条は、『篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である』とうたい、その時代、仏教で人の心を導いていました。その仏法を守る人とは、それは、それは尊い人だったのでしょう。
日本の鯉のぼりとは、その龍になってほしい教えであり、龍とは多くの人を救える人になってほしい願いを方便として表現しているのであると思います。
コロナ渦の中にありますが、科学や医学が進化した今、神の祈りだけではなく、人が人を救える時代です。無駄に怯えたり、批判の心ではなく、一人一人の行動で世界を変えられます。
今、自分にできることに全力を尽くしたいです
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