https://plaza.rakuten.co.jp/kabegamimura/diary/201703120001/ 【地名こぼれ話25・仏教の守護神「梵天(ぼんてん)」が地名にも登場】より
雪の斜面を登る梵天
雪の旭岡山神社参道を上る横手のぼんでん
・梵天(ぼんてん)地名は秋田県に特に多い
仏教に関わりのある梵天(ぼんてん)が地名に取り入れられていて興味深い。
梵天は古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたもので、、仏教の守護神の十二天の一つ。帝釈天と一対として祀られることが多い。(参考・梵天 - Wikipedia)
秋田県大仙市円行寺梵天畑(ぼんてんはた)
秋田県秋田市雄和繋梵天野(ぼんてんの)
秋田県由利本荘市中梵天(なかぼんてん)
秋田県由利本荘市鳥海町百宅梵天平(ぼんてんだいら)
山形県東田川郡庄内町余目梵天塚(ぼんでんづか)
福島県福島市仁井田梵天(ぼんてん)
愛知県小牧市藤島町梵天(ぼんてん)
「梵天」地名は東北地方を中心に各所にあり、特に秋田県に多い。
しかしなぜか、マピオン-梵天で調べても、横手市内にその地名は見当たらない。
ただ、菅江真澄・雪の出羽路には、大森村の項にこの地名が随所に出ている。
『・大森村 文田山(もんでんやま)、また梵天山ともっぱらいう処あり。
・大森の郷田地字所 梵天下河原
・上溝村 梵天野
・保呂羽能山路物語 梵天塚
』
かつて横手市大森にあったこれらの地名は、現在に伝わっているか気になるところである。
様々ある「梵天」の意味
goo国語辞書で探ると、ぼんてん【梵天】の意味には様々ある。
『出典:デジタル大辞泉
1 仏語。色界の初禅天。大梵天・梵輔天・梵衆天の三天からなり、特に大梵天をさす。淫欲を離れた清浄な天。
2 修験者が祈祷に用いる幣束(へいそく)。
3 大形の御幣の一つ。長い竹や棒の先に、厚い和紙や白布を取り付けたもの。神の依代(よりしろ)を示す。
4 棒の先に幣束を何本もさしたもの。魔除けとして軒などにさした。
5 延縄(はえなわ)・刺し網などの所在を示す目印とする浮標のこと。
6 「梵天瓜」の略。
7 耳かきの端についている、球状にした羽毛。細かな耳あかを払うためのもの。』
形を変えて各地に伝わる梵天祭り
この中で、3の大形の御幣の一つが祭りとして発展したのが、秋田県内各地に伝わる「梵天(ぼんでん)祭り」である。
秋田市・太平山三吉神社の三吉梵天祭(みよしぼんでんさい)は毎年1月17日に行われる。
同神社のHPに三吉梵天祭の由来が詳しい。
『・梵天の形
元来は、御幣や小さな稲穂の形をしていたものが太平山頂上奥宮に奉納されていたが、現在では、竹カゴを色どり豊かな布や錦で飾り付けたものが一般的である。
ほうづきと呼ぶ頭の部分と、鉢巻、本体、中心の棒からなり、御幣・三角守り・飾りが付いている。
慶応3年、里宮(広面赤沼)が藩主より神社に寄進されてからは、三吉信仰の高まりにより拝観者も増え、年を追う毎に祭りは目立つ華やかなものとなった。
・奉納の意義
太平山が五穀豊穣の神が鎮まる霊山として崇敬を受けてきたことから、梵天奉納は年の始めに「五穀の豊穣」や「商売繁盛」、「家内安全」を祈ることが元々のおこりと考えられる。
』(概要記載)
秋田県横手市の旭岡山神社へ奉納される横手のぼんでんも豪華で勇壮な祭りとして知られる。
『毎年2月17日に旭岡山神社へ奉納される横手のぼんでん(梵天)は、豪華な頭飾りが特徴的な小正月行事で、約300年の歴史を誇る。
また前日には、頭飾りの出来栄えを競う「ぼんでんコンクール」が開催される。
横手のぼんでんの特徴は、大型であることと、豪華絢爛な頭飾りにあり、若者たちが奉納に際して先陣を争って押し合う様子は壮観である。
ぼんでんは、かつて旧暦1月17日に奉納されてたが、昭和27年から新暦2月17日に改められ、「かまくら」と一体的な観光行事になっている。
』(参考・(冬)横手のぼんでん | 横手市
秋田県大仙市大曲の川を渡るぼんでんもユニークな梵天祭りとして知られる。
毎年、建国記念日の2月11日にその祭りは行われる。
『花館地区の各町内から出発したぼんでんは、ほら貝を鳴らし、ぼんでん唄を歌いながら、町内を練り回る。
そして、一の鳥居前でもみ合いをした後、川舟で雄物川を渡り、伊豆山山頂の伊豆山神社に奉納する。
』(参考・川を渡るぼんでん | 秋田県大仙市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E5%A4%A9 【梵天】より
梵天(ぼんてん, 巴: Brahmā )は、仏教の天部の一尊[1]。梵天は仏教の世界観において最高位の一つである梵天界(Brahmaloka)の主である[1][2] 。
古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたもので、十二天に含まれる。梵はbrahmanの漢訳。帝釈天と対になって祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
仏教の伝説では、悟りを開いた直後の釈迦は、その教えを広めることをためらったが、教えを広めるよう勧めたのが梵天サハンパティ(sahampatissa)とされ、この出来事は梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される[3][4]。
なお、天部(六道や十界の1つである天上界)は、さらに細かく分別されるが、色界十八天のうち、初禅三天の最高位(第三天)である大梵天を指して「梵天」と言う場合もある。神としての梵天はこの大梵天に住み、その下の第二天である梵輔天には、梵天の輔相(大臣)が住み、さらにその下の第三天である梵衆天には、梵天の領する天衆が住むとされる。[5]
起源
バラモン教の神が仏教に取り入れられ、仏法の守護神とされ、梵天と称されるようになった。ブラフマーは、古代インドにおいて万物実存の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)と共に三大神の1人に数えられた。
美術
日本における梵天・帝釈天一対像としては、東大寺法華堂(三月堂)乾漆像、法隆寺旧食堂塑像、唐招提寺金堂木像などが奈良時代に遡る遺例として知られ、奈良・興福寺には鎌倉時代作の像がある。これらの像はいずれも二臂の、普通の人間と同じ姿で表され、頭には宝髻を結って、手には払子や鏡、柄香炉を持つなど、唐時代の貴人の服装をしている。
これらの梵天像と帝釈天像はほとんど同じ姿に表現され、見分けの付かない場合もあるが、帝釈天像のみが、衣の下に皮製の甲(よろい)を着けている場合もある。
密教における梵天像は四面四臂で表され、これはヒンドゥー教のブラフマー像の姿が取り入れられたものである。6世紀半ばから8世紀ごろのインドの様式が源流ではないかという指摘があり、エレファンタ石窟群にあるブラフマー像が例の1つとして挙げられている[6]。彫像では京都・東寺講堂の木像が著名である(国宝)。東寺像は四面四臂の坐像で、4羽の鵞鳥(ハンサ鳥)の上の蓮華座に乗っている。
聖観音を本尊とした梵天と帝釈天の三尊形式も見られ、これは平安時代に二間観音供のために祀られたものである。この遺例としては、鎌倉時代後期の東寺の白檀像、愛知県の瀧山寺に見ることができる。瀧山寺像は、運慶の作とされている。
「万物の根源」という漠然としたものを造形化した神で、親しみが湧きにくいためか、インドでも日本でも梵天に対する民衆の信仰はあまり高まらなかった。
https://true-buddhism.com/character/bonten/ 【梵天とは?】より
「梵天」といえば、大ヒットマンガ『東京卍リベンジャーズ』では、日本最大の犯罪組織の名前です。歴史好きな人なら伊達政宗の幼名は「梵天丸」であることも知っていると思います。
この元になっている「梵天」は、実はインドの神の名前です。「梵天」は一体どういう神で、私たちにどう働きかける神なのでしょうか。
梵天とは
「梵天」は、最近のアニメだけでなく、昔から色々なところで聞く名前です。
伝統的な修験道しゅげんどうの祈祷で使われたり、魔除けとして配られる幣束へいそくも梵天と呼ばれています。
この元になった「梵天」というのは、ブラフマンともいわれますが、インドの最高神であり、仏教で説かれる神の1人です。
では「梵天」はどんな姿形をした神なのでしょうか?梵天はどんな姿をしている?どれくらい長生き?こちらが京都国立博物館の梵天像です。
梵天像 十二天像梵天像(出典:京都国立博物館)
これは東寺にあった梵天像で、右手に持っているのは戟げきという武器の一種です。
左手には見えにくいですが、蓮華を持っています。下の左手には、水瓶びょうを持っています。このように腕が4本で描かれるのは比較的新しい梵天像です。
興福寺こうふくじ や東大寺など古くからのお寺の梵天立像は、腕が2本です。
そして『雑阿毘曇心論』によれば、身長は1由延半です。由延というのは、由旬ゆじゅんのことで、大体一日に進める距離です。ですから非常に大きいです。寿命は1劫こう半とも60劫ともいわれます。1劫も気が遠くなるくらい長い時間ですから、大変な長寿です。
ですが不死ではなく、神とはいえ、やはり死にます。
梵天にまつわるよくある誤解
では梵天とはどのような神なのか、参考のために仏教辞典を見てみましょう。
梵天 ぼんてん[s:Brahmā]
非人格的で中性的なブラフマンが次第に擬人化されて登場した、ヴェーダ時代後期を代表する男性の最高神。
ブラーフマナ時代からさらにブッダ以前の最初期のウパニシャッドの時代には、早くも万物の創造主として、プラジャーパティ(Prajāpati、「生類の主」)にとって代わった。
ヒンドゥー教では破壊・維持を司るシヴァ、ヴィシュヌに対し生成の神として重んじられるが、他の2神ほどの勢力は持たない。
仏典では<梵天常童子><梵天娑婆主>などが登場し、梵天は一般にインドラ神に相当する帝釈天たいしゃくてんと並ぶ諸天の長の位を占める。
仏に転法輪てんぼうりんを勧めるいわゆる<梵天勧請かんじょう>の物語は名高い。
なお、梵天の住する色界しきかいの初禅天、大梵天・梵輔天・梵衆天の総称ともする。
十二天の一つ。
遺例に、東大寺三月堂の乾漆像かんしつぞう(奈良時代)、唐招提寺金堂像(木造、奈良時代)、教王護国寺講堂像(木造、平安前期)などがある。
(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、ヒンドゥー教も仏教も簡潔にまぜこぜに書いてあります。
このような書き方だと、日本人の考え方からすると、ヒンドゥー教でも仏教でも同じ神だと思いがちです。
ですが、ヴェーダやヒンドゥー教の場合と、仏教の場合で全く違う特徴を持つ神となっています。
同じなのは、確かに梵天は、仏教でも色々な神々のトップであること位です。
また、仏教で梵天は私たちに対してどんな働きかけをするのかなど、重要なのに書いていないこともあるので、この記事では詳しく解説します。
梵天はバラモン教の神?
梵天のことをブラフマンとも言いますが、バラモン教では梵天を宇宙の原理であり、宇宙を創造した最高の神だと崇めています。
バラモン教のブラフマンと梵我一如
バラモン教で聖典とされる『ヴェーダ』では、ブラフマンは非常に重要です。
『ヴェーダ』の奥義である『ウパニシャッド』の哲学で、人生究極の目的は解脱することですが、その方法は、宇宙原理のブラフマンと、個人の本質であるアートマン(我)が一体になることです。
これを 梵我一如ぼんがいちにょとか梵我一体ぼんがいったい といいます。
梵我一如は仏教以前からある思想なので、仏教でも取り入れられているといわれることがありますが、それはまったくの間違いです。
ブラフマンがバラモン教でいわれるように天地創造の神であるとか、常住不変であるということを、仏教では強く否定されています。
また固定不変の我(アートマン)の存在も仏教では否定されています。
仏教では諸行無常が基本ですので、梵我一如のような思想と仏教は全く相容れません。
バラモン教と仏教はまったく異なるものです。
他にも、梵天は仏教でも説かれており、バラモン教のほうが仏教より先にあったので、仏教ではバラモン教の神を取り入れたという説を唱える人があります。
ですがその説には何の証拠もありません。
バラモン教は神を祀る宗教ですが、仏教では神を祀ってはならないと教えられており、両者はまったく異質なので、教義を取り入れることはありません。
ですが梵天が現実に存在していれば、お釈迦さまが仏のさとりを開かれて、その存在を感知されたとしても、全く自然なことです。
では仏教では梵天をどのように教えられているのでしょうか。
仏教で説かれる梵天
仏教では梵天は、27ある天上界のうち、下から12番目の光音天こうおんてん(極光浄天ごくこうじょうてん)で死んで、下から9番目の天上界である梵天ぼんてん(大梵天だいぼんてん)という世界に輪廻転生した衆生です。
そのことを『長阿含経じょうあごんきょう』にこう説かれています。
衆生あり福尽き、命尽き、行尽き、光音天より命終して空の梵天中に生ず。
すなわち彼の処において愛著の心を生じ、また余の衆生の共にここに生ぜんことを願う。
(中略)
先に生まれたる衆生すなわちこの念をなす、我この処においてこれ梵なり大梵なり。
我自然にあり、よく我を造る者なし。我ことごとく諸義を知り、千世界をつかさどる。
中において自在にして最も尊貴となす。よく変化をなし、微妙第一にして衆生の父たり。
我独り先にあり。余の衆生は後に来る。後来の衆生は我の化成する処なりと。
(引用:『長阿含経』)
このように、最初に梵天に生まれた衆生が、自分は誰にも造られたものではなく、一番偉くて、後に生まれる他の衆生を生んだと思い込んだ、ということです。
この梵天という世界に一番最初に生まれたために、あとに来た人間を自分が生んだと勘違いしてしまったのが、大梵天です。
このような大変な勘違いをしていた梵天を導かれたのがお釈迦さまです。
釈迦vs.梵天。その結果……
例えば『雑阿含経』には、このように説かれています。
ある時、梵天界に住む梵天が、このような邪見を起こしていました。
「この場所は、常恒にして変化せず、純一なる出離の世界である。
未だかつてこの場所に来た者はいない、ましてやここの上を過ぎた者はいない」
その時、釈迦はこの梵天の心で思っていることを知り、すぐに三昧正受(一心に集中したような状態)に入り、そののまま舎衛国(しゃえいこく:コーサラ国の首都)より消えて、梵天のいる宮殿に現れ、ちょうど梵天の真上に来て、空中で結跏趺坐で座禅を組んでいました。
(中略)
その時、釈迦は梵天におっしゃいました。
「汝は、『未だかつてこの場所に来た者はいない、この上を過ぎた者はいない』といったこのような邪見をまだ持つか?」
梵天は釈迦に言います。
「私はもう二度と、さきほどのような『私の上を過ぎた者はいない』ということは言いません。
梵天の光明(梵天のちから)が障碍されるのがわかりました」
その時、釈迦は、梵天のために種々にご説法くださり、分かるところから段々と深い教えへと導き、話が終わると三昧に入り、梵天の上から消えて舎衛国へ帰られました。
『雑阿含経』の原文は以下のようになっています。
時に一梵天あり、梵天上に住し、かくの如き邪見を起こしていわく、この処は常恆にしてへき変易せず、純一出離なり。
未だかつてこの処に来至するものあるを見ず、況んやまたこの上に過ぐる者あらんやと。
その時、世尊は彼の梵天の心の所念を知り、即ち三昧に入り、其その正受の如く舎衛国より没して、梵天宮に現じ、彼の梵天の頂上に当たり虚空の中に於て結跏趺坐し正身に繋念す。
(中略)
その時、世尊は梵天に告げて曰く、汝今またこの見を起し、本より已来未だかつて我が上に過ぐる者あるを見ずとなすや不やと。
梵天、仏にもうす、我今敢てまた言わず、我れ未だかつて我が上に過ぐる者あるを見ずと。
唯梵天の光明の障えらるるを見るのみ。
その時、世尊は、彼の梵天の為に種種に説法し、示教照喜し、おわりてすなわち三昧に入り、その正受の如く梵天上より没して舎衛国へ還る。
(引用:『雜阿含経』)
また、『大悲経』では、梵天は釈迦と対談しています。
その内容は、大宇宙も人間も自分が創ったと勘違いしていた梵天に、釈迦は、
「そなたを創ったのは誰か?」「人々の悪を創ったのはそなたか?」「四苦八苦や諸行無常はそなたのしわざか?」「輪廻転生する迷いの世界や輪廻転生の原因を創ったのはそなたか?」
など、色々な質問をされますが、梵天は一つも答えられません。
最後に釈迦は、「人々が生まれ変わり死に変わりするあらゆる世界も、人々も業が生みだしたものだ」と教えられています。
このように教えを受けた梵天は、すぐにお釈迦さまの弟子となり、どのような修行をすればいいかお尋ねすると、釈迦はその仏土である三千大千世界を改めて梵天に託されました。
そして、やがて弥勒菩薩がこの地上に現れるまで、仏道が断絶しないよう守護するように教えられています。(出典:『大悲経』)
このように、自分が天地創造の神だと勘違いしていた梵天は、釈迦に導かれ、仏教を守護する神になったのでした。ところで、この仏教を守護する神の「梵天」という名前はどういう意味なのでしょうか?
梵天の意味
「梵天」の「梵」はインドの言葉をそのまま音訳した「梵摩」とか「梵覧摩」の略です。
その「梵」の意味について、色々なお経の難解な言葉の意味を解説した『一切経音義』に解説されています。
梵の意味
まず『一切経音義』の中の、『華厳経音義』には、こうあります。
梵を梵摩ぼんまという。つぶさには跋濫摩ばらんまという。此に清浄という。(引用:慧琳『一切経音義』)これは「梵」というのは、「梵摩」のことで、詳しくは跋濫摩ばらんまという、意味は清浄ということだ、ということです。つまり「ブラフマン」を略して梵といっています。ブラフマンは婆羅門と音訳されますので、婆羅門については、『一切経音義』の中の『金光明最勝王経音義』にはこう解説されています。
婆羅門ばらもんとは梵語の訛なまり、不正なり。或は婆羅賀摩ばらかまと曰う、亦訛り也。正梵音に沒囉憾摩ぼらかんまという。唐に浄行という。或は梵行という。即ち色界初禪の梵天の名なり。(引用:慧琳『一切経音義』)
このように、梵も婆羅門も同じ意味で、「清浄」という意味があります。
そして、梵天が住んでいる世界も梵天といわれます。
欲界から色界の初禅天に到達した時、欲界の淫欲を離れるので、初禅天は梵天と名づけられ、また清浄天ともいわれます。
このことを龍樹菩薩の『大智度論』にはこのように教えられています。
梵は欲を離れて清浄なるを名く。(漢文:梵名離欲清淨)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
私たちは毎日あれが欲しい、これが欲しいと欲に振り回されていますが、そのような欲から離れた世界が梵天の世界です。梵天は神の名前ですが、その梵天という神が住んでいる世界も、梵天といわれることがあります。それはどんな世界なのでしょうか?
梵天はどこに住んでいる?3つの世界
私たちの生きる世界は、欲界よくかい・色界しきかい・無色界むしきかい という3つの世界、三界さんがいと言われます。これは六道輪廻の六道と同じ世界ですが、分け方が違います。六道の中でも、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界はすべて欲界にありますが、天上界だけは、欲界と色界と無色界にわたり27種類あります。
表にすると以下のようになります。
(略)
この27種類の天上界のうち、梵天が住んでいるのは色界天しきかいてんです。
色界天は、禅定ぜんじょうの修行を成し遂げることで到達できる、欲界を離れた天上界です。
欲界は大変苦しみが多い世界なので、欲界から離れた色界は、より幸福な世界です。
その中で、梵天が住んでいるのは、初禅といわれる禅定の功徳によって行ける初禅天しょぜんてんです。
この初禅天を梵天ともいいます。
初禅天は、大梵天だいぼんてん、梵輔天ぼんほてん、梵衆天ぼんしゅてん、の三つの天上界に分かれます。そして、それぞれ違った梵天が住んでいます。
それぞれに住んでいる梵天の名前は、その世界と同じ、 大梵天だいぼんてん、梵輔天ぼんほてん、梵衆天ぼんしゅてんです。
その中でも大梵天は、婆婆世界の主たる王であり、お経にもよく出てきます。
梵輔天の輔は、輔相ということで大臣のことですので、梵輔天は大臣のようなものです。
梵衆天というのは、一般大衆の梵天です。
ですから、梵天という神は一人ではなく、複数いるわけです。
梵天の仏教における4つの活躍
このように、梵天はたくさんいて、よくお釈迦さまのご説法を聴聞しています。
そのため、お経の中にもたくさん登場しています。
『雑阿含経』には婆句梵天が何度も登場しますし、
『思益梵天所問経』は、思益梵天の質問にお釈迦さまが答えられています。
『法華経』は、梵天王、尸棄大梵、光明大梵などが聞きに来ていますし、
『華厳経』は、尸棄大梵、智光大梵、善光大梵、普音大梵、隨世音大梵、寂靜方便妙光大梵、淨眼光大梵、柔軟音大梵などが聞きに来ています。
法華経では父のごとし
たくさんの梵天の中でも一番トップの大梵天について、お釈迦様は『法華経』で、「一切衆生の父の如し」と言われています。大梵天が一切衆生の父の如く(引用:『妙法蓮華経』)
これは大梵天を父のように素晴らしい梵天という意味です。
それだけ神の中でも最も尊敬されているということです。
広長の舌相の到達点
梵天は、仏のさとりを開いた人の特徴である、三十二相についての説明にも登場します。
三十二相の一つ、広長 こうちょうの舌相ぜっそうについて、『法華経』に
お釈迦様や諸仏方の舌が梵天まで届いたと説かれています。
舌相梵天に至り(引用:『妙法蓮華経』)
この梵天は初禅天のことです。
仏さまの舌の長さは梵天にまで届くほどであったという意味です。
お釈迦様や諸仏方が、真実しか語られていないことを、このように表現されています。
また仏の三十二相の1つに梵声相ぼんじょうそう というものがあります。
これは大梵天のように清浄な声であるという意味で、転じて仏方の声の意味にもなりました。
このように梵天は、仏法者を守る諸神として高い評価を受けています。
女人五障の一つ「不得作梵天王」
このように梵天は高い評価を受けているので、女性がなれないといわれる5つのものに含まれています。
また女人の身なお五障有り。
一者は梵天王なることを得ず。
二者は帝釈、三者は魔王、四者は転輪聖王、五者は仏身。
(引用:『妙法蓮華経』)
この意味は、梵天王、帝釈天、魔王、転輪王、仏になれないという意味です。
梵天に生まれるには、欲を離れて、清浄の心で修行(禅定)ができなければなりません。
仏教では、対機説法たいきせっぽうといって、相手に応じて法が説かれます。
これは男性が迷いやすいために、女性に迷わないようにと、
女性を罪深きものとして説かれることがありますが、
決して仏教が男尊女卑の教えだからではありません。
男性でも女性でも、天上界に生まれることは到底できません。
男性、女性にかかわらず、清浄の心で修行(禅定)ができなければ、梵天に生まれることができず、
梵天にさえ生まれられないものが、仏のさとりを開き、極楽浄土へ生まれるというのは、非常に難しいのです。
ちなみに天上界については以下の記事をご覧ください。
➾【有頂天から始まる地獄】仏教の天上界の種類と意味・天上界へ行く方法
禅宗が発祥した拈華微笑での重要な役割
「拈華微笑ねんげみしょう」とは、お釈迦さまが華をひねられた時、弟子の大迦葉だいかしょうが微笑されたということですが、禅宗でお釈迦さまから大迦葉へ正しい法が以心伝心したという重要なエピソードです。
その拈華微笑ねんげみしょうの時、大梵天はこのような重要な役割を果たします。
それは『大梵天王問仏決疑経』という大梵天に対して説かれたお経に説かれています。
晩年のお釈迦さまが、ある時、背中に痛みを感じられ、涅槃が近づいていることを知られます。
そこで、お弟子たちに、何か質問があれば聞いておくようにといわれました。
その時、大梵天が現れたとこのように説かれています。
その時、大梵天王、即ち若干の眷属を引き來り、世尊に金婆羅華こんぱらげを献じ奉り、各各佛足を頂禮し、退きて一面に坐す。
その時世尊、即ち献じ奉れる金色婆羅華を拈じ、目を瞬き、眉を揚げて、諸の大衆に示す。
默然と毋措し、迦葉のみ有りて破顔微笑す。
(漢文:爾時大梵天王即引若干眷属來奉献世尊於金婆羅華 各各頂禮佛足 退坐一面 爾時世尊即拈奉献金色婆羅華 瞬目揚眉 示諸大衆 默然毋措 有迦葉破顔微笑)
(引用:『大梵天王問仏決疑経』)
大梵天が何人かの従者を従えてやってくると、お釈迦さまに金婆羅華こんぱらげの花を献上して、礼儀正しく退くと、ご説法を聴聞する席に着きました。
お釈迦さまは、その花をねじられて瞬きをされ、眉を上げて参詣者に示されます。
みんなシーンと静まりかえっていたのですが、その中でただ一人、大迦葉だけが微笑し、以心伝心で大法を相続したということです。
この時、お釈迦さまがねじられた華を持ってきたのは、梵天だったのです。
もし梵天が華を持って来なければ、以心伝心はされなかったかもしれません。
禅宗の成立に関わる重要な役割を果たしたのも、梵天だったのです。
禅宗について詳しく知りたい場合はこちらをご覧ください。
➾禅宗の教え
このように、大活躍の梵天ですが、何といっても最も活躍したのは、「梵天勧請かんじょう」といわれる出来事です。
仏教最大の危機を救う・梵天勧請
「梵天勧請かんじょう」とは、これがなければ仏教は存在しなかったかもしれない、非常に重要なできごとです。
この時、梵天は、仏教最大の危機を救ったことになります。
それはどんなことかというと、お釈迦様が35歳で仏のさとりを開いた後、人々に説法することをためらわれました。
あまりの深遠なさとりに、人々に説いたとしても、誰も分からないどころか、罪を造らせて余計苦しめることになるのではないかと思われたからです。
それにいち早く気づいた梵天が、お釈迦様を何度も何度も説得し、ついにお釈迦さまは初転法輪しょてんぼうりんの決心をされたという大事件が梵天勧請かんじょうです。
もしここで梵天が説得しなければ、仏教は説かれていませんので、梵天のおかげで、今日まで仏教が伝わっていると言っても過言ではありません。
梵天勧請では、お釈迦様の心の変化が梵天とのやり取りでよく分かるだけでなく、
また他宗教では最高神とされているほどの梵天が、お釈迦様に教えを請うという驚くべきストーリーです。
ちなみにお釈迦様の生涯については、こちらの記事をお読みください。
➾ブッダ(お釈迦様)の生涯と教えを分かりやすく簡単に解説
仏のさとりを開いた後の心境
お釈迦様が菩提樹の下で仏のさとりを開いた後、7日間考えられていた様子がお経に説かれています。
その時如來、七日の中に於て、一心に思惟し、樹王を観てしかして念言すらく、
「我れ、この処に在って一切の漏を尽くし、所作、すでに竟り、本願成満す、我が得たる所の法、甚だ深くして、解し難し、ただ仏と仏のみいまし、よく之をしる、一切の衆生、五濁の世に於て、貪欲、瞋恚、愚痴、邪見、憍慢、諂曲、の覆障する所となり、薄福鈍根にして智慧あることなし、如何ぞよく、我が得たる所の、法を説かんや、今我、転法輪をなさば、彼ら等、必ず迷惑して、信受する能わず、誹謗を生じて、悪道に堕し、諸々の苦痛を受くべし、我むしろ黙然として、般涅槃に入らんか。
(引用:『過去現在因果経』)
お釈迦さまが7日間深く考えておられたことは、
悟った内容があまりにも微妙甚深にして、欲や怒りや愚痴といった煩悩にまみれた人々には理解されがたく、知り難い教えだったため、このさとりの内容を聞いた人が、誹謗の心を起こし謗法罪ほうぼうざいを重ねてしまうことを恐れる。
そのため教えを説かないまま、早めに涅槃ねはんに入ろう(往生しよう)と考えました。
大梵天は、お釈迦様が説法されないことを知り、居ても立ってもいられなくなります。
お釈迦様を説得
「衆生は、長夜、生死に沈没するを、我、今、まさに往いて法輪を転ぜんを請いまつるべし」
この念をなし已りて即ち天宮を発し
(引用:『過去現在因果経』)
梵天は、「衆生は想像もできないほど長い間、生死流転し苦しみ続けている。私(梵天)は、今、まさに説法をしていただくよう請い願おう」と思うとすぐに、住んでいる天宮を立たれました。
梵天はお釈迦様の所に到着すると、このようにお願いをします。
云何ぞ默然として説法したまわざる。
衆生、長夜、生死に沒溺し、無明の暗に墮し、出期甚だ難し。
然るに衆生、過去世の時、善友に親近し、諸徳本を植え、法を聞きて、聖道を受くるに堪た任ふる衆生あり。
唯願わくは世尊、これ等を以ての故に、大悲力を以て妙法輪を転じたまえ。
(引用:『過去現在因果経』)
「お釈迦様は、仏のさとりを開いたのに、なぜ説法をなさらないのですか。
人々はとても長い間、生死輪転をくりかえし、無明の闇に堕ち、苦しみから離れ切ることができません。
そのため衆生は過去世で何度も善知識(正しい仏教の先生のこと)に親近し、沢山の善を行い、仏法を聞いて、修行できる衆生が必ずいます。
唯願わくはお釈迦様、このようなことから大慈悲をもってどうか最高無上の法をお説きください」
梵天はお釈迦様に請い願い、他にも帝釈天や他化自在天などの諸神も来て同じように願いました。しかし、お釈迦様は次のように言われます。
我また一切衆生のために法輪を転ぜんと欲す。ただ所得の法、微妙甚深にして解し難く知り難し。諸の衆生等、信受する能わずして、誹謗の心を生じて地獄に堕せん。我、今、これが為の故に黙然たるのみ。(引用:『過去現在因果経』)
「私もまたすべての人々のために法を説きたいと欲している。ただ悟った法は、微妙甚深にして理解しがたく知り難い。多くの人たちは信受できずして、誹謗の心を起こし、地獄に堕すだろう。私はこのためにただ沈黙しているのだ」
しかし、これを聞いた梵天等の諸神たちは苦しむ衆生のために諦めるわけにはいきません。
時に、梵天王等、乃ち三たび請いまつるに至り、その時、如来、満七日に至りて、黙念としてこれを受け給う。
梵天天王等、仏が請いを受けたまえるを知り、頭面に足を礼して、各所住に還る。
(引用:『過去現在因果経』)
梵天王らは、三度もお釈迦様に説法していただくよう、請い願いました。
そして7日経った頃、ついにお釈迦様は黙念として願いを受け入れてくださいました。
梵天王たちは、お釈迦様が説法してくださることが分かると、頭面礼足ずめんらいそく(最高の敬礼)をして、それぞれ帰っていきました。
このように、お釈迦様が説法されるまでには、多く悩みや葛藤があり、それほど深い教えだということも分かります。
この後初めてなされたご説法を初転法輪といいます。
初転法輪について詳しくは五比丘の記事を合わせてお読みください。
➾五比丘・初転法輪でお釈迦様の最初の弟子になった5人とは?
仏法者を守護する神
梵天はいつ頃から仏法を護る神になったのかというと、
実はお釈迦さまが命じられる前から、悪が蔓延した娑婆世界を護持養育(見守り育てる)するように、大梵天はすでに過去において、何人もの仏方から命じられていました。
ところが、娑婆世界の王といわれる大梵天でも失敗をしてしまい、お釈迦様に過ちを謝罪したこともあります。
この世界を守護しているのは誰?
まずお釈迦様は、大梵天へ娑婆世界を護持養育しているのかを尋ねられています。
その時に世尊、世間に示すが故に、娑婆世界の主、大梵天王に問うて言わく
「この四天下、これ誰かよく護持養育をなす」と。
(引用:『大方等大集経』)
ある時お釈迦様が、娑婆世界の主たる大梵天に、
誰がこの娑婆の四天下を護持養育しているのか、とお尋ねになりました。
四天下とは、当時のインドの宇宙観で須弥山という山を中心とした世界のことで、
私たちの住んでいる世界も含まれています。
かくの如く天師梵、諸天王を首となして、兜率・他化天・化楽・須夜摩、よく此の如きの四天下を護持養育す。
四王及び眷属、またまたよく護持す。
二十八宿等及び十二辰、十二天童女、四天下を護持す。
(引用:『大方等大集経』)
大梵天は、兜率陀天王とそつだてんおうや他化自在天王たけじざいてんおう、化楽天王けらくてんおう・須夜摩天王しゅやまてんおうなどの諸々の天王や、その下に毘沙門天びしゃもんてん・提頭頼吒だいずらた、毘楼勒びるろく天、毘楼博叉びるはくしゃ 天という四天王、さらにその眷属、それから宿・曜・辰といった星々に、娑婆の四天下を護持養育させたと答えました。
色々な仏が梵天に守護を命じる
お釈迦様は大梵天の言ったことをお認めになり、
次に月蔵菩薩に次のように語りました。
その時に、仏、月蔵菩薩摩訶薩に告げて言わく、清浄士を了知するに
(中略)
鳩留孫仏、世に出興したまう。
(中略)
かの仏、この四大天下を以て、娑婆世界の主、大梵天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王等に付囑したまう。
護持の故に、養育の故に、衆生を憐愍するが故に、三宝種をして断絶せざらしめんが故に、熾然ならしめんが故に
(引用:『大方等大集経』)
今この清浄の国土を調べてみると、過去に鳩留孫仏くるそんぶつがこの世に現れ、
大梵天や帝釈天やその他の諸神に娑婆世界を護持養育するよう命じました。
ちなみに帝釈天という神は梵天の部下ですので、梵天は、よく帝釈天とセットで「梵釈」と言われることがあります。
仏様が、神々に娑婆世界を護持養育するよう命じたのは、衆生を哀れんでのことであり、仏宝僧の三宝が決してなくならないように、いよいよ仏法を燃え盛るように伝えるためでありました。
かくの如く漸次に劫尽き、諸の天人尽き、一切の善業・白法尽滅して、大悪諸煩悩溺を増長せん。
(引用:『大方等大集経』)
しかし時が経つにつれて、諸天人の果報は衰え、一切の喜業がつき、清白の正法が滅び、沢山の悪業と様々な煩悩ぼんのうに溺れることが増長したのであった。
拘那含牟尼仏くなごんむにぶつ、世に出興したまう。
かの仏、この四大天下を以て、娑婆世界の主、大梵天王・他化自在天王、乃至、四大天王、及び諸の眷属に付嘱したまう。
護持養育せんが故に
(引用:『大方等大集経』)
やがて拘那含牟尼仏くなごんむにぶつがこの世に現れ、大梵天や帝釈天やその他の諸神に娑婆世界を護持養育するよう命じました。
迦葉如来、世に出興したまう。
かの仏、この四大天下を以て、娑婆世界の主、大梵天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王・憍尸迦帝釋・四天王等、及び諸の眷属に付嘱したまう。
護持養育せんが故に
(引用:『大方等大集経』)
しかしまた同じように、悪が増長してくると、
次に迦葉仏がこの世に生まれ、迦葉仏もまた大梵天や帝釈天やその他の諸神に娑婆世界を護持養育するよう命じました。
かくの如きの悪衆生の中に、我今出世し、菩提樹下に初めて正覚を成じ
(引用:『大方等大集経』)
このように悪が増長していく中で、私(お釈迦様)は菩提樹の下で仏のさとりを開き、地球上に来現したのだと、お話になられました。
その時に世尊、また娑婆世界の主、大梵天王に問うて言わく、
「過去の諸仏、この四大天下を以て、かつて誰に付嘱して護持養育をなさしめたまうや」と。
(引用:『大方等大集経』)
大梵天の過ち
ここで改めてお釈迦様は大梵天へ尋ねられます。
「過去の諸仏は、この娑婆世界をかつて誰に命じて護持養育させようとしたのか」
実は、大梵天は、自分が命じられていたにもかかわらず、そのことをお釈迦様に言っていなかったのです。
なぜ言わなかったのかというと、
大梵天は自らが命じられていたにもかかわらず、娑婆世界を護持しようとせず、悪が増長してしまった責任を回避するためでした。
時に娑婆世界の主、大梵天王言さく、
「過去の諸仏、この四天下を以て、かつて我及び憍尸迦に付嘱したまえりき。
護持をなさしめて、我、失ありやいなや。
己が名及び帝釈の名を彰す。
ただ諸余の天王及び宿・曜・辰を称せしむ、護持養育すべし」と。
(中略)
我今過とがを謝すべし。
我小児の如くして、愚痴無智にして、如来の前みまえにして自ら称名せざらんや。
(引用:『大方等大集経』)
この時大梵天は答えました。
過去の諸仏が娑婆世界を護持するよう、私と帝釈天へ命じられました。
そして私は諸天に護持させていたのですが、何か過失はありましたでしょうか?
私は自分と帝釈天の名を出して、衆生にその諸天王や星々を称賛させ、護持養育するように勧めました。
(ところが、やがて梵天は懺悔します・中略)
私は今自分の過ちを謝罪します。
私は子供のように愚痴ばかりで、智慧がありませんでした。
お釈迦様の前で、自ら阿弥陀如来の御名を称えさせていただきます。
この話はお釈迦様が、大梵天の過失を自覚させようとして問いを出し、大梵天の心からの懺悔と反省を促したのでした。
ちなみに懴悔については、こちらの記事もあわせてお読みください。
➾懺悔とは?意味と後悔の違い・罪が消滅する効果と懺悔のやり方
この時の梵天の過失とは、諸天王や諸神を称賛させてしまい、阿弥陀仏の名を称えることを勧めなかったことです。
ここで懺悔した大梵天王は、「愚痴無智」の自覚と共に、称名念仏するものへと転じました。
それは梵天とはいえ、輪廻の中の迷える衆生なので、阿弥陀如来に救済されるべき迷いの存在だったのです。
そして梵天はこの後、「行法の衆生を護持する」と誓います。
行法の衆生とは、仏教の教えの通り、本当の幸せになった人のことです。
するとお釈迦さまは、梵天に行法の衆生を託されます。
その時仏、百億の大梵天王につげてのたまわく、所有の行法、法に住し法に順じて悪を厭捨せんものは、いま悉く汝等が手のうちに付属す。
(漢文:爾時佛告百億大梵天王言 所有行法 住法順法厭捨惡者 今悉付囑汝等手中)
(引用:『大方等大集経』)
このようにお釈迦さまは、百億の梵天に対して、仏教の教えによって本当の幸せに救われた人をことごとく、梵天に託しておられるのです。
ですから、梵天は仏法者を護る神であり、仏教の教えの通り本当の幸せになれば、梵天に護られる身になれます。
梵天に守護してもらうには?
それではまとめますと、今回解説したように、梵天とは、仏法者を護る神のことです。
天上界の初禅定といわれるところを指すこともありますが、それは梵天が住んでいる世界です。
梵天は一人ではなく、たくさんの梵天がいるのですが、その中でも一番上の大梵天は、よくお経に出てきて大活躍しています。
特に梵天勧請といって、お釈迦様が仏のさとりを開かれて、教えを説かれるのをためらわれた時には、説法していただくよう懇願していますが、これがなければ仏教は説かれなかったかもしれません。非常に重要な役割を果たしています。
この梵天勧請は同時に、お釈迦様の教えが深さもしれない深い教えであることを表されています。
そして梵天は、遠い過去から、色々な仏さまから、仏法者を守護するように命じられています。
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