たまゆらや初日を兆す神庭山 高資— 場所: 宇都宮城址公園
加波山(神庭山[かんばやま])
加波山に夕日の日照る神の留守 五島高資
加波山は国常立尊(艮金神)が祀られた霊峰です。山全体が花崗岩(御影石)で出来ており、霊性の高いと思われます。かつてここは、神母山、神場山、神庭山とも呼ばれ、修験道が興隆した所以です。私も縁あってここの真壁石で出来た小さな石灯籠を持っています。筑波山とはまた少し違った信仰の山です。(加波山神社のHPでは、なぜか主祭神が国常立尊ではなく、伊弉册大神、速玉男大神、事解男大神となっていますが、これは明治以降の国家神道の影響かもしれません)
https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/311215ef69e4245a3471fcf65fe415f0 【加波山神社(常陸国式外社・その11の1)】より
加波山神社(かばさんじんじゃ)。通称:加波山神社中宮、加波山神社中天宮。
場所:(桜川拝殿)茨城県桜川市真壁町長岡891。茨城県道41号線(つくば益子線)沿い、「樺穂小学校」北西角から北へ約80mのところの交差点(電柱に「加波山神社本宮→」の案内板がある。)を右折(東へ)、約900m。駐車場有り。
かつて「加波山大権現」と呼ばれた神社は現在、実質的に2社に分かれて対立していて、それぞれ里宮があり、「加波山」(標高709m)山上にもそれぞれ拝殿・本殿があって、とても分かりにくい状態になっている。まず、「加波山神社」から。
社伝によれば、第12代・景行天皇の時代に、日本武尊が東征に際して加波山に登拝したとき、神託により天御中主神、日の神、月の神の三神を祀り、社殿を建てたのを創祀とする。延暦20年(801年)には征夷大将軍・坂上田村麻呂が陸奥国平定の際に戦勝を祈願し、大同元年(806年)に社殿を寄進した。仁寿2年(852年)、別当の真言宗「加波山 文殊院」一世阿闍梨・真郎沙弥により「加波山大権現」と称するようになったとされる。その後、所謂「熊野三山」の祭神が加波山山頂に祀られたことから、「熊野三山」に倣い、「親宮」・「本宮」の2社が創建された。中世には神仏混淆が進んで「文殊院」の支配が強まり、山伏・修験者の真言密教「加波山三光流」の霊場・道場として栄えた。明治時代に入り、神仏判然令により「文殊院」を分離して「加波山神社」となり、明治6年に郷社に列せられた。明治11年に現・茨城県石岡市に里宮として「八郷拝殿」、同34年に現・桜川市に同じく「真壁拝殿」を建立し、加波山山頂の本殿・拝殿と合わせて3ヵ所で社務を行っているという。現在の主祭神は、国常立尊(クニトコタチ)・伊邪那岐尊(イザナギ)・伊邪那美尊(イザナミ)の3神で、他に加波山中に737柱の神を祀るとされる。
当神社について、「日本三代実録」貞観17年(876年)の記事に「常陸国の正六位上・三枝祇神に従五位を授けた。」にある「三枝祇神」に当たる、つまり式外社(国史見在社)に比定する説がある。当神社に「三枝神社」と記された棟札が残っているとされるが、それ以上のことは不明。式内社「筑波山神社」は疑いようもないが、現・茨城県笠間市の「飯綱神社」(愛宕神社奥社。2018年12月15日記事)を式内社「夷針神社」に比定すること、また当神社を式外社「三枝祇神」に比定することについては根拠が薄弱なような気がするのと、どちらも天狗=修験者の勢力の強いところだったので、その権威付けに使われたのではないか、という気がしてならない。
写真1:「加波山神社」八郷拝殿の鳥居(場所:茨城県石岡市大塚2399)。加波山の東、約3km(直線距離)。
写真2:同上、社殿。
写真3:同上、境内社「加波山愛宕神社」
写真4:「加波山普明神社」鳥居と社号標。「一合目」という石柱もある。
写真5:同上、社殿。「加波山神社」桜川拝殿に隣接。これも拝殿で、本殿は加波山の中腹にある。「加波山神社」桜川拝殿が完成する前は、こちらが里宮の役割を果たしていた。祭神は、明治時代の仙人とされる国安普明命。
写真6:「加波山神社」桜川拝殿の鳥居。
写真7:同上、社殿。
https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/f277d567eba924825886c3ad1aa0c18d 【加波山三枝祇神社本宮・親宮(常陸国式外社・その11の2)】より
加波山三枝祇神社本宮・親宮(かばさんさえなずみじんじゃほんぐう・しんぐう)。通称:加波山神社本宮・親宮。
場所: (里宮)茨城県桜川市真壁町長岡798。「加波山神社」(前項)真壁拝殿の手前、約300m。駐車場有り。
社伝によれば、第12代・景行天皇41年、日本武尊が東夷征伐の帰途、加波山に至り、神託により社殿を建てたのを創祀とする。その後、茨城国造家の三枝部連がその祖神を祀ることにより「三枝祇神社」と改称した。神護景雲2年(768年)に社殿が建立され、大同年間(806~810年)には仏教僧が入山して別当寺院を創立したことにより、以後、両部神道(真言宗による神仏習合)の時代に入り「加波山権現」と称された。多数の修験者が集まったが、三派に分かれ、室町時代の第100代・後小松天皇(在位:1382~1412年)のときに「中宮」=「文殊院」、「本宮」=「正幢院」、「親宮」=「円鏡寺」の3社体制となった。明治時代に入り、神仏判然令により、それぞれ神仏分離して神社となった(寺院は廃寺)。「中宮」は郷社「加波山神社」(前項)となり、「本宮」・「親宮」は「三枝祇神社本宮」・「三枝祇神社親宮」として村社に列せられた。大正時代に「親宮」は「本宮」の管理下に入り、「親宮」の里宮は廃され、「本宮」の里宮に合併された。ということで、宗教法人格は別だが、「本宮」と「親宮」は実質一体と見てよい。現在の主祭神は伊弉冊大神(イザナミ)、速玉男大神(ハヤタマオ)、事解男大神(コトサカオ)。
さて、「加波山権現」を、「日本三代実録」貞観17年の記事にみえる「常陸国の正六位上・三枝祇神に従五位下を授ける。」の「三枝祇神」に比定するのが通説のようであり、であれば、当神社も式外社(国史見在社)であるということになる。「加波山神社」(「中宮」)と当神社は不仲であるようで、当神社が「加波山(神社)」の名を使うことは「不正」だと言っている。また、「加波山神社」(「中宮」)が「由緒古く正しい」から郷社となり、当神社は村社となったとしている。一方で、「加波山神社」(「中宮」)は式外社であることをあまり主張していないが、当神社は式外社「三枝祇神」であることを殊更に強調しているようにも思われる。社伝では、天文15年(1546年)に真壁城主・真壁安芸守家幹が社殿を再建した際、「加波山三枝祇社壇」という改築記念寄進額を受けたとされる。「三枝祇神」というのが、3柱の神を祀ったことによるものか、3社体制であることによるものか、あるいは、それ以外の意味があるのか、今となっては何とも言えないのだが。。。
加波山神社本宮のHP
写真1:「加波山三枝祇神社本宮・親宮」入口。社号標は「三枝祇神社 加波山本宮」。
写真2:一の鳥居。扁額は「延喜式社 加波山大神」(式内社ではないはずだが。)
写真3:境内の社号標。こちらは「国史所載社 式外有位神社 加波山本宮」。
写真4:境内
写真5:社殿。こちらに掛かる額は「延喜式社 加波山本宮親宮 合祀殿」となっている。
写真6:境内社「加波山五社稲荷」
写真7:裏参道
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