日月星三光信仰 加波山・太平山・寒川神社の日月星信仰

https://www7b.biglobe.ne.jp/~houisen/sankou.htm 【日月星三光信仰 加波山・太平山・寒川神社の日月星信仰】より

 加波山神社中宮の由緒に、天御中主神の他に日の神・月の神の神を祭ったとあることは、加波山は星信仰にさらに日月信仰が加わった、日・月・星を祭る山だったということも考えられる。さらにいえば、天御中主神にあたる神が星神だったということになり、日月星信仰のなかでも星を主神とする信仰だったとも考えられる。『消された星信仰』によると、シュメールの信仰は日月星の三位一体であった。日月星の三位一体の信仰は、その後太陽中心になったり、月神あるいは星神が中心になったりしていくが、三位一体の形態を残している部族も残存しており、古代アラビア系の部族では月神が最高神で、太陽神がその妻、金星がその子という日月星の信仰をもち、それは今も続いているという。星神が主神の日月星信仰もあったということである。『消された星信仰』では、星信仰は先住系の信仰で「日・月・星」の三位一体の信仰であったが、太陽信仰のみの大和朝廷によって弾圧され、月神は月読神として脇役に追いやられかすかにスサノオ伝承の中に残され、星神のほうは完全に否定して悪神に落とされてしまったという。そして、古代の星信仰を物部に結びつけている。その理由は、星信仰と結びつく神社が多い下総が、物部小事など物部氏と関係が深いこと、大和朝廷以前の先住系はホアカリに代表される物部にほかならないとすることによってであり、天御中主は『日本書紀』では一書にでてくるが、一書は先住系の伝承であり、天御中主は物部氏の神であるという。なお、『消された星信仰』では渡来技術者集団の物部と物部氏を区別しており、星信仰は渡来技術者集団の物部の信仰であるされる。物部が先住民で、日月星信仰をもっており、天御中主が物部の神であるとすると、加波山神社中宮の天御中主は星神で主神だったということになるわけである。

ただ、先住系の代表が物部であるということは疑問であろう。関東の物部については、藤原氏の常陸制圧戦で一応先住民物部は敗れたことになっているが、香取神宮や八日市場市の式内社老尾神社が残っていることは、妥協があったことを物語っているという。しかし、老尾神社は継体天皇の頃、物部小事が関東に乗り込んで作った匝瑳国の名残ともいわれるから、そうすると継体が殺されて反乱を起こした関東の出雲神族を鎮圧するために物部小事が派遣されてきたか、出雲神族が敗れてその力が弱まったところに入って来たということにもなる。

『消された星信仰』によると、栃木県の太平山神社のある大平山は三光山とも称し、天長十年(833)に慈覚大師円仁が開山して山頂に大平権現を祀り、神体山男体山(日光)の前山にしたという。大平山権現は三光天子であり、三光とは日、月、星を意味するといい、本地仏は虚空蔵菩薩であるが、日、月、星を仏教的に置き換えたものであるという。山上にはもう一寺星住山松樹円通寺があった。また、淳和天皇の下野国の霊峰三輪山に天下太平を祈る社を造営せよとの詔により、「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りするために太平山神社が造営され、もともと此地でお祀りされていた神は奥宮に鎮座されたともいう。すなわち、「三輪山之大神之社」は奥の宮の神として、「剣之宮」と共に鎮座なされ(禁足地)、日月星の「三光の社」は現在の処に太平山神社として御造営されたという。日蓮も日月星信仰と関係が深いようであるが、日蓮と関係する千光山金剛宝院清澄寺も、宝亀2年(771)不思議法師が虚空蔵菩薩を刻み開創、桓武天皇の勅願所で慈覚大師が承和3年(836)中興したと伝わる。

 慈覚大師は師最澄が尊信していた三輪神社を祭る大平山に入山しようとしたといわれ、『太平山開山記』では慈覚大師円仁は何年にも渡り入山を拒否されていたが、淳和天皇の勅額を奉じて天長4年(827)入山に成功したと記されているという。日光の星信仰はそれより少し遡るようである。『消された星信仰』によれば、日光市上鉢石町にある磐裂神社は通称「星の宮」といわれ、日光を開山した勝道上人の伝説では、明星天子の教導によるもので、開山の後にその恩を謝して星宮を祀った所で、その創建は天平宝字元年(757)であるという。明星天子の本地は虚空蔵菩薩とされているが、それがさらに拡大されて太平山では虚空蔵菩薩は日月星の三光天子の本地仏とされているわけである。

 もし、太平山においてもともとあったのが「三輪山之大神之社」と「剣之宮」で、太平山神社は慈覚大師円仁により創建され、その日月星三光信仰も慈覚大師によって持ち込まれたものだとすれば、もともとの「三輪山之大神之社」や「剣之宮」の信仰は日月星信仰と関係がなかったということになる。ただ、太平山神社に香々背男が祀られているということは、「三輪山之大神之社」や「剣之宮」の信仰は星信仰とは結びついていたと考えられる。では、慈覚大師以前の太平山に日月星信仰はなかったのであろうか。「三輪山之大神之社」という社名から太平山と出雲神族の関係が窺われるが、『消された星信仰』によると、神奈川県の寒川神社の八方除のお札には、太陽を上にしたの日月星の神紋が刻印されており、寒川神社も日月星の三位一体の形態を残しているという。寒川神社の祭神はタテミナカタであるという伝承が諏訪の語り部にはあったようであり、寒川神社のある相模国の国造はやはり出雲神族とされる伊勢津彦の子孫であるから、寒川神社は出雲神族とも関係があると考えられる神社である。その寒川神社に日月星信仰があるということは、もともとの太平山にも日月星信仰があったかもしれないわけである。もっとも、『消された星信仰』では、両社とも比叡山の三光信仰の影響が後に入ってきたと考えているようである。ただ、太平山神社のほうは天台系の北回りの騎馬族、寒川神社は海回りの海人族という違いが感じられるという。

 出雲神族が日月星信仰と結びつく可能性はあるのであろうか。吉田大洋氏のいうように、出雲神族の原郷がオリエント付近であるとすると、出雲神族には日月星信仰がある可能性も否定できない。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によれば、スーサから出土した紀元前1200期のカッシュ王朝のときに立てられたメリシクの碑には、第一段目に月神シン・星の女神イシュタル・太陽神シャマシュなどが描かれ、第二段には獅子頭をもつ有翼竜の上にあの世の神のネルガル、第三段に竜に乗ったマルドゥク神とナブ神、第五段に角の生えた竜神ニンギジッタが彫られているという。吉田大洋氏によればメソポタミアで牛族が主導権握ったのは古バビロニアあたりからで、マルドゥクが竜神とされるのは竜蛇族を征服したからで、このころから竜は神から神使に格下げされたというが、日月星神を最上段に置くメリシクの碑に龍が執拗に描かれているのは、もともと日月星神信仰が龍蛇族のものだったからかもしれない。吉田大洋氏によれば、シュメール人は竜神ニンギジッタを奉じる龍蛇族で、近江和雅氏によれば、オリエントの古い信仰は日月星信仰だったというのであるから、そういうことになるであろう。吉田大洋氏は、龍蛇族であるシュメール人の多くは竜神の神紋である亀甲紋や龍神信仰の流れからみて、インド・インドネシア、マレーシフの方に逃れたのではないかという。龍神信仰と太陽信仰の関係であるが、『竜神よ、我に来たれ!』によれば、龍神は太陽神あるいは太陽神の紳使とされ、エジプトの日神ホルスは蛇の船に乗り、有翼の太陽円盤にも二匹の蛇が絡み付いており、インドの太陽神スーリヤは頭に七頭の竜王を飾っているが、龍神=太陽神は龍神=月神より新しいという。エジプトを龍蛇族が支配していたのは古第一王朝から第五王朝までで、その後は太陽信仰の牛族や鳥族などと混血し、龍蛇は王権の象徴以外のなにものでもなくなり、第二十王朝ともなると悪の蛇が現れ、テーベのイン・ヘル・カウの墓には聖なる樹の下で、太陽神ラーの象徴であるヘリオポリス聖猫が暗黒・悪の象徴のアポピ蛇を殺す壁画が描かれているし、『死者の書』には「おお、アポピ蛇よ。汝、太陽神ラーの敵よ」と記されているという。天孫族はこの龍蛇を太陽神の敵とする勢力の中から出てきたということなのであろう。

 中国においても、近江雅和『記紀解体』によれば、伏羲と女?は蛇身人首で下半身はともに蛇体となって互いに合っているが、上には太陽と星、下には月と星が描かれているという。上下に太陽と月があるということは、陰陽で伏羲と女?がそれぞれ太陽と月ということかもしれないが、それにそれぞれ星がついているということは、龍蛇神である伏羲と女?は日月星と結びついているということであろう。

 寒川神社にも古くからの日月星信仰があったとすれば、太平山の日月星信仰は寒川神社の方から持ち込まれた可能性もある。太平山の南方10km程のところに小山市寒川があり、伊勢津彦の伝承がある八風山の東西線上に位置していた。寒川神社と栃木の寒川の関係性ははっきりしないが、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によれば、栃木県の寒川は龍神信仰の盛んな所といわれ、岩舟町の三鴨神社に建御名方命が祀られ、太平山が古くは三輪山といわれ三輪神社があることなどを考えると、太平山の日月星信仰は寒川神社近くの人々、それも出雲神族が持ち込んだ可能性もあるわけである。八風山と加波山も、より正確には加波山神社本宮里宮の方であるが、東西線を作っていた。小山市寒川は八風山と加波山の東西線上にあるといえる。八風山は藤岡町大和田の三毳神社とも東西線をつくっていた。

  八風山―加波山三枝祇神社本宮里宮(N1.243km、0.51度)の東西線

  小山市寒川・竜樹寺―加波山三枝祇神社本宮里宮(N0.847km、1.39度)―加波山(N1.750km、2.68度)の東西線

 千葉市中央区寒川にも寒川神社があり、より正確には加波山本宮里宮とであるが、加波山と南北線をつくる。千葉市寒川の寒川神社は八風山とも西北30度線をつくる。

千葉市寒川神社―加波山三枝祇神社本宮里宮(W0.218km、0.16度)―加波山(E2.14km、1.57度)の南北線

八風山―千葉市寒川神社(E2.916km、1.05度)の西北30度線

 加波山の西北45度線が息栖神社がもともと鎮座していた日川を通るとしたが、千葉市寒川の寒川神社とアラハバキ神とクナトノ大神とも結びつく地とも考えられる江ノ島が東北30度線をつくり、その方位線が日川を通る。二宮神社と千葉市の寒川神社はともに式内社寒川神社の論社であるが、神奈川県の寒川神社の西北45度線上に江ノ島があり、寒川神社・二宮神社・鹿島神宮が東北30度線をつくるのに対し、江ノ島・千葉市寒川の寒川神社・息栖神社が東北30度線をつくっていたと考えられるわけである。二宮神社と千葉市の寒川神社も西北60度線で結ばれている。また、小山市寒川は現在の息栖神社の西北30度線上に位置しているし、旧鎮座地の西北30度線上に位置していた可能性も高い。

  江ノ島中津宮―千葉市寒川神社(E0.296km、0.25度)の東北30度線

  二宮神社―千葉市寒川神社(W0.462km、2.00度)の西北60度線

  小山市寒川・竜樹寺―息栖神社(E1.799km、1.11度)―日川西南隅 (E2.098km、1.23度)―日川東北隅(E3.478km、2.02度)の西北30度線

 もっとも、千葉市寒川の寒川神社には日月星の三光信仰、あるいは星信仰の直接的痕跡は見られない。それに対し、二宮神社の神紋は『神社名鑑』には九曜紋と記されているが、亀甲に七曜紋であるといい(http://www.genbu.net/data/simofusa/ninomiya_title.htm)、七曜紋ということから星信仰と結びつく神社といえるかもしれない。また、亀甲紋ということから、出雲神族とも結びつくともいえる。二宮神社と二宮神社の姉君とされる姉崎神社が南北線を作っていたが、近江雅和『記紀解体』によれば、姉崎神社末社に新波々木社があり、アラハバキ社とする。また、船橋市には大神宮という神社があり、古くは音富比(オオヒ)神宮と呼ばれていたが、その社家は木更津市の富の家筋で、九十九代の系譜があるという。出雲神族の富氏と関係があるとみているようである。ただ、ウィキペディアなどを見ると、船橋大神宮の富氏は千葉氏系とされ、現在は千葉姓を名乗っているようである。しかし、九十九代の系譜があるとすれば、千葉氏よりはるかに遡る古い氏族ということになる。その富氏が千葉氏系とされ、現に千葉姓を名乗っているとすれば、千葉氏と出雲神族の特殊な関係を示しているのかもしれない。千葉市寒川の寒川神社と船橋大神宮が西北45度線をつくる。

 千葉市寒川の寒川神社―船橋大神宮(W0.386km、1.38度)の西北45度線

 大宮氷川神社と氷川女体神社が西北30度線をつくり、その延長線上に千葉県の二宮神社があった。大宮氷川神社と氷川女体神社も、大宮氷川神社が藤岡町大和田の三毳神社と、氷川女体神社が太平山と南北線をつくっていた。方位線的にみると、太平山と加波山の日月星信仰は寒川神社の日月星信仰と密接に結びついいるわけである。

 千葉市の寒川神社の神紋はそのホームページを見ると、なんという名前なのかわからないが、正方形を二つ組み合わせた、八芒星とでもいうべきものを塗りつぶした紋で、亀甲紋ではない。出雲神族とも星信仰とも結びつかないが、二宮神社の亀甲の中に七曜が加わるのも千葉氏との関係を考えなければならない。千葉氏は三日月に星一つの月星紋であり、千葉神社では月星紋の外形の円が日を表すとして、それを日月星をあらわす三光紋としている。ただ、三日月に星一つは江戸時代中期になってからのもので、もともとの千葉氏の紋は三日月の周りに九曜を描いたものだったようである(http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_o.html)。月星紋であって、そこに太陽を見る事は出来ないであろう。

 しかし、千葉氏にはまったく日月星信仰がなかったのかというと、そうでもないようである。平良文のお母さんが良文を身ごもった折に、夢の中に日、月、星の光が集まった中より妙見様が現れて、「月星を 手に取るからに この家の 久しきことは 恒河沙の数」という歌を子孫に伝え、家の紋にしなさいというお告げがあった、とい伝承があるらしい(http://www.mmjp.or.jp/tajimamori/sub11.htm)。妙見信仰の星信仰に月が入り込み、さらに日が入り込んだということも考えられるが、良文を身ごもった時の話は、千葉氏の妙見信仰を中心とした月星信仰と日月星信仰を結びつけるために生じてきた伝承とも考えられる。もし、後者なら日月星信仰はどこから来たのかが問題になるが、もしかしたら千葉氏の二宮神社や寒川神社の周辺に中に日月星信仰があり、千葉氏がその日月星信仰も取り込もうとしたということは考えられないだろうか。

 千葉氏は桓武平氏であり、桓武平氏は桓武の子の葛原親王に始まるが、桓武天皇の母の高野新笠が出雲神族である大枝氏から出たのに対し、葛原親王の母は参議・多治比長野の娘である多治比真人真宗であり、宣化天皇の後裔ということでやはり出雲神族である。桓武の出としては出雲神族と特別つながりが強いともいえる。平安時代には母親の家柄が重要な意味を持っていたのであるから、そのような出自をもつ葛原親王の孫の高望王が上総介として下向してきた時、関東の出雲神族は高望王に好意をもったであろう。高望王を結集軸にするような動きもあったかもしれない。また、高望王の孫の平将門の頃には、まだ桓武平氏と多治比氏の間に強いつながりがあったことは、川尻秋生『平将門の乱』に、将門が上野で新皇に即位したときの叙目で、上野守に多治経明がなっており、また将門と敵対していた平良兼が将門の石井営所を急襲しようとして逆に将門によって逆襲された時、将門は上兵の多治良利をはじめ四〇人ほどを射殺したといい、同書では多治比真人真宗は多治真宗と記されていることから、それらの多治姓の者は多治比で、対立しあう両方の側に多治を名乗る者があることからもうかがえるのである。源基経が将門の謀反を訴えたとき、『将門記』に将門の私君である藤原忠平がその実否を問い合わせる御教書を中宮少進多治真人助真が所に寄せて下るとあり、川尻秋生氏はこの忠平の仰せを書き留めて送った助真を忠平の日記『貞信公記』に忠平の家司としてしばしば登場する多治助縄(すけただ)のことではないかとするが、忠平が多治助縄を使ったのも将門と多治比氏に強いつながりがあったからとも考えられるのではないだろうか。

 多治経明は来栖院常羽御厩(茨城県結城郡八千代町尾崎)の別当で、将門の伴類で、伴類は従類より主人との関係は薄く、いったん戦況が不利になると蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまうというが、多治経明は将門の最後の戦いのときにも従軍しており、将門との関係は強固なものがあったといえる。これらの多治比氏は高望王が関東に下向するときに供をしてきた者の子孫かもしれないが、関東の出雲神族と桓武平氏をつなぐ接着剤のような役割を果たしたのではないだろうか。多治経明の叙目について、梶原正昭・矢代和夫『将門傳説』では、「腹心の中での実力者の興世王と藤原玄茂の両人だけが、二等官である介に任ぜられているのは、これらの国がいわゆる“親王任国”で、次官たる介が事実上の長官の権限をもっていたからとも思われるが、その点では上野の場合も同様な筈で、その辺にも不審がのこる。」としているが、これは多治経明が親王の扱いを受けたということを意味しているとも考えられる。もしそうなら、将門の独立国家は継体朝の再興という意味合いも持っていたのかもしれない。

 関東の出雲神族と将門の結びつきは、将門の首塚が出雲神族の神を祀る神田明神の旧地にあることからも、将門が朝廷に反乱を起こしたとき、関東の出雲神族が将門を支援したことは十分考えられるであろう。多治経明の将門の新皇即位に際して菅原道真の怨霊が出てくるのも、関東の出雲神族を意識した演出だったとも考えられる。菅原道真と将門の関係でいうと、道真の子の景行と兼茂が常陸介となっている。川尻秋生氏によると、このうちの兼茂は承平年間(931~38)の後半、将門が平氏一族や源護と戦っていた頃に常陸介であったのではないかという。また、菅原兼茂と藤原玄茂は同時期の国司であった可能性も十分考えられ、従来、将門の即位場面に菅原道真の霊魂が出現する理由は不明といわれてきたが、菅原兼茂と藤原玄茂という、まったく注目されてこなかった人物を通して、説明することが可能になったとする。ただ、将門と関東の出雲神族との関係を考慮にいれると、多治経明あたりの考えなのかもしれない。菅原兼茂と多治経明の間には、同じ出雲神族ということで、菅原兼茂と藤原玄茂のように単に職場での付き合い以上に深いところで通じ合っていたのではないだろうか。京都において多治比文子が道真を祀ったのも、関東における将門と道真の怨霊との関係に多治比氏が深く関わっていたことから生じた可能性もある。

 梶原正昭・矢代和夫『将門傳説』によれば、道真の三男といわれる景行が、道真の遺骨を延長四年(927)に真壁郡紫尾大字羽鳥(現・桜川市)の天神塚(天神塚古墳)に葬ったといい、さらに延長七年(930)古くは菅原村といわれた現常総市大生郷に移し社殿を造営したのが日本三大天満宮の一つといわれる大生郷天満宮であるという。境内の鳥居のそばに一対の石碑があり、これはもと鳥居所という畠の中にあり、「鳥居戸の石」とも「刀磨ぎ石」ともいわれていたが、それには「常陸羽鳥菅原神社之移 菅原三郎景行兼茂景茂等相共移」とあり、また、天神塚の南三丁ほどのところにある歌女(うたつめ)神社の境内には天神塚から移されたと思われる板碑が残されており、「為右菩提供養也 菅景行源護平良兼等共也」とあり、この頃景行と源護平良兼等には親交があったことが知られ、羽鳥から大生郷に移した理由は不明であるが、大生郷は将門の勢力圏にきわめて近く、良兼の根拠地である羽鳥を故意に棄てて移ったのであるとすれば、あるいはこの間に景行が良兼から離れ、将門に接近するようになったのかもしれないという。

 大生郷天満宮と将門の胴体を埋葬したという延命院が東北45度線をつくる。また、将門終焉の地で、天禄三年(972)霊夢を得た将門の三女である如蔵尼が、急いで奥州から下総に帰郷し、父の最期の地に庵を建て、傍の林の中の怪木で父の霊像を刻んで祠を建てたのが神社の創建という国王神社と東西線をつくる。延命院は天神塚とも東北60度線をつくる。

  大生郷天満宮―延命院(E0.062km、0.78度)の東北45度線

  大生郷天満宮―国王神社(N0.159km、1.59度)の東西線

  天神塚古墳付近―延命院(W0.301km、0.56度)の東北60度線

 菅原景行が天神塚に道真の遺骨を埋葬し、それを大生郷天満宮に移したという伝承には疑問も残る。川尻秋生氏によれば、景行は時期は不明であるが実際常陸介であったことが確認でき、『日本紀略』延喜九年(909)七月十一日条に下総国で起こった争乱の責任を取ったこともみえるといい、また、道真の孫の菅原在躬が『新国史』の編集材料として国史所に提出した、道真の伝記の内でもっとも信頼性の高い『北野天神御伝并御託宣等』には景行・兼茂・淑茂が「皆踵を継ぎて早世す」とあるといい、そうすると、延長七年まで景行が生きていたとすると、五十は越えていたと考えられ、早世したとはいえないであろう。ただ、常陸介の後常陸にそのままとどまっていた可能性はある。兼茂についても早世したとするのであるが、それについて川尻秋生氏は延喜元年(901)に父の道真とともに左遷された時の年齢を仮に二十歳としても、天慶元年には六十近くになっていたはずであるから、景行はともかく兼茂は早世したとはいえないし、あるいは兼茂は将門の乱に関係したと考えられたため、ことさら菅原一族から排除されたのかもしれないという。もしそうなら、景行についても同じようなことがいえるのかもしれない。もっとも、大生郷天満宮の石碑では景行・兼茂・景茂が大生郷天満宮の地に移したということなのであるが、兼茂が常陸介だったのは承平年間の後半だったとすれば、延長七年ごろ常陸に居たのかという問題もある。延長五年頃は大和守だったらしい。川尻秋生『平将門の乱』によれば、『扶桑略記』延長五年十月是月条に『重明親王記』からの引用として、ある人がいうには「故太宰帥菅原道真の霊が、夜、旧宅を訪れ、息子の大和守菅原兼茂に雑事を語っていうには、『朝廷に大事件が起こるだろう。そのことは大和国から起こるだろう。お前は慎んでその事を行わねばならない』と。その他のことについてもとても多くを語ったということである。ただし、他の人はこの話を聞くことができなかった。兼茂はこのことを秘密にして他人に話さなかった」とあるという。兼茂は霊媒体質の人だったようである。また、大和に大事件が起こるといったというが、兼茂は秘密にしていたというのであるから、大和というのもわざと違う場所を言ったのかもしれないし、兼茂が道真の霊によって知らされた朝廷の大事件とは将門のことだったかもしれない。また、「お前は慎んでその事を行わねばならない」とは何をしなければならないということだったのだろうか。もし兼茂が天神塚に道真の遺骨を埋葬した後に道真の霊の言葉を聞いたとするなら、延長七年に大生郷天満宮に移したのは、この時の道真のお告げに従ったのかもしれない。その大生郷天満宮あるいは天神塚の方位線上に将門の胴が埋められた延命院があることを考えると、道真の霊は子供たちが直接将門の乱に加わることを命じたというよりは、将門の敗北も告げた上でなすべきことを命じたのかもしれない。

 出雲神族としての菅原道真という視点からみると、大生郷天満宮は大宮氷川神社と酒列磯前神社の東北30度線上に位置し、大宮氷川神社と岩瀬町の鴨大神御子神主玉神社が東北45度線をつくっていたが、鴨大神御子神主玉神社とも東北60度線をつくるのである。鴨大神御子神主玉神社は鹿島神宮の西北45度線上に位置していた。そして、鹿島神宮・香取神宮・氷川女体神社・氷川神社・鴨大神御子神主玉神社は筑波山を取り囲む出雲神族の方位線の環をつくっていたのであるから、道真の遺骨がその環に結び付けられたともいえる。あるいは、寒川神社と酒列磯前神社の東北45度線上に将門の首塚があることを考えると、大生郷天満宮が酒列磯前神社の東北30度線上にあることが重要だったのかもしれない。また、大生郷天満宮は岩舟町下津原の三鴨神社と西北45度線をつくるが、大宮氷川神社と南北線をつくる三毳山頂の三毳神社とも方向線をつくるといえる。大宮氷川神社と三鴨神社も南北線をつくっている。大宮氷川神社の南北線上に三毳神社・三鴨神社あるいは三毳山があるともいえるわけである。天神塚は下野国総社の大神神社と西北30度線をつくる。

  大宮氷川神社(W0.681km、1.16度)―大生郷天満宮―酒列磯前神社(W0.900km、0.73度)の東北30度線

  大生郷天満宮―鴨大神御子神主玉神社(E0.019km、0.03度)の東北60度線

  寒川神社(W0.073km、0.09度)―将門の首塚―酒列磯前神社(E0.325km、0.17度)の東北45度線

  大生郷天満宮―三毳山頂の三毳神社(W1.727km、2.45度)―三鴨神社(E0.716km、1.00度)の西北45度線

大宮氷川神社―三鴨神社(E1.005km、1.28度)の南北線

  天神塚付近―栃木市・大神神社(W0.279km、0.50度)の西北30度線

 千葉氏の祖である平良文は反将門側にいたようであるが、川尻秋生はその子の忠頼・忠光と貞盛の弟繁盛とが「彼の旧敵」の関係にあり、またその孫の平忠経は繁盛の孫の維幹のことを「先祖ノ敵」と述べていることからすれば、貞盛流平氏と良文流平氏は敵対関係にあり、貞盛流平氏と敵対関係にあった将門をより身近に感じたのではないかとする。忠経は房総三国で反乱を起こし、その子孫が千葉氏なわけであるが、妙見菩薩が将門の家から良文の家に移ったという千葉氏の妙見信仰伝承からも千葉氏が将門に対し、強い親近感を懐いていたことは確かであるとする。桓武平氏に好意を持っていた関東の出雲神族は、その感情を将門が滅亡した後には、良文流平氏に集中していったことも考えられる。それにともない、千葉氏自身ももともと持っていた桓武平氏の出雲神族的要素をより強めていったのではないだろうか。そうすると、千葉氏の妙見信仰は将門と結び付けられているが、下総周辺の出雲神族が持っていた星信仰を千葉氏的に取り入れたものということも考えられるわけである。また、下総周辺の出雲神族の星信仰が日月星信仰でもあったとすると、それも取り入れたということではないだろうか。

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