https://www.kawachichiku.com/2007/03/30/%E6%98%9F%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ 【岡本あれこれ(30) 星宮神社(1)】
古里中北側の星宮神社
和久(わぐ)自治会の峰に祀(まつ)られている星宮神社は「杤木県神社誌」によると「安土桃山時代に創建され、和久・根古屋(ねごや)・当時の台岡本新田・白沢等一円の総鎮守として、氏子崇敬者も多かったが、奥州街道の開通により、白沢宿駅の繁華(はんか)を極むるに至ったため、この地に移住する者多く、現在は和久・根古屋・台岡本のみとなったが、氏子(うじこ)は昔に変らず、明治35年(1902)の大暴風の際、樹齢数百年にも及ぶ種々の大木は、大部分倒伏し社殿も転覆し破壊された。氏子はすみやかにこれを復旧し明治40年(1907)3月に字河原端の無格社下山神社を合祀(ごうし)し、神徳いよいよ増し現今においては、他町村より参拝者多くを加える」とあります。
「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われています。
祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としています。この神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられますが、星に関係する伝承が少ないこと。
二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌(きんき)を伴うことが多い。
三つ目としての主祭神については、神話が伴って長い説明を要しますので、次号に述べます。
平成3年(1991)2月20日 第253号掲載
岡本あれこれ(31) 星宮神社(2)
杉木立に囲まれた境内
主祭神である磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)は、古事記によれば伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が十挙の剣をもって、火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)の首を斬(き)った時、その剣の先についていた血が石にしたたり落ちて生まれた神です。
日光修験(しゅげん)が星宮と本地仏としての虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を携(たずさ)えて、各地に広がったと考えられます。日光・藤原・今市・塩谷・矢板・大田原・小川・鹿沼・宇都宮・高根沢・南那須・烏山・市貝・真岡・益子・壬生・石橋・上三川・栃木・小山・国分寺・南河内・佐野・藤岡などに広まりたいへん信仰されています。
おそらくこれは、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願する農民対象に行われた修験者(しゅげんじゃ)の布告の実状を示すものではないでしょうか。農民の真剣な増産への希望にマッチした布教で、人事を尽(つ)くして天命を待つ以外に希望のなかった時代にふさわしいものです。また、天神地祇(てんしんちぎ)で、田畑の豊穣を神に頼らなければならなかった農民の心を思う時、過去の事とはいえ感慨(かんがい)に耐えない気持ちになります。
平成3年(1991)3月20日 第254号掲載
https://www.ensenji.or.jp/blog/1268/ 【栃木県の元虚空蔵菩薩・元日光修験関連ー星宮神社と磐裂神社】より
円泉寺便り 妙見菩薩
栃木県の元虚空蔵菩薩・元日光修験関連ー星宮神社と磐裂神社
かつて積極的に妙見菩薩を調べていました。 妙見菩薩 Link
ネットだけでなく、ゼンリンの地図ソフトを利用して、日本中を隅々まで調べたものです。その折、栃木県下に星宮神社が多いことに気がつきました。
グーグルなどの地図で、栃木県下の星宮を探すと、面白いほどたくさん見つかります。出来たらば地図ソフトのほうが見やすいでしょう。
全国的に廃仏毀釈以前、星宮神社は妙見菩薩関連が多いのですが、栃木県は日光修験関連で、元虚空蔵菩薩だったところがほとんどです。星信仰であることは同じです。
日光は江戸以前は弘法大師の関連で真言宗でしたが、天海僧正により天台宗に変わりました。虚空蔵信仰は弘法大師の影響があるようです。
※栃木県の星宮神社が日本一多い。
※明治に星宮神社と改名させられている。
日光修験(しゅげん)が星宮と本地仏としての虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を携(たずさ)えて、各地に広がったと考えられる。日光・藤原・今市・塩谷・矢板・大田原・小川・鹿沼・宇都宮・高根沢・南那須・烏山・市貝・真岡・益子・壬生・石橋・上三川・栃木・小山・国分寺・南河内・佐野・藤岡などに広まりたいへん信仰されている。「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌(きんき)を伴うことが多い。
※星宮はの分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。
※水戸学の影響が色濃く残ったところに星宮神社が多くあるようです。
見づらいと思いますが、ご勘弁下さい。
https://www.lib.ibaraki.ac.jp/mitogaku/s01.html 【水戸学】より
18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張をもつようになった。それが水戸学と呼ばれるものである。
その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物は藤田幽谷(ゆうこく)で、幽谷は寛政3年(1791)に「正名論」を著わして、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えた。
幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖(とうこ)である。正志斎は文政8年(1825) 3月、「新論」を著わした。
『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初である。
9代藩主徳川斉昭(なりあき)のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。
東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説く。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張であった。
要するに、水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのである。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていく。 そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのである。水戸学者には、前記の会沢正志斎・藤田東湖のほか、青山延于(のぶゆき)青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいる。
水戸学入門書
『茨城県史』近世編(茨城県 1985.3)
『水戸市史』中巻(3 )(水戸市役所 1976.2)
もうすこし専門的なもの
『水戸学』(『日本思想大系』53)瀬谷義彦・今井三郎・尾藤正英著(岩波書店 1973.4)
『水戸藩学問・教育史の研究』鈴木暎一著(吉川弘文館 1987.3)
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