facebook永松 久美子さん投稿記事
自然界は絶え間なく在り続けている 自然界はいつも美しい姿を見せる それはいつの時代も変わらない 見る側の私達がどう見るのか…だけ
外側にある見える自然界には次元の違いはない 高い次元は全て内側のミクロな世界
だから目には見えない
空の内側 鉱物や動植物にある内側 私達の身体の内側 だから潜在下にある意識は
全て高次的である
次元が高いとは全体に響き渡り 次元が低いとは部分的であり 部分に働きかける
でもその部分にも高次な働きがある
次元の高い低いは 働きの違いであり どちらがいいわけではない
それを勝手に差別するのは 人の顕在的な意識 全ての働きがあってこそ成り立つ
それが身体・地球・宇宙です
だから「偏った思想」や 宇宙からと言いながら「分離に基づく情報」には首を傾げてしまう
地球が変わってきたのは 私達人の意識が変わってきたから
自分を大切にするように 家族や近くの人を大切にし 何があっても 自分を理解し信頼するように 家族や近くの人を 理解し信頼する人が多くなったから それは次元とは関係ない
人の精神性が大人になっただけ 和諧誠さんが伝えて下さる理念と認識の中で 愛のエネルギーで満たされた宇宙創造を"自ら手で行う " 誰かが行うこと事ではなく 星の並びがやるわけでもない 私達人間が一人ひとりが "自らの手で行う"こと それが私達の想像から創造へと変わっていく新たな時代に入ったということ
facebook森井 啓二さん投稿記事
山岳修行をしていた頃は、毎回生きて帰れたのが不思議なくらい過酷でした。
「絶体絶命」そんなの状況だからこそ、ゆっくりと丁寧に修行していく。
「絶体絶命」もゆっくり読むと「糸色体糸色命(いとしきからだ いとしきいのち)」となるみたいです
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/3130776/ 【思いやり】
facebook相田 公弘さん投稿記事 【忘己利他という教え】
天台宗大阿闍梨、酒井雄哉師の心に響く言葉より…
ぼくがいる比叡山の教えに「忘己利他(もうこりた)」という教えがある。
「己を捨てて他を利すればいい。そうすれば皆が幸せになる」と説いているんだ。
自分が何ができるかどうかはあまり関係ない。
何かを達成できてもできなくても、自分を捨てて他を利するということを心がけた生き方をしていればいい、というの。
成功したからといって、得たものを自分だけの懐へ入れてしまうのはよくない。
得たものを人に分けてあげなければいけない。
何をするにしても、自分がたった一人でできた、なんていうことはないものな。
ここまで生きてこられたのはたくさんの人に支えてもらってきたからだし、いま生きている間にも、大勢の人に助けられているんだよ。
だから、自分は自分、人は人だなんていう考えはよくないよね。
たとえば、ぼくの行も、実際に山を歩いたり行をするのは確かに自分だ。
でも、細かい雑務なんかを知ると、とてもじゃないけど簡単にはできない。
回峰行が始まる。
そうすると、「ああ、このごろこんな行をやっているんですね。じゃあ、ちょっと応援しましょうか」とお手伝いしてくれる人がポツン、ポツンと出て来る。
それがだんだん一人増え、二人増えと、なかには、金銭的なものを応援してくれる人まで現れる。
どんどん行を重ねていくと、回峰行のなかでも荒行の「お堂入り」ができるようになる。
その積み上げてきた五年間にはやっぱりみなさんの助けを受けて、御堂入りをしている間にもお供えものなどをしていただく。
そうしてさらに行を積み重ねて、七年間にわたる千日回峰行を満行できるわけだ。
回峰行も大勢の人に支えられてこそできるんですよ。
だから、自分は千日の行をしてえらいんだなんてふんぞりかえっちゃいけないし、みなさんに支えられてきた御恩に感謝の気持ちを忘れちゃいけないってことなんだ。
だから、こうしてお話ししているんだよ。
よく、みんなも言うでしょう、「ご回向(えこう)」とか「回向してもらう」って。
坊さんが頼まれて先祖を拝んであげるようなときに言うけれど、本来は、「よい行いを他に巡らす」という意味が含まれるしな。
お寺の人でなくても、自分のできる範囲でかまわないから、人のためになることをするのがいいわけ。
暮らしのなかで、何かお手伝いをしてあげるとか、何か福祉に寄付をするというのでもいい。
自分の徳というものを、少し分けてあげてみるのもいいよね。
人は恵み恵まれ、徳を積んでいくことになるからね。
『続・一日一生』朝日新書
「己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」《最澄・山家学生式(さんげがくしょうしき)》
慈悲とは、ほんとうの優しさや、思いやり、いつくしみ、のことを言うが、仏教では苦しみを取り除き、楽しみを与えるという意味だ。
伝教大師最澄は、慈悲の最上のあり方を、「忘己利他」と言った。
自分を忘れて、他者のために尽くすことこそが、慈悲の究極の姿であると。
舩井幸雄氏は、「人間性を高める」には、「与え好きの人間にする」のがもっとも効果的だという。(法則・サンマーク出版)より
『「いまだけ」「自分だけ」という狭い我欲から離れること。
そして、他人の利益や幸福も視野に入れた、もらうよりも与えることに喜びを感じる「利他的な考え」をもたせるのです。
あるいは、物事を根源からマクロにつかみ、ミクロに対処するように仕向ければ、その人はもらい好きから脱皮して、「与え好きの人間」へと成長していき、おのずとその人間性を高めていくでしょう。』
人間性を高めるには、「与えること」。
自分から与えることはひとつもしないで、情報でも、モノでも、善意の気持ちも、「欲しい欲しい」、「ちょうだいちょうだい」という人には、感謝がない。
何かをもらった後に、「ありがとう」というお礼や、「感謝」の言葉(メール)もないからだ。
それは、自分が与える側(主催者側)になったときによくわかる。
「忘己利他」という教えの実践を重ねたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより
facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
人間を振り出しに戻す
千日回峰行を実に2回も満行された今は亡き酒井雄哉さんが、お盆の法要、三回忌、何周忌というけれど、私は毎日拝んで、毎日付き合って、毎日が法要のようなものだと仰っていました。
ただ、ひたすら拝み続けるだけだと・・・。酒井さんが比叡山との縁は、奥様の自死が契機のようです。新婚からわずか二ヶ月後のことで、奥様が亡くなられる前に、ささいなことで「お前など死んでしまえ」とつい口にされたそうです。
ただ、比叡山をたびたび訪ねていても僧侶になるつもりはなかったのが、たまたま千日回峰行の堂入りを見て、このような人生があるのかと衝撃を受けて、40歳で得度されています。
歩き続ける。そして、拝み続ける。
学校の成績や学歴等が優先される社会の中で、「実践」とは成果を上げるため、あるいは成果をあげることと理解されています。ただ歩き続け、ただ拝み続けることを、「実践」とはしないのですが、歩くことは、人間を振り出しにもどしてくれることだと説かれていました。拝むこともそうだと思います。人間を振り出しに戻す、素晴らしい表現ですね。
人間になり戻ること、とも言えます。
自分の道を歩け、と比喩のようには言いますが、人間になり戻るための実践として「歩く」ことは滅多にありません。苦しいとき、あるいが儀礼として拝むことはありますが、人間になりもどるために拝むこともありませんね。
酒井さんが残してくださった言葉には、生きる上での大きなヒントがあるような気がします。それぞれの方法があるのでしょうが、人間として振り出しにもどるということを考えてみるのは大事なことのようです。
輪廻転生
あの「千日回峰行」を2回もされた酒井雄哉さんは、一日一生という言葉を愛されていました。千日回峰行はご存じの方も多いでしょうが、比叡山を代表する行で、おおげさではなく生死をかけた過酷なものです。
一千日を一期としてひたすら祈願しながら毎日7里半(30キロ)の行程を歩き続け、7年かけて歩く距離は地球一周分相当です。しかも最後は9日間にも及ぶ「断食、断水、不眠、不臥」で不動真言10万回を唱える堂入りを行います。文字通り生きるか死ぬか。
その酒井師が「三日辛抱」ということを言われていました。三日坊主の反対ですね。
ともかく3日やってみなさい。もちろん、ただやる、ではダメです。3日辛抱も、ひとまず一生懸命やってみる。それで4日目までいけた、なら、いけるんじゃないか・・・。この言葉が、ご自身の体験から出ていると思うと、これほど説得力のある言葉もないですね。
「ただその先、また先にいこうというだけです」。
人生、山あれば谷ありの中を、ともかく一歩を歩き出す、それだけだと言われるのですね。ですから、苦行を終えて感想を聞かれたとき「とにかく終わったというだけのことなんだな」と、次に歩くことを考えておられたといいます。
そして、死後の世界、生まれ変わりについて尋ねられて「一日一生」というのは輪廻転生のようなものだとさらりと言われている・・・今日の私は昨日の私ではない、明日の私も今日の私ではない。生きるということの本質はここにあると教えていただいたような言葉です。
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