facebook星川 淳さん投稿記事
ぼくもよく「“外なる自然”と“内なる自然”は本来、同じ一つの自然」というようなことを考えたり語ったりします。坂田昌子さんの意味づけと重なるのかどうかわかりませんが、きっと坂田さんのほうが、実践に根ざした逞しさを伴う用語じゃないかな。
「内なる自然」の声を聴け。坂田昌子さんに学ぶ、自然に対する倫理観と環境問題への向き合い方
ショッピングモールを建設するため。スキーリゾートを広げるため。部屋からきれいな富士山が見たいから。
いずれも、生きている木々が切り倒される理由です。こうしたニュースを見聞きするたび、「なんてことするんだ」と憤慨すると同時に、「自分も同じようなところで買い物くらいするだろう」と考える。やるせない無力感に襲われることが増えました。
この憤りの感情は、「内なる自然によるもの」だと教えてくれたのが、坂田昌子さんです。東京・高尾山を拠点にネイチャーガイドをしながら、全国各地で生物多様性の根幹を伝えています。グリーンズのラーニングコミュニティ「リジェネラティブデザインカレッジ」で講演をお願いした際も、坂田さんが語る「内なる自然」の話は多くの人の心に響きました。
どうやら、とても大切なものなのに、失いつつある気がする────。 「内なる自然」というキーワードに反応した思いには、それぞれの危機感が含まれていたのだと思います。自分の中にそれはあるのだろうか。失っているとしたら、取り戻せるのか。そもそも、内なる自然とは何なのか。
坂田さんにお訊きしたく、高尾の山を訪ねました。
坂田昌子(さかた・まさこ)
環境NGO虔十(けんじゅう)の会代表。首都圏中央連絡自動車道(圏央道)高尾山トンネルの建設時、高尾山を守る環境保護活動を展開した実績を経て、現在は生物多様性を守り伝えるネイチャーガイドを定期開催。ワークショップや勉強会も主宰多数。生物多様性条約COP他、国際会議にも継続的に参加する。古書「げんせん館」店長、八王子古本まつり実行委員長、ローカルアソシエーション代表など参加団体も多数。2022年には本来の森の姿を取り戻すために土地を共同購入して管理する、一般社団法人コモンフォレストジャパン理事就任。https://sakatamasako.com/
坂田さんが関わる団体のひとつ、一般社団法人コモンフォレストジャパンでは、希望者と一緒に土地を共同購入し、コモンズ(共有財産)として守る活動をしています。現在、国内にあるコモンズは3箇所。そのひとつである高尾では、34,952㎡(テニスコート約13.5個分)のコモンズを管理しています。生物多様性を目的とした適切な保全管理を施しながら、植生の調査や勉強会などを開催。取材班がお邪魔した日は、10名ほどのメンバーの方々が集い、笹(ささ)を刈る作業をしていました。
“山の整備”と聞くと、パワフルな草刈機で根こそぎ刈りとり、敷地を広くさせる様子をイメージするかもしれませんが、それとは大きく異なる風景が広がっていました。小さなお子さんを含む参加者のみなさんはにこやかに作業し、適度なタイミングで坂田さんからの声掛けに耳を傾ける。とても楽しそうです。
「笹を刈る時はできるだけ地際で切ってくださいね。笹は、草食動物に食べられても生きられるように成長点がすごく下の方にあるんです。地際で切らないと、逆にがんばって伸びてきちゃうので、切る時はなるべく地際で。」
以前こちらの記事でもご紹介したように、坂田さんの説明は常に植物目線
「笹や竹の根っこは地面を強く締める力があります。尾根が崩れないように守る一方で、水の浸透を妨ぎ、近くの木を枯らすこともある。でもけっして笹や竹が悪者なのではなく、他の植物が成長しやすいようにスペースをつくっているんです。ですので全ての笹を刈るというより、まずは木の周りに生えている笹から刈るようにしてください。」
みんなで購入したとはいえ、私的所有とは違う、コモンズの場。ここには、人間が通りやすいよう整備された歩道や、水場も、トイレもありません。かといって放置するのでもなく、必要な手を入れながら、山を守ることを継続的に行う活動です。
「ツタ類が絡まって薮になってるところも、取りすぎないように。半日陰を好む植物もいるし、コジュケイやヤマドリといった鳥たちは、薮を伝って移動するので、なくなったら困るんです。あともしも薮の下の方に、子どもがしゃがんで通れるくらいのスペースが空いていたら、それはウリ坊の通り道。そのままにしておいてあげましょう。」
作業中、参加者のお子さんが「こんな実が落ちてた」と見せに来ると、「アブラチャンの実だね。昔の人はこれで油をつくったの」と教えてくれる坂田さん。どんなデータベースよりもすごい。途中、飽きちゃった子が、木に対して無意味にノコギリ鎌を叩きつけ始めると、すかさず注意もする
視界の中に人工的なものがない高尾山の中腹。「内なる自然」について聞くにはこの上ない環境で、坂田さんのお話をうかがいました。
「内なる自然」とは、何か
坂田さん 内なる自然、あるいは、内的自然、とも言いますね。対して、外的な自然とは、目に見える山や木など、物理的な自然のことです。
よく「自然を大事にしよう」という言い方をしますが、それは近代になってからできた考え方です。「自然」という日本語自体、日本に英語が入ってきた時に、英語のnatureを訳すことで初めてできました。
古語では、山や木々など古くから存在するものを指して「じねん」と言い、漢字では「自然」と書きます。また「あめつち」という古語は、漢字で書くと「天地」。天と地にある全ての存在を表す一語です。つまり、人間と自然は離れていなかった。今「自然」と呼んでいる山や川や海などの物理的な自然は、いろんな面で私たちの暮らしと常に関わりあっていたんです。
高尾の山で会う坂田さんは、一段と落ち着きを感じさせる。ホームで過ごす、山と調和した佇まい
坂田さん 昔は、仕事と遊びの境目すらなかったんですね。山へ作業をしに行く時も、遊びの感覚があったんです。例えば、帰りにおいしい舞茸を持って帰ってくるようなお楽しみ、とかね。そうやって日々、自然と関わりを持っていた。今は、人工的なものの反意語として自然的と捉えることがほとんどですが、人間と自然はけっして対立する関係性ではなかったんです。
人間も自然の一部であり、自然に関わることで恵みをもらう。でもひどい目にあうこともある。この両方が、かつての自然観でした。山は尊いけど、怖い。海も川も、同じ。自然は思い通りにはできない。こちらの都合に合わせて克服しよう、なんて考えられない関係だったわけです。
思い通りにならないとは、迂闊なことをすると山の神を怒らせ、痛い目にあう、という感覚です。そこで生まれるのが、倫理観でした。何をするのが良くて、何をするのはいけないのか。自然との関係を通して価値基準を育んでいたんです。
「内なる自然」とは、外的な自然と関わることを通して享受する、道徳や精神性のことでした。山や海との暮らしから生まれる倫理観が、生活者の規範となる。人類がまぎれもなく、生態系のなかで生かされる動植物の一種であることを実感します。
坂田さん 自然と共に暮らす生活においては、もうひとつ、「自分だけのものではない」という共同体の感覚も芽生えます。昔は入会地(いりあいち)など、生活する上で他者と共有する場所がいくつもありました。いくらおいしい舞茸だからって、自分だけ根こそぎ収穫してしまう、なんてことはしなかったんです。共同体がそれを許さないし、全部採ってしまったら来年の恵みがなくなるかもしれない。それは絶対にしてはいけないことでした。
外的な自然との関わりに加えて、こうした「人の社会との約束」が合わさり、人々に醸成されたのが、内なる自然です。明文化するものでも、法律でもない。でもみんなが守る倫理観として、子どもの頃から学んで育つもの。ちゃんと自然と関わらない限りつくられようがない、道徳心です。
コモンフォレストの山は、知る人ぞ知る裏高尾のとある場所。縄文人が暮らしていた遺跡もある他、明治時代に神仏習合が禁じられるまでは、僧侶や修験道の山伏が信仰の対象にして暮らす霊山だった。今ではすぐ下に高速道路が通る
対等であれ。食い食われる関係性が育む倫理観
「山と共に暮らす」とは、具体的にはどんな生活なのでしょうか。当然ながら現代のような、中山間地に住宅を買うことではないと分かるものの、具体性に欠ける自分の想像力。坂田さんは、それほど遠くでもない昔日(せきじつ)の様子と、高尾山で起きたことを挙げてくれました。
坂田さん 例えば、毒のあるマムシが出た時、大変だ!襲われる前に残らず殺してしまえ!なんてことは考えません。万が一、襲われそうになったら噛まれないように対処して、結果的に殺すことになることはあるけど、そうでなければ、マムシにはマムシの倫理があるのだ、とそっとしておく。あるいは、獲って食べる。選択肢はこのいずれかです。
いたずらにマムシを殺そうとする人を見たら、「そんなことしちゃいかん」と止める年配者も、自分や家族の滋養強壮のために獲って食べるのは良いんです。殺されることもあるかもしれないけど、殺すこともあるという、ある意味で対等な命のやり取りが存在していました。これは、無闇な殺生とは明確に異なるものです。
無闇な殺生を防ぐために、現代のように「マムシを殺してはいけません」という法律をつくれば良いわけではないんです。そんなことをしたら殺生だけでなく、対等な命のやり取りも禁止されることになり、食い食われる関係性は絶たれてしまう。
高尾山で言えば、ここは明治までは霊山でした。1300年もの間、一匹の虫も、一本の木も無闇に切ってはいけない、殺生禁断の山。それほどまでに植生も生き物も、そして水が豊かな山だからです。地元の人たちが今でも「おやま」と親しみを込めて呼ぶのもそのためです。
しかしバブル期の1980年代、開発工事の事業認定が行われ、木が切られて、トンネルが通されました。当時、地元の人たちが反対した最大の理由は、土地が取られることよりも、「高尾山にそんなことをしてはいけない!」という、内なる自然がはたらいたからです。
「当時、反対運動の中心にいた地元のおじいちゃんは『高尾山にトンネルを掘るとは、神に矢を射るが如し』と言っていました。土地の補償とかそういうこととは位相が違う、本当の倫理観ですよね」
坂田さんのお話にはたくさんの「地元のおじいちゃん」や「地域のおばあちゃん」が登場します。ご存命ならば100歳近い世代の方々から、坂田さん自身が「山や自然についてたくさん教えてもらった」と、愛おしそうに教えてくれました。
坂田さん お年寄りなら誰でも山や自然のことを知っているわけではないんです。また、自然に関する知識が広いことだけが重要なのでもなく、大事なことは、その知識を価値として語れることです。そういう人は今、本当に貴重な存在ですよ。そういう老人たちと会えたら、話を聞ける機会はやっぱり大事にした方が良いです。
別に誰も「これは〇〇草です」とか「〇〇に効きます」とか、体系立てて教えてはくれませんよ。いいんです、それなら図鑑でも同じですから。そうではなく、自然としての価値と、共同体の風土が合わさり、文化的な価値になっていることを教えてもらうんです。
例えば先日、八王子の恩方(おんがた)でネイチャーガイドを頼まれたんですけど、地域のおばあちゃんたちが数人、参加してくれました。「長く住んでいるけど植物はよく知らないから」って。でも途中で、サイカチの木を見たら「これは知ってる!サイカチだ」って言うんですよ。なぜサイカチだけはわかるのか尋ねると、昔、節分の時にサイカチを燃やして「鬼ばらいに使った」と言うんです。サイカチの木は燃やすと鬼が嫌がる匂いがする、という慣習だったそうです。面白いですよね。サイカチの煙の匂いなんて、普通は知らないでしょう。恩方の古い習わしだそうですが、山ひとつ越えた高尾では聞いたことがないんです。自然と一緒に生きる共同体ならではですよね。
ウグイスを呼び寄せる方法を知っているおじいちゃんや、薬草に詳しくてものすごい美肌のおじいちゃんなど、坂田さんを通して聞く諸先輩方の知識は実に豊か。「そういう人と一緒に山に行くのは最高に楽しいです。仲良くなったら笑顔で、死んじゃう前に全部教えてよ!って聞くんです。そして次は自分たちが、ああいう老人にならなきゃね」
魚が消えた体験。「内なる自然」が芽生える時とは
内なる自然の重要性を理解し始めたら、次なる疑問はやはり「内なる自然のつくり方」です。坂田さん自身が内なる自然を実感した時は、いつだったのでしょうか。
坂田さん 幼少期は、母親がとにかく厳しくて、今思えば、何か精神的に問題を抱えていたのかもしれないと思うほどでした。自分と私は違う人間だと区別できず、母がしたかった人生を全て私で実現しようとしていたんです。良い学校に行って、良い会社に入って、良い人と結婚することが最も幸せだと信じていた。常に箍(たが)にはめようとするので、私が本当に自由になれる時間は、本を読んでいる時と、犬と一緒に山に逃げ込んでいる時だけでした。
山でただ過ごしていたのではなく、犬が一緒だったことはとても幸いだったと思います。犬の目線になることができ、いろんなことを観察できましたから。あと大人になってからは、釣りですね。釣りが好きになったことは、非常に大きかったです。
80年代、ちょうど日本各地で護岸工事などが始まっていた時です。渓流釣りも、海釣りも好きだったので、東北とか伊豆とか、いろんなところにバイクで出掛けて行きました。ある時、前の年にとても魚影が濃かった渓流へ久しぶりに行き、ウハウハした気持ちで釣竿を出したのに、魚が全くいなかったんです。
坂田さん 常連のおじいちゃんたちが見かねて「釣れんやろ?」と話しかけてくれました。聞けばすぐ近くに砂防ダムがつくられて以来、魚がいなくなった、と。全国どこに行ってもそんな感じでしたね。バブルに向かって行く時代、リゾート法が施行されて、従来の林道の規格を超えたスーパー林道がつくられて、日本は一体どこに向かおうとしてるのか、と考えることも多かったです。
海も川も、次々に壊されて、魚がいなくなってしまった。地元のおじいちゃんたちが「昔はイワナが湧くようにいたんだ」とか「ここはヤマメがすごかった」と、ものすごく切ない、悲しそうな顔をしていたのが忘れられません。
内なる自然を内包した人になるために、私たちがするべきことは何でしょうか。坂田さんは、「風景を見に行くだけでは、内なる自然は芽生えない」と続けます。
坂田さん 最近、主に都市部にお住まいの親御さんたちからは、お子さんたちを自然教室に通わせている、と聞くことがあります。しかし、もしも自然を何かの教材やツールと同質のように捉えて通っているのでは、残念ながら内なる自然は芽生えないんです。
自然のなかに身を置いて、自分のできることや、逆に自分の限界を知り、自然がいかに思い通りにならないものかを体で理解することが必要です。もしかしたら誰かに「そんなことしちゃいかん」と注意されたりして不機嫌になるかもしれない。それがとても大事な経験です。
「家の近所に自然がない」という声も聞きます。「自宅でできることはありませんか」と質問されることもありますが、家にいるだけで、内なる自然が来てくれるようなことは起きないんです。
それよりも、都会に自然がない、と思い込んでいるとしたら、その方が問題かもしれません。だって公園だって草むらだってあるでしょう。そこには虫や草やコケなど、生き抜こうとしてる生き物がいるはずです。彼らは、私たちが思っているよりもずっとしたたかに生きてるんですよ。家でできることはないかとスマホで探す前に、まずは公園の草むらを見てほしいです。
自然のなかで過ごし、自分自身を知り、同時に世界の広さを実感する。アイデンティティを広げる時に必要なのは、前を行く先達の存在でした。
坂田さん きれいな景色を見に行くだけとか、山頂まで登って気分が良い、といったことは、自然の”おいしいとこ取り”です。そうではなく、普段から自然と暮らす人と一緒に過ごして、一緒に体験させてもらうことが大事なんです。
別に、ずっとそこに暮らすことを考えたりしなくていいんです。農家にならなきゃ、とか、漁師にならなきゃと考える必要もない。むしろ一次産業のなかで自然破壊をしている人たちも少なくありませんから、そうではないんです。
山と共に暮らしている人と一緒にその山に行き、一緒に作業させてもらう。そうしたら見える景色が変わるはずなんです。自宅に戻っても、今まで見ていた世界が違って見え始める。そういう経験をした時に、初めてその人のなかに内なる自然が芽生えるはずです。
ちゃんと悩むこと。無罪な人はいないから
内なる自然について教えていただいた今回の取材。最後にどうしても聞きたいことがありました。冒頭でも触れた、人間の都合で木が切られることに憤りながらも、同じ社会システムの上で暮らす自分の葛藤。言うなれば、環境破壊を伴う、行き過ぎた資本主義への向き合い方です。
霊山だった高尾山が開発され、トンネルができ、圏央道が通された。さらに昨今の高尾山はオーバーユースと言われるほど大勢の来訪者を受け入れ、動植物への影響も出ています。取材当日の朝、かつて坂田さんたちが必死に反対運動を展開した圏央道を走りながら、この複雑な気持ちと対峙する方法を教えてもらおう、と思ったのでした。
坂田さん 葛藤しますよね。私もやっぱり、いまだに圏央道を使いたいとは思えないですね。この下には何があった、とか思い出すことになるので、滅多に使うことはないです。でも一方で、他のトンネルを使うことや、飛行機に乗ることもあります。あるいは、インスタント食品を食べることだってある。
それが現代社会の構造だからです。全てを一切拒否するとしたら、自分だけが仙人のようにどこかに籠り、社会性を絶って暮らすしかありません。でもそれはね、はっきり言って、ただの自己満足ですよ。
この地球で、食事して排泄して生きている以上、自然に対して影響を与えない人なんていないんです。どこかに住む以上は、必ず木を切ったり土を耕したりするわけでしょう。誰も完全に無罪ではいられない。それなのに、まるで自分だけが自然に対して無罪かのように生きるなんて、そんな自己満足は、意味がないと思います。
静かで健全な、しかしとても熱い怒りを内包している坂田さん。「開発によって釣り場を潰されたおじいちゃんたちに、こうなる前に反対すればよかったじゃん、と当時の私は言えなかった。その経験が今につながっています」
坂田さん 人間はずっと、環境破壊を繰り返してきました。そして常に、その状況を良くしようとする人たちもいた。おそらく古墳の時代から続いてることだと思いますよ。
江戸時代に木を大事にした理由は、戦国時代に環境破壊をしまくったからです。またその江戸時代にも、新田開発が進められました。湿地を埋め立てたり、川の流れを変えようとする政府に対して、思想家の熊沢蕃山(ばんざん)などはずっと反対していたんです。どうしたら自然が大事にされて、不要な開発がされずに、人間社会とのバランスが取れるのか。私たちはずっと悩んできたんだと思います。
飛行機に乗ったり圏央道を使ったりする現実と、本来の自分が願う社会像の狭間で揺れ動かないといけない。そうしなければ、どうしたら良いのか分かるはずがない。そういうことをずっと悩まなきゃいけないのが、人間の存在だと思っています。
現状に対してちゃんと悩むこと。そのためにも、内なる自然をちゃんと宿すこと。内と外のつながりを断ち切ったり、内なる声を抑えこんだりしない。それこそが人間の役目でした。
坂田さん 相手と違う意見を言うことは、面倒なんですよ。たくさんの対話が必要だし、政治的な問題も起きる。でもそこに入らずに自分だけが自己満足していたら、本当にまずい事態になるでしょうね。意見が合わない相手と関わりたくない気持ちはわかるけど、でもやっぱり考えなくちゃ。嫌なものをちゃんと見るからこそ、批判的な判断能力が身につくんです。それは情報に対するリテラシーでもあります。
生き物たちが住む場所を奪われたり、木が無駄に切り倒されたりするのを見て、どうしてくれようか、と深い怒りが起こる。だからこそ、自分が関わる山や地域ではできる限り手入れするようになるんです。そしていつかそこに、あぁ、モリアオガエルが帰ってきてくれた!なんて、ものすごい喜びも起きる。
ちゃんと怒らないと、ちゃんと喜べなくなってしまいます。生物多様性とは、関係が多様であるということ。お互いが没干渉になってしまったら、もう平和は生まれようがありません。踏み込まないといけない。自らも怒りを持って、同時に、関係性をつくることを恐れないでいることです。
「言うべきことは言わないといけない。でも相手を攻撃したり批判するのは違う。対話しなくちゃ。人間の社会でも”おいしいとこ取り”していては、良い関係性はつくれないんです」
(撮影:ベン・マツナガ)
(編集:村崎恭子、増村江利子)
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実践あるのみ、そう感じる時間でした。すでに何度目かになる坂田さんへのインタビューですが、今回は特に、坂田さん自身の自然に対する畏敬の念が、いかに深く大きいのか、そのスケールの大きさを実感しました。自分の内なる自然を、さらに濃厚で主体的なものに育むために、土の上に立つ時間、水に触れる時間をもっともっと増やそうと思います。 坂田さんの講演やワークショップの予定を見ると多忙さに驚きを覚えますが、それもきっと、どこかで誰かの内なる自然が坂田さんを必要としているからこそ。その人も同じく、葛藤する存在なのだろう、と勝手な親近感を感じています。
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