執着を強めるマインドフルネスでよいのですか?

facebook藤井 隆英さん投稿記事

【執着を強めるマインドフルネスでよいのですか?】

―明らかにほとんどのマインドフルネスやヨガの瞑想、スピリチュアルな瞑想は、欲界に重点を置いている―

◯本文より◯

仏教以外の伝統であるインド哲学の瞑想や、仏教の伝統に対するスピリチュアルなどによる誤解の中には、こうした瞑想によるトランス状態に没頭することが、「解脱の状態である」と考える傾向がありますが、それは全くの間違いです

明らかにほとんどのマインドフルネスやヨガの瞑想、スピリチュアルな瞑想、さらにはマインドトレーニングやセミナーでの内容は、私たちが普段の生活で経験していること、つまり「望ましい感覚的なものの領域(欲界)」に重点を置いている

これは私たちが「いま経験していること」であり、全く深い瞑想では無い心の状態なのですから、そうゆう方々の瞑想では

・心や意識が「空」のようである

・心や意識が無限の意識のようである

とか説明していますが、仏法の観点からすれば、ただその様な状態の憧れに「執着しているだけ」からの妄想なのですから、当然精神的におかしくなっていき、言動や思考が矛盾だらけになるのです

facebook東賢性さん投稿記事

【マインドフルネスの「四つの密接な配置(四念処)」に関連する瞑想】

最初に「マインドフルネス」という言葉の意味を理解する必要があります

西洋では「マインドフルネス」という言葉は、

・自分の心や周りで起こっていることに気づく

・何が起こっているかに気づく

という意味で使っていますが、パーリ語、サンスクリット語、チベット語に由来する仏教の定義によれば、それはマインドフルネスの意味ではありません

仏法における「マインドフルネス」とは・認知の接着剤と定義されており、「マインドフルネス」とは・認知による接着剤と定義され、・認識対象を保持し、それを失わないようにするものであるその結果、・認知の焦点がそこに留まり、離れないという「認知の活動や機能」がマインドフルネスなのです

従って・記憶すること・心に留めておくことと同じ言葉となり、それがマインドフルネスの本当の意味なのです

そこで、あなたが維持するマインドフルネスには、「焦点対象に関連する理解がある意味ということで、つまり・理解した上で、その対象を心に留めておくとうことになるので、例えば「ある時間に、どこかに行かなければならない」というマインドフルネス(理解した上で、その対象を心に留めておく)を保つためには、「時間」に注意を払いながら、「どこかに行く」ことを心に留めておくのです

この様な本来のマインドフルネスの定義と、認知の機能や活動を理解した上で、仏法がこのマインドフルネスを用いて訓練するのが「四念処」で・身体・感情・認知・現象にマインドフルネスを密接に配置します

これらの4つの項目に焦点を当てる時、私たちは仏法の教えである「四諦」の観点からそれぞれに焦点を当てますが、この時に、ある「特徴」を区別して焦点を当てます

・身体(苦諦)確実な苦しみという観点から理解する

・感情(集諦)明確な苦しみの起源という観点から理解する

・認知(滅諦)苦悩の明確な原因の終滅という観点から理解する

現象(道諦)特に概念に基づく要因の一つである識別意識への訓練

マインドフルネスによる「四念処」の項目を見ると、それらは私たちの経験の各瞬間を構成する5つの集約的な要素(五蘊)を包括しています

身体(色蘊)物理的な現象の形の集合体である

感情(受蘊)幸福や不幸といった感情の集合体である

認知(想蘊)意識の集合体であり、6種類(眼耳鼻舌身意)の意識がある

現象(行蘊)区別の集合体

全ての精神的要因(識蘊)

これらの影響による概念の集合体

このように「四諦」に関連してマインドフルネスの「四念処」を瞑想する時、それは非常に仏法の教えや哲学・理論を包括する瞑想となる

私たちはこれを、さらにシャマタとヴィバサーナのベースとして、特にシャマタの「九禅定」で用いる事で、欲界  色界  無色界 に関連して行うのは、意識の連続体が、これら三界の存在のの境地の何れかに生まれ変わることができるからです

私たちは、シャマタの「九禅定」をどんどん進み、より深い禅定に入っていく時に、色界や無色界の境地に精通するようになるのです 

仏教以外の伝統であるインド哲学の瞑想や、仏教の伝統に対するスピリチュアルなどによる誤解の中には、こうした瞑想によるトランス状態に没頭することが、「解脱の状態である」と考える傾向がありますが、それは全くの間違いです また、これらの仏法の深い禅定による

内面の世界や、実際の存在面で どの様な身体を持とうとも そのような身体でどの様な感情を経験しようとも どの様な心を持とうとも どの様な精神的要因を持とうとも

それらは依然として「輪廻の中にある」ことを理解し、「苦悩の中に生きている」事を理解するのも重要です

ですから、仏陀の境地に到るまで、四諦はまだそれらに関係しており、私たちが永遠に取り除きたい状態なのです

実際に行われる仏法の瞑想では、身体や心などに焦点を当て、欲界の領域での経験、そして色界と無色界の領域での経験に焦点を当てていくのです

しかし明らかにほとんどのマインドフルネスやヨガの瞑想、スピリチュアルな瞑想、さらにはマインドトレーニングやセミナーでの内容は、私たちが普段の生活で経験していること、つまり「望ましい感覚的なものの領域(欲界)」に重点を置いている

これは私たちが「いま経験していること」であり、全く深い瞑想では無い心の状態なのですから、そうゆう方々の瞑想では

・心や意識が「空」のようである

・心や意識が無限の意識のようである

とか説明していますが、仏法の観点からすれば、ただその様な状態の憧れに「執着しているだけ」からの妄想なのですから、当然精神的におかしくなっていき、言動や思考が矛盾だらけになるのです

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000