https://www.aritooshi.org/story.html 【蟻通神社にゆかりのお話】より
中島裕司 筆 「紀 貫之」「貫之集」新潮日本古典集成より
紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、 「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり
平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。
貫之が奉能した和歌。「貫之集」より
意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。
枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より
社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。
蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさわぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。
唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。
五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。
ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととう穴のあなたの口に出でにけり。 さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。
この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、 「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。
さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。
とのたまひけると、人の語りし。
紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。 当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。 後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。
歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」
中島裕司 筆 「蟻通明神の縁起」○ 日本に出された三つの難題と答
一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?
答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。
二、蛇の雌雄の見分け方?
答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。
三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法
答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。
神社舞殿にて、独鼓「蟻通」奉納
作者 世阿弥
場所 和泉国 蟻通神社
能柄 四番目物
人物 ワキ 紀貫之
典拠 貫之集
人物 ワキツレ 従者
時 平安時代(四月)
人物 シテ 宮守
能『蟻通』小学館日本古典文学全集より抜粋
和歌の心を道として、和歌の心を道として、玉津島に参らん。 これは紀貫之にて候。われ和歌の道に交はるといへども、いまだ玉津島に参らず候ふほどに、 ただいま思ひ立ち紀の路の旅にと心ざし候。 夢に寝て、現に出づる旅枕、夜の関度の明暮に、都の空の月影を、さこそと思ひやる方も、雲居は跡に隔り、暮れわたる空に聞ゆるは、里近げなる鐘の声、・・・・・・以下省略
<能『蟻通』のストーリー>
紀貫之とその従者は、玉津島明神参詣の旅に出ます。その途中、急に日が暮れ大雨が降り、馬が病に倒れ伏します。貫之が途方にくれていると傘をさし松明を持った宮守が現れます。 ここは、蟻通明神で、下馬せずに通ろうとしたために神の怒りに触れ、咎められたに違いないと語り、和歌を詠んで神の心を慰めるようにと勧めます。貫之が歌を詠むと馬が元気になって立ち上がります。宮守は、貫之に促されて神楽を舞ううち、明神が宮守に憑いて貫之が和歌に寄せる志に感じて姿を見せた後、鳥居の笠木に隠れ、姿を消しました。 夜が明けると貫之は、再び紀の国へと旅立って行きました。
・この能の中で、貫之が詠んだ和歌。貫之集記載の歌と、上句が違っています。
意味:雨雲の一面にたちこめている夜中のことなので、まさか空に星が出ていようとは思いません。
この暗闇で、まさかここに蟻通明神のお社があろうとは気がつきませんでした。(以下略)
https://ameblo.jp/navihico-8/entry-12634123110.html 【紀伊国の高野山めぐり① ~蟻通神社~】より
和歌山県のかつらぎ町にある蟻通(ありとおし)神社です。紀ノ川(きのかわ)の中流あたり
四邑川(よむらがわ)との合流地点にあります。
四邑川をさかのぼってかつらぎ町の志賀(しが)や、高野町の花坂(はなさか)までたどる道は、高野山(こうやさん)の参詣道でもあったようです。
第40代・天武(てんむ)天皇の世に唐の第3代皇帝・高宗(こうそう)は、「7曲がりの玉」を献じたといいます。
これは、玉のなかにつづら折りの穴があいている珍しい玉だったようです。
高宗は、この玉に糸を通せるかと難題をかけたといいます。
白村江の戦いで負けた日本は、唐に知(国力)を試されていたようです。
もし、解けなければ唐の軍が攻めてくることになっていたともいいます。
どうしたものかとみなが頭をひねっていると、どこからともなくひとりの翁があらわれたといいます。
翁は、蟻をいっぴき捕まえると蟻に糸をむすびつけて玉の穴にいれたそうです。
そして、もう一方の穴に蜜を塗るとじっと待ったようです。
すると、蜜に誘われた蟻はそろそろと穴を通ってみごと、7曲がりの玉に糸を通したといいます。
おどろいたひとびとが翁に名をきくと、「吾は紀伊国の蟻通の神」といって、翁は姿を消したそうです。
そこで紀伊国をくまなく探しまわったところ、この地に蟻通神が祀られていたといいます。
また、一説には翁は歌を残して去ったともいうようです。
『七曲がりに曲がれる玉の緒を貫きて蟻通しとは誰か知らずや』
この話は、清少納言(せいしょうなごん)の枕草紙(まくらのそうし)にもあり
『ななわたにまがれるたまのををぬきてありとをしとはしらずやあるらん』となっていました。
おそらくこれは、「有り遠し」にかかり「ありえない」ことを「ありえる」ことにかえた
知恵を称えているのでしょう。
ですから、「有り難う(ありがとう)」にもちかいのかもしれません。
また、ホツマツタヱ的に解釈してみると
「七度も罷った身ながら魂の緒をぬいてよみがえり遠き世からの知識を伝える(知らないことはない)」とも読めそうですね。
とはいえ、こうして知力をしめすことで日本は無事に難を逃れたようです。
おもしろいのは、これとおなじ話がギリシャ神話にもあるところでしょうか。
発明家・建築家であるダイダロスが、シチリアのコカロス王に身を寄せていたときのこと、
ダイダロスを追うミノス王はコカロス王に巻貝に糸を通すにはどうしたらよいかと難題をかけたといいます。
ダイダロスは、蟻に糸をむすんで穴にいれもう一方の穴に蜜をぬって糸を通す方法をコカロス王に教えたそうです。
こうして、コカロス王は事なきを得たのですが、ミノス王はこの解答からダイダロスがここにいることに気づいたといいます。
なぜなら、ダイダロスはミノス王のためにミノタウロスの迷宮をつくったひとであり、
迷宮を攻略したいアリアドネに「糸」を使う方法を教えたひとだからです。
古代ギリシャにのこるダイダロスの話を唐の皇帝・高宋は知っていたのでしょうか?
だとすると、あえておなじ難題をかけたのかもしれません。
しかしながら、ギリシャ神話とおなじ答えが返ってきたことで、高宋は日本の文化レベルの高さを知るとともに、日本がギリシャなど海の向こうと交易している可能性も考えたのかもしれません。
こういうわけで、容易に手出しできなくなったのでしょう。
そんな駆け引きがあったかもしれないとおもうととても面白いです爆 笑
ところで、蟻通神社はほかの地にもあるようです。
大阪の泉佐野市には能楽「蟻通」にのこる紀貫之(きのつらゆき)の故事が伝わるようです。
また、和歌山の田辺市には「七曲がりの玉」でなく「法螺貝」だったと伝わるようです。
それぞれ祭神もちがっていてかつらぎ町は八意思兼命(おもいかね)田辺市は天児屋根命(あまのこやね)泉佐野市は大国主命(おおくにぬし)だといいます。
さらにここ、かつらぎ町の神社は第9代・開化(かいか)天皇の世に勧請されたといいますからどこか別のところから遷ったのかもしれません。
第10代・崇神(すじん)天皇の世には意富多々泥古神(おおたたねこ・大田田根子)
を神主としたらしくオオタタネコが祭神だったこともあるようです。
オオタタネコが祀るというと三輪山(みわやま)の大物主(おおものぬし)こと事代主クシヒコでしょうか?
左脇宮には少彦名神(すくなひこな)とともに事代主が祀られていました。
オモイカネもクシヒコもスクナヒコナも知恵に優れていたといいます。
また、右脇宮には市杵島姫神(いちきしまひめ)と大国主神(おおくにぬし)が祀られていました。
イチキシマヒメは女神の代名詞でもあるようですから、ホツマツタヱ的にはオモイカネの妻であるワカヒメのことかもしれませんね。
なにしろ、オオタタネコはホツマツタヱの編さん者でもあります。
この一帯を渋田(しぶた)というのは意富多(おおた)が志冨多(しぶた)となり渋田になったようです。
また、丹生都比賣神社の丹生津比賣(にうつひめ)もワカヒメのことだといわれますが、
丹生都比売神社の第三殿にはかつて蟻通神が祀られていたともいうようです。
ちなみに、「七曲がりの玉」は、ここかつらぎ町の蟻通神社の本殿に祀られているといいます。祭神が八意思兼命(やごころおもいかね)なのも、「七曲(ななまかり)」に対して
「八意(やつこころ)」なのかもしれませんね。
七転び八起きといったとこでしょうか?
さてさて、境内にはもうひとつおもしろいものがありました。
瑞垣のなかに岩があるのですが、あれはもともと牡(おす)の狛犬だったようです。
子どものうちにこの狛犬をくぐると疫病封じの効果があり知恵も授かるといいます。
対となる牝(めす)の狛犬は、四邑川の滝つぼに沈められたといいます。
平成8年に新調されたおおきな牝の狛犬は瑞垣の外に置かれていました。
蟻通神社の600メートル南西に薬師の滝(やくしのたき)があるのですが、牝の狛犬は
ここに沈んでいるそうです。
ここもまた、聖地のような場所でした。
滝のそばには千願不動明王が祀られていましたし、橋のおくには大師堂があるといいます。
滝つぼには忌杖(いにつえ)のようなものがつき立っていました。
狛犬はここに沈んでいるのでしょうか?
橋のしたにも滝はつづいていて巨岩奇岩にあふれています。
とてもとてもエネルギッシュな場所でした。
かつては、ここに満願寺(まんがんじ)があったといます。
いまでは100メートル北西に遷っているようですね。
茂みが鬱蒼としていて大師堂までは行けませんでした。
枡形大師やお稲荷様が祀られているといいます。
糸のついた小さな白い玉がふわふわと浮いていました。
これはなんでしょう?ここは、高野山や丹生津比賣神社に参詣するための禊の地だった
のかもしれませんね。
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